無限の蒼原。

 この世界でそう讃えられるのは、海の蒼さか、空の蒼さだけだ。

 白雲一つない澄んだ天空は、最上級のサファイアにも勝る美しさ。短い人間の人生において、これほどの空に何度お目にかかれるのだろうか。

 ――――ましてや、今日のこの記念すべき日にこのようなものを見せてくれるなんて、きっと大風精様のご加護に違いない。

 石造りの寮の三階、窓から覗いた十代半ばの可憐な顔の主は、思わず両の指を組んで頭を垂れた。

「天の蒼原(カエルレウム)大風精(シルフィード)様、アリアはこの日を永遠に覚え、感謝する事を誓います」

 声は細く、幼いながらも上品な美少女の(おも)は、清涼な春風と、混じる花の香に眼を細め、柔らかく微笑む。

 気持ちの良い。本当に気持ちの良い春の昼時だ。

 それと感じるのも――――そこまで考え、急に微笑みの中の青い瞳の湿度が増した。

「ようやく、ようやく……」

 肩が震え、あぁ、という切れた吐息が一つ。

「ようやくっ、この故郷を離れられるんだぁ……!」

 全身全霊で万歳した歓声が春を飛ぶ。

 離郷を求めて止まなかったその人の名は、アリア――――本名は、アレグリア・ビエント。

 フォース精霊王国は精霊術士学校(ジーンアカデミー)の最高学年、クラス・シータの見習い精霊術士。

 喜び運ぶ春風に、青いリボンと白髪のポニーテイルが揺れ踊る。

 

 

 寮を出て、青いローブを羽織りながら中庭を小走りに駆け出す。

 アリアことボクがアカデミーに来て四年、ようやく昇り詰めた最高学年での授業は、たった一つだけ。課外授業である。

 もちろん、ただの課外授業ではない。一年間、アカデミーに関わりのある人物の所まで出向き、そこで働き無事に生き延びる。……死人は、数年に一度くらいの頻度で出るらしい。

 とにかく、それがクラス・シータでの唯一の授業であり、見習い精霊術士から一人前になるための、卒業試験であった。

 ボクは明日からこの王都を出て、南にある貿易国、シーウィルト王国の一都市に向かう事になっている。

 今日は、そのための旅支度に大忙し。だから、いつものように天敵に出会う訳にはいかない――――そう思っていた一秒後。

「アリア! 見つけたわよ!」

「……精霊様、ボクを何故見捨てたもうたのですか」

 中庭に生えた木々の合間から、突然姿を現したオレンジのショートカットの少女は、ボクを真っ直ぐに指差して、

「ここであったが百年目! 今日こそ白黒つけるんだから!」

 火の精霊術を得手とする彼女が白黒とか言うと、やたらリアルで怖い。真っ白な灰にするか消し炭の黒にするか、どっちだろうとか考えると脚が震え出す。

「いえ、あの……ボク、明日の出立で忙しいから……また今度に、ね?」

「ふ・ざ・け・な・い・でっ! 今度って言ったら最低一年は向こうの話になるじゃないのよ! あたしは短気なのっ!」

「そんな自慢にもならない事を言われても……」

 困ったよぉ、と空を仰ぐ。良いよね、空は蒼いよね。

 そうして落ち着いて、もう一度少女を見る。彼女が消えてくれている事を願ったが、そうそう世界は優しくないらしい。赤い瞳が、真っ直ぐにこっちを見ていた。

 ――――怖いよね。

 彼女の名前はティスパ・アマネセル。ボクより一つ下のクラス・エータで、同い年なのに常に一歩上にいるボクを異常にライバル視している子だ。

「でも、やっぱりボクは忙しいし……」

「問答無用! 火の精霊、闇削りの徒、汝が剣の一振りを――――」

 その詠唱の言葉に背筋が震え、生存本能が瞬間的に知識を引き出す。

 ――――攻撃系の術。対抗。しなかったら死ぬ!

「駆ける風精、空渡り、微かな羽振るい飛翔の気勢!」

「我が前に突き立てろ!」

 風の精霊がボクの体を空へと押し上げるのと同時、足元に火柱が直撃する。ていうか余熱で周囲一メートルが燃え出した。

「あぶ、危ないよ今の!? かわしてなかった本気で死んでたんじゃない!?」

「ううん……覚えたての術は手加減効かないわね」

 まあ良いけど、とか呟いて、ティスパちゃんは次の詠唱を始める。

「良くないし! お、落ち着こう落ち着こう! ボク知ってるよ? ティスパちゃんのクラスは今は授業中でしょ!?」

 その時間帯を狙って寮から出てきたのに。完璧だと思ったのに。

「あんたを待っててサボったに決まってるでしょ! 成績下がったらどうしてくれんのよ!」

「うわぁ、ボク、世界で屈指の理不尽な生き物を見てる気がするよ……」

 と、上空にいるボクの髪を火球が掠めていく。

 瞬時に体内の血管が収縮し、冷や汗が頬を伝う。

「なにか言った?」

 ぶんぶん首を横に振ると、彼女はとても満足そうに頷いて、

「さあ、次行くわよ!」

「来ないでぇ!」

 上空に浮いたまま、風の精霊に飛翔の意志を伝える。

 方向はもちろん、あの火炎魔人とは逆方向だ。

 ――――これだから、早くこの国を離れたかったんだよ。

 切なくて、ボクは涙を堪え切れなかった。

 

 頭上を見上げれば、宿敵アリアは脅えた目でちらちらとこっちを見ながら前へ飛ぶ。その様子が妙に女の子しているから百倍忌々しい。

 流石はあたしのライバル、とか思いながら、脚に力を込めて追う。

 逃がしてなるものか。逃がしてなるものか。逃がしてなるものか。よし、執念は充分だ。

 だが、風精の力を借りて空を飛んでいる相手に、普通に走って追いつける訳がない。

「火精よ、我が身に宿りて以下省略!」

 グン、と脚からの反動が増し、疾走速度が倍加する。火は動力の象徴でもあるがゆえに、こんな使い方もあるのだ。

 と、アリアがこっちを振り返り、

「今なんか凄まじく冒涜的な詠唱が聞こえたよ!? それで術が成功してるのっておかしくない!? なんで火精さんは今ので言う事聞いてくれるの!?」

「五月蝿いわね! 使い慣れてるのよこの術は!」

 主にアリアを追いかけるために。というかそれ以外使った記憶がないのは何故かしら。

「ええい! とにかく面倒だから早く降りてきなさいよ!」

「お、降りたら殺さない?」

 もちろん――――

「ぶっ殺す! 葬儀は強制的に火葬だけど良いわよねっ!」

「君、いい加減に言動おかしいの気づいてよ!」

 罵りあいながら中庭を通過、アカデミーの校舎が見えてくると、窓際から何人かがこっちを見て、何事もなかったかのように授業に戻っていく。

 最初の頃は皆でアリアの事を助けていたのだが、皆が解ってくれたようで嬉しい。

「み、皆っ! ボクの事助けてよぉ!」

「黙りなさいあんた! これはタイマンなのよタイマン! 決闘、一騎打ち、頭に名誉ってつけてみなさい? 勇気湧いたわねっ!?」

「名誉の決闘、名誉の一騎打ち――――わぁ、白い家に大きな犬を飼って争いとは無縁に生きたいなぁっていう夢が湧いたよ?」

「なに幸せそうに言ってんのよ、この根性なし! 夢はでっかく精霊仕いとか神仕いとか世界征服とかにしときなさい!」

 最後のだけ何かがおかしかったけど気にしない。

 が、無駄話の間に二人の間合いは詰まった。向こうは上空にいるが、思いっきり飛べば何とか届く。

 大事なのは、タイミング。

 慌てるな。アリアの動きを読め。だが向こうも伊達にあたしのライバルをしていない。タイミングが掴み難い。

 ――――これは、とっておきを出すしかないわね……。

 覚悟を決め、息を深く吸う。

 大跳躍のための強い踏み込みと同時、大きく口を開き、

「アリア〜! あんたのパパとママがいるわよっ!」

 声が大気を震わせ、アリアに届いた瞬間、彼の脳は一切の状況を無視して、最優先事項としての反応を返した。

 それは、気の毒なくらい青い顔で、

「父様と母様がっ!?」

 アリアは助けを求めるようにあたしを振り返る事だった。

 ――――いやぁ、あんなご両親がいる事には、心底同情するわ、アリア……。

 隙というよりも戦闘放棄したアリアの脚をがっしと捕まえる。

「ひあっ!?」

「大丈夫よ、あんたのパパママ変態コンビはいないわ!」

「あ、そっかぁ……良かったよ……」

 ホッと安堵の色を見せたアリアは、次の瞬間に急に浮力を失う。

「きゃっ!? ちょ、アリア……!?」

「あ……」

 ――――この野郎、術の最中に集中力を完全に途切らせやがった絶対に殺す。

 まあ、そうなるくらい酷い手段を使ったのが誰だったかは忘れておくとして。

 鋭敏になった集中力が、地面を見下ろす。多分、地上三階くらいの高さはあるだろう。

「落ちたら怪我するわよぉおおおっ!?」

 襟首掴んでガタガタ言わせると、アリアは本気で涙ぐみながら何か文句言いたそうに見つめ、観念したようにこっちの体を抱き締めてきた。

「風精、集い、巡り、覆いて守人とならんや!」

 がっくん、と腰が抜けそうな衝撃が、地上三階くらいからの落下の衝撃だった。ついでに、あたしの上に落っこちてきたアリアの体重分でもある。

 身長が低い分を見ても滅茶苦茶軽いし……。

「あつ、つつ……いたぁ……」

 あたしの上で涙ぐむ可憐な顔を、一秒、二秒、見惚れていたあたしは、慌ててアリアを突き飛ばす。

「んわっ!? な、何するんだよぉ……大体、どうしてティスパちゃんはそんなにボクの事を敵視するわけぇ……?」

「う、五月蝿いわね!」

 立ち上がり、服の埃を取りながら、あたしはビシッとアリアを睨みつける。

「ライバルっていうのにそうそう理屈はいらないのよ!」

 本音――――男のあんたが女のあたしより可愛いからよ、馬鹿ぁ!

 

 アレグリア・ビエント。十四歳。性別・男。

 特記『女顔』

 追記『しかも美少女顔』

 


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