時計が一秒を数える音が、異様な大きさで響いている。
さっき見た時、時計の針は八時と十三分。まだ夜も早いと言うのに、広い庭の向こうからは無音だけが静かに木霊す。
だから――そのせいで――――、室内に響く赤い粘着質な咀嚼音が、頭蓋の内側に爪を立てるように聞こえてくる。
何か考えたいけれど、何も考えられない。
今、目の前で母親だったモノが何かされている。
何かしているのは、女性――――だと思う。
色素欠乏症のように色の白い肌、ボロ布で隠された長身の体躯は、多分、母親と同類。顔で判別がつけば良いのだが、泣き笑いで引き攣った“それ”の顔は緋色に汚れて醜く、直視に堪えない。
それでも目に付くのは、腐った銅色の長い牙に、額に三本の角。
鬼女――――だと思う。
少なくとも、幼い自分の知識の中、母親を喰う存在などそれぐらいしか思いつかない。
綺麗な畳の上に広がるどす黒いネバネバ。
母親の腹の中から引き出される何か。
鬼が頬張る桜色の物体。
耳の中を引っ掻き回すようなそれらの合唱。
悲鳴を上げてしまえば楽だと言うのに、必死に飲み込んで生き延びようとする自分がいる事に驚いた。
母親は部屋の中央座卓の上、対して自分は大黒柱にもたれる部屋の隅。頭上では、やけに大きな音を立てる時計があって、それだけが唯一変わらず、時を刻んでいた。
逃げたい――――時計が一つ刻む度に唇が呟く。
今すぐ逃げ出したい。
壊れた襖の向こうに広がる静かな夜の中に、自分も飛び込みたい。
そして日が昇る頃に帰ってくれば、何事もなく母親が朝食を作っているのだ。
ああ
なんて
幸せな夢。
ぐちゃり――――――――粘ついた音が止まった。
心臓が止まるような寒気に、咄嗟に鬼を見て、……目が、合った。
「――――――――」
驚いた事に、悲鳴は上がらない。
代わりに、笑いが唇を歪める。
鬼のくぼんだ双眸の真中、墓場に暗く灯るような碧い光が、失禁するほど恐ろしかった。
「エ、サ……」
“彼女”の興味が自分に移った事が、何より冷たく理解される。
逃げろ――――本能の宣告に必死に頷きながら、逃げられない。
そして、“彼女”が大股に一歩踏んで――――庭から飛んだ光が、鬼女の顔面を紅蓮に炸裂させた。
「ぎっ、ぎびぁああああああっ!?」
どんな発声器官から飛び出したか知れないような絶叫。
それを道連れに、“彼女”は壁を突き破って家の中を逃げ出す。
硬直した眼球の端に、隣の部屋から夜に飛び出す姿が辛うじて移り、……消えた。
――――助かった……。
同時に込み上げる嘔吐感に畳に手を突くと、庭から男が入ってきて、軽く背中を叩く。
「逃げたか……。お前は無事か、燕」
平素と変わらない、男の笑顔。
「無事、か……?」
オウム返しした瞬間、目の奥が急に熱くなった。
「ふざ、けんな! ふざけんなふざけんなふざけんなぁ! 無事、誰が無事だ! なんで、なんで今日いなかったんだよ!」
畳を叩いて男の胸倉に掴みかかり、小さな手で必死に締め上げる。
「あんたがいりゃ、いてくれりゃぁ……、……っ!」
声にならない。
感情が怒りなのか悲しみなのか呆れなのか解らない。
ただ、純然たる事実は一つっきり。
「畜生……っ、見ろよ!」
座卓の上に拡げられた、母親が、
「無事かよ……誰がっ!?」
座卓の下に落ちてしまったバースデーケーキを、二度と味わえないという、悲劇だけ。
「なんで、今日いてくれなかったんだよぉ……っ!!」
喉が破けるような痛みの中、男はただ変わらぬ口調で応えた。
「それが、お前の親父の仕事だからだ。他の仲間に連絡しないとな、他の民間人に被害が出るかもしれない」
それきり、男はケータイを取り出して庭に出る。
六月の一日。
嫌な暑さが訪れる梅雨の季節に、世界で一番嫌いな物が出来た。
それは、今まで世界で一番憧れていた――――父親だ。
First Step & To be continued
飛べないヒナドリが 弱い翼で風を浴びる
今日の太陽を見上げながら 明日の太陽を夢見ながら
今年もやって来たのは、桜咲く入学&卒業シーズン。
希望に満ち溢れた若人達が、涙もほろろに新世界に旅立つ祝賀の季節である。満開の桜を背景に、無邪気な最高の笑顔で記念撮影。
――――とはいうモノの、
「そう都合よく桜なんて咲くわけないわなぁ」
からからと笑って、高校の門にある桜の木を見上げる。んん、一分咲き。新芽のままの方がまだ良い絵柄だろうに。
後ろを見れば、前庭でやっているのは秋瀬市公立高等学校の合格発表。
うら若きおば様方のこゆい化粧の香りと、甲高い女子中学生の悲鳴の如き歓声を聞きながら、さっさと高校を後にする。
あの人込みと強烈な香りの中の激闘、合格発表は見終わっているのだ。
淡い春の陽射しを胸一杯に吸い込み、小さくガッツポーズ。
念願だった県外高校への入試、無事突破である。まあ、成績と照らし合わせて落ちない高校をチョイスしていたんだけど。
ともかく、これで一人暮らしと相成るのだ。めでたいめでたい。
今までお世話になった地元の皆さん――――オレ、那須燕は、無事に十五の春を迎えましたよ。
足元、小さな水溜りに移った自分は、良い感じで笑顔だった。
「とまあ、合格したのは良いけどね。これからアパートか下宿探さないといけないんだよな」
見慣れない秋瀬市の街並みを歩きながら、ジャケットコートに手を突っ込む。
この街に知り合いが居るわけでもない自分にとって、若干頭の痛い問題だ。どこから探そう。
希望としては、そこそこ広くて綺麗なキッチンがあり、バス・トイレが別々、駐車場付きのアパートが良い。その上、大家さんが優しく家賃の延滞をしてくれたり、隣室が美人のお姉さんで色々とお世話を焼いてくれたりすると最高。
……流石にちょっと贅沢か。
「夢ばっか見てないで、不動産に行くか」
なるべく受付が綺麗なお姉さんの所。なんか趣旨が違う気がしないでもないが気にしない。人生は楽しく行くべきである。
「あ、それから警察にも顔出しておかないとね。帰りの切符は五時丁度だから……」
今は真っ昼間。
「ちょっとは物件回りもして帰れるかな?」
まずはどっかの喫茶店かレストランで、昼食を取りましょか。
通りを一つ曲がると、年季の入った商店街。レストランはなさそうであるが、喫茶店は見つけた。
ガラスにはお店のお勧めメニューが、……コーラフロートと書いてある。
「お勧め?」
バニラアイスが滅茶苦茶高いモノを使用とか、デスカ? 厳選牛の朝一番搾り立てを特殊製法にてフレッシュ氷結、セレブも御用達のスペーシャルなバニラアイス。
良い。激しくそそられた。今日の昼食はここに決定。どこにもスペシャルバニラなんて書いてないけど。
店名は――――『黒泡』。
「実はコーラが高級品デスカ?」
一缶千円ぐらい。もしくは今もってコカの葉を混入とか。
まあ、興味の絶えないお店である。
じゃあ、入ろうかなと思って喫茶店に足を向けると、背中を足早に通り過ぎていく黒いセミショートの気配。
ほぼ真後ろのそれを、猫真っ青の広い視野の端っこで捕らえる。
二十歳くらいだろうか。膝丈スカートを揺らし、焦った表情で通り過ぎる美人のおねーさん――おぉ、燕オーディション合格点――の手鞄から、ケータイがぽろりと落ちたので、
「っと」
腰を沈め、後ろ手に掴む。
――――流石オレ様、ナイス反射神経。
ついでに美人のお姉様との出会いフラグをゲットした。
「お嬢さん、ケータイ落としましたよ?」
那須燕による渾身の爽やかな笑顔。
ミス。
おねーさんはカツカツと足早に、やっぱり焦った表情で通りを直進していく。
「あ、ちょっとっ、そこの黒髪のおねーさん! ケータイ! うわ、気づかねぇし」
仕方ないので軽く走り、薄い女性の肩を掴む。
「おねーさんってば!」
「えっ、あ……ええっと……?」
おねーさんの目が、こちらの全体を眺める。
長い茶髪を首の後ろで結んだあたくしは、少し不良に見えるかしら。しかし、ジャケットコートとウェスタンハットを首に下げているので、ぎりぎりで西部劇に出演予定のある人だと思われるだろう。きっと。
「はい、ケータイ。落としましたよ、お嬢さん」
「あ、どうも……。す、すみません。急いでたもので」
うわぁ、急いでたおねーさんうっかりフランス語で返してきた。
オレの脳内和仏辞典で理解出来るのはそれくらいだが。
「いえいえ、こちらこそお急ぎ中にお手数かけてごめんね。で、もしお急ぎじゃなかったら応えて欲しいんだけど」
思わず苦笑。
「後ろのアレって、ストーカー?」
このおねーさんが立ち止まって振り返ると同時、物陰に身を潜めたあまりに怪しい靴音――――見過ごせませんな。
「や、やっぱりいるの、誰か……?」
「いますねー。おねーさんと同じタイミングで物陰に隠れたし……やっぱりストーキングにお困りだったのね。真っ昼間からとは、美人は大変ですなぁ」
若干脅えた表情をするおねーさん。こうして落ち着いてみると、黒いセミショートは外跳ね、癖毛かな。
女性に失礼のないように観察して、にっこりと微笑みを一つ。
「もし――――もし、よろしければですが……この谷地市のミスタージェントルメンこと那須燕、おねーさんのお力になりますよ? 警察に関係のある人間ですので」
――――我ながら、すげー怪しいナンパの仕方である。
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――――何だか物凄く怪しいお誘いをしてきた男の子に、不思議と頷いた自分が居た。
とりあえず悪い人ではなさそうな男の子に言われるまま、喫茶店『黒泡』に入り、窓際の席に座る。
「ごめんねー、おねーさん。オレ昼飯まだなんだ。と言うわけで、ウェイターさ〜ん」
男の子は若い見た目、多分中学生くらいだろうけれど、物怖じしない言葉遣いと、人懐っこいくせに深みのある笑顔は、大人びいた印象だ。
「えっと、コーラフロートと、カツカレー、大盛りで」
さらに、とても染めたとは思えないくらい自然な茶髪に、銀が少量混入した黒の瞳。
少し変わった人、というのが第一印象かな。
「おねーさんはどうする?」
「あ、ええと……」
問われて気づく。大学の帰宅途中からついてきた足音に我を忘れていたが、私も昼食を取っていないのだ。
「じゃ、じゃあ、同じものを。あ、カレーは並で」
畏まりましたー、と言って頭を下げるウェイターを見送って、男の子が私を見た。
「おねーさんも結構豪気だねぇ。ストーキングされてる途中にナンパされてカツカレーとは」
「あぅ、やっぱりこれってナンパ?」
「下心半分、男心が四分の一……残りが優しさかな?」
あははー、と笑う男の子。
「ま、助けたいとは思ったけど、本当についてきてくれるとは思わなかったですよ」
「う、うぅん、普段は絶対についていかないんだけど、一人で怖かったから……だと思うけど」
――――けど、どうしてでしょ……。
何か安心できる要素がこの子にあったのかもしれない。どこかでこの男の子に会っている、とか。
「まあ、その辺は置いといて、改めて自己紹介しましょか。オレの名前は那須燕」
「ツバメ? スワロー?」
「うぃ。スワローだけど、何か問題でも?」
いや、そんな事はないけれど。
「弟と同じ名前だったから、ついつい」
「へえ、弟さんも燕って言うんだ。奇遇だねぇ……となると、おねーさんが誘いに乗ってくれたのも偶然の連鎖かも」
笑って男の子、ツバメは不得手顔の私に指を立ててみせる。
「“名は体を表す”、ってね。あながち名前とその人の個性っていうのは無関係じゃないのですよ。同姓同名の人が、同じ名前だっていう事に共感、もしくは嫌悪を抱くっていう段階で、名前は人に影響しちゃうよね? それと同じく、ツバメって名前が、オレと弟さんをリンクしてるのかも」
「そう、いわれると……」
見た目・性格・口調、弟に全然似てないのに、雰囲気が似ている気がしてくるから不思議だ。
「ふっふっふ、謎が一つ解けてハッピーになったですね? まあ、お陰でおねーさんみたいな美人とお近づきになれて得したのはオレだけどねぇ」
「またまた、そんな事言って……」
苦笑して手を振ると、いよいよ弟を相手にしている気分になってきた。美人とか言われてもさらりと流せてしまう。
「あっと、私の名前を言ってなかったよね? 私は美奈。佐伯美奈っていうの。よろしくね、ツバメ……くん」
「あははは、無理して君つけてなくても良いよ? オレの方が年下なんだから、年功序列で美奈さんにはわたくしを呼び捨てにする権利があるのです」
「そう? ごめんね、ツバメ」
「いえいえ、どういたしまして」
テンポの良い会話。実家にいた頃は、こんな風に弟と会話していたものだ。
ストーカーの事を忘れたわけではないけれど、肩から力が抜け、吐息が零れる。
それを見て、頬杖を突いたツバメが眼を弓にして笑った。
「ふふふのふー、美奈さん、落ち着いた?」
「え、うん……。大分、楽かも」
深呼吸。
「ありがとう、ツバメ」
「お役に立てて光栄の極みですな、マドモアゼル」
さて、とツバメは一つ区切って、じっとこちらの瞳を見つめ、
「そろそろ本題に。美奈さん、ぶらじゃあのサイズいくつ?」
弟に対する条件反射として、迷わずアッパーカットが飛び出した。
「ごふっ、お、黄金の右……っ」
「女の人に失礼な事聞かないのっ」
「ずびばぜん」
顎を擦りつつ頭を下げるツバメに、初めて弟以外の異性を殴った事を思い出す。
――――うぅん、鈍ってないわね。
「ところで、ツバメ。那須ってあんまり聞かない苗字だけど……この地方の出身じゃないの?」
「そ、他県の人間ですよ。一人暮らしがしたくてね、そこの秋瀬高校に合格したから、これからアパートかなんか探して」
届けられたカツカレーを眺め、ツバメは人懐っこい笑みを浮かべた。
「美奈さんみたいな困っている人を助ける、ちょっとしたヒーローになるのですよ」
つくづく、変わった子だと、そう思う。
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つくづく変わった子だなぁ、という表情をしている美奈さんと会話しつつ、とりあえず昼食をお腹に納めると、美奈さんの鞄の中から電子音。
「あ、ちょっとごめんね、ツバメ」
「お構いなく〜」
コーラフロートに口をつけ、軽く吸う。やっぱり普通のコーラフロートなのである。一体どこら辺がお勧めなのだろう。
と、ディスプレイを覗いた美奈さんの顔が少し強張った。
せっかく談笑して緊張感を解いたのに。
「どったの?」
「知らない番号から……最近、ストーカーからの電話が多いから……」
「なるほど。ちょっと出てみて、大丈夫、今は微妙なヒーロー・スワローがいますから」
本当はクールな悪役とかが好きなんだけどね。
美奈さんはこくりと頷いて、通話ボタンを押した。
「もしもし……?」
ずずーとコーラフロート飲み干して、喫茶店の窓の外を見る。
「目の前の男は、誰って……貴方には関係のない事です」
姿は見えないが、どこからか見ているのだろう。嫌味の代わりに、窓の外に手を振ってやった。
「美奈さん、ケータイ貸して」
「え? え、と、でも……」
「わたくしにまっかせなさ〜い」
「……じゃあ、はい」
受け取り、窓の向こうを意識したまま、
「ただいまお電話お代わりしましたぁ。こちら、心の悩み相談室ですよー。恋のお悩みですかー? まずは整形外科をご紹介しましょうかー?」
思いっきり馬鹿にしてやった。
『誰だ、お前? 美奈のなんだ』
「美奈さんの新しい弟であり新しい恋人」
一瞬困った顔をした美奈さんに、にこやかに手を振って笑い、
「という訳で、君の恋のお悩みは失恋って事で解決ですなぁ。いやぁ、青春のほろ苦い一ページ。でもしょうがないと思うね。君と違ってほら、オレって顔良し性格良し腕っ節良しだからさ」
『馬鹿か、お前?』
「君よりは遥かに真っ当な自信があるね。万一、オレが馬鹿だとしたらお前は進化に失敗したミジンコ以下だ。学会で報告したらノーベル賞貰えるかなぁ?」
良い感じ。この手の類は挑発に弱いと見た。
元からストーカーは思い込みが激しいのが特徴だ。小馬鹿にされたら行動を起こすと思うのだがいかに。
『美奈は渡さない』
「そりゃこっちの台詞だね。白馬に乗った騎士様としては、悪い魔法使いから姫君を守るのは栄光の第一歩、目指せ王様。……美奈さんは渡せねぇよ」
やっぱり困った顔をする美奈さん。オレじゃ不満と見た。
とりあえず、ごめんねー、と美奈さんに口パクで謝っておく。
『僕はやる時は、殺しまでやる。愛が故に、ね』
「愛……愛ねぇ……?」
痺れる台詞だ。良いね。腹が立つ。
「オレも、やる時は殺っちまうよ?」
『良いだろう――――』
それきり、電話は切れた。
肩を竦め、美奈さんにケータイを返す。
――――ううん、今日のオレは果てしなくツキがあるのかもしれない。
「さて、美奈さん。そろそろ出よっか? 家まで送るよ、市内?」
「え、うん。ここからは近いけど……」
「あ、それは助かるかも。この後、アパート探さなくちゃいけないのですよ」
注文を手に立ち上がり、レジへ。
「そっか、ツバメ、一人暮らしするって言ってたもんね」
「そういう事なのです」
「じゃあ、私のいるアパートとか……あ、良いよツバメ、私が払う」
財布を取り出そうとする美奈さんを、スマートに片手で抑える。
「まあまあ、こういう所は男が払うものですよ?」
さっさとお金を出し、レジをパス。
喫茶店を出て傍らを見ると、美奈さんが何か言いたげにしているのが可愛いかった。こう、告白の返事を躊躇っているような――――はいはい、夢は終了。
「美奈さん、あんまり気にしちゃ駄目だよ?」
「でも、私の方がお姉さんだし……」
「気にしない気にしない。まあ、今度また縁があったら、その時は美奈さんに奢って貰うよ」
「今度がなかったら?」
それはそれで、
「縁がなかったという事でせうなぁ。気にする事じゃないでしょ」
笑って歩き出す。持論として、こういう時にお金を渋るのは悪い男だけだ。
「でもツバメ、私がお世話になりっ放しで」
「良いってば、世界のジェントルメンはレディに優しくするために存在しているのですよ?」
困った風に苦笑する美奈さん。
――――全く、あんまりそういう可愛い素振りをしていると、
「じゃあ、手でも繋ぐ? スワロー通貨では美奈さんと手を繋ぐのは時価数千円だけど」
ジェントル燕がつけ込んじゃいますよ?
「え、手? それくらいで良いの……?」
「なに? ブラのサイズ教えてくれる?」
ぶおん、とか音を立てて美奈さんのアッパーカットが顎を掠った。
「まあ、手を繋ぐくらいなら」
「うぃ、そうしませう」
いやぁ、良いパンチしてます。ストーカーに襲われても大丈夫な気がしてきた。
そんな美奈さんの黄金の右手が差し出されたので、謹んで左手で握り返させて頂く。
「あー、女の人と手を繋ぐのは久しぶりですなー」
「そうなの? 意外かも……」
「美奈さん、オレの事をナンパ君だと思ってるでしょ?」
本当はそんな事ない。まあ、結構女の子とお話するのは事実だけど。
「でも、私も男の人と手を繋ぐの久しぶり」
「あれ、恋人いないの?」
ふと、後ろから足音が近づいてくる。
「うぅん、高校の時にいたけど……三ヶ月くらいで別れちゃって。それが最後ね」
「それは勿体無いですなぁ」
後ろから聞こえてくるランナーの足音を聞きつつ、笑って、
「ちょっと失礼」
美奈さんを抱きかかえ、道路の方へと跳躍を一つ。
後ろから突っ込んできた足音が、舌打ちと共に止まった。
「危ないですなぁ、ナイフを握り締めてのランニングは最近の流行?」
見れば、少し痩せた黒髪黒瞳の男が、バタフライナイフ片手にオレを睨んでいる。細い、神経質そうな顔立ちだ。
「挑発しといてなんだけど、こんな人通りの多い道路で白昼堂々とは……馬鹿だねぇ。それと、バタフライナイフは流行遅れですな」
流石に硬直している美奈さんを背中に隠し、白馬の騎士らしくカッコよく前髪をかき上げる動作。
「殺人未遂だと、七年から十年ぐらいは刑務所暮らしだよ?」
それに、男は唇を吊り上げて笑い、
「警察なんぞに捕まるか。忠告したろ、僕はやる時はやるって、さ!」
「愛の名の下に、か?」
真っ直ぐに、男は全体重を乗せて突進してくる。
「馬鹿め」
素人の突っ込み方だ。そんなもん怖くもない。
と思ったら、男が視界から消える速度で下に沈んだ。
「誰が馬鹿だって?」
デンジャラス。こいつ意外と戦い方知ってるぞ。
――――でもまあ、
「君が馬鹿」
って事には変わりないけどね。
男が、足のバネで跳ね上がるようにナイフを突き込みに来る。狙いは喉だろう。殺し方も知っている。
「クロス――――」
だが、男より速く、オレの右足が真っ直ぐに天上を蹴り上げ、
「カウンター!」
振り下ろされた。
必殺の破壊力を秘めたカカト落とし――――が、全力で飛び上がってきた男の鼻骨を砕く良い感触がした。
「イエッス」
一瞬で意識の飛んだ男が、潰れるように倒れる。
「白馬の騎士の活躍で、悪い魔法使いは豚のように倒されたのでした」
那須燕ことわたくし、空手も少々嗜んでいるのだ。
「にしても、こいつ」
倒れたストーカーから漂う独特の香気。
――――嫌な臭いの香水、つけてやがる。
鼻につく匂いが、妙に不快感を作り出す。
例えるなら、墓場に漂う湿った線香みたいな匂いだ。
絶対にお友達になりたくないなぁ、と思いつつ、ケータイを取り出す。
「後は警察に言えば、こいつを連れてってくれるからね、美奈さん」
問題はこいつの出所後だけど……ばっちり、そこまで面倒見ようじゃありませんか。
世界のジェントルメンは、レディに優しくするために存在しているのだから。
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「ツバメ、遅いなぁ……」
夕暮れの警察署ロビーに零れた呟きに、返る言葉はない。
紅色の穏やかな光に沈んだ世界はどこか懐かしく、遅いと呟きつつも、あまり焦った衝動は生まれなかった。
名も知らなかったストーカーの男は、真田希一というらしい。現在は折れた鼻骨の手当てを受け、気を失ったまま留置所の中。
そう日もかからない内に、彼は殺人未遂容疑で刑務所に送られるそうだ。そのためには、私も証言を何度も取られるそうだが、それくらいはなんて事ない。
――――ツバメに感謝しなくちゃね……。
ぼんやりと疲れた頭で考えていると、ロビーに靴音が一つ増えた。
「あ、美奈さんだ。お疲れ様〜」
数時間ぶりに聞く陽気な声、全然変わらないなぁ、と思う。
「ツバメこそ、お疲れ様でした。本当に迷惑かけちゃって」
「良いの良いの、美奈さんが謝る事じゃないでしょ?」
人懐っこく笑うツバメ。
本当に自然に笑う男の子だ。それだけで、もう何年も付き合っていた関係になれる気がする。
「でも、ツバメの予定を駄目にしちゃったし……。という事で、お姉さんからプレゼント」
「お、良いですなぁ。なに?」
「私の電話番号とメルアド。アパート探してるって言ってたでしょ? 手伝えると思うから」
メモ帳の切れ端を渡し、腰に手を当てて笑み。
「どういう物件をお探しですかお客様?」
「おぉ、助かりますよお姉様。えっとね、バイクの免許取るつもりだから駐車場があると嬉しいね。後はほとんど普通の贅沢かな……なるべく綺麗でなるべく広くて、みたいな」
「なるほど、駐車場ね? わかった、しばらくしたら電話するから、ツバメのも教えてね」
と、ツバメはケータイを取り出して、私の番号を入力。鞄の中で、ケータイが鳴った。
「これでオッケーでせう。ありがとね、美奈さん」
「いえいえ、こちらこそ……本当に、ありがと」
ストーカーに殺されそうになったのはツバメだ。命の恩人と言える。
にも関わらず、信じられないぐらいの気安さ。ツバメの才能だろうか。将来、大きな事をやりそうだなと、そう思う。
「あ、ツバメ、これからどうするの?」
「ん? そうだね、美奈さん、お巡りさんに送って貰えるんでしょ?」
首肯すると、じゃあ、とツバメは笑った。
「オレはここでお別れかな。丁度、警察署に用があったんだよね」
「悪い事したの?」
「んなわけないし」
笑い声が、夕焼けのロビーをからころとにぎわせ、消えていく。
「……ん、それじゃあ、私はそろそろ」
「うん、もう悪い男に眼をつけられないようにするのですよ?」
「ふふ、気をつけるね」
もう一度頭を下げ、笑みを一つ。
気さくな男の子に、別れを告げた。
――――赤く揺らぐ夕陽は、明日もまた昇るはず。
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美奈さんの背中を見送り、背伸びを一つ。
「んん〜! そいじゃ、行きますかぁ……っ」
事情聴取の最後に聞いた、不安調査課というマイナーな部署のオフィスは地下。そこに向け、見知らぬ警察署内を探索する。
不安調査課。通称をオカルト課という、怪しげな部署だ。
各地域の一部にだけ点在する、住民からの些細な苦情を担当する暇なお荷物集団。
例えば、廃棄された建物から聞こえる不気味な物音や、墓場に夜な夜なたむろする不穏な人影、という怪談話とも思えるような報せを元に調査するのが、彼等だ。
しかしまあ、それは世を忍ぶ仮の姿。その実体は、怪談話とも取れる報せを調査するのではなく、本物の怪談話を調査する特殊組織なのだ。
正式名称を陰陽寮。
警察庁・宮内庁の両庁に所属して資金をまかなっている、平安より脈々と続く、この島国の退魔集団である。
――――オレの父親も、その陰陽寮に所属する退魔師だ。
「おっと、ここだな」
黒ずんだドアプレートに、不安調査課、という五文字。ドアを軽い調子でノックする。
「ちわ〜っす、不思議の国の住人で〜す」
遅刻の白兎あたりでどうでしょう。
なんてドアの前で毒笑したら、
「遅刻だね――――入りな!」
素晴らしい発音で、わたくしのジョークを理解した返答が返ってきた。すげぇ。
「失礼しまぁす」
がちゃり。
ドアが身を退けると、デスクに腰をかけた女性が、凛々しい顔を笑みに緩ませ、真っ直ぐにオレを見ていた。
「――――――――」
一瞬、臓腑が活動を忘れる。
その、色素欠乏症のように色の白い肌と、長い黒髪で右が隠れた碧眼が、誰かの誕生日を――――。
「まだ若いくせにやるね。ここのドアをいきなりジョークでノックしたのは、お前が初めてだな」
女性が、楽しそうに言った。
「あ、あぁ……そうすか? いやぁ、光栄ですよ。そちらの返しも絶妙で」
とりあえず笑い、一つ深呼吸。
もう一度女性を見れば、あの鬼とは全く違う生き物だ。
腰元まで届く黒髪は美しく、ティーシャツとジーンズに包まれた体は、ネコ科の動物を思わせるしなやかさを保ちつつスタイルが良い。
身長が高いせいもあるのだろうが、カッチョ良い人である。
「やぁ、眼福……今日は美人に二人も会えましたよ」
「はは、嬉しい事を言ってくれるね。何の用だい?」
カッチョ良い人はオレの全身を眺め、
「素人じゃ、なさそうだな? 退魔師の匂いがする」
「ビンゴ。初めまして、かっくいい美人のお姉様、那須燕と申します」
「那須……ああ、書類が来てたよ。親父もあたし等の同業者だったか。こっちに引っ越してくるかもしれないんだって?」
お姉様は灰皿の下の書類を漁って、すぐにやめた。
「まあ、ペーパーはどうでも良いだろ。あたしは灰香燐ってんだ。お前みたいなノリの良い奴は好きだよ」
「重ねて光栄ですなぁ」
美人さんと縁がある日だ。明日辺り、オカマの痴漢にでもあうくらいの不運が来るかも知れない。
それの倍ぐらい幸せだけど。
「ええっと、そいで燐さん?」
「待った。止しなよ、さん付けされるような立派な人間じゃあない。お互いに呼び捨てで行こうぜ、燕」
この人、絶対に話の解る御仁だ。
血筋で生きてきた人間なんかじゃなく、自分の能力と根性、そして経験で伸し上がっていくタイプ。
たったこれだけの会話で惚れそうなくらい、見事な男気に溢れた人だ。
「貴女のような美女を呼び捨てにするのも忍びない話なんだけど……じゃあ、姉御で」
いかがかしら。
「姉御だぁ? ははっ、あたしゃヤー坊の関係者かい? 良いねぇ、名前呼ばれるより気安いかもな」
「では姉御で参りましょ。ええっと、今日、高校の合格発表見て来たら、」
「受かってたのか?」
「努力の賜物ですよ」
「へえ……能力的に楽な高校選んだんだろ?」
バレた。
「と、とにかく、この春からこっちに引っ越す事になったんで、そのご挨拶をと思ったのですがっ」
「手ぶらでか?」
姉御手厳しい。確かに、手荷物は何もなしですな。
「それがちょっと訳ありで……パトカーで送られちゃって」
「パトカーで? ああ、さっきの……お前だったのか? ストーカーをのしたんだってな? 偉い偉い」
「鼻骨を折っておきましたよ」
えへん、と胸を張ると、姉御は当然だ、と頷いて、
「あたしなら不能にしてやるがな」
すっげー怖い事を素面で言い切った。背筋が寒くなる。
「ま、まあまあ、そういう訳で、お土産なくてすんません」
「いやいや、そういう事ならしょうがねぇよ。土産はそのストーカー野郎で充分だ」
そして、姉御は化粧っ気のない唇に指を当て、ちょっとばかり考える表情。
「燕、お前、この後どうすんだ?」
「あー、それがですねー」
時計を見上げれば、五時半過ぎ。
「この切符が三十分前に発車しちゃったので、よろしければ、一晩ソファーなんか貸して頂ければなぁ、と」
「お、そいつは都合が良いな。歓迎するよ、丁度、もう一人の退魔師がいなくて退屈だったんだ」
姉御はデスクの上のケータイを握り、
「合格祝いを兼ねて、陰陽寮所属退魔師、灰香燐が可愛がってやるよ」
――――そいつぁ魅力的な提案ですなー。
世間一般に秘匿される、妖怪魔物、魑魅魍魎。そんな奴等を相手取る退魔師だって、みんな普通の人間なのだ。
一人の夜が寂しい時だってある。
「燕、お前、酒飲めるタイプだろ?」
観察眼も大変素晴らしい。
「へえ、そいじゃ、ここのもう一人の退魔師はコウモリの変化なんだ」
陽も暮れて、時計が八時を過ぎった頃、姉御お勧めのラーメン屋の出前も食べ終え、おつまみと日本酒で一杯やっていると、そんな話題になった。
姉御の白い頬が、淡く薄紅になっているのが非常に色っぽい。
「ああ、何百年生きてるっつってたかな……。元々、血筋的にそういう物の怪になり易かったんだそうだ」
「オレ、変化の人にはまだ会った事ないですわぁ」
動物の中には、そういう魔物・妖怪になる者達がいる。
有名な狐や狸、猫又なんかを例に挙げると解って貰い易いだろうが、ようは人間に化けて人語ぺらぺらな連中の事を、変化や化生と呼ぶ。
しかしながら、妖怪とはいえ、この島国の彼等は人間を脅かす程度で、むしろ仲の良い種族に入る。
「そうか、会った事ないのか。陰陽寮の中じゃ、そう珍しい部類じゃないんだがな」
姉御の言うとおり、陰陽寮のような組織に属し、一緒になって生活している者までいるのだ。
健全で無知なる一般市民の中にだって、何代かご先祖様を辿れば、意外とそういった変化の血が流れていても珍しくない。
「でも、今日は帰って来ないんでしょ? 会いたかったなぁ」
「ま、次に来た時は会えると思うがな。あたしの倍ぐらい良い奴だ、燕なら気に入られるだろうし、何も心配は要らないだろ」
ははは、と笑う姉御。
今日は良い日だ。美奈さん、姉御と立て続けで美人と仲良くなったし、高校は合格してたし、美味い夕食に美味い酒。
「あ、姉御、もう一杯いかがでせう?」
その上、美人にお酌出来るなんて――――普通はお酌して貰うんだろうなぁ。
「悪いな、年下と酒を飲むのは随分と久しぶりだよ」
「そうなの? 姉御なら選り取り見取りだと思うんだけどねぇ」
本当に、性格まで美人だし。
「まあ、世の中じゃあんまり好かれないんだよ。肌に傷のある女ってのは」
「そうなんですかねぇ……」
スルメを頬張りつつ、姉御の捲くられた腕を見る。
白い肌に残る、癒える事のない傷跡。確かに、美人の姉御には勿体無い傷だ。
「それでも、姉御の美人度は落ちてないと思うなぁ」
「ふふ、じゃあ、いざとなったら燕に貰ってもらうか」
「ははっ、良いのかなぁ、そんな事言っちゃって?」
――――冗談にしても、もったいないお言葉である。
「あ、姉御、もう一杯いきましょうか?」
ともかく、警察署の地下、地上の一般人が見下ろす場所で、美人退魔師との宴は長らく続き……那須燕は幸せです。
翌朝、昼過ぎになって、ようやく地元の谷地市に帰宅した。
見慣れた地元の景色と、見慣れた自宅の門構え。古風な武家屋敷は、ずっと昔からこの地に根付いているせいで、すっかり土地と定着している。
まあ、一応、由緒ある家柄なのだ。我等が那須一族は。
「ただいまぁ」
門を潜れば、屋敷の中から聞こえてくる弦の鳴く音。今日は親父が休みらしい。どうせなら、今日も仕事で警察署に泊まってりゃ良いのに。
個人的に嫌ではあるが、親父に合格報告をしなければならなくなった。
頭を掻きながら庭を通り、裏手にある弓道場を見ると、そこには弓を構える和服の男の姿。
的を見つめる黒に銀を混ぜた瞳、首の後ろでまとめられた茶色の長髪、ムカつくくらい常に余裕を持っているんだという顔つきは、全部オレに受け継がれているらしい。
仲の良い親父の仕事仲間の評価では、美人だった母方の遺伝子はさっぱり混じっていないそうだ。
弓を引き絞る男の名は、那須鷹士。現在、この弓道場付きの屋敷の当主という事になる。
しかしながら、その自分と同じらしい面を見る度、欝になるのだから堪らない。いつか整形手術でも受けようか。
などと気のない事を考えつつ、腕を組んで親父を眺める。そして、弦が張り詰める音が高まったのを見計らって、
「外しちまえ!」
思いっきり邪魔してやった。
が、矢は弦の音を背後に的のど真ん中に命中。
「その程度で外すものかよ」
こちらを見ずに、にっくき親父が小さく笑った。
「で、随分と遅い帰りだったが……落ちてたのか?」
新しく添えられた矢が弦を引き絞る音に、溜息を一つ。
「んなわけないだろ。受かってたよ。この春から一人暮らしさせて貰うからな」
「そうか……」
また、的のど真ん中に矢が増えた。相変わらず良い腕してる。雑談しながら挙動や呼吸に寸分の狂いもない。
外す道理のない弓術。あの性格の悪さでよく真っ直ぐに矢が飛ぶものだ。
「この家に一人だと寂しくなる」
「どうせほとんど家にいないくせに、勝手言うなよ」
「お前だってそうだろうが。大体、出て行くのは良いが、俺から学ぶ事はどうする」
そんなものはもう必要ねぇ――――肩を竦めて首を振る。
「那須家の奥義を受け継がぬまま、アホウドリが発つ、か……」
本当にいつも通りムカつく親父が、優雅さの欠片もなく、いきなり弓を引き絞った。
「――――――――――――」
幾つか、親父の唇が小さく動き、弓にかかった指が意志を解き放つ。
「“――――神意に従え”」
甲高い、大気が弾かれる悲鳴。
弾丸をも凌ぐ異常な速度で、木製の細い矢が的を直撃し――――爆音と赤い焔が、積まれた百キロ近い土、安土の塊を吹き飛ばした。
「あ〜ぁ、業者呼ばなきゃいけなくなっちまった」
親父の、那須一族の必殺技だ。威力を持った言霊を並べ、弓矢に込めて解き放つ。完全に習得すれば、陰陽五行説に基づいた五つの属性を自在に操り、今のように矢を爆弾に変える事だって出来る。
だが、それだけだ。どうって事はない。
「見せたいのはそれだけか、クソ親父?」
「……この強情っぱりめ」
「あんたにゃ言われたくねぇ」
そう、そんな技術に用はない。
「愛した女一人守れてねぇんだぜ、あんた」
「耳が痛い話だ」
小さく笑う親父が、何事もなかったように、次の矢を構えた。
その矢の行方も見ずに、オレはやってきた道を帰る。
親父に報告した次は、お袋に報告しなくちゃいけない。
当分、帰ってこない予定ですから。
先祖代々の墓に納まった幾つもの骨の中、一種類の女性に対し、丁寧に両手を合わせる。
「というわけなんで、当分、お墓参りにゃ来ないです。ただ、彼岸と命日くらいには帰って来るんで」
よろしく――――そう結んで、静かに両手を下ろした。
春の風が、暮れかけた墓地を渡っていく。
幾つも、幾つも立ち並ぶ、死者達の寝床。夥しい数のそれらの中で、自分に関係ある墓がたったの一個である事が、奇跡に思えた。
親父がここに来ると、必ず十ほどの墓を拝んでいく。
「因果な商売、してるもんな……」
親父も陰陽寮に所属する退魔師。殺人課の刑事達よりも、よっぽど殺したり殺されたりする現場にいる。何せ、化け物の類を直接殺すのが主な仕事だから。
「お母さん、貴女はそんなヤバイ親父だから惚れたのかな」
異常な親父と、一般人のお袋の馴れ初めを聞いた事はない。聞いた事はないけれど、仲の良い二人を見ているだけで、幼心に笑いを噛み締めていた。
幸せそうだった二人。
けど、ある日突然、極々普通の誕生日、二人の関係は終わった。
オレの目の前で、お袋は――――――――。
あの時の親父を見て、あの時の光景を見て、あの時の上に立って、オレは決めている。
――――あんな風には、絶対にならない。
十四歳のガキである自分が、たった一つだけ絶対の意志を持って断言できる夢。
親父とは違う道を。
親父とは違う仕事を。
親父とは違う生き方を。
――――解ってる。
親父も陰陽寮に所属する退魔師。
あの日の晩、親父が家にいなかったのは、どこか見ず知らずの誰かを助けるため。
今よりもっとガキの頃、それがオレの誇りだった事を、馬鹿なオレだって忘れていない。
なんて事はない。このジェントル燕だって、反抗期なのだ。
ただ、人様よりちょっとだけ過激で、長い、長い反抗期……。
「お母さん――――ごめんなさい。オレはやっぱり、親父の事を許せない。だから。だから……」
――――いつか、あいつより強くなってみせます。
「ごめんなさい」
頭を下げて、墓標に背を向ける。
静かな墓地の中、親の前では不器用な自分を薄く笑いながら、一歩を踏んだ。
黄昏色に染まった墓達は、何でか解らないくらいとても綺麗で、小さな子供のオレを、泣かせるかのよう。
少し昔を思い出したせいだ――――カウボーイハットを目深にかぶり、静かに首を振る。
「お前等なんぞにゃ泣かされないぜ」
強がっては見たけれど、昔の記憶は、もっと強かった。
その日の夜、自室で畳の上に寝転がるというリラックスタイムの最中、ケータイが鳴った。
誰かしら。ディスプレイを覗いたら、何と美奈さんだった。
「ハロー、美奈さん。夜のお供の燕でっす」
『またいきなり何を……相変わらずねぇ』
「まあ、二、三日じゃ性格変わりませんわなー」
くすりと笑う美奈さん。ストーカーもいなくなって、随分と落ち着いているようだ。
「それで、何の用でせう?」
『うん、駐車場有りのアパート見つかったの』
「マジ!?」
昨日の今日でですか。
『マジです。1LDKで三万円。高校までは、ええと、徒歩で二十分くらいかかっちゃうけど駐車場は無料だって』
「やすっ!? 美奈さん一体どんなマジックですか。お化け出るとかじゃないでしょうな?」
まあ、幽霊程度なら出ても退治出来るけど。
『そんな事ないよ、この前まで窓の外にストーカーいたけど。ちゃんと綺麗だし、大家さんも優しいの。お風呂とトイレはちゃんと部屋ごとに付いているのだ』
――――イッツァ美奈マジック。
「話だけ聞くとすげぇ良心物件ですな。部屋空いてるの?」
『もちろん空いてるよ。私の隣の部屋』
それはそれは――――理想的ですなぁ。
『大家さんが会いたいって言ってるけど、いつこっちに来れるかな?』
「んーと、そうだなぁ……。明日からまたちょっと学校あるから、四日後かな?」
『解った。それじゃあ、三日後にまた連絡するね』
「了解です」
じゃあ、それはそれで一件落着として、
「美奈さん、ストーカーの方、大丈夫?」
『うん、大丈夫よ』
即答には、笑い声が続いてきた。
『何だかね、平和っていうのがこんなに尊いものだとは思わなかったの』
「あぁ、解る。そういうもんだよねぇ」
オレにも経験がありますよ。
荒れた手を蛍光灯に掲げ、家事がこんなに辛いとは思っていなかった昔を思い出す。
――――迷惑かけっ放しだったな。
『ツバメ? どうしたの?』
「うんにゃ、何でもなかとよ。まあ、美奈さんのお言葉にジェントル燕は感動していたのだ」
『ふぅん?』
「オレは一人の女性の笑顔を守ったのだ。オレって素晴らしい。もっと頑張れオレ。立派なジェントルメンになるその日までっ……次回、来週に続く」
つったら、美奈さんに爆笑された。
『ツバメぇ、なにその特撮アニメわ? 絶対視聴率悪そうだし』
「失敬な。紅白なんて目じゃないくらい視聴率良いんですよ? 一部限定で」
『一部って?』
そりゃもちろん。
「美奈さんとか?」
笑い声を一つ。
「見てくれるでしょ?」
『あはははっ』
美奈さんも笑って、
『うん、見ちゃうかも。そして、ジェントル燕のファンになるの』
「ありがと、美奈さん。あ、ケータイ代、大丈夫?」
今までの話を統合すると、美奈さんもアパートメントで一人暮らしなのだ。
『ああ、うん、そうだね。ちょっとまずいかもしれないから、そろそろ切るね?』
「了解。それじゃあ、三日後にね。お休みなさ〜い」
『うん、お休み、ツバメ』
切れた電話の向こう、ノイズを告げてくるそこに、ちょっとだけさっきの会話が木霊している。
「ふぅ……。特撮アニメ、か……」
正義の味方目指してる訳じゃないんだけどなぁ。
どっちかっていうと、サスペンス映画辺りのクールな悪役が理想だ。
表向きを取り繕いつつ何人にも屈さず、上手く利用を繰り返して世を渡り、自分の好きな物だけを守ってゆく。良心や法律を、自分の好物のために無視しながら。
「ははは、特撮アニメだとそんな悪役ってまずいないよなぁ」
大抵の奴は爆死するだけだし。
でもまあ――――ファンの女の子一人ぐらい、どんな悪役だって守ってあげたいよね。
てーかあれですね。今の電話の雰囲気、滅茶苦茶良い感じじゃなかったですか。
……春ですなぁ?
四日後。その日の秋瀬市は、すすり泣くような物悲しい雨が降っていた。
なんて事を感じるほど、今日のオレは悲観的じゃない。
「じゃあ、美奈さん。来週には荷物ごと来るね」
小奇麗なアパートの軒下で傘を取り出しつつ、見送る人を振り返る。
「うん、待ってる」
微笑む美奈さんに投げキスを一つ。
「では失礼」
「元気でねツバメ」
ああ、生きているって素晴らしい。
これで一人暮らしは本確定。それも、かなり良い物件だ。
そこそこ広くて綺麗なキッチンがあり、バス・トイレが別々、駐車場付き。その上、大家さんが優しく家賃の延滞をしてくれたり、隣室が美人のお姉さんで色々とお世話を焼いてくれたりするっぽい。
いやぁ、探せばあるもんですな。物件探しに一秒も使ってないけれど。
くるくると傘を回しながら、濡れる街並みに靴音を混ぜて闊歩する。
「姉御の所にも顔出そうかなぁ」
時刻は昼前、ひょっとしたらご飯を奢ってくれるかも知れない。
「今日はお土産持って行かないと叱れるんだろうな」
さて――――何を持って行こうかしら。
警察署の受付をパスするのにちょっと苦労しつつ、何とか不安調査課のオフィス前までやってきた。
「姉御〜。不思議の国の住人で〜す」
「ん? 燕か?」
ドア向こうから、凛々しいお声。
「そうです。失礼しまっす」
がちゃり。ドアを開けたら、姉御が長いコート羽織って立っていた。
「お出かけ、デスカ?」
「そういうこったな。なんだ、飯でもたかりに来たのか?」
姉御ってば鋭すぎだ。
「いやぁ……それだけじゃないですがー。アパートが決まったので報告と、お土産」
「お前が来るとめでたい報告しかないんだな、良い事だ」
姉御はオレの頭を軽く撫で、差し出された紙袋を鷲掴み。
「お、酒か。清酒“討ち入り(二日酔い)”……あたしがこういうネーミングセンス好きなの知ってんのか?」
「ちっちっち、初歩的な推理だよワトソン灰香君……。“返り討ち(酵素力)”ってのとどっちにしようかと思ったんだけど」
シリーズ? と首を傾げる姉御に頷きつつ、オフィス内を見渡す。
「今日ももう一人いないみたいですな?」
「ああ、長引いてるらしくてな。さっぱり帰ってきやがらねんだ。で、オマケに事件発生したんでこれから出動」
「大変ですなぁ」
一拍。姉御はオレの台詞を吟味するように眉間を押さえ、
「よし、そう思うんならお前も来い」
「……マジっすか?」
それはつまり、あたくしも化け物と戦うってのと同義だと思われ。
「何を素っ頓狂な面してんだよ、問題ないだろ? お前だって退魔師の資格持ってんだ。これからあたし等から仕事回されるんだから、少しは実力見せてみな」
「いやまあ、それはごもっともなんですがね?」
陰陽寮には、二種類の退魔師がいる。
一つは、姉御や親父のような所属退魔師。月給を貰って警察に常駐するサラリーマン的な存在。
もう一つは、公認退魔師。陰陽寮に力を認められ、人手が足りない時に仕事を回されるバイト君。
オレは、そのうちの公認退魔師なのだ。親父から仕送りを貰うつもりは欠片もないので、こっちに来たらこのちょっと危ないバイトで食いつなぐつもりなのだが。
「オレ、今日は得物持ってきてないんですけどー」
その言葉に、姉御は麗しいご尊顔の眉を潜めた。
「退魔師が商売道具を持ち歩かないってのはどういう事だ?」
「いえ、オレの商売道具は拳銃なんで」
はいそうですね、なんて持ち歩ける物じゃないのだ。
が、姉御は呆れた顔をしつつ、溜息を一つ。
「なんで“那須”の名前を持つ野郎が拳銃なんだ? しょうがねぇな……オートマ? リボルバー?」
「男ならリボルバー」
宣言――――オートマティックのハンドガンは邪道である。
が、そんな男のポリシーに姉御は苦笑。
「なんだその自信満々な面は……。だがまあ、良い趣味してる。あたしのを貸してやるよ」
「姉御もリボルバー好きなんでせうか?」
「まあな、西部劇とかが好きでね」
流石は姉御。レディでありながら男である。……言ったらぶっ殺されるだろうか。
「ほら、これ貸してやる。ホルスターは?」
「ジャケットについてますよ」
「オッケ。じゃ、使いな」
見惚れるようなカッチョ良い仕草で、姉御はリボルバーを放る。
「落としたらぶっ殺すぞ?」
一瞬で心に決めた――――死んでも取る。
生死を分けるキャッチング。全てがスローモーションに見える錯覚に、体がスムーズに黒いリボルバーを掌で捕らえた。
オレは今、生き延びる事が出来たのだ。生きているって素晴らしい。なんか凄いしょうもない事で命を賭けているけれど。
見た目よりも重い武器の手応え、慣れ親しんだはずのリボルバーの重みが、普段使っていない物だと新鮮だ。
「ナイスキャッチ。別にあたしは銃なんざ使わないんだけどな、その銃に変な癖つけたら殺す」
「気をつけます……って、この銃はまさかっ!?」
手中の黒金に、オレの奥底のガンマン魂は激震した。
「S&W社製! M19……通称コンバットマグナム!」
わたくしの信念が間違っていなければ、日本で最も有名なリボルバーだ。
ほら、あれですよ。三代目大怪盗や石川五右衛門の末裔が何でも斬ったりして大活躍するアニメで、三代目大怪盗の相棒が持っているリボルバー。
本当はオレもこの銃が欲しかった。喉から胃液が鼻から血が出るほど欲しかった。
「あっああ、あっ、姉御! なんでこんなもん持っとるとばい!?」
「ん〜? 強いて言うなら、」
姉御は煙草を取り出して咥えつつ、
「趣味」
最高だこの人――――不肖ジェントル燕、一生ついて行くんだと決めました。
「すげぇ、生で見たの初めてだよぉ……うわぁ、うわぁ、コンバットマグナムだ、うわぁ」
初めて本物のリボルバーを持った時を遥かに凌ぐ感動。涙で前が見せません。これ撃っても良いなんて夢かもしれない。
頬を抓ったらさっぱり痛くないし。
「ただ、弾は三十八口径だからな。マグナムは入れてない」
「うあっ、マジですか!? さ、三八スペシャルですか!?」
要するに、マグナム弾を撃てる事から“コンバットマグナム”と呼ばれたこのリボルバーが、それ以外の普通の弾を撃つって事である。
急に頬が痛くなってきた。
「姉御ぉ〜……」
自分史上、最高に情けない声が出たと思う。
「な、なんだよ……」
「あ〜ね〜ご〜……」
「いや、そんな顔されてもよ」
「あ〜ぁね〜ぇご〜っ」
姉御はがっくりとうなだれ、片手でオレの顔を掴んだ。
「わぁった、解ったよ。マグナムを撃ちたいんだろ?」
「うぢだいでふっ!」
「しょうがねぇな……」
姉御、オフィス内の自分のロッカーを開けて、中から小箱を取り出す。
「ほら、マグナム弾だ。持ってけ」
姉御って地上最強だ。いくら退魔師とはいえ拳銃使わないって言ってる姉御の持ち物じゃない。さり気に箱に「私物」とか書いてあるし。
「姉御大好き。――――けど、これって流石に陰陽寮の職権乱用じゃないデスカ?」
「要らないんなら良いんだぜ?」
「姉御愛してる。姉御惚れました。姉御結婚してください」
「はは、馬鹿言ってんじゃねぇの。あと五年は早ぇ」
そうですなぁ――――でも、この人って本当に素敵だ。惚れそう。
「じゃあ、燕、行くぞ」
「任して下さい。コンバットマグナムを持ったオレは最強ですよ」
気分だけですが。
■External storage■
警察署から出てくる少年と長身の女性を目の端で見ながら、一人の男が署内に入っていく。
極普通のサラリーマンの装い。多少、身なりが整っている程度で何の特徴もない。
受付の婦警と幾つか言葉を交わしているのは、留置場にいる知人への面会だと言う。
「では、お取次ぎしますのでしばらくお待ち下さい」
「ありがとう」
愛想で浮かべた笑みはやや硬質で、謝辞はしゃがれたような声だった。
ロビーの長椅子に腰掛けた男は、物珍しそうに署内を見渡し、目の合った人物へは例外なく目礼していく。
礼儀の正しい男――――誰もがそう感想を抱いて、それ以上は何も覚えない。
人が記憶に残す人物像は、悪印象の方が多いものだ。
もし、ベテランの捜査員が見れば気づいたかも知れない。男は、気に入られつつ覚えられない方法を熟知していた。
「お待ちの方、こちらの書類にご記入をお願い致します」
「ああ、解った」
婦警の呼び声に愛想笑いを浮かべつつ、男は内心で溜息を一つ。
――――面倒な仕事を押し付けられたものだ。
「君、少し質問なのだが」
「はい、なんでしょう?」
男は鞄の中から掌一杯くらいのお守りを取り出し、
「これを渡したいのだが、大丈夫かね?」
「ええと……中身を確認する事になってしまいますが……」
「それは困ったな。お守りは中身を見られると効果がなくなると言う」
男は、肩を竦めて、
「だから、中身を見た事は内緒にしておかなければならないかな」
男の冗談に、婦警は笑った。
「書類は、これで良いかね?」
「はい、結構です。お守りも確認しました。どうぞお持ち下さい。今、係りの者がご案内いたしますので」
「ああ、ありがとう」
――――楽な物だ。
手の中のお守りを見て、男は心の底から小さな笑みを零す。
面会室に男が入ると、殺人未遂で投獄待ちの真田希一が、透明な板の向こうで笑っていた。
「僕に何の用かな……。“会”の人間だね? 何回か見た事がある」
「が、話した事はなかった。その上、お前は“会”を破門されかけていた人間であり、私が最も嫌いなタイプの人間だ」
真田は肩を竦めて首を振った。
「嫌味を言いにきたのかな。違うよね?」
「まあ、そうだな。“会”の規約に基づいてやってきた。お守りは持っているのか?」
真田は首肯して、ポケットの中からお守りを、それも先ほど男が婦警に見せた物とほぼ同じお守りを見せた。
「これを持たずに外出するのは怖くてね」
「良く言う。ストーカーの分際で。これも持って行け」
男は苦々しく言って、自分の持ってきたお守りを、隙間から差し出す。
「酷いね。僕は彼女が危険な目に会わないように見守っていただけなのに」
「ふん。殺そうとしておいてか」
「僕は別に彼女を殺そうとしたわけじゃないけど……お仕置きは考えているけどね。子供なんかと手を繋いで……くくく」
どこか遠くを見て肩を震わせる真田に、男は隠さない嫌悪を表して、席を立つ。
「すぐにお守りに祈れ。“ムシ”が湧いて困っているだろうからな」
「了解。で、わざわざもう一個のお守りを持ってきた訳は?」
「ああ。お前、あの少年に仕返しをする気なのだろう」
もちろんだ、と真田は頷くが、不得手顔を崩さぬまま。
「まさか、それを後押ししてくれるような“会”じゃないよね?」
「無論だ。そのお守りは少年への謝罪だ。あの少年、我々の“会”から見れば重要な人物でな。“会”は、あの少年を相手に少し力試しをしたいらしい」
「へえ……」
真田は、ほとんど唇の動きだけで、少年の正体を尋ね返す。
――――退魔師?
「公認のな。これから“ムシ”が大量に湧く季節だ。お守りの効力を試すには、良いだろう」
「了解。美奈については何か言ってた?」
「そうだな。“会”は今回のお前の働きが良ければ、黙認して受け入れようと言っている。お前ほどまで修めた者は惜しいからな」
「太っ腹だね」
真田の笑い声を無視して、男は面会室を後にした。
■External storage■
「ここが今日の仕事場なんすか、姉御?」
車の助手席で、燕が土砂降りの窓の外を見ながら訪ねてくる。
あたしはコートのポケットを手で漁りながら、頷きを一つ。
「そうさ。ドライブに来た男からの連絡でね、でかい蜘蛛に似た怪奇生物が出たんだそうだ。人の背丈ぐらいの」
「そいつは気持ち悪いですなぁ……。姉御、さっきからポケット探ってどうしたの?」
「ん、それがな」
百円ライターを取り出して見せ、
「煙の方がない」
「あちゃあ……でも、オレを見ても駄目ですよ。オレ、煙草はまだ吸ってないですもんね」
「なんだよ、煙草くらい吸っとけ。まあ、香りがしなかったからそうだとは思ったけどよ」
「あはは、仮にも警察に出勤してる人が言うべき台詞じゃないですな」
全くであるが、男なんだからそれぐらいの遊び心は欲しい。
「社会に従属するのは良い事ばかりじゃないぜ?」
「煙草を吸うのはささやかな反抗でせうか?」
燕の返答は、煙草に対する偏見と社会の穢れた常識とやらに満ち満ちている。しょうがないので煙草の美学を啓蒙してやろう。
「燕、良く聞け。このあたしが有難い言葉を教えてやる」
「うぃ?」
「煙草は、有害物質を喫煙して中毒になるために吸うんじゃない。ただひたすら、カッコをつけるためだけに吸うもんなんだ」
シュボッと音を立ててライターに火を灯し、燕の目の前でゆらゆら揺らす。
「姉御、催眠術っぽいですな?」
「催眠術だ」
「やっぱり? では、催眠状態で何をすれば良いんでせう?」
素直で良い奴だ。
窓の外を見れば、登山道への入り口として、看板と便所、それから駐車場の入り口の方に自販機の明かりが見える。
距離が結構あるが、
「燕、あそこの自販機見えるか?」
「もちですよ」
「視力は良い方か?」
「とっても。裸眼視力で3.0、“霊力”で強化すれば5.0は軽いですな」
そいつは凄ぇ。
「あたしは強化してやっと3.0ぐらいなんだが……」
「那須家は伝統的に、生まれてすぐから視力を伸ばすための訓練をされるのですよ」
大変に結構な事だ。
生まれつき、そういう家系じゃないあたしにとっては羨ましい事ですらある。
「んじゃあ、燕、あそこの自販機は煙草だよな? 赤のLARKある?」
「姉御、キッツイ煙草吸うんだねぇ……母体にゃ悪いよ? あるみたいだけど」
「よしよし、じゃあ、次のあたしの台詞が解るか?」
燕は頷いて、
「多分恐らくきっと」
うむ、燕なら解っていると思った。
では答え合せをしよう。
「せ〜の」
「「ちょっとそこまでパシッて来い」」
綺麗にハモッた。
とても気持ち良かったので、にっこりと笑って、燕に千円札を渡す。
「お釣りやるから、よろしく」
「うお、マジですか? お釣りったら七百円じゃないっすか」
「要らないんなら返して貰うだけだぞ?」
「もち、有難く頂きます」
頭を下げる燕。素直なのが大変よろしい。
「じゃ、行って来ま〜す」
傘を広げ、燕は自販機の明かりの方へと歩いていく。
女に尽くすタイプ――――将来は良い旦那になれるだろう。
「ふふ、まだ見ぬ嫁さんが羨ましいね」
無論、陽気そうで軽いノリばかりがあいつの本性じゃない事は薄々解る。
だが、それを隠し切る精神力はいかにしろ役に立つ。
「ああいう荒削りな奴をサポートするのは、年上の役目だな」
あたしにとっても、経験がない事じゃない訳だし――――じくりと、右目が痛んだ。
「と……? お出ましか」
ドアを開け、土砂降りの車外に出る。
燕はまだ気づいていないのか、自販機の方で止まったまま。
「やれやれ、探知能力は低いなあいつ」
濡れる前髪をかき上げると、指が、右目の眼帯に当たった。
右目が疼く感覚。
もはや、自分は両の碧眼でこの三千世界を見る事は出来ない。
だが、その代わり――――この右目は、敵の接近を何より早く伝えてくれる。
「――――来な」
瞬間、登山道の茂みが雨を散らし、
「上だろ」
轟然と頭上を蹴り上げた脚が、奇怪な物体を跳ね上げた。
靴越しの感触は硬い。雨から眼を守りつつ見上げれば、蜘蛛のような“何か”。
「気持ち悪ぃな」
見た目からすれば、万人が蜘蛛だと言うだろう。もしも、世界に一メートルを越える昆虫が存在すればだが。
「ふむ……化生の類じゃないな。死霊か」
経験から相手の種類を特定する。
生物が、霊力と呼ばれる力で強大化したものではない。
肉体が滅んだ個体が、肉体以外の存在要素に縋り、精神体として現世に留まったモノだろう。その上、あの巨大さ。自然発生の死霊だとすれば、かなりの量の死霊仲間を吸収しているはずだ。
「さて……養殖モノか、天然モノか」
この地域には、こういう趣味の悪いモノを作り出す奴等が住んでいるから――――そう思いつつ、腕に打撃保護用の手甲を着ける。
「行くぜ」
一足で間合いを拳のそれに縮めたら、踏み込んだアスファルトが爆ぜた。
「ふん……!」
蜘蛛の口と右前脚の間、人間で言えば鎖骨がありそうな所を、渾身の力で振り抜く。蜘蛛に生えた剛毛が、日本刀でも弾きそうな硬い手応えを返してくる。
――――真っ当な打撃じゃ無理か。
それでも、巨大な蜘蛛の体躯が打撃方向に流れ、八つの蜘蛛の眼がぎょろりと、あたしを見た。
考えてる事は多分こうだ――――痛ぇだろこのアマ。
蜘蛛の前脚が放った高速で薙ぎ払いをしゃがんでかわし、さらに突き刺そうとする脚を 後方宙返りで避ける。
普通に地面を転がれば楽なんだろうが、生憎と今日は雨。水溜りで泥遊びをするには少し年が行き過ぎているだろう。
「参ったね。雨の日はあんまり得意じゃないんだが」
こんな時のためのバイト君はまだか。
自分で買いに行かせといてなんだが、後で一発ぐらい殴ってやる。と思ったら、蜘蛛の眼の一つがひしゃげ、内側の液体だか固体だか解らない物質が弾けた。
遅れてくる銃声。
「ほう、今の弾、かなり音速超えてるな」
書類に書いてあった。那須家に遺伝する特殊能力、飛び道具の“魔弾化”。
霊力という体内に存在する、どんな用途にも使える無色のエネルギーを用い、弾丸を強化していると見える。
ドイツ辺りで名高い、“魔弾の射手”伝説の体現と言うわけだ。
「姉御〜、間に合ったー?」
遠くから、そんなのんびりとした問いかけ。
「もう少し早く欲しかった」
「ごめんねー」
続けて五発の弾丸が、振り上げられた蜘蛛の前脚の根元に殺到、鈍い音と共に前脚が宙に舞った。
「流石に気持ち悪いな」
何だか良く解らない液体を振りまいて悶える巨大蜘蛛に呆れ、バックステップを一つ。
「水っ気が多いと、威力が落ちるんだが……」
右の拳を左手で包み、意識を鋭く、切っ先の如く細める。
「“赤色欲す夏の一時、南に望む螢惑一歩――――”」
全身の霊力を拳に束ね、それを言霊によって五行説になぞらえていく。
「“礼徳宿りて飛ぶ鳥は、赤きし一神・神獣朱雀――――”」
濡れた暗色世界が、一瞬で紅蓮の赤光で彩られた。
「“焔乃翼!”」
右腕全てを包んだ炎は、酸素を飲んで翼の形に肥大化。踏み込んで叩き込まれる焔拳は、黄金の融点超える千度の悪夢だ。
叩き込まれた拳から、蜘蛛の巨体に炎が踊った。
――――キギャアアアアアアアアアア――――
昆虫の発声器官から放たれる悲鳴に顔を顰めながら、水溜りの上に着地。
「あ〜ぁ……」
濡れた長髪をかき上げ、車を振り返ると、傘を差したまま燕が笑っている。
「燕、煙草だ」
「あい、ばっちり買ってきましたよ」
投げられた煙草を受け取り、雨雲見上げて溜息を吐くと、燕が拍手を二つ。
「いよ、水も滴る良い女っ」
もう一つ、でかい溜息が零れた。
前髪が垂れて幽鬼の如くなっているであろう状態で、うらめしやーのポーズ。
「滴り過ぎだろ?」
背後で、蜘蛛の死霊が消えていく。
■Internal storage■
コートを脱いで車に入ってきた姉御は、その長い黒髪を手で梳いて体の前に持ってくる。
覗いたうなじが抜群に色っぽし。
「姉御、タオルは装備してないのこの車?」
「あるに決まってるだろ、雨の日に車使うんだから。あたしをそこらの不健康に格好つける輩と一緒にするなよ。煙草だってきっちり運動して抜いてんだ」
言いつつ、姉御は助手席のこっちに体を倒して後部座席のシートを漁る。
濡れた姉御の髪から、ほんのりと煙草の香りがした。
「…………」
姉御が漁る。
「……………………?」
ごそごそ漁る。
「……………………っ……………」
あはは、姉御ったら必死になって後部座席を漁ってる。可愛いなぁ。
「姉御、姉御」
「な、なんだよ。ちょっと待ってろ、今取るから」
ごそごそやりながら、密かに姉御は恥かしそうだ。
「姉御……風邪引いちゃうぞぅ?」
「あたしは頑丈に出来てるから五分は大丈夫なんだ」
でも、どう見ても後部座席にタオルは無いくさいので風邪ひくっぽい。
だが心配は無用。こんな時のための必殺アイテムがジェントルメンのジェントルポケッツには入っているのだ。
「姉御、ハンカチーフでよろしければあるよ」
「あ? あぁ、そうか? んじゃ、中々見つからないタオルの代わりに使っても良いな?よし、使うぞ? 使わせろ」
こっちの手からハンカチを奪って、姉御は顔と髪を拭いていく。
「ふぅ……」
それで、ふと姉御の眼帯が見えた。
今までも髪が揺れる度にちらちらと見えていたけれど、これで確信できた。姉御は、隻眼だったのだ。
もちろん、何か別の理由で眼帯をしているのかもしれないけれど、この人は、片目がない。
――――ま、別に、気にする事じゃないですな。
一人で笑って、なんだか小っちゃい発見をしてしまった気分。例えば、授業中に窓の外に虹を見つけた感じ。
ううん、オレって詩的だ。
「姉御」
「ぁん? なんだよ」
「姉御、髪が長いから一枚じゃ足りないですね?」
たかだかハンカチ一枚で、腰元まである長髪は無理だろう。
「と言うわけで、じゃ〜ん」
ポケットの中から、端を結ばれて一繋がりになった国旗デザインのハンカチーフの大群。
それを、姉御はおいおい、という顔で見て、
「それ、常駐ネタ?」
「うぃ。ジェントルメンは常に、レディのためのハンカチーフを十枚は持っておくものですよマドモアゼル」
「まさか、薔薇の花まで出せるのかお前?」
あははは、姉御ったらもう無茶な事を聞いてくれるお人だ。
「そりゃ――――もちろんですなっ」
ハンカチで一瞬隠した手の中から、小さな造花を取り出して見せ、
「よろしければ一輪いかがでせう?」
白い歯を見せて笑う。
「燕……」
姉御は、凛々しいお顔を笑みで緩ませて、心底呆れたように溜息を一つ。
「お前は紳士の鏡だよ。負けた負けた」
ぽんぽんと、わたくしの頭を撫でてくる。
――――紳士の割には、子ども扱いですなっ。
まあ、それでも悪い気は全然しないので、その感触に浸る事にした――――ら、姉御のケータイが鳴った。
「ん、何だ……陰陽寮本部からなんざ、穏やかじゃないな」
そのコール音は、極々普通のコール音。けれども、無表情に沈んだ姉御の顔が、何か嫌な事の始まりだと告げている。
「秋瀬市近隣担当の灰香だが」
雨の降る音が、酷く大きく、
「留置所がなんだって?」
思わず見た窓の雨粒が、
「真田希一が、何かの呪術を使って脱走って……」
笑う般若面のように見えた。
「姉御、美奈さんは秋瀬市東地区の倉瀬町のアパートだ!」
「了解。本部、これからストーカー野郎が一番行きそうな所に行く!」
急に踏み込まれたタイヤの音が、悲鳴のように泣き喚く。
美奈さんの住むアパート。来週からはオレも隣に越してきて、うはうはな生活を送るはずの黒井アパートには、すでに美奈さんはいなかった。
ただ、二階にある彼女の部屋の窓ガラスが割れているだけで――――。
「姉御、どこ行ったか予測つく?」
雨が遠慮なく土足してくるその部屋で、オレは額を押さえて訪ねた。
「無茶言うなよ、あたしは予知能力や千里眼なんざ持ってないんだ」
やっぱりそうなるわな。
大体予測出来たその回答に、短く落胆の溜息を吐き、一瞬で気持ちを切り替える。
「じゃあ、もう総当りしかないっしょ! 姉御、とにかく手当たり次第に探して探して探しまくる! 決まり!」
「だな……。一応、本部に伝えて探索系の能力者を使って貰う。だが、これにも時間がかかる。その間は手探りだ」
頷き、部屋から土砂降りの外に出る。
「燕、お前なんか運転出来るか?」
「バイクを少々」
姉御は軽く笑みで鼻を鳴らして、
「悪い奴だな」
「失敬な。私有地でバイクを転がしてただけなんだから、法律違反じゃないでしょうが」
「じゃ、なんで車じゃないんだ?」
「強いて言うなら趣味」
姉御は肩を竦め、ポケットからキーを渡す。
「警察署まで送ってやる。そこにあたしのバイクがあるから使いな。事故って壊したりしたら半殺しだからな」
「良いね、姉御話せる。――――ちなみに、美奈さんを助け損なったら?」
退魔師は、笑みを噛み殺してオレを睨んだ。
「一度お前が関わった事件だ、責任もって最後まで助けきれないなんざ最低だ。半殺しで済むと思うなよ」
最高に痺れるお言葉。気合いが入った。
「了解。任して下さいな」
ジェントルメンだろうがクールな悪役だろうが、やりかけの仕事を放っておくなんざ男のする事じゃない。
それに何より――――ガキの頃の記憶が、地獄の底の硫黄じみた痛さで、オレを焼いている。
ここで美奈さんを守れなかったら、オレは親父と同類にまで堕ちてしまうだろう。
それだけは、絶対に、嫌だ。
警察署につくと、姉御は駐車場の中のバイクを一台指差した。
「あれを使いな。燃料は満タンのはずだ。メットをかぶって面ぁ隠しておきゃ警察にもそう見つからないだろ。あたしは西、お前は東。大雑把にそれで行くぞ」
「ん、オッケ」
ここ秋瀬市の街は、山を北、港を南に持つ街で、さらに、町は山から流れる川で東西に区切られているが、圧倒的に西側が広く、東側は全体から見れば申し訳程度の面積だ。
つまり、迷い難い方にオレを送ったわけか。
助手席から降りると、姉御は最後に、
「お前、呪術師と戦った経験は?」
「舐めるなよ、姉御」
一瞬、姉御の碧眼と視線を合わせたら、姉御は溜息を吐いた。
「ないんだろ。見得張るな」
「見抜くの早いっすわ。アドバイスくれます?」
「当たり前だ」
姉御の唇が、躊躇いもなく動く。
「――――死ぬな」
「それ、地上最強のアドバイスだと思う。ついでに何か励みもくれます?」
今度は姉御の唇も迷ったが、すぐに姉御は頷いて、
「お前がストーカー野郎に勝ってたら、キスしてやるよ」
「それ、世界最高の励みだと思う」
笑って、車のドアを閉める。
気合いも入った。アドバイスも貰った。励みも貰った。
姉御、本当に面倒見の良い素敵な人だ。その唇は絶対に貰う。
雨の中、傘もささずにバイクに駆け寄ると、姉御の車がフルスピードで警察署を出て行く。
すげぇハンドル捌きである。
バイクにキーを刺して、ハンドルにぶら下がっていたメットを取ったら――――雨音を裂いて、電話が鳴った。
「あ、っと……」
このコール音は、秋瀬市の知り合いに当てられたメロディー。退魔師は別口なので、たった一人しかいない。
――――ディスプレイには、佐伯美奈の表示。
「もしもし?」
だが、美奈さんがかけてくる可能性は低い。どちらかというと、
『ああ、僕だよ、覚えてくれているかな?』
真田希一というストーカーの確率が高い。
「もうちょっとで忘れそうだったんだけどな、残念ながら覚えてる。今どこだ」
『ふふふ、君は相変わらずだな。でも、前と違って焦ってるのは君だね。当然かな、美奈がこっちにいるんだから。まるで勝利の女神だね』
まだお前は勝ってない――――が、その言葉を飲み込む。
「今、どこだ?」
『焦らなくても教えるよ。僕の目的は美奈だけど、僕らの目的は君だから』
なんだそりゃ。今度は沈黙を返しておく。
『意図が読めないかい? そうだろうねぇ。良いね、有利な立場だと楽しいよ、那須君。退魔師になって何年なんだい?』
「……なんでそんな事知ってんだ?」
『秘密。電話越しじゃ教えられない』
落ち着け。
一つ深呼吸して、頬を伝ってきた雨粒を舐め取る。
どういう訳か知らないが、向こうはオレの情報を持っている。そして、どこかに誘き出す目的があり、こうしてオレに連絡をしてきた。
その上、“僕ら”という複数であり、呪術師だって事。オレと同じく、ビックリワールドの人間だ。
なんで捕まえた時に気づかなかったのか。
「で、何を要求したいんだミスター・ストーカー」
『君が一人で来る事。今、丁度一人になったんだろう?』
見張っている、というアピールか。
「場所は?」
『港の東に、倉庫がたくさんあるんだ』
「まるで映画だな」
倉庫で悪役と激突。まるっきりヒーロー役だ。個人的にはクールな悪役を希望する。
『とりあえず倉庫にきたら、こっちに連絡してくれれば良い』
「良いだろ、乗ってやるよ」
望む所だ。
ここで、女を一人助ける――――親父を超える明日のための一歩。
新天地になるであろう秋瀬市で、いきなりだ。景気が良い。
メットをかぶってキック一発、気合いを入れてエンジンを高めていく。
港に着いた瞬間、電話をかけろと言った向こうから電話が来た。
「はい、もしもし。こちら心の悩み相談室です」
立ち並ぶ倉庫の群れ。
馬鹿でかいコンテナと、作業用機械が雨に濡れ、いかにもな雰囲気をかもし出している。
『初めての会話を思い出すな。ふふ、冷静さを取り戻したって所かい? 君が今居る所から、二つ先の倉庫だ。ドアが開いてる』
「タイマンか?」
『ああ、タイマンだ。君が信じるかどうかは別としてね』
ぶっちゃけ信じない。応えようとしたら、電話が切れやがった。
「ふぅ……二つ先ね」
しかしながら、冷静さを取り戻したように見えるのだろうか。
ジャケットコートの中の愛しいコンバットマグナムの感触を確かめ、頭にカウボーイハットをかぶる。
そしたら、もはや小細工も何も思いつかなかった。
堂々とドアを開けて、倉庫の中に入る。
奇襲だろうが何百人いようが、もう関係ない。
――――まだまだガキのオレは、とうの昔に冷静さなんてものは大気圏外にぶっ飛んじまったのである。
「出て来いストーキング野郎! 用件はなんだ、雨の日にフルスピードで来てやったんだから茶ぁぐらい出しやがれ!」
倉庫の中は、オレの倍ぐらいの高さまでコンテナが大量に積まれ、あちこちが死角だ。
オレの頭上から飛びかかってくるのもありだろう。
そう思っていたら、
「いらっしゃい。生憎とお茶は出せないかな」
前方三メートルから、細い神経質そうな顔をした男が現れた。
「正面から出てくるとは意外だったな……美奈さんは?」
「美奈は一先ず置いておこうか。今は“僕ら”の方の用件だから」
「……まあ、良いだろ。で、“僕ら”ってのはどういうグループ?」
ストーカー野郎は少し考え、首を振る。
「言えないかな。情報漏らすと怒られそうだしね」
「それもまた一つの情報だ。当ててやろうかワトソン真田君? 漏らすと怒られるって事はつまり、組織だ。そんでワトソン真田君は下っ端」
言葉に、しばらく惚けた真田が、感心したように手を叩いた。
「凄いな、頭の回転が速いというか何と言うか。場慣れしている感じだ」
「単純な推理だよ、ワトソン真田君。呪術を使えるそうだな? どんな呪術か知らないが、呪術を使える人間ならいくら鈍感なオレでも気づく。秘匿されてないならね。本を見て学んだなんて素人が、呪術使い独特の気配を殺すのはまず不可能。その時点で、ワトソン真田君はどっかの組織に所属しているだろうと言える」
その手の本は腐るほどあるが、本の知識だけで呪術を行使できる奴は万に一人いれば良い方だ。
問題は、どんな組織かっていう事。
「まあ、続きを聞きましょうか、ワトソン真田君?」
「うぅん、自信満々で少し不愉快だが、良いだろう。ま、僕らの組織の都合が色々あって、君と僕が戦う事になったんだ。それで、美奈に入れ込んで下がった僕の評価も正常化される」
「お前が負けて評価が回復するとは思えないんだが、勝つって前提で話してんのかテメェ?」
真田は肩を竦め、笑みを一つ。
「怖いからご想像にお任せするよ。ともかく、“僕等”の目的は君と僕との勝負だ。公認退魔師の君とね」
公認退魔師のオレと――――その一言が気にかかったので、きっちりと記憶に刻んでおく。
「オーケイ。じゃあ、“お前等”の要求が終わった所で、お前個人の話と行こうか?」
「そうしよう」
真田は微笑みで頷いて、コンテナの陰から美奈さんを引っ張り出した。口をガムテープで縛られ、胴体もガムテープでぐるぐる巻きにされている。
だが、
「んんぅ! んっ、うぅぅ!」
体を捩ってこっちの気遣いらしき声をあげるだけの元気があった。
涙目が、凄くやる気を駆り立てる。
「このストーカー野郎、レディを縛るなんてお前ジェントルじゃねぇな」
「僕は紳士のつもりなんだが……。美奈が大人しくしてくれなくてね、怪我をしないようにこうしているのさ」
ふざけた野郎だ。
「まあ、そう睨むな那須君。僕は可愛い美奈を傷つけるつもりはないという事が伝わったかね?」
「どうだか、ストーカーはどんな事をするか解らないってテレビでやってたからな」
「ストーカーと一緒にしないで欲しいな……僕は彼女を愛している。全ての危険から守るつもりだよ」
お前が危険第一号だと思うんだが、どうだろう。
「美奈さん。そいつの気障な台詞が嫌いだった場合は首を横に、きゃー素敵みたいなノリだったら首を縦に振ってみそ?」
「んっ、んんぅ!」
美奈さんは泣きそうな顔で凄い勢いで横に振った。
「なるほど。つーわけだ、ストーカー兼悪い魔法使い。決まりだな」
カウボーイハットを手で押さえ、小さく笑う。
「ジェントル兼白馬の騎士兼クールな悪役は、いつだってレディの味方だ。テメェをぶっ飛ばして美奈さんをこの手に抱き締めるっ!――――それがオレの務めだ」
悪い魔法使いは、嘆かわしげに首を振って、美奈さんをコンテナの影に放る。
どさりという音と、小さな美奈さんの悲鳴。
「美奈は可愛いんだけど、照れ屋だな」
「前半にだけは同意してやる。だが、美奈さんは照れ屋じゃない、お姉さんだ」
右側のコンテナの上から、でかいムカデが飛び出してきた。
「っと!」
気合い一発横っ飛び。
一メートルサイズというキモイムカデの素早い突進を避け、バックステップ。
「死霊タイプじゃねぇな……!?」
はっきりと生きている気配。
すげー嫌だけど、このデカムカデは学校の日陰なんかに住んでるムカデ同じ生き物だ。
ただ、霊力を蓄えて強大化している。
「初見で解るとは、やっぱり退魔師っていうのは知識や経験があるんだね」
悪い魔法使いが余裕気に語っているが、実は教科書的な知識なのだ。退魔師資格を取ったのがついこの前なので、実は経験がないと言えるくらい。
だが、それを言うと馬鹿にされそうなので黙っておく。
「やべ、こいつ速っ!」
ムカデの甲殻の節の部分がかち鳴る音が、凄まじいスピードで追い詰めてくる。コンテナに横を塞がれているので、縦方向にしか逃げられない悲劇。
足元を食い千切ろうとする突進に、
「ぬっ!」
ムカデの頭を蹴ってコンテナの上に逃れる。ムカデの甲殻がすげー硬い事が判明した。まるで鋼鉄だ。
生来の昆虫の硬さに加え、霊力による効果もあるっぽい。さり気にオレもそうやって身体能力を強化しているのだが。
こんな事が出来るのは、霊力が存在物の全てを構成しているからだと言うが、オレには解らん。
なんて余裕気に考えていたら、コンテナの上までムカデがよじ登ってきた。流石に速い。
「那須君、作戦を考えている暇はないと思うよ?」
「うっさい! こっちの勝手だろ!」
とは言うモノの、参った。とりあえず、コンテナの上を飛び回って時間を稼ぐ。
向こうは鋼鉄の防弾チョッキを着ているのと同じ。いくらマグナム弾でも貫通はきつい。
そもそも、普通の弾丸は貫通用には作られていない。わざとひしゃげて衝撃を与えるようになっているのだ。
じゃあ、衝撃でぶっ倒そう――――人間の筋肉ならそれでいけるが、相手は昆虫である。人間大の昆虫の強さは想像を絶する。
あのちっこいアリなんぞ体重の百倍の重さを持ち上げられたりするのだ。体重六十キロの人間に換算すると六トン。いかに昆虫が強いか解ってくれただろうか。
いくらオレが霊力で強化した“魔弾”とはいえ、基礎能力に差があっては困る。
「さあて、どうするか。悪い魔法使いにやられっ放しじゃ白馬の騎士としてのプライドが」
あっ――――そうだ。
冷静になってみれば、このムカデ、悪い魔法使いに操られているんじゃないのか。
ジャケットコートの中からコンバットマグナムを一瞬で抜き、ムカデを牽制しつつストーカー野郎に狙点。
「ばきゅーん」
音速超過の弾丸が、観戦していた真田の腹に正確に噛みついた。
その一瞬、ムカデが身悶え、絶えずにオレを追っていた動きを急停止、コンテナの下に消えていく。
「ふむ? 呆気なくオレの勝ち?」
地上四メートルくらいから、腹を抱えて蹲る真田を見下ろす。
じわりと、悪い魔法使いの下の床に、赤い物が滲み出した。
「ふふん、楽勝だったな」
美奈さんを抱き上げる権利をゲット。
姉御のキスを受ける権利をゲット。
たったこれだけで手に入るなんて超お得である。
――――と、思ったら、真田が腹を抱えながらも妙な威圧感を持って立ち上がった。
「……このまま終わるのは、どうも話が美味しすぎると思ったんだ」
もう一度、真田に向かって狙点を合わせると、眼と眼が直視する。
「那須君。僕も、本気を出すよ。――――ぶっ殺してやる」
真田の手元には、何やらお守り袋。その中から、何か書かれた木の板を取り出し、
「蟷螂“如月”、解放」
ばきりと、音を立てて木の板が手折られた。
「蟲毒術外法……“死霊降ろし”」
美奈さんには見えないであろうモノが、オレにははっきりと視えていた。
木の板から飛び出した一メートルサイズのカマキリが、真田の体内に入った光景を。
やべぇ――――冷や汗が零れる。
俯いていた真田が顔を上げ、カマキリのように首を傾げ、両の腕を構えた。
オレの背後では、ムカデが再び這い上がってきた気配。
とどのつまり、悪い魔法使いは、自分に力の強い死霊を憑依して怪我を塞がせた上、死霊の能力を丸ごとゲット。さらに、宿主である呪術師・真田希一としての能力も失っていない。
急に、美奈さんと姉御のボーナス特典が遠のいた、気がした。
「さて、どうするよ?」
自問し、とりあえずする事を決めてしまう。
こんな所で美奈さんを巻き添えにするわけにゃいかんのだ――――逃げませう。
背後から襲ってきたムカデの牙を真田の方に跳ぶ事で回避し、真田がとんでもない跳躍力で合わせて来るのを、残った五発の銃弾の一斉射撃でなんとか――――
「っ……! そうそう上手く、いかねぇか……っ」
真田が空中で銃弾をかわしてのけ、オレの脇腹には空気が通り過ぎた感触。
続けて噴出す熱さと赤い液体を無視して、愛しのコンバットマグナムをコンテナに放る。
ごめんなさい――――姉御に謝って、地面に着地。
床に座り込んで呆然としている美奈さんを抱きかかえ、一目散にドアへと向かう。
脇腹から零れる熱い液体が、びちゃびちゃと床に落ちて泣き出した。
「んっ、んん……っ!」
美奈さんが首を振って何かを言う。
ごめん。ガムテープで塞がれてるから何言ってるかさっぱり不明だ。
ただ、美奈さんの瞳から涙が零れているんで、泣いている事だけは辛うじて解る。
泣き虫な人だ……。
ドアまで後二メートル。死ぬ気で走っているオレなら、後一歩で通り抜けられるはずだ。
「がっ……」
しかし、その一歩を踏む前に、真田の手刀が背中をばっさりと、斬りつけた。
「いっ、ぎぐっ!」
バランスを崩し、美奈さんを胸に抱きながら頭から壁に激突。
咄嗟に美奈さんを庇うあたり、オレって偉いかも……。
「あっ――は――ぎぃ……!」
だが、背中が痛い。頭が痛い。脇腹が痛い。
それぞれの部位に鉄の棒を突き刺して棒の両端を誰かがこね回してるんじゃないかってくらい痛い。
真っ赤に染まっていく床を見て、何となく思い浮かんだ言葉が、そのまま口から出た。
「死ぬ、かも」
続けて苦鳴が零れ、視界が涙で歪む。
自分史上、こんなに痛いのは初めてだ。
「無様だね」
美奈さんを抱きかかえて丸まったオレを、悪い魔法使いはそう嘲った。
「この勝負は僕の勝ち。美奈も僕のものだ。あんまり汚さないでくれるかな?」
鋭い蹴りが、オレの脇腹を抉る。
視界が一瞬暗転するほどの激痛。今、爪先が腹ん中まで入ってきた気がしたけれど、気のせいなのかどうか。
反撃したいが、飛び道具と呼べる武器がない。
マジで死ぬかも。
今度は心の中で呟く。
その反面、そう呟いて激痛に悶える心のもっと深い所で、何かが言う。
――――死ぬな。
そう言ってくれたのは、どこの誰だったか。
これって走馬灯なのかなと思ったら、姉御の顔が浮かんだ。
けど、実際には美奈さんが血に濡れた顔で脅えている。
もう良いよ――――美奈さんが、必死に瞳で訴えている気がするのだけれど、自意識過剰かな。
姉御と美奈さん。
オレの魂が最後になるかもしれない光景にチョイスした二人。
我ながら良い趣味をしている。
ポケットの中に手を突っ込み、背中を蹴り始めた誰かを内心で笑う。
――――美奈さんが勝利の女神だとこいつは言った。だが、何も女神は一人じゃない。
血塗れの手で、死ぬなと言ってくれた人の贈り物を朱に染め、悪い悪い魔法使いを振り返る。
――――オレには二人も、女神様がついている。
「“指弾”ってモン、知ってるか?」
吐血しながら囁いて、指で握り締めた贈り物を、全力で弾く。
姉御がくれた、煙草のお釣り。
五百円硬貨を親指で弾くと、甲高い快音を立てて――――渾身の“魔弾”が発射された。
「――――――――」
真田が咄嗟に横に跳び、コインを避ける。
が、血塗れの魔弾は、それだけで終わらない。
那須の血族の基本技――――狙った獲物は、絶対に外さない。
「おっ」
真田が直角に軌道を変えたコインを見て声を上げ、ぐちゃりと、眼球が潰れる音に遮られた。
際どい所だったが、女神の数で、オレの勝ちだ。
壁に背中を預け、腕の中の美奈さんの頭をぽんぽんと撫でる。
ごめん、美奈さんってばオレの血で汚れまくり。
「んっ、んんぅ……!」
ぐすぐすと涙ぐみ、美奈さんが必死に顔を捩っていたら、血で濡れたガムテープが剥がれた。
「つっ、ツバメ! バカァ! 帰って良いって言ってたのに!」
泣きながら、悲鳴みたいな声で怒鳴る人。
酷いなぁ、こっちは怪我人なのに。
「救急車、救急車だよね!?」
それは間に合うかどうか。段々痛みも失せてきているのだが。
「バカなんだから! なんか、色々と良く解んなかったけど、とにかくツバメはバカだよぉ!」
ジェントル燕としては、レディを助けるのは至極当然な事。
世界のジェントルメンは、レディに優しくするためにいるわけで。
ていうか、さっきから何か言おうとしているのに声が出てくれない。
やばいなー。
――――美奈さんの後ろで、真田がまた動き出してるんだよね。
片目潰れた悪い魔法使いは、その鎌みたいな手刀を振り上げ、
「美奈、どかないと君ごと斬るよ」
「っ!?」
咄嗟に、美奈さんがオレを抱き締めた。
――――何だかんだで、美奈さんも大馬鹿かと思われ。
「残念だな、少しお仕置きだ」
だが、ジェントル兼白馬の騎士兼クールな悪役も黙っちゃ居ない。全身の痛覚を無視、あらん限りの力で、右腕を持ち上げる。
脇腹から血が噴出し、ぞぶり――――右腕が、真田の手刀で半分くらいいった。
「バーカ……」
辛うじて、ストーカー野郎を嘲る、掠れる声。
「逆上して女を殺そうとする奴が、愛が故にとか、言ってんじゃねぇ」
左手に握った百円玉を、思いっきり、悪い魔法使いの残った眼球に叩き込む。
今度こそ全精力を使い切った。
下らない偽愛主義者がぶっ倒れる音を聞いて、溜息を一つ。
愛してるって事は、もっと、なんつーか――――無条件に優しい事だと、オレは思う。
オレを守ろうとして抱き締め続ける美奈さんは、その姿のまま、気を失っているようだ。
体が温かく、顔に押し付けられた美奈さんの感触が密かに嬉しい。
このまま死んだら、さぞ気持ち良かろう。
瞼を閉じよう――――としたら、三度、美奈さんの後ろに気配がある。
これは、ムカデ君だなぁ……。
もはや気力も体力もない。
仕方ないので、震える声で囁いた。
「姉御〜、助けて〜」
期待はしてないけど。
「燕、先走ってるか!?」
――――神様、オレは今日から貴方を信仰します。何教の神様ですか!
美奈さんの感触の向こう、姉御がムカデをぼこぼこにしている音が、美奈さんの無事を保証してくれる。
――――お母さん。
どうにか、人一人、守る事が出来たみたいです。
ごめんなさい。
貴女を、守って上げられない、親不孝な息子で……。
代わりと言っては何ですが、これからも、紳士的にクールな悪役、目指してみようと思っています――――
意識が、世界から断絶した。
Step UP
世界の眩しさが瞼を刺して、長らく寝ていたっぽい怠慢な意識を、優しく起こす。
「あ……ぅ?」
瞼を開くと、昨日の昼から今日の朝までたっぷり爆睡してたんじゃないかってくらい重かった。しかも、十四年間暮らした畳の部屋は、そこにはない。
「え、と……」
半眼で周囲を見渡せば、白いカーテンと白い壁。
どうも、病院っぽいですな。
「オレ、何してたっけ?」
寝癖のついた長髪を掻きながら、寝る直前までなんか色んな事をしていた気がしたが、
「ま、良いか」
こんな所で寝てるんだ、もう色んな事は終わっているだろう。
とにかく、腕やら頭やらに包帯が巻かれている上、体はもっと睡眠を欲している。
三十六計――――寝る事に決定。
布団をかぶり直し、瞼を伏せ――――
「あああああああっ!!」
すっげー思い出した。
――――美奈さん無事かしらっ!?
「悩み事がツラに出てるから応えるが、無事だよ。それよりお前、あんまり大声出すと、腹から血ぃ出るぞ」
ドアの方から、そんな凛々しい声。
「あ、姉御ぉ……」
陰陽寮所属退魔師が、いつもの格好で笑った。
「佐伯美奈の方はいたって無事だ。記憶操作系の術師が来て、きっちりと後始末しておいたよ」
「あ、そうですか」
そいつぁ良かった。万事解決って事だ。
「真田希一は死亡。ま、自業自得だ」
「そっすか……」
「残念だったな」
何が? と姉御を見上げると、
「美奈って子の事だよ。お前の大活躍を覚えてない。運が良ければ夢で見る事もあるかもしれないがな」
「あー、そうですなぁ」
でもまあ、怖い思いしなくて良いんじゃないだろうか。
あのでっかいムカデはオレでも寒気がする。キモイし。
と、姉御が可笑しそうに笑った。
「燕……なんか悟った顔してるな?」
「そうでせうか? 元々こういう顔なんですよ」
忌々しい親父の遺伝で。
「それより姉御、オレって全治どんぐらい? 学校があるんだけどさ」
「それは大丈夫だ。今日には陰陽寮の特殊医療員が来て、ばっちり治してくれるってよ」
「おぉ……流石は陰陽寮、保険会社が助かりますな」
「まあな、五体が欠けない限りは治るさ、安心しな」
それは良かった。さっきから右腕の感覚がないから正直焦っていたのだ。
「じゃあ、明日には元通りですなぁ……」
「ん、めでたしめでたしだ」
姉御が煙草を取り出して、化粧ッ気のない唇に咥える。
それで思い出した――――姉御の唇の権利。
「ねえねえ、姉御。病室で喫煙するっていうのはとりあえず置いておくとして」
「んぁ?」
「キスは?」
おぉ、と姉御は眼を開いて、手打ちを一つ。
「忘れてた。そうだったな、お前勝ってたもんな」
「頑張りましたからっ」
姉御のキスを励みに。なんたって勝利の女神だし。
「ま、約束は約束だな」
姉御は笑って、煙草に火を灯し、一服。
身を乗り出して、
「ほら」
オレの唇に、煙草をいれた。
「んぇ?」
「間接キスだ」
いや、まあ、そりゃそうだが。
「もっと期待してたか? 甘いね、だったらもっと余裕でストーカー野郎を倒しとけ、減点が多すぎだ」
あー、姉御って厳しい人ですね。
しょうがないので、間接キスで我慢しておく。これにしたって頬が緩むくらい嬉しいわけだしね。
姉御の香りの煙草を吸い込んで、
「げほっ、げふ、ぐはぁ……っ」
思いっきり咽た。
「あ〜ぁ、煙草に慣れてないのにいきなり肺まで吸おうとするから」
からころと笑う姉御の声が、酷く恨めしい。
――――ちくしょー、絶対に吸えるようになってやる。そしてカッコつけてやる。
煙草を片手に、つまらない事を決めながら窓を仰いだ。
窓の外、天の原の良く晴れる事、実に清々しく、青の中を若い燕が一羽泳ぎ飛んでいく。
いつか父親を超えるため――――明日からオレも、元気良く飛んでいこうと思います。
どうにも子供な自分ですが、お母さん、あんたの息子として恥じないように、紳士でクールな悪役にと、心にそう、決めている。
まあ、今週のオレを見る限り、ちょっとヒーロー役っぽかったけれど、
――――次回、来週に続く。
来週にはもうちょっとそれっぽくなる予定ですから、お楽しみに。
天の原の燕は、太陽に向かってはばたいた。