春の山の中に立って顔を上げれば、世界が花の香りに包まれている。

 瞼を刺す空の青さは、小さな桜の樹を抱くように広がり、その場に寝転がりたくなる衝動を引き起こす。

 笑う自分の傍らには、やっぱり笑う母の顔が――――夢の中で、夢の中にいるんだと自覚した。

 幼い頃の記憶の残滓、時を経た自分の懺悔。

「今年も、桜が綺麗ねぇ」

 お母さんが、穏やかに微笑んだ。

「そうだね」

 夢から覚めた自分の一部が悲鳴を上げるのを尻目に、昔の自分は答える。

 夢から完全に覚めたい――――でも、出来ない。

「もったいないわ。お父さんも来られれば良かったんだけど……」

「仕方がないよ。お父さんは困ってる人を助けに行ったんだから」

 お母さんは、物分りの良い息子に、とびっきりの微笑をこさえた。

「燕は、本当にお父さんが好きなのね。やっぱり、将来は退魔師になるのかしら」

 やめろ――――

「うん、オレは退魔師になって、お父さんよりもっと、人を助けるんだ。」

 違う――――

「そう。偉いわね、燕」

 お母さんの手が、頭を撫でてくる。

 そして、その天使のような微笑みの顔が、

「でも、燕」

 ずるり。柔らかい果物の皮が剥けるように、母親の皮膚は削げ落ちた。

「お母さんの事は、助けてくれなかったのね」

 それは、母が死んだ時の顔そのもので――――厳重に鍵をかけたはずの感情が、封印を抉じ開けて口を貫く。

 

 無音の悲鳴が、夢の中で轟いた。

 

二人の罪状

咎人は俯く 天からの裁きを畏れるが故

咎人は前を視る 己が罪を直視出来んが故

 

 二十一世紀――――とある四月に、秋瀬市警察署より。

 

 

 瞼を伏せた暗い視界は、想像する自分の右腕を明白に映し出している。

 ティーシャツをまくられた腕は、日夜の鍛錬の賜物か、筋肉質と言っても良い。

 その自慢の右腕に、全身の血液を集めるという強烈な想起。ただし、集める血液の色は赤ではなく、蛍光の青だ。何故なら、実際に血液を集めていく作業ではないのだから。

「んっ」

 知らず、力を込める声が唇から零れ、それをキッカケに、全身を流れる青のイメージが右腕に殺到した。

「そこだ!」

 凛々しい女性の声に、オレが心の中で右腕に火を落とすと、――――イメージの世界の闇を食い尽くす、朱色の炎の誕生だ。

「よし、良いぞ。燕、目ぇ開けてみな」

 若干の満足の混じったその声に、そろり、眼を開けると、

「おお、燃えてる! やった、出来た!」

 イメージ通り、自分の右腕が燃えている。もちろんオレ自身は熱くない。

 ガッツポーズ出来るくらいの嬉しさに視線を上げると、長身碧眼の美女が、火のない煙草を咥えて頷きを一つ。

「それが陰陽五行説、火行の基本“焔乃翼”って技だ」

 色素欠乏症(アルビノ)のような白い肌と、右目を隠す長い黒髪のコントラストが美しい碧眼美女は、名前を灰香燐。御年二十三歳で、オレは茶目っ気込めて姉御と呼ぶ。

 その姉御は、火のない煙草をオレの腕に押し付け、

「ただ、ちょっと火力が足りないな。もっと霊力上げてみろ」

 その足らない火力で煙草に火をつけた。やっぱりかっくいい人である。

「霊力上げてみろって言われても、加減きけばいいですが」

 むん、と気合いをいれ、さらに右腕に青のイメージ――――つまり、霊力を集中させたら、

「ファイヤーっ!?」

 小さな爆発音を立て、火が右肩まで上がって来てしまった。

「あちっ、熱くないけど気分的にゃあちいですよっ!?」

「おぉ、服が燃えてるぞ燕? 良い服だな、ユニクロ?」

 現状レポートするとっても冷静な姉御。やっぱりかっくいい人である。が、凄まじい勢いでこの火を何とかして欲しい。

「ちょっ、姉御! マジやばいですって、助けて〜!」

「慌てるな慌てるな、霊力をカットしろよ。その勢いだと髪まで燃えそうだ」

 ジーザス――――それだけは勘弁である。

 即座に右腕の青のイメージを消し、右腕を全速で素振り。それだけで、さっきまでの炎は、綺麗に消え失せた。

「あ、あっぶなぁ……チリチリパーマになるとこだった……」

 安堵の吐息は、しかしティーシャツが右肩まで焼け焦げるという代償付きである。高校生になる自分は金がないと言うのに。

「やるなぁ、燕。最初にしては見事な燃えっぷりだったぞ?」

「褒められてんのか貶されてんのか判断し難い発言は禁止ですよ、姉御」

 だがしかし、所詮他人事の姉御は実に楽しそうに笑う。ちょっぴり酷い人だ。まあ、その笑顔が綺麗だから良いけど。

 で、姉御は笑顔のまま煙草を咥え、

「まあ、実際には褒めてるよ。むしろ嫉妬してるくらいだ」

「ほう……嫉妬とは何故に?」

「あたしは火行を覚えるのにかなり時間をかけたんだぜ? それを一週間足らずで使えるようになったんだから、思わず首締めてやりたくもなるさ」

「そいつぁ怖いですなぁ」

 笑って、焼けたティーシャツを脱ぎながら続けて、

「まあ、オレはこれでも生まれつきの退魔師だし。姉御はそうじゃないんでしょ?」

「ああ、まあね」

 日本で言う悪霊払い、つまり退魔師には二種類いる。家系がそうであるもの、そして、後天的に個人が目指すもの。

 この島国に限って言えば、後者は圧倒的に少ないものだ。

 家系が退魔師でない者は、退魔師の存在自体知らないものだし、それを知る事はつまり――――姉御の、オレが何を考えているか見透かした瞼を伏せた笑みを見て、ゆっくりと、思考を止めた。

 頭を振って、とびっきり爽やかな笑みを一つ。

「んんっ、疲れましたな、姉御。ぼちぼち夕飯時ですかな?」

「そういやそうだな。今日はお終いにするか?」

「うぃ、そうしませう。悪いっすね、こっち来て毎日毎日付き合って貰っちゃって」

 姉御は、今度はしっかりとこっちを見て笑い、

「気にすんな。どうせあたしも暇なんだ」

 トンと、オレの胸板を叩く。

「服の上からじゃ解らないが、やっぱり良いガタイしてる」

「退魔師だから……って、腕相撲やって姉御に勝った事ないけど?」

「射撃手に武道家が負けてたまるかよ」

 言って、姉御は美観のある腕で握り拳を作ってみせる。

 トリック無しの腕力ならオレの方が強いのだろうが、霊力(トリック)で強化された腕力は、姉御の方が強いのだ。その上、格闘術まで混じるとオレは負け負けである。

 そんなんで、強さを欲するオレとしては、隣の隣の県にある地元からここ秋瀬市に引っ越して以来、毎日のように姉御を訪ねては鍛錬をつけて貰っている。今では、寸勁なんて技も使えるようになった。

「そういや、燕よ」

「ん?」

 姉御は、この警察署・秘密鍛錬室の唯一の出入り口である、不安調査課のデスクへのハシゴを上りながら振り返り、

「お前、明日が入学式だったっけ?」

「そーですが?」

 そうか、と姉御は頷き、

「じゃあ、もう昼間っからここに来る事はなくなる訳か……」

 何となく、寂しそうに言った。

 姉御――――この不安調査課、通称オカルト課、そんなに暇なんだろうか。

「また、中古屋から長期連載の漫画でも束買いしてくるかなぁ」

 オレが思うより、もっとずっとかなり暇ならしい。

 

■■■

 

 そして明くる朝、めでたく迎える入学式は、有難くも晴天に恵まれていた。

 アパートの窓から覗く青空に欠伸で挨拶をしてやり、洗面所で顔を洗う。

 鏡に映る、長い茶髪を首の後ろで一本にまとめたガキの姿。その姿に憎き父の姿をダブらせ、舌打ちが零れた。

 己が戒めを忘れないための、毎朝の日課ではあるが――――しんどい。

 ちなみに言うが、瞳の黒に銀を少量混ぜた色も、この茶髪も、染めたりカラーコンタクトを入れている訳ではない。全て、百パーセント天然モノだ。

 姉御の日本人離れした碧眼もそうであるように、退魔師なんて生き物は、往々にしてそういう特徴を持つ。曰く、魂の色が表出し易い部位、特に瞳・髪などには、異能の色彩が鮮やかに浮かび上がってしまうのだそうだ。

「ふう……」

 顔を洗い終え、頭を掻きながらリビングに戻り、ワイシャツと制服ズボンを取り出す。オレのセンスにはイマイチ合わないファッションである。

「どうせなら、私服オッケーの学校が良かったなぁ……」

 まあ、そこはそれ、金銭的項目が厳しかったのだ。

 世の中、お金の力ってのは侮れない。特に、真っ当な社会で生きていくとなると尚更である。

「人情より金銭の時代か、さもしいねぇ……」

 ズボンとワイシャツを着込みながら、ガラにもなく現代社会を嘆いてみたりもする。だからと言って、戦前やら江戸やら平安やら縄文やらの時代に逆行してみるかと問われれば、速攻でノーサンキューのファイナルアンサーだ。

 薄情社会の万歳三唱ぐらいまでなら喜んでする。

 世の中、理想じゃ渡っていけないって事。

 さもしいねぇ――――と、明るいチャイム音が鳴った。

「は〜い、鍵は開いてますよ」

 ワイシャツのボタンを止め、小さく隙間の開けられたドアに歩いていったら――――ひょっこりと、

「燕さん?」

 セーラー服の女の子が顔を出した。

「あれ、紗枝ちゃん。どったの? ああ、いやいや、おはようございます」

 礼儀正しく頭を下げる。子供の教育は、年上が見本を見せる所から第一歩なのだ。

「あ、おはようございます。ごめんなさい、つい……。それで、えっと、お父さんが」

「黒井さんが?」

 黒井さんとは、フルネームで黒井大枝(たいえ)。ここ、黒井アパートメントの大家様というボスキャラだ。そして、この可愛らしい紗枝ちゃんは、その娘さん。中学二年生になるそうだ。

「うん。お父さんが、燕さんと一緒に登校しなさいって……」

 そいつぁ助かる。正直、まだ高校までの道程はあやふやで――――って、

「紗枝ちゃん、オレ高校生だよね?」

「え、うん」

「紗枝ちゃん、キミ中学生だよね?」

「うん」

 こくりこくりと頷く紗枝ちゃん。ほのぼのと可愛いなぁ。だがしかし。

「紗枝ちゃん、中学生と高校生が一緒に登校出来るの?」

「出来るの」

「何故に?」

「お隣さんなの――――学校が」

 驚愕の新事実だった。

 

 そうして、紗枝ちゃんとの通学路。

「そういえば、受験の時、隣に学校らしき建物があったっけねぇ……」

 頭を掻きつつ隣を見れば、紗枝ちゃんは内気そうな顔に微笑を浮かべた。

「気がつかなかったの? やっぱり、受験は緊張してた?」

「ぬ? まっさか! ワトソン紗枝ちゃん、そいつは間違った推理だぞ?」

「ふぇ……?」

「このクールの鬼、那須・燕が緊張なんてありえないのだ! 実はね、前日から秋瀬市に来てホテルに泊まったら、そこのホテルのベッドが寝にくくてね。寝不足だったのだよ」

 ぽん、と紗枝ちゃんのショートカットを撫でる。百四十センチぐらいの紗枝ちゃんは、凄く小さい。

「まだまだ甘いね、ワトソン紗枝ちゃん」

「ん、そんな事ないと思うの……私、そんなに頭悪くないと思う」

 恨めしげに見上げてくる中学生。妹や弟っていうのはこういう感覚なのだろうか。

 世間の兄や姉は、下の兄弟を邪険にしているようだが、オレには解らん。こんなに可愛いのに。

「それに、私は弓も下手じゃないの」

 下手じゃないのと上手なのは違うぞ、と思いつつ、へえ、と声を上げ、

「紗枝ちゃん、弓道部? 中学に弓道場なんてあるの?」

「ううん、ない」

 オイ――――と思ったら、紗枝ちゃんがにこりと笑って、

「ないけど、高校にはあるの」

「あ〜……お隣さんだから」

 納得。

「もしかして、結構部活での交流とかあるんだ?」

「うん、たくさんあるの。バスケ部とか野球部とかは交流試合とかしてるし、弓道部やテニス部なんかは、高校と中学が一緒にやるの」

「なるほどねぇ」

 横断歩道、赤信号を止まって前を向くと、紗枝ちゃんがクイクイと裾を引いて、

「今日も部活あるの。見に来る?」

「ん? ん〜……」

 無垢な眼差しで見てくる紗枝ちゃん。ジェントルマンを名乗るオレとしては、放射線と互角に危険な視線だ。

 ――――ど、どうするかなぁ……。

 正直、弓道部には興味ない。

 弓を射る事は好きだ。クソ親父のいる実家の弓道場では、朝から日暮れまで射続けた事もある。ただ、そのクソ親父が大嫌いなのが一つ、その他諸々の理由があって、人が居る所で弓を射る事はしないようにしているのだが……。

 クイクイと、また裾を引かれた。

「来ないの?」

 断ったらギロチン台にのぼらされそうなくらい残念そうな顔が、そこにある。ていうか間違いなく、これを断るのは世界的犯罪、過激テロリストも真っ青だ。

「あ、いや……そっ、そうだねっ」

 ――――ま、まあ、見ているだけなら問題ないだろう。

「よかろ、見に行くよ」

「あ……」

 紗枝ちゃんは、内気そうな顔一杯に嬉しさを浮かべ、

「うんっ」

 屈託のない笑顔。とても可愛い、最高の表情だと思う。

 貴方が一番好きな物は何か――――そう問われたら、オレは即答出来る。

 それは、原感情そのままの気持ち。

 人目も体裁もなく、時に醜いくらいに美しい。その素直な思いの表現こそ、オレにとっての最高峰だ。

 あんまりに最高の表情だったので、ぽんぽんと、二回紗枝ちゃんを撫でる。

「グッドスマイル、ジェントル燕のお墨付きだ。その笑顔なら、アカデミーモノの女優だって目じゃないさ」

 信号が青に。歩き出したオレと照れ臭そうな紗枝ちゃんの後ろから、セーラー服を着た女の子二人が小走りで追い抜いていく。

 紗枝ちゃんと同じ中学かな、と思ったら、二人は振り返り、

「サエサエ〜! そのカッコ良い人、彼氏〜!?」

「年上ってあたしも好き〜、クラスついたら紹介しなさいよ!」

 あははは〜と、二人は駆けて、というか逃げて行く。

 へえ――――隣では、紗枝ちゃんが真っ赤になって、あたふたとオレに向かって手を振っていた。

「紗枝ちゃんって、サエサエって呼ばれてるんだ?」

 笑ったら、紗枝ちゃん、もといサエサエは、こくこくと首を縦に振っていて、とてもとても愛くるしい。

 ――――こういう妹なら欲しかったかなぁ……。

 

■■■

 

 入学式を終えた昼近く、クラスでの教師と生徒の自己紹介も終えて、オレはすこぶる不機嫌だった。

 どれぐらい不機嫌かというと、心の中の『生涯許すまじリスト』にストーカー真田希一に続いて人間が登録されるぐらい。ちなみに、真っ先に登録されたのは親父だ。

 今回登録された名前は芦屋勝。ここ秋瀬高校の生徒指導部長で、入学式の前にオレのナチュラルビューティーの茶髪を掴んで引っ張った男である。

 忌々しいしゃがれ声の第一声が「なんだその髪は」で、次が「黒く染めて来い」だった。

 オレのこれは天然茶髪で、長髪は校則で認められている。怒られる理由は微塵もねぇのであるが、その後、式典最中の生徒指導部長のスピーチで、高らかとオレの名前が名指しされた。

 もはや一年でオレの名前を知らぬ者はおるまい。

 クラス担任は、オレの天然茶髪を良く理解しているらしく、気にするなとフォローしてくれたが、それでも腹立ちは納まらない。

 それに、聞く所によれば三年にも金髪君がいるそうで、それも天然金髪らしい。

 ――――多分ではあるが、その三年も異能者だ。そのうち、チェックつけなければなるまい。

「くっそー……あの生徒指導、今に見てやがれ……」

 性質の悪い悪霊・魔物に襲われていても、絶対に助けてやらない事を心に誓う。しかも三度。良いのだ、ジェントルだけどクールな悪役を目指すオレは。

 ついでに丑の刻参りでもしたろか、などと呟きつつ校舎の裏に回ると、矢が的に当たる音と共に、弓道場が現れた。

「へえ、結構立派ですなぁ」

 力の抜けた吐息が一つ。

 弓道場の空気に、すぐに不快感が消えて行く。

 流石は神を奉る道場、人の気分へと及ぼす影響は絶大だ。それに、一週間ぶりに聞く弦の音は、思いの外に気持ちよかった。

 その事に微苦笑しつつ、一礼して道場に。

 まだ本格的に始めてないのか、ちらほらと見える袴姿の部員と、様子見に来た新入生の姿。

「あ、燕さん」

 そして、袴姿の紗枝ちゃん。

「や、紗枝ちゃん。ううん、似合ってるね、そのカッコ」

「そ、そう……?」

 ちょっぴり頬を染める所なんか最上級と思われる。

「まだ、練習始まってないみたいだね?」

「あ、うん、そうだけど……今日は新入生がいるから、先生が来ても多分練習はしないと思うの」

「ああ、新入部員獲得に走ろうと……ていうか、中学と高校の両方が一度に入ってくるからか」

 こくりと紗枝ちゃんが頷いた。

 見学が多いと練習どころじゃないのだろう。

「大変そうだね、先生ってどんな人?」

「燕さんも良く知ってる人なの」

「オレが? でも、オレは越してきたばっかだよ?」

 訝しげにするオレに、にこりと彼女は笑って――――笑ったまま、後ろから女の子二人に抱きつかれた。

「サエサエ〜、何してるのかにゃー?」

「先生が来てないからって、シンセーなる道場に彼氏を連れ込んでイチャつくなんてー」

 あ――――朝に会ったあの二人組み中学生。

「ち、違うの、イチャつく、なんてぇ……! そそ、それに、彼氏じゃないのぉ!」

「またまた、照れちゃって」

 二人組みは笑って、オレを見る。

「そこんとこはどうなんですか、ツバメ先輩?」

「あ、名前聞いたんだ? ふむ――――ジェントルなオレにとって紗枝ちゃんは……」

 どうするかなーと一瞬考え、爽やかな微笑みを一つ。

「とても一言では語れない存在かな」

 ほら、名前言うだけでも“黒井”と“紗枝”だし。

 そしたら、女の子二人はキャーとか言って紗枝ちゃんを抱きしめたまま大はしゃぎ。やっぱりこの年頃には、この手の話題が良い娯楽らしい。

 ひとしきり、二人組みは真っ赤な顔の紗枝ちゃんで遊んでから、今度はオレに絡み始めた。

「ねえねえ、ツバメ先輩。部活はどうするんですか? 弓道部はいかがですかぁ?」

「いや、オレはバイトしなくちゃいけないのだ。だから、定期的にある部活にはちょっとね」

「あ、それなら大丈夫なの」

 と、ちょっと疲れ気味の紗枝ちゃんが襟元を直しながら、

「先生は学校の教員じゃなくて、外から経験者を呼んでる状態なの。だから、本当に部活がある日は、学校が休みの一日か二日くらいだから」

「げ……。この弓道部、これだけ立派な道場でありつつ、実はあんまり使われてない?」

 こくりと頷く紗枝ちゃんプラス二人組み。

 すっげーもったいない話である。しかも、「外から経験者」って事は、師範とかじゃないっぽい。

 大丈夫かこの部活。

 と、クイクイと裾を引っ張られた。視線を下げると、紗枝ちゃんだ。

「燕さん、少し弓、引いてみる?」

「いや、あのね、紗枝ちゃん……」

 微苦笑。

「きちんとした経験者もなしにそんな事言っちゃ駄目ですよ。弓ってのは危ないのです。弦の引き方を間違えると、耳を削ぎ落とす事だってあるのだから」

 この台詞をオレに教えたのは、どこの誰だったか――――クソ親父か。

 忌々しい事を思い出したので、首振りを一つ。笑みをこさえる。

「つーわけなので、オッケー?」

「う、うん……。でも、燕さん……経験者なの?」

 ――――バレた。

「ん〜……まあ、ちょびっと」

「やっぱり! 燕さん、言い方が先生と一緒だもん」

 はい、と紗枝ちゃん、さらに弓をオレに差し出す。

 紗枝ちゃんの期待に満ちた眼差し。その上、二人組み――聖ちゃんと茜ちゃん――の視線も加わって、もはや放射線を超える威力。

 ジェントルとして引けない状況にされてしまった。

「じゃあ……ちょっとだけ……」

 それに――――どんな気紛れかもしれないが、何だか久しぶりに弓を引きたくなってきたようだ。

 

External storage

 

 燕さんは、私――――黒井紗枝の手渡した弓を持ち、静かな足取りで的に向けて体を整える。手には、二本の矢。上級者のする持ち方だ。

 その姿を、少し離れた位置に下がった私は、息を呑んで見つめた。

 脇に並んだクラスメートの二人も、興味津々といった風情。

 そんな私達を余所に、燕さんは、いつもの表情で深呼吸をして、その顔を変えた。

 

 私が、見た事のない顔。

 

 いつも、自分は秘密兵器を持っているんだ、という顔をしている燕さん。そんな人に初めて会ったのは、つい二週間前の事。

 アパートの隣の一軒家で、その日、休日だったお父さんは、美奈さんが連れてくるという入居希望者を待っていた。

 私はといえば、お父さんと一緒にリビングにいながら、その入居希望者が来たらすぐに二階に行こうと思っていた。

 人見知りな自分。例え同じ女の人でも、初対面からいつも通りに会話出来た事はない。

 そんな情けない自分が嫌いで、だから、初対面の人とは少し距離を置くようにしている。

 けれどその日、美奈さんと一緒にやって来た燕さんに、私は、普段からは考えられないほど興味を持ってしまう。

 まず、お父さんと玄関で話す所からおかしかった。

「どうも、那須燕です」

「黒井大枝です」

 燕さんは、右頬に傷跡を持つお父さん――私が言うとお父さんは泣くのだけれど、ヤクザさんに見える――を見て、

「おわっ」

 驚き。

 次にお父さんの笑顔を見て、

「インパクトの強いお人ですなぁ」

 笑った。

 新聞勧誘ですら一言で追い返してしまうというお父さんに、そんな反応をした人を初めて見た。

 お父さんも、その反応に少し面食らいながら、微苦笑を返す。

「やっぱり、傷がアレかな?」

「いやいや、その笑顔がですよ。見える見えないを問わず、傷っていうのは人を捻じ曲げます。黒井さん、ご立派ですよ。そんな傷を抱えて、そんな優しそうに笑うなんて」

「……そんな風に言われたのは初めてだな」

 照れ臭そうにお父さんは頬を掻き、

「まあ、一重に娘のおかげだ。顔の傷も忘れさせてくれる子だから」

「ええ――――家族ってのは、そうでなくちゃいけませんな」

 中学校を卒業したばかりだと聞いたのが、これっぽっちも信じられないほど大人びいた言葉遣い。

 リビングから二階に行こうとドアを開けた所で硬直したままの私を、燕さんは見つけ、また笑う。

「黒井さんご自慢の天使様?」

「え、ぁ……あの……あ……」

「ああ、すまない。娘の紗枝だ。少しあがり症で……」

 燕さんは肩を竦め、

「ああ、そりゃ、オレみたいなクールな悪役が来たら緊張しますよ。さらわれるのはいつだって美少女だし。ねえ?」

 ねえ、と言われても困る。

 私はさらわれた事もないし、そんなに綺麗だと言われた事もない。

「まあ、紗枝ちゃんの事はさらわないから、安心して良いよ。でも、あと何年か経つと保証できないかな。黒井さんも、美少女から美女になると思うでしょ? オレみたいな悪い虫がつかないようにしなくちゃねぇ」

 からころと笑う燕さん。

 明るくて、親しみ易くて、自分を悪者にする事をちっとも厭わない人。

 出会ったその日のうちに、顔を向かい合わせて笑う事が出来たのは、その人が初めて。

 

 その人の顔から、表情が消えた。

 

 背筋が、私の意志とは無関係に震え、脚が一歩後ろに引かれる。

 燕さんがしている事は、極々普通の事。

 八つある射法に従い、足場を整え、体の重心を安定させ、矢をつがえて的を視て、弓を持ち上げ、弦を引き、引き絞り――――

 ただそれだけ。

 なのに、私の体はどこで覚えたかも知れない恐怖を感じた。

 射手の顔は、全くの無表情。

 射法八節と呼ばれる動作は、見惚れるほど滑らかで、機械的に正確。

 そして、その瞳に宿る強烈な意志。

 指先から、矢が解き放たれる――――私の知らない燕さんの指先から。

 矢は、一直線に的の真ん中、

「外した」

 真ん中の、やや上部に突き刺さった。

 弓道のルールで言えば外した事にはならない一矢を、燕さんは無表情に眺め、二つ目の矢を構える。

 一度目と変わらない、機械的に正確で、明確な意思を宿した動作。

 その瞳から眼を離せず、私は悟った。

 黒に銀の混じったその人の眼は、猛禽類に似て鋭く、彼等の殺意を持っている。

 ――――機械の正確さと、獣の殺意を持って……それでなお道具を使う生き物。

 第二矢が、吸い込まれるように的のど真ん中に突き刺さった。

 見ていた部員から上がる歓声の中、心を放った(しゃ)に残す――――残心を完璧にこなしている燕さんは、理想的な姿勢のまま、微動だにしない。

 聖ちゃんと茜ちゃんが興奮して歓声を上げるのを、どこか遠くで聞きながら、私は、私の本能が怖がった燕さんの射を、頭の中でひたすらに見つめていた。

 それほど――――その人の射法は、完璧だった。

 

 

 どれくらいの間、呆然と燕さんの射を思い出していたのか。

 肩をぽんと叩かれ、私は身を震わせた。

「紗枝ちゃん、どったの?」

「え、あ、あの……」

 なに? と首を傾げる燕さんは、いつも通り、秘密兵器を持っていそうな顔をしている。

「え、えっと……」

「大丈夫? 立ちくらみでもしてた?」

 慌てたまま口走ろうとして思い直し、深呼吸を一つ。

「うん、大丈夫……。あの、でも、凄いの……いきなり二つも当てるなんて」

「まあね、久しぶりにやると調子が良いもんだよ」

 燕さんは肩を竦めて笑うが、あれは調子が良かったというレベルで出来るものではないと思う。

 私がそう言おうと思ったら、道場のドアが開いて、先生が入ってきた。

「お待たせ〜。ごめんねぇ、最後の講義が長引いちゃって」

 その人はブラウンがかった黒の瞳と、黒髪外跳ねのセミショート、明るい笑顔とお姉さんみたいな性格で、中高どちらの部員からも人気のある、現役大学生。

「あ、今年は新入生も結構いるんだ。よろしくね」

 先生は、つい最近悩み事が解決したばかりの笑顔で頭を下げて、名前を名乗った。

「特別講師の佐伯美奈って言います。えっと、秋瀬学院大学の三年してるの」

 すでに顔見知りの私は笑って、傍らを見上げてみる。そうしたら、あちゃー、と声を出しそうな表情で頭を掻いている、燕さん。

 ――――まあ、アパートの隣室のお姉さんが、いきなりこう来たらそうなるのが普通なの。

 美奈さんも道場を一通り見回して、こちらを発見。

「あれ〜? あれれれ〜?」

 にこにこ笑顔の美奈先生は、新旧問わない部員の視線を集めながら、私と燕さんに歩み寄って、

「ツバメじゃない。どうしたの、部活に入るの? しかも弓道部? 良いわよぉ、ここの弓道部はっ」

 ぽんぽんと、燕さんの肩を叩く。

 叩かれた燕さんは少し顔を反らして、ぼそぼそと呟いた。

「あー、いえ。今日は様子見って言うか度重なる不運と言うか……放射線がちょっと」

「放射線?」

「いや、何でもないです……がっ、しか〜し! なんで美奈さんが弓道部の特別講師!?」

 燕さんは、意外と小さな事を気にする人。

「燕さん、仕方ないの。この学校だと教える人がいないし、部費もそんなにないからきちんとした講師の人を呼べないの」

「あ〜、紗枝さん、酷いわよ。わたしじゃ不満?」

「え、あ……ふ、不満じゃないの」

 ふるふると首を振ると、美奈先生はよろしい、と大袈裟に頷いて微笑む。

「まあ、とにかく色々あるのよ。それに、わたしは秋瀬中学と秋瀬高校の両方弓道部のOBで、大学でも弓道サークルに入ってる。キャリア九年になるのよ?」

「は、はぁ、美奈さんって凄かったんですなぁ……」

「うん、そうよ」

 ビシッと親指を立てる美奈先生。

 燕さんと居る時の美奈先生は、いつも楽しそう。

 そうして、楽しそうな美奈先生は、的に刺さった二つの矢を見つけて、眼を丸くした。

「あ、何あの二本。ねえ、紗枝さん。あれ、誰が射ったの? 凄いわね、一つが真ん中で、もう一つがその真上……体が真っ直ぐで、姿勢が綺麗じゃないとああはならないわ」

 流石は美奈先生。見ただけで解っている。

 私は無言で、燕さん――必死で顔を逸らしている――を指差した。

「うそっ、ツバメが!?」

「あ、ちょっと、いくらなんでも嘘は酷いのでは?」

「あ、ごめんごめん。でも、本当に? あんなの、私でも出来ないわよ」

 う〜ん、と燕さんは唸りながら、頭を掻いて、でっかい溜息を一つ。

「白状すると……実家に弓道場があるんですよ。ほら、オレの苗字って那須でしょ? 那須与一の那須」

 “那須与一”――――凄い名前が出てきたの。

 それは、日本史に名高い源氏と平氏の物語、『平家物語』の登場人物。海上に浮かべられた小船の上の扇を、浜辺から射抜いた伝説を持つ、日本で最も有名であろう弓兵だ。

「燕さん……那須与一の、子孫なの?」

 もしも、そうだったら――――

「うんにゃ、全然違うけど?」

 ――――ズッコケなの。

「ツバメ……じゃあ、なんで那須与一の話なんて……」

「だからさ、オレの何代前かは知らないけど、とにかくお茶目なご先祖様の一人が、同姓なのを洒落に弓道場を作っちゃったらしいんだよね。ミニチュアならともかく本物の」

 美奈先生と二人で絶句。

 しかし、心のどこかで納得した。美奈先生も同じらしく、渋い顔をしながら頷いて、

「物凄く面白いフィクションだけど、ツバメのご先祖様だと思うと不思議とノンフィクションなんだって解る。だから笑えないね……」

「それって、どういう事でせうか?」

 燕さんも渋い顔をして、私達を見てきた。

 

Internal storage

 

 那須燕、つまりオレは、何だか妙な誤解を受けている感覚を引きずりつつ、かなり上手だからって事を理由に、美奈さんと一緒に教える事になってしまった。

 まあ、一日くらいはどうって事ないんだが。

「燕さん、私はどうして的に当たらないと思う?」

 そんな事聞かれても困る。

「的に当たらない理由って言われてもなぁ……」

 人に教えるのは、苦手分野だと思うのだ。

「まあ、そうだね……。紗枝ちゃんの場合、経験も筋力も、まだ不十分なんだよ」

「筋力も、なの?」

「うん、弓を引き絞る時、つまり引き分けの時だね。ちょっと体の軸がぶれてる。もうちょっと弱い弓を使うべきかな」

 ふぅん、と紗枝ちゃんは頷き、その場で弓を引いて試している。

 こんな調子で当たらない理由を聞かれるんだから堪らない。元々、オレは礼儀作法なんて関係なく一日に何百本も射続けて、精度を手に入れたのだ。経験と筋力が足らんとしか言いようがない。

 それに何より、偉そうに人にモノを教える柄じゃないし、教えられるような立派な人間でも――――

「すいません、遅れましたっ」

 勢い良くあいたドアから、そんな声が飛び込んできた。

 ちらりと視線をやると、物凄い派手な男。髪染め禁止のこの高校において、自分以外の黒髪じゃない男がいる。

 しかも、金髪だ。

「あ、部長、お疲れ様です」

「遅かったのね、月弥(つきや)君」

 紗枝ちゃんと美奈さんの声。あの髪で部長なのか。

「あ、美奈先生、すみません。ちょっと式場の後片付けで……しかも生徒指導に捕まっちゃって」

「またあの魔猿(まえん)に捕まったの? 災難だったわね」

 微苦笑の美奈さん。魔猿とは、どうやら生徒指導部長の事らしい。芦屋マサルだからか。

「まあ、この学校で唯一、黒髪じゃないですし」

「あ、月弥君。残念だけど、その称号は今日で返上になったのよ?」

「返上、ですか?」

 で、美奈さんはオレを指差す。いけない人だ、指差しはマナー違反である。

 ともかく、金髪君はオレを見て、驚きのリアクション。

「うわ、茶髪!?」

「あんたは金髪ですがな!」

 反射的にツッコミを返しつつ、金髪君を眺める。

 全体を見る限り、かなりの美形の部類に入るだろう。百八十近い長身に、整った顔立ち、その上、金の短髪と、瞳も黄金色というゴージャスさ。

 しかし、何よりオレが良いなと思うのは、その柔和な表情だ。気弱と取る奴もいるだろうが、優しい雰囲気がした。上に立つ人間には向いていないかもしれないが、上に立って欲しい人間の顔。

 と、オレの心中を察したのか、紗枝ちゃんが袖をクイッと引っ張って、小声で、

「月弥部長は、入学当時からミスター秋瀬高……つまり、人気投票の男子ナンバーワンなの」

「ほ〜う……」

 金髪君の品定めを終え、とりあえず片手を差し出す。

「那須燕ってんです、生徒指導部長は頭かったいですな?」

「あ、どうも、水掛月弥です。ええ、かったいんですよ」

 優しそうな、というか上品な微苦笑を浮かべ、金髪君は頷く。

 それから、オレの茶髪を見て、瞳を見て、

「燕君も、それは生まれつき?」

「うぃ、一応そうだと聞いてるし、そうだと信じてる。うちのクソ親父が同じなんで」

「そうですか……」

 金髪君の表情は、少しこちらを警戒するものだ。

 ふむ――――こいつ、間違いなく異能者、オレと同じビックリワールドの人間だ。

 オレもそうだが、生まれついで異能を持つ者は先天性魔術保持者(サイキッカー)と呼ばれる。

 後天的に異能を修める者と違い、初めから異能を行使出来る特異な存在。西洋よりも東洋に多く見られる人種で、殊に、閉鎖された空間ゆえか、この島国でのサイキッカーの比率は世界的に有名だ。

 そして、サイキッカーには二種類いる。自分の異能を自覚しているか、いないか。

 この金髪君、水掛月弥は、自分の異能を自覚しているタイプだ。だから、オレを見て少し警戒した。

「まあまあ、そんな警戒しなくても大丈夫さ」

 笑って、

「別に、あんたをどうこうしようと思ってないから」

 ぽんと肩を叩く。

「燕君、君は……」

「今度、ゆっくりお茶でもしましょうや」

 こういう異能者をチェックするのも、異能者の仕事の一つなのだ。

 

■■■

 

 部活も終わり、紗枝ちゃんと美奈さんと一緒の帰宅。アパートのすぐ途中までは、金髪君も一緒だった。

 しかも、皆で仲良く徒歩。なんでも、弓道部の方針なのだとか。

 そして、アパートの隣で紗枝ちゃんは黒井家に到着。オレと美奈さんは、黒井アパートの二階へ上がり、それぞれの部屋に行こうとしたら、

「ねえ、ツバメ」

 なんて呼び止められ、

「パーティーしない?」

 なんて突飛な事を言われた。

「パーティー……デスカ?」

「うん、たこ焼きパーティー」

「たこやき、デスカ?」

 そんな珍妙な名前のパーティーは初めて聞く。まあ、内容は大体予想がついたけど。

「この街の西と東を繋ぐ橋の所にね、凄く美味しいたこ焼き屋さんがあるの」

 にっこり。美奈さん、今まで見せた事がないくらい幸せそうな笑みを浮かべる。

「へえ、たこ焼き屋……そんなに美味いの?」

「もう、すっごく美味しいの! わたし、修学旅行で大阪のたこ焼きを食べ歩いたけど、それよりも美味しかったんだから。わたしびっくり」

 オレもびっくり。修学旅行で一体なんつー事してるんだこの人。

「竹屋っていう屋台なんだけど、どう? ツバメ、食べたいよね? ね? だってすっごく美味しいんだもんね?」

 いえ、ジェントル燕はまだ食べた事はないのですが――――何て言ったらぶつ切りにされてたこ焼きの具にされそうなので大人しく頷いておく。

 そしたら、美奈さんはもう、この世の幸せはわたしの物〜みたいな顔で親指を立ててきた。

 その原感情剥き出しの笑顔に、しばらく見惚れる。

「決まり! じゃあ、わたしちょっと買って来るから、待っててねツバメ!」

「あ、オレも行くよ? 一人じゃ危ないですもんね」

「ダメダメ、今回はツバメがゲストなんだから、下準備とかしちゃダメー」

 ダメー、と腕をクロスさせる美奈さん。ハイテンションぶりが可愛いなぁ。

「でも、ダメーと言われても……もう大分陽が沈んじゃってるよ?」

「大丈夫だってば、少しはお姉さんの言う事を信じなさい。わたし、車で買いに行くもの」

「あれ、車持ってたんだ?」

「うん、大学に入る時に免許取って、一年の時にバイトして貯めたお金でね」

 だから駐車場有りのここに住んでるのか。

「そっか……んじゃあ、大丈夫かな。交通事故に気をつけて下さいな」

「あはは、そうだね、気をつける」

 美奈さんは笑って、弓を玄関に置いてすぐに階段を下り出す。

「先にご飯食べてたら怒るからねー!」

「だいじょーぶです。カップラーメンしかないですからー」

「あはは、解ったー」

 美奈さんが駐車場に消えるのを見て、自分の部屋のドアを開ける。

 ベッドと服、それからテーブルが置いてあるだけの殺風景なリビング。多分、これ以上の小物も増えないと思う。

 元から、漫画やらゲームやらを買う方じゃなかった。

 暇さえあれば鍛錬鍛錬、その割に成長が遅いのは――――クソ親父に素直に師事出来なかったせいだ。

「ガキだな……」

 ――――ごめんなさい、お母さん。

 溜息を吐いて、鞄を放ってベッドに腰を下ろす。

「その分、姉御からは吸収しないとな」

 やっぱり部活には行けない。たまになら良いが、姉御の所に行くのがオレにとっての義務だ。

 ベッドに二つ置いてある枕の内、赤い方を手に取って中身を開ければ、申し訳程度のクッションと、二つのウェストポーチ、それから黒金のリボルバー。

 このリボルバーは、コンバットマグナムと呼ばれるS&W社製M19の後継機、M686。耐久性と命中精度がM19より高くなっている名銃なのだそうだが、オレにとってはそんな事はどうでも良いのである。

 オレが欲しいのはM19。でも手に入らなかったからM686で我慢しているだけ。姉御が持っているM19がいつか欲しい。

 とはいえ、このリボルバーが嫌いかと言われれば、大好きだ。

 初めて手に入れた本物の感触。

 真っ暗なブラウン管に銃口を向ければ、鏡写しになった自分の像が――――嫌に無表情に、銃を構えている。

 どうやら、自分ではそんなつもりはないのだが、オレは狙点を定める時に酷く冷静で――――ケータイが鳴った。

「ええっと、この音は……姉御だな」

 通話ボタンを押すと、姉御の凛々しい声がいきなり、

『すぐに仕度だ、戦闘用』

 剣呑な言葉を吐いた。

「なんすか、いきなり?」

『珍しい本部からの連絡だ。“先見”の能力者がここで異常が起こる事を感知した』

「へえ、本部が?」

 本当に珍しい。

 皇居にある陰陽寮の本部は、滅多な事がない限り地方に指令を出したりしない。主に、地方からの援助要請を聞きうける部署なのだ。

 例外として、“先見”の能力者、つまりは予知能力者が異常を先読みした時、その指令が出されるのだが。

「先見の能力者って、些細な事件も察知したっけ?」

『いいや、しない』

「だよね」

 ジャケットコートを羽織り、ウェストポーチをベルトに引っ掛ける。

「で、どんな大事?」

『民間人が襲われる』

「何人?」

『一人だ』

 ジャケットコートにリボルバーを突っ込んで、玄関に向かいつつ、

「その民間人は、どっかの国の要人ですかい?」

『いいや、至極普通の市民。そこが解らないんだが……先見は些細な事件を察知しないはずなんだが、今回は些細な事件のようだ』

 そういう事もあるのかな、と思い、玄関を出る。

「で、どこに行けば良いんでしょ?」

『まずはお前のアパートの屋根に上れ』

「上れって……まあ、良いですが」

 軽くジャンプして手すりを蹴り、屋根を掴んでそのまま逆上がりの要領で屋根に着地。

「運動神経抜群ですな」

『何一人で感心してんだ馬鹿』

「あ、聞こえた? まあまあ、そいで、次は?」

『そのまま月に向かって走れ』

 月――――蒼い薄衣を羽織った夜空には、美しい上弦の三日月。

 良い月夜を走り出せば、花の香混じる風の感触が、鼻腔をくすぐる。

「姉御」

『あん?』

「今度、花見でもどうでせう?」

 電話の向こう、姉御も車で走っているのか、スピンの悲鳴が聞こえてから、

『良いねぇ、それ。やるんなら呼んでくれ、酒持ってくよ』

「是非」

 ケータイを切って、屋根から屋根へと飛びながら、懐からリボルバーを取り出す。

 いくら探知能力が低いオレでも、ここまで近づいたら解った。

 やたら広い庭を持つ屋敷の中に、春の清々しさに似合わぬ気配。

 一つ大きな跳躍を入れて、その庭に着地する。花の香り、桜の花びらが漂うという見事な趣味の庭に、一メートルにもなる巨大な蜘蛛が――――つい二週間前、これと同じのを見た事がある。

「民家のど真ん中に出やがって!」

 即座に発砲しようとして、蜘蛛の前に人影が飛び出てきたのを視認した。

 金の短髪を持つというど派手さと、その長身。

「金髪君!?」

 咄嗟に出た驚愕の叫びに、

「え――――?」

 のんびりと、金髪君は振り返りをくれやがった。

「ばっ!」

 馬鹿野郎も馬鹿野郎の最上級。殺るか殺られるかのこの状況で、なんてクレイジーな動作しやがる。

 反射的に、硬直させていた射撃動作を再開、六発を蜘蛛の右前脚――――ただし蜘蛛の体も硬いので、関節にきっちりと叩き込み、粉砕して千切る。

「良いから金髪君! お前も能力あるんなら使って撃退しろバカチンがぁ!」

 襲われる民間人ってあいつの事だったのか。民間人ではあるが一般人ではないのがミソだが。

「ば、バカチンって……ていうか、金髪君?」

 金髪君こと水掛月弥は、なんだかすげー納得いかなげに首を傾げ、左手に霊力を集中させる。

 一体どんな能力を持っているのだ金髪君。

 弾倉の中の排莢を捨て、手っ取り早く装填する弾入れ(スピードローダー)で再装填。したら、蜘蛛がいきなり口から糸を吐き出してきた。

「うおっ!?」

 ジーザス――――近くの金髪君じゃなくてオレを狙うとは予想外だ。

 こうなったら糸は喰らうしかないので、姉御直伝の燃える鉄拳の出番か。

「燕君!」

 と思ったら、カッチョ良い動作でオレと糸の間に入ってきた金髪君。左手を前に突き出して、淡く輝く巨大な円を顕現、盾のように蜘蛛の糸を受け止める。

 だが、蜘蛛も負けていない。糸と同時に全速前進、強烈な体当たりを――――金髪君の出した円に触れた瞬間、鈍い激突音だけで停止した。

「おお……結界能力?」

 感心するも、さっぱり原理が解らない能力だ。なんであれだけ強烈な体当たりを受け止めておいて、反動で金髪君がぴくりとも動いていないのか。

 奥が深そうだが、とにかく、

「金髪君、オレの護衛よろしく!」

「え? あ、はい、解った!」

 茶髪の魔弾使いと、金髪の守護者。良い感じの即席コンビ結成である。

 クールな悪役は、なるべくなら血塗れになる勝ち方を良しとしない。楽に勝つためなら何だって利用するのだ。

 また六発ぶち込んで再装填をしようとしたら、蜘蛛が体当たりをかましてくる。それを難なく受け止める金髪君。

「金髪君」

「金髪って……月弥ですってば」

「ありゃ、それは失礼。月弥先輩、凄い能力持ってますなぁ」

 リボルバーを構え、蜘蛛の脚をさらに潰す。

 金髪君は、そんなオレのカッコいいリボルバーを見て、

「燕君こそ、凄い物持ってるんですね」

「でしょ?」

 再び弾の補充。頑丈な蜘蛛である。十八発ぶち込んでもまだ体当たりをしてくるのだから根性の昆虫、ど根性蜘蛛だ。

「クソ親父がこれ聞いたら鼻で笑うな」

 それだけ射て蜘蛛一匹殺せないのか――――みたいな。

 考えたら、テメェの腹に手を突っ込んで腸引きずり出したくなるほど腹が立った。

「見てろよクソ親父……」

 そうさ――――たかだか蜘蛛の一匹も殺せないで、これからも女ぁ守っていけるのか?

 精神を研ぎ澄ませ。いつか親父に言われた。

 それも、ただ集中して視野を狭めるのではない。視野を最大限に広げながら、その中で敵だけを静かに見つめる。

 上品ぶるな。これは、スポーツなんかじゃない。弓道ではなく弓術、すなわち殺法術。

「確実にぶち殺す」

 己が殺意を矢弦(しげん)に込めろ。

 それが敵を討ち滅ぼす最強の毒になる。

 キリと音を立てて弓を引き絞るように、手の中の撃鉄を引き起こす。

 二発目があると思うな。一発で殺せ。

 解ってる――――頭の中のクソ親父の声に歯噛みし、銃口を蜘蛛の顔面に狙点。

「お前を殺す。オレが殺す」

 意志を、しっかりと解き放つ。

 炸裂音――――狙い澄ました一撃は、蜘蛛の目玉を直撃、貫通、頭蓋の奥へとかっとんでいく。

 確かな手応えに、蜘蛛が地面に崩れ落ちた。

「殺ったか?」

 半ば確信を持って指でリボルバーを回し、そのままジャケットコートに仕舞おうとしたら、蜘蛛が身震いして立ち――――

「なに油断してんだ馬鹿」

 その動作を、頭上から打ち込まれた燃える鉄拳が粉砕した。

 蜘蛛に火炎が燃え移る前に、鉄拳の主は跳躍。オレと金髪君の前に、鮮やかに着地を決める。

「無事だったみたいだな、どっちも」

 蜘蛛の悲鳴と紅蓮の業火をバックに、姉御は腰に手をあて、美しく微笑んだ。

 ――――オレの広い視野の端、映る月弥先輩の顔は、ぽけっと姉御を見つめている。

 これはもしや、楽しい展開の到来かもしれない。

 

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 不安調査課のオフィスについて、燕と金髪は、灰香燐――――つまり、あたしの対面のソファーに腰を下ろした。

 燕はいつも通り……以上になんか楽しそうにあたしを見ている。

 一方の金髪は、じぃっとあたしを見てくるのだが、眼帯が気になるのだろうか。

 ――――わざわざ見え難いように前髪伸ばしてたんだがな。

 頭を掻いて、とりあえず白紙の報告書を取り出す。

「まあ、とりあえずは名前から聞こうか」

「那須燕で〜す」

「お前じゃねぇよ」

 苦笑。燕は燕で、確信犯らしく肩を竦める。

「で、名前は?」

「あ、はい。水掛月弥です」

「みずかけ、つきや……?」

「水の掛け軸に、月の弥生です」

 金髪、改め月弥は、少し照れ臭そうに空中に文字を書く。

「なるほど。良い名前だな。ちょっと大仰だが、お前なら似合ってるよ。これでお前が不細工なら気の毒だったんだが」

「そう、ですか? ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げる月弥。少し礼儀正しすぎるが、悪くはない。

「あたしは不安調査課の灰香燐って言うもんだ。もう察しの通り、お前やさっきの化け物みたいな連中の相手をする特殊な人間だ」

「やっぱりそうなんですか? 自分が変なチカラを持ってるものですから、絶対にそういうのはあると思いましたけど……」

「社会ってもんを解ってるね。そういう事だ。不安調査課も、正式名は陰陽寮。平安から脈々と続く、って事らしい」

 月弥がとりあえず頷くのを待って、煙草を取り出す。

「まあ、その辺は良いさ。月弥、お前みたいな能力者を、あたし等は何にもしないで放っておくって事が出来ないんだ」

「放っておけないって……? 具体的には、どうされるんですか?」

「ああ、とりあえず能力を明かして貰う。それから、出来るなら陰陽寮に所属して退魔師、ああいう化け物をぶちのめす仕事をして欲しい」

 後半の台詞に、月弥の顔が、明らかに曇った。さっきまでの、どこか平和ボケした顔をやめたのだ。

「能力は明かします。でも、」

 絶対に、という意志を表情に出し、

「僕は平穏無事に暮らしたい」

「きっぱり言ったな」

 月弥は頷き、じっとあたしを見つめる。睨むような視線だ。

「なんか、平穏無事とやらにこだわる理由があるのかい? そりゃ、あんな化け物と戦いたいなんて誰も思わないだろうが、それにしてもお前は即答だ。さっきの戦いの仔細も聞いたが、特別脅えた様子もなかったらしいじゃないか?」

「ええ、まあ……。僕は自分の能力の事を把握しています。あの程度でしたら、何度襲われてもやり過ごせる自信がありましたし……高校に入ってから、あれに襲われた事が何度もありました。幼い頃も、あんな昆虫ではありませんでしたが……幾度か」

「お前等みたいな生来の能力者は襲われ易いからな」

 あたしとは逆にね――――頷いて、続きを促す。

「僕は、物心ついた頃から、何となく自分の能力に気づいていました。最初は人と違う能力に優越感も覚えましたが、年を重ねるごとに邪魔になって……一度、両親が僕の能力を隠す事に腐心したのを見たら、もう……」

 月弥は、柔和な顔を困った風に歪ませて、

「今では、普通の人と同じく生活するのが僕の生き甲斐です。例え、自分の一部を否定する事になっても、僕は平穏無事が好きですから」

 隣に座っている燕が、珍しく何も言わずにテーブルを見ている。微かに覗く表情は、どんな反応をするべきか迷った時の微苦笑だ。

 きっと、あたしも似たような表情をしている。

「そうか。まあ、良いさ。その平穏無事を守るのが、あたし等の仕事だ」

「……あの……」

 月弥は、一度唇をためらわせ、それから、

「燐さんは、どうしてあんなのと戦う仕事を?」

 ――――――――。

 一瞬、心が空白に食われた。

「……どうして、か」

 俯き、くしゃりと前髪を掴む。指先が触れるのは、その下の眼帯。

 一生涯、現実の光を見る事の出来ない右目が、昔の真っ赤に拡げられた記憶を鮮明に思い出して、あたしの頭蓋を掻き毟る。

「むかし、」

 自分でも驚くほど、毒の含まれた言霊が零れた。

「ちょっとね……」

 視線を上げた先、あたしと眼を合わせた月弥が、身震いをして顔を引く。

 右目の中では、こんこんと真っ赤な記憶が流れ、すぐにでも自分の腹の中を掻き出したいような衝動が――――

 

「姉御――――」

 

 燕の、声。

 

「――――落ち着け」

 

 その声に、今度はあたしの背筋が震えた。

 見れば、燕がじっと……叱るように、あたしを見つめている。

 燕が――――じっと――――叱るように。

「……ごめん……」

 考えるより先に謝罪が出て、俯いて額を押さえる。

「ごめんよ……本当に……」

 ――――ごめんなさい。

 浅く首を振って、目元を拭う。

「悪い……。あんまり、聞かないでくれると助かる」

「……解りました。ごめんなさい、酷い事、聞いたみたいで……」

「いや……。酷いのは、あたしだ」

 本当に。

 深呼吸を一つして、ようやく顔を上げる。

「別に、無理に退魔師になれなんて言わないよ。その代わり、能力だけは管理させて貰う。良いな?」

「あ、はい。能力の、説明ですね?」

 月弥は頷いて、優しく微笑む。

 良い奴だと思う。そして、凄い奴だとも思う。

 取り繕った微笑みじゃない。月弥の微笑みは、ついさっきのあたしという恐怖を受け入れ、許して笑うものだ。

 だから、あたしの心も少しだけ軽くなった。

「どんな能力なんだ? 燕が言うには、結界だそうだが?」

「はい。結界がどういうものかは良く解りませんが、僕の能力は盾のようなものです」

 告げると、月弥は左手を前に出し、淡く輝く円を作る。

 その光の円は、不可思議にも、

「テーブルを、通過出来るのか?」

「はい、地面や壁も、この盾は関係なく。ただ、攻撃だけは弾きます。僕自身の攻撃の認知と、敵意のようなものをオートで判定して弾くようです」

「へえ……凄いな」

 あたしが円に手を伸ばすと、燕も興味深そうに手を伸ばし、二人とも問題なく通過する。

「サイキッカーの能力は理解し辛いね。燕の“魔弾”にしろ、便利すぎだよ」

「はぁ、すみません」

 月弥は苦笑して、あたしの目の前に円をかざす。

「ん?」

「燐さん、軽く叩いてみて下さい。今度は防ぎますから」

「なるほど、よし」

 軽くて速いジャブ。ただし、月弥に当てるつもりで放ったら、

「お?」

 今まで透明だった円の中に鏡写しの自分が現れ、向こうからも打ち返された。映像だけではなく拳打そのものが、物理的に、だ。

「…………はぁ?」

 打ち返す力も全く同じだったのか、あたしのジャブは綺麗に停止。拳には、拳とぶつかった微かな痛みすらある。

 月弥は、にっこりと笑って、

「解りましたか? 僕の能力は、敵の攻撃をこの円に取り込んで、正確に同じ物を返し、相殺する事です」

「おお、月弥先輩、すげぇ」

 燕がパチパチと拍手して感心しているが、あたしは何だか納得いかず、

「イカサマ臭……」

 ぽりぽりと頭を掻く。

「イカサマって、そんな……」

 だって、あたしの苦労とか色々がまるで無意味のような気分だ。

「ま、いいや。名前なんかつけてるのか?」

「え、あ、はぁ、一応は」

 うん、まあ、誰でも名前をつけると思う。

 月弥は少し照れた顔で頬を掻く。

「“無銘(なもない)月”。僕はそう呼んでます」

「へえ……自分の名前が月弥だから?」

「ええ、まあ、それも一つ。だけど、もう一つ理由があって、この盾、まだまだ隠し技があるんですよ」

「……そうなのかい」

 やってられない――――どうしてこう、生まれつき凄い能力を持った奴等がいるんだ。

 あたしは、地道に努力してるっていうのに……。

 でっかい溜息が零れた。

 

■■■

 

 月弥と燕が帰り、月弥の能力を報告書に書き終え、ようやくあたしは一段落。

 くたびれた椅子に背中を預けると、あたしの長身に不満があるのか、ぎしりと椅子が泣いた。

 その音を聞きつつ、帰り際、いやに神妙な顔だった月弥を思い出す。

『もし、本当にどうしようもなかった時は、呼んで下さい。あ、ただし普通の用件だったらいつでも良いですよ。必ず、力になります』

 小さく、笑いが零れる。

「力になります、か」

 何となくむず痒くて、頭を掻いてしまう。

 自分にも、あんな風に心配してくれる奴が増えるのか、と思う。

 やれやれ――――軽い気持ちの溜息を吐いて、今一人の客、燕を思い出す。

 今度は重く、沈殿した溜息。

 くしゃりと前髪を掴んで、引き出しから燕のプロフィールを取り出せば、背筋には小さな震え。

 特に、その備考欄を読む時には、唇を噛まずにはいられない。

『備考:十歳の頃、指名手配中の鬼女、個体呼称“ナツメ”に母親を目の前で殺される。また、それが原因と思われる言動が数多く見られ、』

「精神鑑定の結果によると、異常なまでの自責の念を持っており、自殺を行っていないのが奇跡的だと診断する。また、母親を殺された事によるトラウマか、女性に対しても異常な執着を見せる。独占欲の一種とも思えるが、少し違う。全ての女性に対する保護欲、とでも言うべきか……」

 一息。

「女性が傷つけられるニュースを聞くだけで、彼の眼はぞっとするほど冷たくなる。なのに、彼の発言と思考は、いつも以上に陽気なのである。まるで、自分の中の冷たさを覆い隠すように」

 読んだそれをデスクに放り、天井を仰ぐ。

 あいつは――――那須燕という男は、大人びいた少年なんかじゃない。燕は、少年じみた大人なのだ。

 世界に自分を合わせ、妥協する事を知っている。

 世界に解け込むため、自分を偽る事を知っている。

 一体、十歳まで普通だった少年が、何を思い、何を答えにすればああなれるのか。

 その過程を思うと、薄汚れた天井が滲んだ。

「つばめ……」

 いつだって、あいつは自分を偽っている。

 自分の首を掻き切りたい事実を。

 自分の弱さを吐き出したい衝動を。

 本当に笑う事がなくなった慟哭を。

 自分の心の傷に触れられれば触れられるほど、陽気に振舞える少年。あるいは、そうする事しか出来ない少年。

 あたしは――――あなたに――――。

「本当に、酷いのは……あたしなんだ……」

 頬を伝う生温かい感触が、妙に惨めで、自分を殺したくなる。

 明日も、燕に来て欲しいと思う。

「ごめんなさい……」

 零れた吐息は、とても、か細かった。

 一人きりの夜、咎人の辛さを、改めて噛み締める。

 


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