Promise 〜約束〜
例えば 好きな人との約束
それだけで 私は強くなれると思うんだ
朝焼けに火をつけられた、民家のまばらな町並み。
広がる一面の緑は、葡萄の木々が生い茂る、地中海地方の風景。
その田舎にある一軒の家に、一人の奇妙な来客があった。
「すみません。これほどの朝早くに……礼無き来訪、お詫びいたします」
来客は、まるで天女の彫刻のように静謐な顔をした麗人で、奇異なのはその容姿全体。
「少々お尋ねしたい事があり、不躾ながら何の連絡もなくお邪魔しました」
目を患っているのか、両の眼は柔らかく伏せられ、ほっそりとした体には、シルクのような薄絹が、黒革のベルトで幾重にも幾重にも留められている。
「私の名はアナスタシス。アナスタシス・ファーランド」
それだけで充分に目立つのに、更に人目につくのは神聖な装いのエメラルドの髪。服と同じく黒革のベルトが蛇のように絡められ、束ねられた長髪は美しく、天女として戴いた宝冠のような趣。
「聖騎士団に所縁ある者です」
そして、聞く者に好意を抱かせるような、美しい声。
麗人を出迎えた二人の男女。極普通の生活を営む、ただ少しばかり敬虔なクリスチャンである夫婦は、麗人の美しさよりも、最後の言葉に身震いした。
「娘に、何かあったんですか?」
気遣わしげな表情に、麗人は静かに首を横に。
「いえ、そういった用向きではありません。本当に少々お尋ねしたい事があっただけです」
片手で両親の動揺を抑えるように、麗人は静かに言葉を紡ぐ。
「こちらの書類に不備があったので、ご両親のお二人に直接確認を取るようにと……本当にそれだけです。娘さんは、今の所聖騎士団で元気にされているようですよ」
そうですか、と安堵した二人の夫婦に、麗人は瞼を伏せた微笑みの顔。
「ええ、私はそう聞いております。それで、確認ですが」
「あ、はい、何でしょうか?」
「聖騎士団にいる娘さんは、確実にお二人のお子さん、ですね? 養子ではなく実子、血の繋がりのある」
最初、夫婦は何を聞かれたかわからぬ風だったが、間もなく二人同時に頷く。
「そうでしたか。いえ、二つある書類のうち、片方にだけ養子と書かれていたもので、これはおかしいと、そういう事になりまして……」
「ああ、そういう事でしたか……。大丈夫ですよ、あの子は私達の娘です。ええ、生まれてくる瞬間にも立ち会いましたから」
にこやかな表情の父と母に、麗人は変わらぬ微笑み。
「そうですか……では、用向きはこれだけですので……」
「あ、お待ち下さい。お茶でも飲んでいかれては?」
「いえ、有難いのですが……」
麗人は微笑を苦笑に変えて、
「私は現場で働く聖騎士とは遠い者。娘さんのお話をしてあげられる事もありません……ですから」
そう言って、頭を下げて夫婦に背を向ける。
朝焼けに染まる大地と、やがて赤いワインになるだろう葡萄の青さを見ながら、足早に歩く。
その静かな仮面の奥、心中で思う事は一つ。
――――悪夢ね……。
時が止まったかのように静謐な表情の下、心の中で舌打ちをしながら、麗人は待たせていた車に乗り込む。
運転手役の弟子が、いかがでした、と聞いてくる。
応えるべきかどうか、しばし逡巡し、麗人は小さく吐息。
「……悪夢よ」
伏せた瞼をゆっくりと開けて、麗人は弟子を鋭く見据える。
「あんなに強く“あの色”を出す人間なんて、世界中探したって五人もいないはず……その五人のうちの二人が結婚しているなんて、その上に子供が出来ているなんて……」
開かれた金色の眼。従来なら、そこに揺るがぬ静けさを持つ麗人は、隠しきれぬ焦りの色をそこに浮かばせ、吐き出すように呟いた。
「狂った悪夢以外の何者でもない。下手をすると――――速く車を出して、“魔術師の城”の全魔術師に報せないと」
慌てて踏み込まれるアクセルに、エンジンが声高に泣き喚く。
朝の静寂を破る音に紛れ、麗人の声は弟子にも聞こえず、
「ヘレン・アースエル――――世界最悪の爆弾よ、貴女は」
朝の気配に散った。
Exit & Entry
ぼんやりとした頭で、昔懐かしい夢を見る。
傍らには、夜色のドレスで身を包んだ、年老いたモノの姿。
世界は夜の影一色。傍らに立つ年老いたモノのドレスと同じ色。
暗きに在るものは、真っ黒に塗りつぶされた世界だけ。所々で上がる火花のようなものがある以外、そこは永久の闇に閉ざされていると知っている。
幼い頃より、父と母に地獄や天国の話をされていたせいか、そこは地獄と天国を繋ぐ狭間の道のように感じられたが、それは違うと直感的に解った。
そこは、その世界は――――否、その空間は、世界の基礎基盤以外に在り得ない。
だから、この夢の世界には何も在らず。
反面、この夢の世界には全てが在る。
矛盾している。
だから、そこには矛盾を持つ者がいる。
世界は暗い。
だから、そこには暗黒を持つ者がいる。
その暗黒を持つ者のせいで、夢の世界はそれ以上見えない。
見えないけれど、まだ先がある。
夜の影の中央、矛盾と夜に閉ざされた世界の原点で、少女はじっと世界を見下ろす。
どこからかの人の声と香ばしい匂いに、ヘレン・アースエルはその意識を起こされた。
「あ……?」
――――古い、旧い夢を見ていた気がする。
だが、意識がはっきりとしない。焦点の合わぬ思考では、難しい事、主に過去を振り返る事は出来ないらしい。
とりあえず解る事は、ここが自宅のベッドでも、団員寮のベッドでもないという事。
それから、咄嗟に掌で押さえた腹部が、
「とっても、お腹空いたぁ……」
食事を渇望している事。
階下からの香ばしい匂いは、間違いなく食事の匂い。
最近聞きなれた話し声も、下からやってくる。
「下に行けば、ご飯あるかな……」
安直に結論を出して、ふと周囲を良く見てみれば、傍らのベッドにもう一人、女性が寝ていた。
銀色の長髪に、目元のツンとした綺麗な顔。今は寝ているため閉じているが、ヘレンは伏せられた眼の色を知っている。
思わず、その女性の名前が口をついた。
「ビビアナさん……?」
同時に、昨夜の事件と自分の現状を一気に思い出して不安になり、
目の前で安らかに寝息を立てている先輩聖女を見て、安堵の吐息。
「そっか、ビビアナさん、助かったんだ」
いや、それはすこし違う。
「私が、助けたんだ……」
拳に残る微かな残滓。
黄金の鎌を貫き、悪魔へと届いた一撃。
その時の記憶をたぐるように拳を握り締めると、くすぐったくなるような可笑しさが込み上げてくる。
「私が、やったんだ」
やや記憶が曖昧なのは、それだけ集中していたからだろうか。
ともかく、今目の前、一人の人間が、それも知り合いが無事な事が喜ばしい。
何より、自分の力で助ける事が出来たんだと言う事が、喜ばしい。
――――ヒュー先生、私、少しは出来たと思って、良いですよね……?
心に浮かぶ尊敬する人の顔に一人思うと、空っぽの胃にお腹が鳴いた。
「あぅ……、よしよし、良い子だから少しお黙りぃ……」
腹部を擦りながら、音を立てないようにドアの方へ。
部屋を出る前に、もう一度だけ、ビビアナの寝顔を見る。
――――それは、とても安らかな眠りの在り方……。
「ゆっくりと休んでいて下さいね、ビビアナさん」
小さな会釈をして、そっとドアを閉じる。
一階に行くと、教会とはいえ他人の台所を借りて調理をしている聖騎士が一人、いつもの仏頂面でヘレンを振り返り、
「……ゆっくり寝れたか?」
いつもと違う言葉を吐いた。
へ? という驚きに固まれば、仏頂面は続けて、
「なんだ、まだ疲れているなら部屋で寝ていろ。食事なら運んでやる」
さらにいつもと違う言葉を乱発。そして、手元の調理へと視線を落とす。
目の前のこの人物は、一体誰だ?――――という疑問が拭いきれない。
確かめてみる必要がある。
「えーと、とりあえず、念のために聞いて良い?」
「ああ?」
フライパンを持ちながら、訝しげに首を傾げて見てくるそれに、ヘレンは目を細め、
「あなたは誰ですか?」
「愚か者め、ついに記憶が狂うほど脳細胞が腐ったか」
その反応に、ふむと頷いて安堵。
「よかったぁ、そっくりさんかと思ったじゃない。脅かさないでよね」
「こっちの台詞だ。ったく……朝から阿呆な事を」
溜息を吐きながら、トマスはフライパンの中の魚を引っくり返す。どうやら白身魚のソテーらしい。
「ん〜、このシチューみたいな良い匂いは……ホワイトソースでも作ってる?」
「ああ、そうだ。お前は食えない物はないって言ってたな?」
「もっちろん、食べ物に関して、好物以外は大好物しかないのが自慢だからねっ」
「それは良い事だ。見習えよ、副団長」
「え? エリザさん好き嫌いあるんですか? 駄目ですよそんな事しちゃ、世の中には食べれないでひもじい思いをしている人もいるんですからってちょっと待って……?」
落ち着こう。
今、何かとても予想外な人物がこの場にいるような発言があった気がする。
ええと、と呟いて、深呼吸を一度。頭をフル回転させて現状把握しようとした、その時、
「だって〜、しょうがないじゃないのよー。あたし辛いの駄目だし野菜あんまり好きじゃないし、特にたまねぎとかは絶対食べたくないしぃ〜。でも、トマスちゃんの作る料理なら、タマネギ以外は我慢してちゃんと食べてるにゃー?」
いじけたような間延び声がぶち壊した。
「ええっ!?」
振り向けば、テーブルに顎を乗せてエサをまだかまだかと待っている猫――――のようなエリザがいた。
「おはよ、ヘレンちゃん。もちょっと待ってればトマスちゃんの朝食が食べれるからねー」
「あ、はい……って、そうじゃなくて! いつからいたんですか!?」
テーブルに詰め寄って問えば、第六位の聖騎士は何でもない事のように首を傾げ、
「あにゃ? 昨日の夜、ヘレンちゃんがぶっ倒れた後だにゃー。ね、トマスちゃん」
エリザの目線を追ってパートナー・トマスを見れば、調理しながらも小さく首肯。
「え、ええぇぇ……? どうなってるのぉ?」
「にゃはは。まあ、増援があたしって事だにゃ。詳しい事は気にしない気にしない」
そう言ってエリザは笑い、ふと、優しげな微笑みと共に、ヘレンの頭に手を乗せた。
「トマスちゃんから話は聞いたにゃ。ヘレンちゃん。昨日は、よく頑張ったよ」
その手の感触は、決して柔らかいものではなく、無骨さのある武芸者のもの。
だが、優しい温もりが伝わって、くすぐったい感触。
「あ、ありがとうございますっ」
その感触に、思わず照れが込み上げる。
「今のは、副団長として……それで」
次に、エリザはヘレンをきつく抱き締め、胸の奥から震えるような声で、
「こっちは、ビビアナちゃんの友達として――――助けてくれて、ありがとにゃ……」
「え、エリザさん……」
少し慌てて見れば震える声とは違い、その顔は泣いてはおらず、ただ可笑しそうに笑うだけ。
見ている者も笑顔になれるような、底抜けに明るく、太平楽なその笑顔。
――――私は、エリザさんの笑顔を、守れたのかな……?
からころと笑うその顔からは、何の悲しみも、不安も見出せず――――思わず、トマスを振り返る。
すると、調理をしているその背中は、視線に気づいているかのように首を縦に振った。
まさか、ただの偶然――――そう笑い飛ばすには、少しだけ、それは嬉しすぎる事だった。
Exit & Entry
聖騎士団本部の団長室で、ロクスは受話器の向こうに叫んでいた。
「だから、部下を犠牲にするような真似を容認出来るかと言っているのだ! ふざけるな! 我々は盤上の捨て駒などではないのだぞ! 待て! 貴様等元老院はいつも――――」
唐突に、散々怒鳴り散らした受話器は音を止め、断続的な電子音を鳴らしだす。
「切ったなジジイどもがっ!」
叩きつけるように受話器を投げると、当然のように受話器は机の上から跳ね、机の前に立っていた二人の足元に転がった。
「ちっ、やはり駄目だな。元老院の馬鹿どもは動かん……」
息を荒げ、歯が砕けるほど歯軋りをして、ロクスは椅子に腰を下ろす。
対し、眼前の二人――――ヒュー・ベケットとグレイス・ファーロングは、静かに頷くだけ。それは、大津波の前の浜のように、確固たる激情の前としてある態度。
「まあ、当然でしょうね。元老院で話が通じるのは、精々シエロさんくらいでしょうし」
「……とりあえず、団長は落ち着いて下さい」
二人の言葉に、ロクスは再度舌打ち。
「落ち着く? 元々わしは落ち着くという事が苦手なのを知って言っているのか、グレイス?」
「承知の上ですよ、団長。後は私とヒューさんに任せて、私達の処罰の理由でも考えていて下さい」
グレイスの表情はいつもよりも無表情で、凍てた残骸を思わせる。
傍らに立つヒューも、出来る限りの怒りを抑えるように、何も抱かない表情で言葉を紡ぐ。
「では、私は行きますよ。無断でヘリを出してフランスへ」
「ああ、すまない。ヒュー、グレイス」
「団長が謝られるような事ではありませんよ」
そう言って、ヒューとグレイス、二人の第五位聖騎士は団長室のドアへと向かう。
「今から行っても、無駄だよ」
そのドアに背をもたれ、鉄塊に人の顔を書き込んだような男が独り、当然のように立っていた。
「結果はもう変わらない。エリザベートが出て行く事も、全て秤の上の出来事」
非人間的な男が告げる音は、向かってくる二人よりもさらに感情の無い音。
その声の主に、ヒューは静かに、ある感情を抱く眼を向ける。
「黙れ。黙れ鉄の仮面……」
緊と張り詰めたヒューの言葉。それは、ヘレン・アースエルが優しいと感じる声を出す器官と同じ場所から出たとは思えぬほど、凄惨な殺意に満ちていて、傍らに立つグレイスが、僅かにその瞼を伏せた。
「私が、貴様への衝動を抑えられる内に、部屋へ帰れ」
一言一言、戒めを刻み付けるように放たれる言葉に、男は何ら感慨ないというように、
「そうか。なら、そうするよ」
長い、蛇の抜け殻のような髪を床に擦りながら、己が孤独の檻へと去ろうとする預言者。
「――――ちなみに、死人は一人だよ」
その最後の台詞は、思い出したかのように告げられた、預言の行く末だった。
Exit & Entry
食事も粗方終わり、すでに食べているのがヘレンだけになった頃、トマスは溜息を吐いて口を開いた。
「ともかく、これで後はビビアナさんが目を覚ますだけだな。ヘレン、体調は?」
「んむ? ふぁいふぁいいひかふぉ」
「愚か者。飲み込んでから喋れ、はしたない」
「にゃはははは、ヘレンちゃん怒られたー」
むぅ、とヘレンは唸りながら、パエリヤを飲み下す。
「大体良いかも。あれだけ魔力使ったから、一晩寝ただけじゃ回復しないかなって思ってたんだけど……そういうトマスは? トマスの方が魔力使ってたじゃない?」
「問題ない。怪我も副団長が治してくれたしな」
「へ?」
怪我? という風に、食事からトマスを見ると、トマスは仏頂面で頷き。
「手首の骨にちょっとな。今は痛みもない。流石は副団長、と言う事だ」
「わーい、トマスちゃんに褒められたにゃー」
エリザは笑い声を上げながらVサイン。
トマスはそれを無視しつつ、
「それに、魔力ならルルドの水を飲んだから回復しているはずだ」
「ルルドの水って、ああ、ルルドの泉から湧いてる水だったっけ?」
「そだにゃ。実はあれには別の源泉もあって、神秘管理局が力の強い方のルルドの泉を管理してるんだよー?」
「な、何かそれって横暴じゃない、かなぁ……?」
苦笑しつつホワイトソースにつけたフランスパンを齧ると、トマスが首を振る。
「いや、そうでもない。ルルドの泉は魔力を帯びた水だから、確かに神癒をもたらし、魔力を回復させる。だが、一般人の多くは体内の魔力である霊力の扱いを知らないし、放出なんてほとんどしていない。つまり、霊力が満タンな人間が、強い魔力を飲む事になる」
「という事は、もしかして……魔力豊富なルルドの泉を、霊力がほぼ満タンの人が飲みすぎると?」
「そうにゃ、どんな植物でも、水を上げすぎたら逆に毒されちゃうんだよにゃー」
「な、なるほどねぇ……」
そつなくもう一切れフランスパンを千切りながら、ヘレンは真面目に頷く。
それを見て呆れつつ、トマスは苦笑。
「だがまあ、それは後付けの理由だろうな。害がなくても、教会は神秘管理局に管理させて一般人から遠ざけただろう。誰にでも触れられるようにしたら、魔術師の城やら薔薇十字団やら、魔術組織の良いカモだからな」
「う、どうしてトマスは美談で終わらせようとしないのよ」
「美談じゃないからだろう。元から美談なら、ちゃんとそれで終わらせる」
「そうだにゃ、トマスちゃんはただ物言いが現実的なだけだよー」
一人楽しげなエリザを見つつ、ヘレンはホワイトソースをお代わり。
「へぇ、エリザさんって随分トマスの肩を持つんですね?」
「はにゃ? そそ、そんな事ないよー?」
「ええ、だってそうじゃないですか? さっき、私が食べながら喋って怒られた時もだったし、トマスに褒められた時に何か喜んでたし」
「そ、そうだったかにゃー?」
そうですよー、と笑いながらエリザを見ると、何故かその頬は少し赤い。
「はい?」
――――今時ここまでベタな反応もないでしょ、普通。
もしかしてそうなのかなぁ……と、ヘレンは探ってみる事にした。
「そういえば、エリザさん、しょっちゅうトマスと一緒にいないですか?」
「いっ? いない、よ? ねえ、トマスちゃん?」
ぎくりと動揺を前面に押し出しながら、エリザは助けを求めるように視線をトマスへ。
その救いを求めた向こう、
「いや、副団長がしょっちゅうオレの部屋に来るからな。昼飯は毎回作らされるし、たまに晩飯もだな」
トマスは何も知らない顔で答えつつ、ヘレンにフランスパンを手渡す。いや、トマスは本気で何も知らないに違いない。何となくだけど、そんな気がする。
「だ、だってトマスちゃんのお料理美味しいし〜……」
エリザはついに赤い顔を伏せさせ、ぶつぶつと小声で自己弁護。
意外――――まさかそういう展開でくるなんて……。
しかも、十中八九、お相手は気づいているまい。どうやら昼を毎食作っていたり、何故か頻繁にエリザが部屋に訪れているというのに、である。
「ははぁ……エリザさんが、ねぇ……」
「にゃっ!? ああ、あたしが何? 何かしたにゃ!?」
「え、だって、」
はむ、とホワイトソースをつけたフランスパンを齧り齧り、なるべく遠回りの表現を数秒探し、横目でトマスをちらりと見て、
「エリザさんって好きな人いるんでしょ?」
なるべく遠回りに、さくっと聞いてみた。
「にゃっ!? 違う違う違う違う違ぁ――――うっ! そな事ないにゃ、ないないないない!!」
耳まで赤くしてテーブルをバンバン叩き出した照れ猫に、ヘレンは慌ててホワイトソースを確保。対するトマスはほう、と呟き。
「なんだ、いい歳していつまで独り身のつもりだと思ったら、目当てはいたのか」
「ちっ、違うって言ってるじゃないのよー! バカバカバカぁ!」
「ああ、解った解った。そういう事にしておこう」
「だだ、だから違うってばトマスちゃん――――っ!!」
「解ったと言っているだろうが」
大声で叫ぶエリザと、溜息交じりでいなすトマス。
傍目であるヘレンから見ると、種類は違えどどっちもどっちでなんだかなぁ、である。
でもまあ、案外――――
「お似合いなのかも……」
トマス特製ホワイトソースは、大変美味だ。
ようやくヘレンも朝食を終え、一息を吐くと、どこか間抜けなほど落ち着いた空気が流れる。
エリザはだらしなく椅子に体を預け、のんびりとした背伸び。
トマスは何故だか凄く似合う後姿で、台所に立って洗い物。
ヘレンはオレンジジュースを傾けながら、二人の様子を少しだけ観察。
聖騎士団に来る前は、当たり前のように流れていた家庭の空気が、そこにはある。そう思うと、少しだけ故郷が懐かしい。
朝食後、椅子に座って新聞を読んでいた父親。
水の跳ねる音を聞きながら、背中だけで微笑んでいる母親。
今、両親は何をしているのだろう。
そう懐かしむ少女ヘレンの一方、聖騎士としてのヘレンが、ふとした疑問。
「あれ……そういえば、今回の任務ってどうなってるの?」
元々の任務は、この村の異常を祓う事だ。村自体は壊滅してしまったが、その元凶であった悪魔は、ビビアナからもう取れている。この町で他にする事といえば、何もないのではないだろうか。
だが、依然として自分達はここに残ったまま。
「もう帰れるん……だよね?」
問いかけ、というには不安げなそれは、しかし即答がなく――――エリザの首の動きで否定された。
「それがねぇ……団長に電話したら、まだなんだってさ」
「まだって、これ以上、何が……?」
エリザは微苦笑をして、なるべく明るい口調で、
「ヘレンちゃんが倒した悪魔が、今度は自分の体でやってくるみたいなんだにゃー」
「え……自分の体って……」
「基本的に、悪魔というのは多芸だ」
洗い物を終え、トマスが振り返る。その表情は何か苦い物を飲んだように顰められていた。
「特に、悪魔達の中でも最も古い奴等、つまり魔王ともなればな。元々、精神生命体に近い奴等だ、他人の意識を乗っ取るくらいやってのけても不思議じゃない」
「まあ、そういう事かにゃ。そもそも、悪魔っていうのは隣接した異世界である地獄の住人だから、ここで活動するにはここ専用の器がいるんだよん。人形みたいな感じでね」
「う……つまり、今度はその人形で来ると……。そ、それは解ったけど……強さは?」
その問いと同時、ごん、という第六感のズレ。
「なっ――――」
声より速く、どこからかやってくる濁った魔力の黒波は村全土へと渡り、――――のどかな世界が変わった。
何が――――という問いは、知らずに唾液と共に飲み込まれる。
背筋を流れるのは冷たい汗。
瞳は瞳孔を開いて出来うる限りの範囲を知覚しようと緊張し、反面、四肢は油が切れたように動きを軋ませる。
声すら出せない。言われなくたってこれが何なのか、誰だって解る。
搾取する者が、搾取される者へと殺意を向けたのだ。
「来ちゃったにゃぁ……」
片目を瞑り、困ったように呟いたのは――――否、呟けたのはエリザただ一人。
後は、トマスでさえも脂汗をかいて必死に沈黙している。
「十年前にあたしが会った魔王はお遊び程度で戦ってたけど……どうやら今回の魔王、」
第六位聖騎士は愛用の槍を手に取り、くるりと指で回転。
「本気で殺る気満々って感じだにゃぁ?」
軽い口調で呟かれる言葉。
その顔に浮かぶは微笑み。
その手に握られるは白き柄と赤き刃を持つ聖なる槍。
そして、聖女エリザベート・ガイウス・カシスは、二人の聖騎士を振り返る。
「さあ、お犬さんとお猿さん? 雉はまだお休み中だけど、この桃太郎と一緒に――――魔王退治に出陣だよん?」
果たすべき主命に笑う、聖女がそこにいた。
Exit & Entry
死に絶えた村の十字路は、そこに居る者の存在の強さを誇張するように静寂。
湿った海風は魔力の波と打ち消され、腐った死風へと変わりゆく。
時刻は正午。
陽光が最も燦然たるその刻限に、しかし闇は切り取るように存在した。
そこに佇む“それ”は、人の形を模している。漆黒のローブで口元までを覆い、陰湿な笑みを浮かべる顔に、濁った黒の瞳、乱雑に切られた白髪。
その身から零れる魔力は瀑布のイメージ。大気中の魔力の減った今この世界で、“それ”は最強を顕現出来るように無尽蔵に魔力を吐いているのだ。
“それ”が見据えるは白衣を着た三人の聖騎士。
先頭を来る聖女以外の顔は強張っているが、面構えは悪くない。
それなりに楽しめそうだ――――“それ”は唇を三日月に歪め、その手に黄金の大鎌を握り締めた。
Exit & Entry
十字路に立つ“それ”は、圧倒的な存在だった。
見た目はただの陰湿な青年であるというのに、そこから放たれる魔力など、常人を何百人詰め込めばあのような魔力装置になるというのか。
さらに、その魔力を体内に潜らせ、全身を活性化させる強化。
黄金の大鎌に染み入り、たかが黄金を金剛石すら断ち割る領域まで高める物質強化。
並みの聖騎士の装備では、一度打ち合ったが最後、洗礼武装ごと両断されるに決まっている。
「ん〜、やっぱあれだにゃぁ……トマスちゃんとヘレンちゃんは援護かな?」
そんな命がけの事を、エリザは槍で肩を叩きながら言った。
「え、エリザさん一人であれと戦う気ですか!?」
「だってしょうがないじゃないのよー、ヘレンちゃんが昨日みたいな強さを出せれば話は別だけど」
それは、と呟き、ヘレンは自分の拳を握る。
あれだけの強さが出せるなら、もうすでにやっている――――それが答え。
「ま、そゆ事だから。ここはあたしに任せておきなさいよん」
ひらひらと手を振って、エリザはさらに前へ。
「ねえ、そこの魔王ちゃん。良かったらお名前窺いたいにゃー?」
微笑みを失わぬ問いに、敵対者は感嘆の吐息。
「ほう、良いだろう。俺の神名はファーカス。そして、魔名はセンジュだ、槍の聖女よ」
「ふぁーかす? う〜ん……」
名前を聞いておいて聞き覚えのない名前が出てきたのか、あろう事かエリザは後ろ――恐怖の代名詞たる魔王を眼前に――トマスを振り返る。
「トマスちゃ〜ん、わかるー?」
「っ、ま、前を向け副団長! 死ぬ気か!?」
「え〜? 大丈夫だよ、不意打ちなんて喰らわないからー」
「良いから前を向け! ファーカスだろう!?」
冷や汗を額から滴らせながら、トマスはほとんど叫ぶように口にする。
そうでもしなければ、喋る事すら困難だ。
「ファーカスといえば、魔術王の七十二柱の魔王の一人だ!」
トマスの怒鳴り声に、その通り、と魔王は答えた。
「狩除公ファーカス。手持ちの駒は二十個軍団、占術を得手とし、俺の鎌に切り伏せられたが最後、その魂、我が奴隷となる」
次に、喉を鳴らして笑いながら、
「いや、愉快な奴だ。恐れを知らぬか、槍の聖女」
「知らない。でも良いのかにゃー、そんな自分プロフィール読み上げて?」
「なに、」
魔王はその鎌を肩に担ぎ、これで話は終わりだと殺気で告げてくる。
「地獄までの水先案内、前口上もなくては寂しかろう?」
対し、聖女は穂先を魔王へ、腰を深く落としながら、片目を閉じてウィンクした。
「にゃーる。昨今の魔王は、サービス精神旺盛だね。じゃあ、あたしも見せてあげよう」
そうして、両目を静かに、伏せる。
深く、深く己の内世界へと潜行していくために。
「“主よ、我が詞を聞き給え”」
静かに囁かれる言霊は、聖女が聖女としてあるための呪文。
「“我は遠き昔、運命の丘で神の死を示す者”」
周囲の瘴気は、聖女の声とぶつかり霧散する。
「“聖杯へと血を注ぐ、聖杯の槍を持ちし者”」
手に持つ槍からは、淡い白光。
「“盲た眼を持ち、神を恨みし者、その末裔”」
光は聖女を包み、その主命を果たすための力を与える。
「“神の血によりて我が眼は開かれる、信仰の眼も開かれる”」
聖なる魔力は、邪なる魔力を弾き、信仰者の盾となる。
「“かくて我は咎人の子、故に我が名は億の罪状”」
そうして、ゆっくりと開かれた朱の眼の向こう――――敵がいた。
「“なれば、今こそ詠み上げん――――我が名は、ロンギヌス”」
それは、世界で一、二を争うほど有名な聖人の名前。
遠い昔、ゴルゴダの丘でイエスの脇腹を穿ち、その死を証明したローマ兵の名。
そして、今尚連なる、咎人の名。
「聖騎士団、副団長……聖女ロンギヌス――――参る!」
かつて神を殺した人間の末裔と、神に弓引いた堕天使が、それぞれの武器を振り上げる。
短い動作での槍による横薙ぎは、十センチほどの斬撃。
放つのは相手の喉笛を狙う刺突での致命打より、確実に戦力を削り、自分の命を長らえるための小技。
――――そうでなければ、一瞬で死んじゃうよっ!
その判断は、相手の武器が重量武装である大鎌だから、などという当たり前の戦力分析ではない。
元より、人間と悪魔との間には……否、人間と多くの魔物との間には、それだけの基本的な能力差がある。
「ふっ!」
呼気は短く、補給は最小限。
踊る槍は大鎌に絡みつくように纏わりつき、その斬撃軌道を反らし続け、手腕を中心とした部位を浅く、確実に切り刻む。
それでも、魔王は何ら構う様子もなく大鎌を振り続ける。
そればかりか、
「良い槍だ。さすがに神殺しの槍……と言いたい所だが、その程度ではな。片割れだな、それは?」
などとこちらの武器を容易く見抜いた。
「図星か。聖杯の槍は四つに分けられ、それぞれが新たに槍として作り直されたとは聞いたが……」
「お喋りは……っ、厳禁!」
一声――――赤い穂先が黄金の大鎌を滑り、持ち手の手首を切り落とす斬撃。
だが、
「無駄だ、それは戦闘用ではないようだ……。そんな末端部なら、一瞬で復元できる」
言葉通り、大鎌にぶらさがって揺れようとした手首は、次の瞬間に消え、無節操にも腕に生えた状態で再顕現。
返す刃で大鎌が踊った。
「はにゃっ!?」
咄嗟に脚を滑らせ転げた頭上、逃げ遅れた蒼い髪が数本、大鎌の狂風に攫われる。
「やはり、“悲痛の槍”と呼ばれる殺しの槍は英国に渡ったのか?」
伏せた姿勢に襲い掛かる蹴りを、柄でしっかりと押さえながら後方に跳躍。
離脱の刹那に一度槍を薙ぎ払って、追撃の大鎌を払い除ける。
「さっすが物知りだにゃ。その通りっ!」
大鎌の間合いの外から、全身のバネを使った最速の刺突――――を三連発。
「むん……!」
上中下段に打ち分けられた刺突を、魔王は大鎌の振り上げで全て払い除けながら、再び大鎌の間合いへ。
だが、先程とは響く金属音が違う。槍の一撃は、さらに重く。
「この槍は“祝福の槍”と呼ばれる癒しの槍……! イエス様を殺した祖先が悔い改め、殺しの部分はヨハネ様に預けたって――――そういう事だ、にゃ!」
――――末端部への浅い斬撃では効果なし。なら、その心の臓を抉るまでにゃ……!
ちらりと、朱の瞳で自分の横数メートルへと視線を向ける。
そこには、一人の少年が立ち、人知れず精神を尖らせ続けていた。
かつて、パートナーとなって夜を駆け抜けた少年が――――こちらの意志を、目を合わせずとも理解してくれた少年が、パートナーを辞めて久しい今なお、こちらの意を汲もうとしている。
――――やっぱり、トマスちゃんは最高の男の子だにゃ……!
視線を前に戻せば、大鎌が大きく振りかぶられ、一瞬後にはこちらの胴を両断しているだろう。
だが、この大振りこそが心臓までが開ける勝機。
迷いは要らない。
必ず、援護は来る。
「――――行けっ!」
大気の銃口を走る威音。
およそ人の手における最高峰の打突の一閃が、咄嗟に身を捩った魔王の心臓、そのやや下部を貫く。
外した、という小さな呟きは、魔王の一閃によって掻き消される。
刹那にたゆたう時間。攻撃直後の硬直が取れたエリザの体は、咄嗟に槍を放棄。来る鎌の斬撃に正面を向き、まるで槍を構えて受け止めるように両手を突き出す。
――――はっ、何をする気だ槍の聖女!
声にはせずとも、魔王の笑みがそう言っていた。
どうするもこうするも、こうなった状況下で、自分の最良のパートナーを信じてする事は、ただ一つ。
命を預け、魂すらも委ねられるその人の名を、出来うる限りの強さで、吼えるのみだろう。
その名は、
「トマスちゃん――――!」
「あっ、ああああああ――――!!」
果たして、返答は万全だった。
魔王の腹に突き立った槍が、まるで意志あるように抜き放たれ、黒い血を引きながらエリザの手元へと踊り込む。
重い金属同士の吼え声は、防御の証し。
そして、間に合った防御は、次の瞬間に攻撃への転じ手。
一瞬、何が起きたのか理解出来なかった魔王の顔は、さらに心臓へと走った打突で歪んだ。
「掠めただけ……っ!」
咄嗟に間合いを放した敵手に、魔王の顔は怒りの一文字。だが同時に、心底楽しげだった。
「くはっ、ははははっ! なるほど、役立たずと置いていた小僧か……! 今のは効いた、褒めてやる!」
どろりとした、漆黒のタールのような血を心臓付近から零しながら、魔王は笑う。
エリザを見て、トマスを見て、さらに笑う。
「はははははっ、あははははははっ!! この一瞬のためにどれだけ集中した、小僧!? 合図は目配せした時だな? しかし、その目配せは刹那というにも短かったはず! その上、次の瞬間にはいきなりの決行だ。前準備なくして、あれほど精密にはいくまい!?」
そして、魔王は不意に笑みを止める。
表情に残ったものは、静かな、そして大きな、威圧。
「良いだろう、舐めてかかった非礼を詫びるぞ、聖職者。俺の能力を見せてやる」
魔王は、黄金の大鎌の柄を地面に押し付け、しっかりと固定するように埋めていく。
「そこの小僧、先天性魔術保持者だな? 計算外だった、法術なら詠唱中に気づくと踏んでいたが、集中しただけで発動する先天性魔術は流石に厄介だ。槍の聖女が中々に手強い上、コンビネーションが良すぎる。危うく地獄へ還る所だった」
何か来る――――大鎌から放たれる無言の圧力に、全員が身構え、
「良いコンビだ。恐らく、占星、火占、手相、タロット……どれを占っても、貴様等は良い夫婦と出るだろうな……」
魔王が、陰湿に笑った。
「だが、小僧――――今度は己を守らねば、死ぬぞ?」
瞬間、大鎌の刃が膨らみ、弾ける――――そう、誰もが錯覚した。
だが、刃が弾けた訳ではない。
溢れだしたのだ。
その大鎌に封じられていた全てのモノが、丁度魔女の大釜を引っくり返したように。
そして、それは全て魂。
剥き出しの、かつてあの狩除公に殺され、隷属させられた哀しき者共。
獣、人、天使、悪魔、エルフ、神族、ありとあらゆる雑多な魂が、狂ったように吐き出され、泣き喚きながら泥土のように周囲一体を薙ぎ払う。
――――『死霊汚濁』――――
それが、この技とも呼べぬ所業の名前。
ある魂は大地を穿って散り、ある魂は家へ喰らいついて爆散。
とにかく周囲に存在するモノ全てが敵だと、死霊達は手当たり次第に破壊していく。
間近にいた聖女など砲口にしがみついているも同然。
やや離れていた二人の聖騎士など、形すら残すも憎い。
吹き荒れる死霊の絶叫は、周囲十メートルを抉り抜き、潰し尽くし――――ようやく終わった。
舞う土埃の中、黄金の鎌を握っていた魔王は、静かに面を上げ、惨状を見渡す。
その手の中、存在する力を失い、音もなく砂に還る大鎌は、中に魂を内包しなくなったために。
消える黄金の鎌など気にも留めず、砂を払い始めた海風の中、魔王は感嘆を漏らす。
立つ影は、魔王を抜いて二つ。
人間してみれば小型ミサイルを打ち込まれたに等しい今の攻撃の中、二人も生き残ったという、その奇跡。
しかも、そのうち一人は最も間近にいた聖女。
「と、すれば……死んだのは……」
もう一つの影に視線を向けた魔王は、やはりか、と笑った。
風が払った土埃の向こう、一人の聖騎士が膝を突いて抱いていたのは、トマス・ベケット――――円卓を夢見た少年だった。
あの瞬間、トマスは覚悟を決めた。
別に、それは難しい事ではなく、至極当然の事。
見える範囲には、聖女が二人。
そして、男であり聖騎士である自分が一人。
なら、これ以外の選択が、果たして在るというのか。
迫る死霊の濁流に、まずトマスはヘレンの眼前に立ち、これだけの衝撃を遮断しきる法術を思う。
自分の力量など二の次。相手は魔王。自分は第三位聖騎士。
今の自分が勝てる道理など何処にもない。
ならば、自分が手の届かぬ領域の技を持ってくる以外、防ぐ可能性は皆無。
「“私は主のように、全てを受け止める”」
そうして思い浮かんだたった一つだけの術。
それは一瞬で死霊を受け止める壁として、その場の全ての聖騎士を包む。
「“石礫、裏切り、茨の冠、杭、十字架、死、復活――――私は全てを受け止める”」
今まで一度も成功した事もない――――ただの一度も試した事もないこの業だけが、唯一手の届きそうな救い。
「“信仰、祈り、予言、十二使徒、主の怒り、人々の咎、全ての贖い――――私は全てを受け、止める”」
だが不完全。
魔力が足りない。技量が足りない。精神が足りない。
「“強欲、肉欲、嫉妬、怠惰、貪食、高慢、憤怒――――私は、全て、受け止める”」
逆流する負荷は、仲間全てを守る結界からのモノ。
仲間の結界は、術者が死ぬまでは絶対に破られる事はない。
それがこの結界、自己を犠牲にする覚悟をした者のみが唱える法術“主は受け止める”。
「“私は、受け、とめ、る。受け める。うけとめ 。 けとめ ――――!!”」
詠唱は最早口から成されない。
体力を強引に魔力に変化精製。
声を出すための力も失いながら、なおも手を前に――――心を前に。
「“――――っ――――――――っ!”」
精神が足りない? そんな事は在り得ない。
魔力は足りるはずがない。技量が足りるはずがない。
この身は未だ至らぬ第三位聖騎士。
夢は遥か彼方の至高の円卓。
魔力も技量も足りるなら、この身はすでにそこに座している。
そこに座して魔王の首を獲っている。
故に、二つが足りぬは全くの道理。不条理などなく、歴然たる事実。
「“―――― !”」
だが、精神だけが足りないのは赦されぬ事。
我が心は強くあらねばならぬ。
我が心は気高くあらねばならぬ。
そうして、あの栄光の騎士達を目指して駆け抜けねばならぬのだ。
己の誓いすら守れず何が騎士か。
この程度の攻撃から、ただの二人の女を助ける事も出来ずに、それでなお夢を語れる腑抜けか己は――――!
結界はたわむ。どうしようもなく、絶望的な力の差に、たわみ、砕け、消えようとする。
だが消えない。砕けない。
守り抜く。
守り続ける。
例え、術者全ての力を使おうとも――――
目の前で全てを受け止めた少年を呆然と見ながら、それでも倒れた彼を咄嗟に抱き止めたのは、守られたのだと知っていたからか。
よく、わからない。
ただ、自分は全くの無傷で、煙晴れた向こうのエリザも無傷なのは理解出来る。
腕の中の少年は重く、力の抜けた体で支える事は出来ず、ただもつれるように膝から地面に倒れた。
膝の上には丁度少年の顔。
「あ……」
いつも、憎まれ口を叩いたそれは、しかしこの時に限って沈黙。
死んだのか。
死んでしまったのか。
わからない。
ただ、四肢からは血が溢れ出、つい先刻までは生きていた温もりがある。
意外にも、悲鳴は出なかった。
ただ、何か心の中がぽっかりと穿たれた感覚。
だから、そこに涙も、悲鳴も、全てが飲み込まれてしまったのだろう。
「トマスちゃん!」
気づけば、エリザがすぐそこで少年の体を見ている。
口元に手を当て、息をしていない、と何かよくわからない呟き。
それから、トマスの心臓に手を当て、瞬間的にエリザは立ち上がった。
魔王を強い眼差しで睨みつけ、何かに耐えるように唇を噛み締める。
エリザの沈黙はほんの一瞬。瞬きをするような一瞬で、彼女は槍を装填するように構えた――――トマスに向かって。
「え……?」
声はそれ以上続かない。
とん、という軽い音と共に、聖なる槍の穂先はトマスの心臓に突き立っている。
え――――と、ヘレンは再度呟き、そして、聖女が吼えた。
「“祝福の槍よ、盲たこの者の命に、復活の祝福を――――!”」
同時、赤い穂先が、身悶えるようにその形状を揺るがす。
魔王の肉を裂いた刃は、固体から液体へ、色も鮮やかな鮮血になったそれは、少年の体へと流れ込んでいく。
「ご、ほっ……あ、が……」
「と、トマス!?」
神子の鮮血――――かつて、神の血を受けた聖杯の槍は、今尚その血を貯え続けている。
そして、その効果は、どんな瀕死の生命であれ再生をもたらす事。
例え、あと鼓動一つで死ぬような命であろうとも、この槍の前に死は訪れない。
「愚か、もの……副団長、お前……」
その聖なる力を失う事を、代償に――――
「大丈夫にゃ」
けれど、エリザは微笑む。
責めるように一瞬だけ睨み、そして気を失った少年を見つめ、そんな事は関係ないのだと、安心させるように――――微笑む。
「トマスちゃんが生きてる方が、ずっと大事だもんね」
そして、最早穂先を失った棒と化した聖槍を、魔王に構える。
「さあ――――地獄へ還してあげるよ、魔王」
その姿は先ほどと全く同じで、聖槍の加護を失ったその姿に篭る力は、先程の面影もなく。
だから、聖女は笑った。
笑って、小さく、呟いた。
「ヘレンちゃん、逃げて……」
「え……、あ、エリザ、さん……?」
エリザのその台詞は酷い。酷すぎて感情が理解を拒む。
だってそうだ、先程までの強さを失った彼女が、いかにして一人で魔王と戦うと言うのだろう。
待ち受ける結末は、誰にでも明白――――死だ。
泣きそうな、いや、事実泣いているかもしれない顔で、ヘレンは彼女を見上げた。
それでもなお、
「大丈夫にゃ」
そこにいる槍の聖女は、にっこりと微笑んだ綺麗な顔。
「あたしが死ぬなんて事、絶対にないからねん」
いつもの口調。いつもの軽口。
「それよりも、トマスちゃんとビビアナちゃんを連れて、遠くへ。人質に取られちゃったら、あたし馬鹿だから困っちゃうよぅ」
その裏に、一体どれほどの強さがあるというのか。
一体、どんな精神力が、どんな信念が、彼女に微笑みをさせるのか。
「エリザさん……でも、でも……っ、無理ですよ……!」
心がいかに強くても、どうにも成らない事もある。例えば今がそうだ。
どう足掻いたって、一人であの魔王に勝つなんて不可能だ。
でも、二人なら。あるいは、このヘレン・アースエルの身に眠れる力が昨日のように目覚めれば――――
そう言い募る少女の瞳を受け、エリザベートが口にした事は、
「トマスちゃんって、凄いでしょ?」
そんな、何の関係もない事だった。
「あんな法術、第三位が使えるはずないんだよにゃ。第五位でもないとさ、あんな風には使えない。ましてや、不完全な発動なのにあたしとヘレンちゃんの二人を無傷で済ませるなんて、第五位でも無理な事だよ。もちろん、あたしでも……」
その言葉に、胸が詰まる。
一体何を言えというのか、今目の前で好きな人を自慢する――――ただの一人の女性に。
「ほんと、鈍感なんだから……。でも、そんなとこが、どうしよもなく好き……」
うん、とエリザベートは、聖女に戻って笑った。
「良い、ヘレンちゃん? あたし達聖人っていうのは、希望の化身なんだよ。だってそうでしょ? きっと世界中の人は皆、聖人って言えば、美人でカッコ良くてどんな無理難題もすぱすぱーってこなす人を思い浮かべるはずだよにゃ?」
そう、それが理想の聖人の姿。
「でも、本当はそうじゃない。あたし達はとても不完全で、とても不安定――――でも、そう言えるかにゃ? あたし達に助けを求めれば、神様が助けてくれるようにお救い下さるって、その一心で駆け寄ってきた人に、あたし達はただの人間だから無理だよって、言える?」
現実は理想と食い違い、聖人とてただの人。
得手もあれば不得手もある。
いや、人間である以上不得手の方が多く、とても不器用。
でも、そうだとしても、助けて欲しいと、そう言って縋ってくる人が居るのなら、
「あたしは言えない。そして、それは聖人が決して言っちゃいけない事」
だから傷つく。無理な理想を推し進め、成そうとするなら血塗れになる。
それでも、その向こうがあるから、彼等は前に行く。
理想を持って、人々の希望を背負って。
「だからね、ヘレンちゃん。聖人が“無理だ”なんて絶対に口にしちゃいけない」
重きを背に、なお前に行く彼等の顔を彩るのは、常に最強の思いを乗せた表情。
それは威厳に満ちた顔であったり、怒りに満ちた顔であったり、
そしてまた、それは、
「あたし達は、どんな時でも、こうしなくちゃいけないんだよ?」
それは、見る者全てに希望を与えうる、幸福そうな微笑みである事も。
「絶対に、あたしは生きて帰る――――約束する」
そう――――
約束はたくさんしてある。パパにママ、妹と親友、それから好きな人。
思えば、自分の好きな世界全部に約束してある。
週末には買い物の予定もある。トマスちゃんが帰ってきたら、お弁当作ってもらってピクニックに行こうなんて計画していた。
絶対に、生きて帰る。
それは自分自身の偽らざる思い。守るべき誓い。
「だから行って、ヘレンちゃん。あたしの約束を、少しでも強くするために」
その言葉に、一体誰が首を横に振れるというのだろうか。
「っ……」
何度も、何度もヘレンは頷き、トマスの肩を抱く。
涙を堪えて駆け出し、後ろを振り向けば――――真っ直ぐ前を見据えたまま、約束を多く抱えた背中がある。
何て強さ。
いつか追いつきたいと、そう思わせる背中。
何て綺麗さ。
いつかああなりたいと、そう思わせる微笑み。
「死なないで……っ」
祈る思いは小さく呟かれ、必死に、ヘレンは駆け出した。
魔王は全てが終わるまで待ち、少女と少年が消えてから、小さく笑いを零す。
「高尚な言葉だ。立派だったぞ、槍の聖女よ」
「はにゃん? それはどーも。何か、文句あったかな?」
力失せた槍を構え、一向に表情を崩さない聖女に、まさか、と魔王は言う。
「実に良い心掛けだ。心が震える思いだよ。これならカジシのあの嬉々とした物言いも当然だ」
「カジシ……? もしかして、十年前にこっちにいた魔王かにゃ……?」
「ああ、そうだ。あいつは俺の数少ない友人と呼べる奴でな。お前達の話を聞いて酒のつまみにしたものだ」
その時を思い出すように魔王は瞼を伏せ、次に開けた時には、真っ直ぐに聖女を見据えた。
「改めて名乗ろうか。俺の名は狩除公センジュ……どちらかと言えば、こちらで読んで欲しいものだが、どうかな?」
エリザは小さく頷きを一つ。
「オッケー。あたしはエリザベート・ガイウス・カシス。聖女ロンギヌスって言うより、友達感覚でエリザって呼ぶと喜ぶよ?」
「口の上手い聖女だ……。どこかの五月蝿い魔王を思い出すよ」
センジュは苦笑を零し、空手に新たな大鎌を握る。
「だが、先程の話しに上った約束の数々。気に入った――――我が大鎌の内に眠る死霊にするのは勿体無い。特別に、」
そうして、魔王は大きく鎌を振りかぶる。
「その個を維持したまま地獄へ案内してやろう!」
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