教会につくと、ヘレンはまずトマスを礼拝堂の椅子に寝かせ、ビビアナの居る二階に行く。

「ビビアナさん!?」

ベッドの上に声をかけても、まだビビアナは目覚めていない。

起きた直後に見た時のまま、寝返りもしていない様子で、昏々と眠り続けている。

「二人も寝たままじゃ、担いで逃げるのに時間がかかりすぎるよね……」

車が運転できれば問題ないのだろうけど、生憎とエンジンのかけ方くらいまでしか知らない。

「そうすると……」

トマスとビビアナ、どちらが目覚める確率が高いだろうか。

エリザは、トマスとビビアナを連れて逃げろと言った。トマスは確かに戦力にならないだろうけれど、ビビアナは違う。第五位聖騎士なのだから、戦力にならないはずがない。

つまり、エリザはビビアナが目覚めない、もしくは、目覚めてもすぐに動けないと見込んでいるという事だ。

「っ、トマスを起こさないと!」

だが、どうやって。

トマスの体は心身ともに極限まで酷使されている。

何とか回復させないといけない。だが、回復法術(ヒーリング)は使えないし、魔力を共有してやる方法なんて知らない。

どうしてこう自分は無力なのか。

ともすれば泣きそうになるのを堪えながら部屋を見渡し、ふと、ベッド脇に置いてある三つ鞄が目に止まる。

「あ……」

反射的にそれに飛びつき、ひったくるような勢いで三つ全部階下に持っていく。

「ルルドの水! あれがあれば魔力は回復出来るから、目が覚めたらトマスが自分でヒーリングかければ……!」

自分の思い付きを言語化してまとめながら、礼拝堂に駆け込む。

するとそこには、心臓を押さえ、苦しげに息を吐きながらも椅子に座っている、少年の姿。

「あ、お、起きたの、トマス……?」

声もなくトマスは頷き、今にも倒れそうな体で、ヘレンの持つ鞄を見る。

「あ、今すぐルルドの水を出すから……!」

鞄三つを礼拝堂に投げ出し、片っ端から開けていく。

一つは、短剣が大量に詰まったトマスの物。

一つは、極一般的な短期戦用装備の詰まったヘレンの物。

一つは、ルルドの水が大量に入ったエリザの物。

「あ、あった、これだよね!?」

真鍮製の小瓶に入ったそれをトマスに手渡し、硬い蓋を開けてやると、トマスはそれを震える腕で口元まで持ち上げ、ゆっくりと飲み込んでいく。

同じように二つ目も飲み、ようやくトマスは吐息と共に小さく、

「“主が導き、英雄は尚も立ち上がる――――”」

ヒーリングのための詠唱。

数十秒間、長く白光した法術は、出血が目に見えて止むのと同時に止まった。

それから、今度は自分でルルドの水の小瓶を手に取りながら、トマスはヘレンにぐったりとした顔を向ける。

「それで、どうして、オレは、ここに……? いや、ロンギヌスで助かったのは、覚えてる……」

「そ、それは……」

ヘレンの顔に浮いた逡巡に、トマスは舌打ち。

「くそ……あの馬鹿猫一匹なんだな……?」

責める刃のような言葉に、ヘレンはついと涙を浮かせ、弱々しく首を振る。

「だ、だって……絶対、生きて帰るって……約束、したから……」

それに――――トマスの顔を少しだけ見つめれば、あの時のエリザの顔が鮮明に浮かぶ。

「トマスと、ビビアナさん……エリザさんにとって、すごく、大切だからって……だから!」

目元を押さえ、啜りを上げるヘレンを、トマスは溜息を吐いて睨み。

「愚か者め」

斬るような一言。

コートを脱いで、中の折れた短剣を抜き取りながら、鞄の中の新品を装着し出す。

「だって……だって、あんな顔で、言われたら……! 嫌だ何て、言えないじゃない! トマスは裏切る気なの!? 逃げてって、生き延びてって言った、エリザさんの優しさを!」

……私だって残りたかった。叶うならあの場で一緒に戦いたかった。

だってそうだ。自分だって聖女であり、昨日は一度、あの魔王を倒している。

もう一度あの力を出せれば、こんな事には――――!

そんな自責の念を、トマスは小さな、本当に小さな苦笑で、笑った。

「お前の事を愚かだと言ってる訳じゃない。自分に対して言ってるんだ」

びくりと、その台詞に肩が震える。

「あの程度の攻撃を防げず、瀕死になって副団長に助けられ、挙句に魔王に勝てるはずの力を奪い、自分は機嫌良く失神と来た」

今度は、トマスの失笑が聞こえた。

「笑える――――何て未熟さだ」

「そんな、こと……だって、あれは、第三位に出来るような術じゃ、ないって……」

そうだな、とトマスは頷き、捻じ曲がった短剣を一本、床に落とす。

「だが、オレは第三位聖騎士のままで居たいんじゃない。オレはもっと強くなりたい。言っただろ、昨日?」

一本、また落ちる刃金の音。

「世界中の全ての人を救う……救いたいと、そう思っている。本気でだ」

金属の泣き声に続く、少年の独白。

「昔、アーサー王の話を読んで酷く憧れた。一つの国のため、命を賭けて戦った一人の王と、それを慕って集まった多くの騎士達。結末は、なんて事のない悲しい終わりだった」

一本、また一本と落ちる短剣は、今まで彼が少女に見せなかった、本当の心。

「だが、命を賭けるって事の尊さは、あの本を読んだ人全てが解るんじゃないだろうか? ああ、こういう風に命を賭ける事が出来たらって、夢想するんじゃないだろうか?」

短剣の落つる音が止み、それでも、耳に痛いほど穏やかな声は続く。

「少なくともオレはそうさ。そうして、じゃあ、オレの命を賭けるに足るモノって何だ? そう考えた訳だ。案外、答えが出るのは早かったし、その答えはどんどん増えてもいった」

少年が描いた思い。

考えた時間。

悩んだ日々。

たった一つの絵本から出発したと言っても過言ではない、トマス・ベケットという名の物語。

今まで生きて、たった十八年分のその物語に記されたモノは、それでも数え切れるものではない。

ただ、暴力的な量の時間の中で、決して、話の主軸は移ろわない。

「答えは単純だ。世界なら、自分の命を賭けるに足る――――これ以上のものはない。それも、どうせなら憧れ続けた円卓の騎士として……一つの国ではなく、世界を守りたい」

そう言って、最高の騎士を夢見る少年は、短剣だらけの衣を身に纏い、礼拝堂の十字架に背を向ける。

「オレは行く。副団長……エリザ一人に戦いを任せて逃げるなど、そんな安物を目指す気なぞない」

ドアに向かうその背中。

「オレが目指す、世界を救う騎士は――――そんな安い幻想(ユメ)じゃない」

どうしてと、思う。

どうして、そんなに――――ヘレンは、小さく嗚咽し、その背中を見上げる。

 

――――どうしてこんなに、私の周りには凄い人が多いのだろう?

 

思い。悔しくなって。このままじゃ駄目だと、そう思い。

「待って、トマス……」

小さな、震える声でその背中を呼んだ。

騎士の足取りは、それでゆっくりと、止まる。

しかし振り返らない。当然だ、あの騎士はこれから、戦いに行く。

未練などない。あるはずがない。

何故ならあの騎士の未練は、魔王と聖女の決闘場、あそこに全て置いてきたのだから。

「…………」

どうした――――そう、騎士の沈黙が問うている。

拳を握り締め、震えを飲み込んで騎士の背中に一歩踏み出す。

――――恐れはある。

聖女だって人間だ。死ぬのは怖い。

まだしたい事だってたくさんあるし、やるべき事も山積みだ。

――――それでも……。

「私も……行く」

騎士の横に並べば、彼はようやく、こちらを見据える。

「付き合わなくても良いんだぞ」

「なに、それ?」

情けなく震える声。

それでも、譲れぬモノに胸を張って答える。

「私は、死ぬつもりなんてない。絶対に、生きて帰ってくるわよ……」

――――それに、悔しい事に、この手が届きそうな強さの相手に、私は励まされた。

身体的な強さは手が届きそうなのに、心が負けた。そんな自分が許せない。

だから、こっちからも何かしてやらないといけない。

それも、相手が全身全霊の言葉を投げて寄越したのだから、生半可なものでは負けてしまう。

あちらが夢なら、こちらも夢。

 

正しい道を踏み外した者に導きを

瀕死の怪我を負う者に復活を

心が凍えた者に確かな温もりを

飢餓に喘ぐ者に多くの恵みを

強大な敵に立ち向かう者に強き救援を

大きな絶望に俯く者に、より大きな希望の救いを

 

あの日、自分が目指した夢の形を思い浮かべ、トマスの横顔を見据える。

「トマス、あんたは認められないかもしれないけど、私だって聖女だよ。だから、私にだって命を賭けたい事くらい、ある」

息を吸い込み、胸に手を当てて、今日までの十六年間で最も強く、自分の夢を叫ぶ。

「強大な敵に立ち向かう者に、それよりも強き救援を――――トマス、私は、貴方の救援になる」

言葉を受けながら、トマスは一歩前に歩み、止まる。

「ヘレン」

そして放れた呼びかけは、とても静かで、だからこそ心に染みるように響く、真っ直ぐな声。

「これが終わって帰ったら、お前に伝えたい事が出来た。よく覚えておけ」

後は交わす言葉などない。

全ては、生きて帰った後に話そう――――そう無言で言って、また歩き出す背中。

「しっかりと覚えておくからね、トマス」

それを追いかけながら、今なら少し、エリザの気持ちが解る気がした。

――――なるほど、これなら好きになるかも……。

 

Exit & Entry

 

幼い頃だった。

周りにある木々が、とてつもなく高いものだと思っていたほど、幼かった時。

少女は、両親と一緒に空を眺めている。

蒼く澄んで、透明に近いほど気持ちの良い空。

ただ在る。きっと、空にそれ以上の事はないだろう。

それは在るべくして在るのとも少し違う。誰かに命じられて、特にする事もないからそこに在る。そんな感じ。

「世界に果てなんかない……そんな空だわ」

空を見上げて、母親が言った。

それは嘘だと、少女は答えた。

――――だって、あんなにも大きな壁があるじゃない。

青空を指差して、そう口にする。

「あらあら、あれは壁じゃないのよ?」

母親が、微苦笑しながら少女を諭す。

それに、少しだけ考えてから、少女は頷いた。

――――やはり、あれは壁。けれど、きっと透明な壁で、ほとんどの人が壁だなんて思えないようになっている。

上手く作られた壁だと、何度も頷く。

凄い壁。きっとあの向こうには、言葉でもいえないような素敵なものがあるに違いない。そうでもなければ、あんな壁は必要が無いから。

――――だからきっと、あの向こうには忘れられた楽園があるに違いない。

意味もなく、根拠もなく、漠然とした思い込み。

蒼く澄んだ、透明に近い空の壁。

世界中の人々から何かを隠している、凄い壁。

見上げれば、いつも少女を狭苦しい世界に閉じ込めている。

そして、夢は優しく、囁いてもいる。

――――さあ、そろそろ、起きよう……?

 

 

――――痛む体で、とても、とても懐かしい夢を見た。

傷ついた体は、少しの力では動かず、何とか首を動かせば、頭上には晴天の蒼。

夢と同じ、澄んだ色。

そう、頭の上には、生まれた頃からずっと、空が在った。

生まれてから二十六年間、頭の上には空が在って、温かい陽射しや、涙のような雨、白い不思議な妖精が降って来ていた。

見慣れた光景だった。

頭上を仰げば、そこには必ず空があって、見上げる度に、ああ、世界に閉じ込められているんだなと感じていた。

――――突き破って飛んで行きたいと、願っていた。

幾度、そんな事を夢想したのだろう?

両の指では足りない数、年の数よりも多く、西暦よりも多い数。

突き破った空の向こうには、忘れられた楽園があり、そこは神の愛で満ちている――――そうなのだと、二十六年間信じてきた。

自然と、微笑みが唇を彩ってしまう。

二十六年間の答えが、そこにある。

行かねばならない、逝かねばならない。

寂しいけれど、逝かねばならない。

行きたくないけど、逝かねばならない。

ココロが叫んでいる。

逝くのだと、叫んでいる。

あの日の約束。

あの日の誓い。

あの日から在った十一年間の自分、その全てを否定したとしても、逝かねばならない。

今行かねば、これからの時の流れに何の意味があるというのだろう?

そこに意味など無い。

だから、逝こう……。

空を見上げれば、そこには……生まれてからずっと見上げてきた、いつも通りの青空が在った。

 

Exit & Entry

 

「あ、は……、ぐぅ……っ」

数秒、意識が飛んでいた。

そう気づいた時には、自分の現状も把握している。魔王に首を押さえられ吊り上げられた体勢、このままでは首の骨を折られる――――より先に、その大鎌が首を狙う。

「させ、ない……!」

気を失っても握り締めていた槍を、指の動きだけで反転。大鎌を握った魔王の掌に柄を打ちつけ、返す動きで首を掴んだ手首を打ち据える。

「げほっ、が、ふっ……!」

先刻意識を飛ばした鳩尾に受けた打撃の余韻が、地面に脚を着いた途端に襲う。吐き気に咽れば、吐き出されたのは血色の唾液。

槍を支えに何とか痛みをやり過ごし、前を睨みつければ、すでに突進を始めた魔王の姿。

限界異常の酷使に震える手足は、その一撃を防ぎきれるか解らない。

だが――――

「負ける訳には、いかないのよ――――!」

流麗な槍捌きの面影は見るもなく、力任せに振られた槍は魔王の大鎌と激突、弾かれ、持ち主ごと吹っ飛ばされる。

「おっ、おぉおおおおお――――っ!!」

膝を屈しそうになる己の体を雄叫びだけで踏み止まらせ、前に、前に槍を振るう。

最早精密な攻撃や受けなど出来ない。出来るのは、とにかくがむしゃらになって槍を振りまくる事、それのみ。

不条理な、と体からくる痛みの抗議には、もう随分と昔から慣れている。

――――大丈夫、体の痛みだけなら耐えられる。

何故ならば、聖女たるこの身は、

「物心ついた時から、戦ってんだからね……っ!」

何度大鎌と競り合っても、弾き飛ばされ負傷が重なるだけ。

それでも止められない。

まるで病に冒され、気が狂ったかのように、前に前に自分の体を苛め続ける。

「うあっあああああ――――っ!!」

文字通り削られていく体。

腕に脚に胴に顔――――およそ女性が傷つけたくないと思う場所はほとんど血塗れ。

後に残る傷痕は、どれだけ将来の夫を落胆させるか。

そんな思いに、思わず苦笑が零れそうになる。

こんな時でも自分は自分だと、改めての実感が腕に力を込めた。

打ち据える一撃一撃が思うは、今日まで全ての約束。

次第次第に苦痛を訴えるのを諦めた体は、約束を守らせてやろうと付き合ってくれる。

体も、ようやく心に追いついた。

痛みなど感じる余裕はない。

集中しろ。

どうすれば後一分一秒を生き残れるか。

刹那の時だけで良い。

約束をそれだけ長く守れるというなら、どんなに見苦しい姿にでもなってやる。

そうだ、誰だって知っている。

約束は守らなくちゃいけないものだって、小学生だって知っている。

「あ――――っ――――!!」

瞬間、全ての音が消えた。

いけない――――全てが遅延し始めた感覚の中で、呟きが零れる。

目の前、魔王が防御を無視して、大鎌を大きく振りかぶっている。

次の瞬に放たれる一撃は、容易に残された力を貫いて、この身を両断するだろう。

後方に飛び退いて逃げる?――――無理だ。もう脚が動かない。

防御しきる?――――不可能だ。魔王の膂力は恐らくビルのコンクリートすら切断する。

諦める?――――論外だ。約束がある。

ならどうする?――――祈れ。

「っ、神様……!」

――――隕石か何か降って来い! エィメン!!

そして振りかぶられた大鎌が放たれる直前、蒼の空から、何かが降って来た。

 

視認範囲まで着た時、すでにエリザは死に体だった。

それでも諦めていないその姿に、一瞬だけ見惚れ――――

「ヘレン、飛ぶ! 手伝え!」

一瞬、二人の視線が交わり、それだけでヘレンはパートナーの意志を看破し、頷いた。

「“天は主のものにして我も主のものなり――――!”」

軽い跳躍で、トマスは丁度胸の高さ辺りまで跳躍。

そして、その後方で拳を振りかぶったヘレンが、

「間に合え――――っ!」

拳撃。それはトマスの蹴撃と必然の装いで噛み合い、天の高みまでの大飛躍となる。

初めて使ったコンビネーションがこの出来とは――――という、二人の会心の笑み。

トマスは中空で身を捩って体勢を整えつつ、コートを弾いて純潔銀の短剣を二十本以上弾き出す。

先天性魔術(サイキック)視認力場(ウォッチャー)”――――それが、トマスが生来持っている力の名前。視認した範囲、もしくは対象に好きな方向の力をかける事ができる。

例えば、空中に飛び出した短剣一本一本を停止させ、照準を黒衣の魔王へ。

「“主は万軍の導き手、我は百刃の担い手なり――――!”」

打ち出す刃全てを聖化。敵が大鎌を振りかぶったその瞬間には、打ち出す準備は万端だ。

「馬鹿猫から離れろっ! 聖弾雨(ロウ・ティアーズ)――――!

轟然と打ち出された二十数本の刃は、いずれも必殺を念じられた刃金。

魔王が気づいた時にはもう遅い、その身をズタズタに突き穿つ――――

 

目の前、突如降り落ちた見慣れた純銀の短剣は、最良のパートナーと信じる少年の物。

それを呆然と見ながら、どうして逃げなかったのよ――――という怒り。

その視線の中で、魔王は胸部に突き立った一本の勢いで後方に弾き出され、代わりに、少年が重い着地音と共に立ちはだかった。

それを呆然と見つめて、どうして来てれたのよ――――という喜び。

「トマス、ちゃん……」

「無事そうで何よりだ。ほら、ルルドの水、ヒーリングはオレがするから飲んでおけ」

コートのポケットから真鍮の小瓶を投げ渡しながら、少年はさっさと手を翳して回復させていく。

そのぶっきらぼうな仕草は、とても腹が立つ。

「トマスちゃん! あたしは逃げろって言ったのよ!? どうして、どうしてこんなとこにいるの!?」

「五月蝿い」

短い返答。

見ればヘレンも傍らへ駆け寄って、後ろに倒れこんだ魔王を注視している。

それに対しても責め声をあげようとしたエリザに、少年は溜息を一つ、言い聞かせるような瞳で、小さく呟いた。

「どうして、飯の事以外でお前の我侭を聞いてやらねばならないんだ、エリザ」

大体の傷を塞ぎ終え、トマスはエリザに背を向けて、魔王を待つ。

「そ、そういう問題じゃ……!」

背中に文句を投げつけても、何の効果もない。

元より、そうする事が当然と知る少年は、両手に短剣を構え、ただ真っ直ぐに敵を見据えながら、

「悔しかったら家事の一つでも覚えて見せろ」

小さな笑いを零した。

――――それに、思わず声が詰まる。詰まったら、後はもう、文句が出てこない。

見れば、魔王はすでに立ち上がりつつある。

エリザの体は傷が塞がり、微かながら力も戻っているが、槍がない以上万全ではないし、魔王相手にはかなり分が悪い。

けど何故か、先程よりも何とかなる、ような気がする。

「ちぇ……」

知らず、そんな舌打ちが零れた。

「あたしってばカッコ良いと思ってたんだけどにゃぁ」

ルルドの水を呷り、瓶を放り捨てる。

前を見据えれば、短剣を抜き取る魔王と、トマスとヘレンの頼もしい姿。

「そちらの準備は良さそうだな、聖職者諸君?」

魔王が告げ、再び激突が始まる――――その時だ。

 

「楽しそうな事していますわね。よろしかったら、わたくしもお仲間に入れて下さる?」

 

そんな、プライドの高さを物語る物言いが、頭上から。

見上げれば、天空に白翼を広げる一人の聖女の姿。

「び、ビビアナちゃん!?」

槍の聖女の驚愕に、翼の聖女はくすりと口元に手を当てて笑い。

「まあ、駄目といわれましても、強引に入りますけど――――こんな風に」

「だ、ダメ――――っ!!」

エリザの悲鳴と共に打ち下ろされるのは、バスケットボールほどの光の砲弾。

並みの悪魔なら一撃の下に焼き穿つそれに、魔王は舌打ちを一つ。

「俺を舐めるな、ビビアナ!」

大鎌の一閃が、光弾を四方に弾いて飛ばしながら、魔王は忌々しげな顔で怒号する。

「いかに俺が“王”でなかろうと、あの小僧程度の攻撃でそこまでダメージを受けるものか! 貴様は一度負けているだろうが!」

邪魔をするなと吼える魔王に、ビビアナは涼しい顔で自慢の銀髪をかき上げ、

「次は勝ちますわ」

さらりと言った。

対し、魔王は忌々しげに舌を鳴らす。

「はっ、ほざくな。貴様の体はすでに崩壊寸前だろう。死霊十匹詰め込んだ上に俺まで負荷をかけたのだ。膨らみ過ぎた風船は破裂する――――貴様の体も同じであろう。その状態でその翼を展開するとは、自殺行為だぞ」

「ええ、確かに……少しずつズレていますわね」

言いながら、確かめるように拳を開閉し、それでも翼の聖女は笑う。

「でも、貴方を倒してエリザを守るには、充分ですわよ?」

それは、とても綺麗な、微笑みの在り方。

――――無事に帰ると……エリザとの約束が、あったのですけれどね。

だが、死力を尽くさずして勝てる相手ではない。

自分の体を操作しようと集中すると、確かにある体と心とのズレ。

それは、死に逝く事実を雄弁に物語る。

それでも捻り出した必殺の光弾は、今までの生涯で最も多く、最も強く。

頭上、見上げれば蒼い空は、とても綺麗。

眼下、見下ろせば何かを叫んでいる親友の顔。

くすりと、笑みが零れた。

「撃滅せよ……“燦然たる光の嵐(ブルイアン・ジャッジメント)――――!!”」

打ち下ろされる光弾の軌跡。

それは曲がる事を知らず、曲げる事も知らず、ただただ己を貫く主人の生き方を象徴するように、真っ直ぐ。

不器用なほどに真っ直ぐで、だからこそ美しい光の群れは、宿敵の周囲ごと焼き穿つ。

――――次が、最後の一撃――――

確信しながらの飛翔は、眼下、後輩聖女と後輩聖騎士、そして親友の前に。

光弾が炸裂した爆心地からの衝撃波が、どこか奇妙に歪み、逆向きに溢れ出す。

前に戦った時と同じ。

必殺を込めた一撃一撃は、しかし魔王の一撃が凌駕し、周囲を薙ぐ。

魔王の必殺――――『死霊汚濁』の一撃。

「二度も、同じ間違いを……!」

荒れ狂う死霊の群れの只中で、ビビアナ以外の三人は完全に虚を突かれた形。だが問題ない、守りきってみせる。

舞い降りた瞬間から、天使の翼(エンゼルフィール)の結界能力を全解放。

白翼を大きく広げ、背後の人へは指一本触れさせぬと立ちふさがるその姿は、守護天使。

ぎしぎしと軋む音を上げるのは、結界だけでなくビビアナの体の中からの崩壊。

だが、

「負け、ませんわ……!」

背後にあるのは大切な、大切な宝物。

それを壊すというくらいなら、己自身から壊れた方がマシ――――

 

――――ふと、十一年前を思い出す。

『なら、わたくしも今日から晴れて聖女って事かしら?』

『嬉しいですわね。常々思っていました所ですのよ? 世界で、一つでも多く死を減らそうって……ならうってつけではなくて? 人を殺す悪魔相手に、聖女なんて』

『つ、辛い道だにゃ……? 今ならまだ、辞退出来る、から……』

『あら?』

『わたくしの親友である貴女は、辞退しなかったのに?』

――――大馬鹿だにゃ――――

 

そんな事もあった。

あの時、エリザを泣かせてしまったから、あの微笑みを奪ってしまったから。

もう二度と泣かせたくないと、強くなろうと誓った。

エリザよりも先に死ねば、あの子はきっと罪の意識を持ってしまう。ひょっとすると、あの微笑みが消えてしまうかも知れない。

――――大好きな、あの微笑みが――――

そんな理由。

憎たらしいと思っていた微笑みは、いつしか、一番好きな微笑みになっていた。

ただそれだけ。

本当にそれだけで、エリザより先に死ぬものかと、日々を努力に費やして、終には第五位に上り詰め、エリザよりも天才と呼ばれるようになりもした。

だというのに、今の自分は……。

でも――――逝かなければならない。

あの日の約束。

あの日の誓い。

あの日から在った十一年間の自分、その全てを否定したとしても、逝かねばならない。

今行かねば、これからの時の流れに何の意味があるというのだろう?

エリザのいない世界、そこに意味など無い。

だから、逝こう……。

例え、世界で一番の親友から、大馬鹿と、屈辱的な言葉を投げかけられようとも……。

 

空を見上げれば、そこには……生まれてからずっと見上げてきた、いつも通りの青空が――――今日はとても近くに、在った。

 

 

死霊の汚濁が止む。

結界を維持し続けた白翼は、見るも無残に千切れ、砕け、折れている。

もう二度と、この翼で飛べはしないのだろうか?

そう思うと、少しだけ切ない。

その感情を押し殺しながら、圧縮に圧縮を重ねた最高の光弾を――――大鎌を持たない魔王に向かい、

「やだよっ、ビビアナちゃん――――!!」

微笑みながら、放った。

 

全てを込めた光弾を、魔王センジュは小さく笑みながら見つめる。

そこに滲み出るのは、嫌味のない確かな感嘆で、だからこそ魔王は――――その手に、三本目の大鎌を握りしめた。

「狩除公を舐めるな、人間風情――――!!」

最速で振り下ろされる黄金と、光弾とが激突する。

だが、今度は四散しない。一つの塊のまま、真っ直ぐに押し込んでいく。

「ぬっ、うぅぅぅ……!!」

鎌が揺らぐ。

数百の魂を詰め込み、強化された魔王の得物が、たった一つの光弾に悲鳴を上げる。

「俺は……っ、地獄に堕りし堕天使軍の、魔王なるぞっ! 神に弓引いた俺の力、この程度で、」

刃がヒビ入り、終に砕けゆく、その刹那、

「止められるっ、ものか――――!!」

――――白き光弾もまた、その力を終え、淡い残滓となって消え失せた。

後に残ったのは、大鎌を振り切った姿勢のまま、隻腕となって黒衣をたなびかせる、魔王のみ。

「はあぁぁ……っ!」

吐き出される呼気は荒く、体内が白熱したのか、蒸気を上げている。

消耗は激しく、今のままでは上級悪魔にも遅れをとるだろう。

だが、勝敗は、魔王の勝ちだ。

そんな――――ヘレンの声が、虚しく響き、

「遅かった、ようですね……」

上等のヴァイオリンを鳴らしたような声が、悲しげに応えた。

全員が振り返れば、二人の第五位聖騎士が、静かな表情でビビアナの下へ歩み寄って来る。

そして、ヒュー・ベケットはビビアナの所で立ち止まり、グレイス・ファーロングはさらに前へ。

「ヒューさん、ビビアナさんを」

「解りました。お気をつけて、封印前に殺さぬよう」

「気をつけましょう」

淡々と言葉を交わし、ヒューは膝を突いてビビアナに手を翳し、ヒーリングを唱える。

だが、それ以上は無言。倒れたビビアナの顔は青白く、すでに生命力の一片も残されていないかのように、静寂を守っている。

「た、助かる、よね……?」

震える声は、エリザからのもの。

「ビビアナちゃん、だって、約束、したもん……無事に、帰ってくるって、言ったもん」

くしゃりと歪んだ顔は、いつもの微笑みを浮かべようとして、ただただ涙を零す。

「嘘吐きは、うそつきは、天国、いけないもん……っ」

それ以上言葉もなく、エリザは顔を伏せた。

微笑みを維持する事が無理だと思ったのか、微笑む事も出来ていないと悟ったのか。

ただ俯いて、槍の聖女は嗚咽に震えた。

 

「ほ、ぅ……貴様、“あいつ”の子か……」

息も荒く、新たな敵を迎える魔王は、しかし笑みを持って大鎌を手にする。

対する麗人は、エメラルドの髪をかき上げ、

「言う事はそれだけ?」

冷たい声音は、剣そのもの。

その指で握り締めた殺しの道具は、鋭い閃きを寄越すだけ。

「なら、覚悟は良い?」

それ以上の言葉はない。

疾駆した刺突は、魔王が反応する間もなく肩を穿ち、脚を穿ち、腹部を穿って突き倒す。

「ごっ、は……! こ、ここまで体がついていかんか……っ」

「もう雑魚ね、貴方……この状態の私の相手にもならない」

油断なく、しかし絶対の力の差を持つその魔人の子は、凍てた瞳で魔王を見下ろした。

「一つ聞くけど、魔人(わたし)の父は、どこにいるの?」

「は……あいつか。あいつなら、地獄の女帝(アンリ・マンユ)の所で適当にやっているそうだ」

その答えに、グレイスは瞼を伏せる。

そうする事で、綻びそうになる顔を無理に沈思に追い込んで、

「そう、ありがとう」

麗人は溜息を吐き、背後、ヒューを振り返る。

「ヒューさん、封印を」

言葉に、ヒューは小さく首を振り、ビビアナの元から立ち上がった。

その手には、ラテン語の文字が書かれた紙片。

「列王記上、第六章から第八章まで……。ソロモンの神殿と宮殿のページです。あなた方魔王には、抗いがたいものでしょう」

「は、封印されるのは、困るな……」

「ええ、ですが……封印しなければ私達も抑えられませんよ。ここで殺した所で、貴方達は地獄へ帰宅するだけです」

言葉に、魔王は笑った。

「違いない」

もう抗う力もないのか、魔王は瞼を閉じ、

「――――とんだ火遊びになった」

永きになるであろう封印の眠りに、静かに堕ちていった。

 

Exit & Entry

 

ふと気づけば、世界はとても静浄。

まるで人がいないかのように、鳥も、獣も、虫もいないかのように、無音。

その中で確かに響く、酷く弱い心臓の音が、これからの自分の人生を物語っている。

――――もう、喋る力もないのだろうか?

少しだけ、話しをしたい。

まだ、伝えてない事が、伝えなければならない事が、残っている。

今、この世にいられる時間を延ばせるなら、少しだけ、延ばして貰えないだろうか?

主よ、父なる神よ――――少しだけ……。

 

――――良いよ。伝えると良い。

そんな声が、聴こえた気がした。

 

四人がかりのヒーリングも、最早なんの効果もない。

弱まっていく脈拍と、花桜ほど儚さの呼吸が、強さを取り戻す事はなく、次第次第に消えていく。

まだ生きているのに。

まだ、死んでいないのに。

きりと鳴る音は、エリザの歯噛みの音。

親友の体に翳された右手は小刻みに震え、左手に握った祝福の槍(ロンギヌス)を焦燥の瞳で見つめ、幼子のように涙を零す。

「なん、で……」

何故、今自分に与えられた癒しの力は、沈黙しているのか。

「なんで、よ……! 疾く、疾く直ってよ!」

奇跡の代償にその力を失う聖槍は、しかし朝日と共に再生の力をも持っている。

故に、次の朝日が来れば、まだ死んでいない親友の命は助かる。

だが、

「今、必要なんだから……っ、すぐに直ってよぉ!」

誰の目から見ても、死に逝く命はあと四時間の夕暮れも待てないだろう。

「お願い、だから……ビビアナちゃんを、助けてよ……っ!」

左手に握った聖なる槍は、それでも沈黙しか寄越さない。

さっき一人を助けたから、二人目は駄目なのか。

一日に二人も助けるなど、人の身には余ると、そう言う事なのか。

だが、どうしろと言うのだ――――選べるはずがない。

死に逝く命の値段などないし、どちらも本当に大切だと思っている。

だから、トマスを助けた事に後悔はない。

助けていなかったら、自分はきっとそれを後悔している。

でも、そのせいでビビアナを助ける事が出来ない。

助けたいのに、助けられない。

力のなさが腹立たしい。

何故、人一人を助ける事が出来ないのか。

「直れ、なおれ……お願いだから、直れぇ……!」

自分は聖女だ。

希望の化身。

不可能などないと、そう断言するべき者。

だというのに、所詮、口だけで終わってしまうのか。

「やだっ、やだやだやだぁ! いやだ、よ……っ!」

そんなのにはなりたくない。

自分は聖女として、最後の最後まで、理想でありたい。

魔王を相手に、生き延びる事が出来た。

守るべき約束通り、生きて帰る事は出来そうだ。

なのに――――世界で一番、生きて帰ると約束した人が死んでしまうなんて、そんなの嫌だ。

十一年前のあの日に、自分は思ったじゃないか――――

 

――――この道に巻き込んでしまった大好きな親友の死は、見取りたくない。

 

「いやだっ! 死なないで! 死んだら、一生赦さないんだからぁ……!」

誰も彼もが、言うべき言葉もなく、口を噤んでいる。

誰も彼もが、ただひたすら、生き伸びろと、そう魔力を使い続ける静寂の中、

「それは、困り、ますわ……」

小さな笑い声が、青白い唇から零れた。

「ビビアナ、ちゃん……!」

「えぇ……どうやら、まだ、少しだけ、話せるようですね……。あら? 目は、見えないんですの」

ゆっくりと持ち上げられた手は、その色褪せた瞳の上で止まり、残念そうな呟き。

その冷えた手に縋りつき、エリザは温めるように抱きすくめる。

「エリザ、ですわね? ええ、この手の感触は忘れませんわ……槍ダコが出来た、貴方の手……泣いている?」

「な、泣いてなんか、泣いて、なんか、ないよぉ……!」

明らかに震えた声で、何を言っているのか。

何より、一体誰に嘘を吐いているのか。

思わず、口元が綻ぶ。

「エリザ……貴女は、本当に嘘が下手ですわ。馬鹿猫……」

「猫って、言うな……ビビアナちゃん……」

いつも通りの、二人の会話。

ああ、いつも通りの自分で居るのだ――――それが、喜ばしい事。

言いたい事は、無限にある。

明日も、明後日も、ずっとずっと、語っていたい。

けれど、そんな夢幻はない。

ビビアナは言葉を選び、見えぬ瞳を、エリザに向けた。

「お父様と、お母様に、伝えて下さる? ビビアナは、」

微笑みで言いながら、ビビアナの瞳は、その場に居る全ての気配を見渡す。

最近妙に懐いた後輩聖女。

料理の上手い後輩聖騎士。

十年前から親友と呼べる間柄になった魔人の娘。

十年前は優しいだけの気弱な少年だった第五位聖騎士。

そして、一番大切な、大親友。

「ビビアナは、友達に囲まれて、心安く、幸せに逝ったと……」

「いやだ、よ……! 自分で、自分で言ってよ! あたし、そんなの……っ!」

泣きじゃくる顔を冷たい手に押し付けて、エリザはしゃくりを上げる。

もしも、涙に命を繋ぎとめる力があるとしたら、それだけでビビアナは助かるだろう。

「あたし、泣かないって、決めてたのに……、卑怯だよっ! これで三回目だよ!? また、またあたしを、泣かせて……っ!」

「ごめんなさい……本当に」

泣き声に返る言葉は、震えのない優しいもの。

「貴女から、笑顔を奪うのは、わたくしも厭だったのですけど……仕方がないじゃない。無事に帰ると、約束したけれど――――無理みたい」

本当に最後だから、伝えたい事がある。

今までずっと、少しだけ意地っ張りで、少しだけ照れ屋で、少しだけ素直でなかったから、云えなかった事がある。

「エリザ……わたくしね、ずっと言いたかった事がありますの……」

けれど、今なら言える。

「わたくし……」

可笑しい話。最後だから、素直になれた。

「エリザに出逢えて、本当に、良かった――――」

十一年。

長かった。

ようやく、言えた。

エリザが、何か叫んでいる。

でも、もう聴こえない。

言いたい事を言い終えたからだろう。

「もう少しだけ」は、もうお終い。

空を仰げば、今まで見えなかったのに、しっかりと色彩が見える。

こちらを覗き込む、エリザの泣き顔。

その涙の色と、その髪の色。そして、その向こうの空の色。

そう、見慣れた光景だった。

頭の上には、生まれた頃からずっと、空が在った。

――――けれど、その空はもうなくなる。

生まれてから二十六年間、頭の上には空が在って、温かい陽射しや、涙のような雨、白い不思議な妖精が降って来ていた。

――――けれど、その空はもうなくなる。

見慣れた光景だった。

頭上を仰げば、そこには必ず空があって、見上げる度に、ああ、世界に閉じ込められているんだなと感じていた。

――――突き破って飛んで行きたいと、願っていた。

幾度、そんな事を夢想したのだろう?

両の指では足りない数、年の数よりも多く、西暦よりも多い数。

突き破った空の向こうには、忘れられた楽園があり、そこは神の愛で満ちている――――そうなのだと、二十六年間信じてきた。

――――さあ、真偽の程を確かめに行きましょう?

自然と、微笑みが唇を彩ってしまう。

二十六年間の答えが、そこにある。

行かねばならない、逝かねばならない。

寂しいけれど、逝かねばならない。

行きたくないけど、逝かねばならない。

あの日の約束。

あの日の誓い。

あの日から在った十一年間の自分、その全てを否定してしまったから、逝かねばならない。

 

――――さよなら、エリザベート

楽しい想い出を、ありがとう――――

 

そうして、ただ一人だけ敬称をつけずに呼ぶ事の出来た親友が引き留める中、

翼の聖女は、惜しみながらも、その生に終わりを告げた。

「あ、あ……っ」

後に残った親友は何も言えず、しかし、何かを言いたくて、何かを言いたくて……

「ビビアナちゃんの、大馬鹿――――――――!!!」

ただ、泣きながら、絶叫した。

 

 

こうして、一つの命が終わりを告げる。

それは、何という事もない。

ただ、当たり前のように生を受けた誰かが、当たり前のように死んでいったという事。

生まれれば、死ぬ。

至極当然の事。

だが、当たり前と容認しても良い事なのか。

理不尽に奪われた命を。

死にたくないと、そう願う命を。

 

移ろいゆく時の中、聖女ビビアナ・ハイアバードの式は、聖騎士団本部の全員参加と、各地の聖騎士でかの聖女に所縁あった者が集まり、壮大に行われた。

棺の中で永眠(ねむ)る聖女の顔は、死ぬ間際に遺して逝った穏やかな微笑み。

共に添えられた白い花は、一本一本が聖騎士と遺族の手によって手向けられた者。

安くあれ。安らかであれ。穏やかであれ。幸福であれ。静かであれ。

蒼い、蒼い空の上での暮らしがそうであるようにと、誰もが花を添え、頭を垂れていく。

嫌いであろうと、好きであろうと、逝った仲間に告げる言葉はただそれだけ。

それが、聖騎士団の仕来り。

戦い抜いた仲間にかける言葉は、決して、侮辱であってはならない。

そうして、最後に献花する事になったのは、白いコートを礼儀正しく着込んだ、エリザベート・ガイウス・カシス。

彼女はただ黙して白花を手向け、その顔を見つめる。

云いたい事を伝えて逝った親友の、その安らかな寝顔。

云いたい事なら、こっちにだってたくさんあったのに、何一つ聞いてはくれず、親友は逝った。

だから、エリザは唇を震わせ、

「お疲れ様……お休み、ビビアナちゃん」

最後の花を、その顔の上に手向けた。

背筋を駆け上る震え。

だが、嗚咽は許さない。

泣かないと、自分は決めていた。

だから、泣かない。

棺に背を向け、席へと戻る。

その途中、ビビアナの父と母と目が合う。

二人は、小さく首を振り、唇の動きで、

『ありがとう……』

そう伝え、にっこりと笑った。

泣かない。泣くもんか。

 

けれど、心にぽっかりと空いた空白。

すっぽかされた約束の数だけ軽い、この背中。

いつもいつも心配しているべき人が、今はもう、心配の要らないところへ逝ってしまった。

この空白を埋める事は、当分出来そうもない。

曇り始めた墓標の丘で、親友の名の刻まれた真新しい墓石を前に立ち尽くす。

これがその証拠。心の空白分、記憶が曖昧。

いつ、式は終わっていたのだろう。

いつから、自分はここにいるのだろう。

頭上、見上げた空は黒く陰り、まばらに落ちだした涙雨。

墓は濡れていく。

地面も濡れていく。

木も濡れていく。

町並みも、丘も、世界が濡れていく。

独り立ち尽くし、天を仰ぐ聖女もまた、濡れていく。

「ビビアナちゃん?」

彼女はその名を呼ぶ。

「ビビアナちゃん……」

もう一度呼び、

「ビビアナ、ちゃん……」

また呼んでも、返事はない。

何度も何度も、その名は呼ばれる。

頬を伝う雫は、雨。

そう、彼女は自分に言い聞かせ、笑いながら、もう一度彼女を呼ぶ。

 

――――寂しいよ、ビビアナちゃん――――

 

降り来る雨を辿れば、雲を抜け、その向こうの蒼い空。

幼い頃だった。

周りにある木々が、とてつもなく高いものだと思っていたほど、幼かった時。

蒼い髪を持ったあたしは、両親と一緒に空を眺めている。

蒼く澄んで、透明に近いほど気持ちの良い空。

世界中の人々から何かを隠している、凄い壁。

見上げれば、いつもあたしを、狭苦しい世界に閉じ込めている。

 

ねえ、ビビアナちゃん?

あの空の向こうには、何があったの?

 

 

 

目覚めは、夢を見終わるのに似ていた。

ただし、夢は常世で目覚めは隠世。

幻実真逆に転じた世界は、その相貌もあまりに非現実。

蒼い空で造られた硝子の地面に、頭上を仰げば土色で造られた遠い空。

丁度、空に立って地を見下ろしているかのような錯覚は、何処までも続く遥かな夢幻回廊。

「ここは……」

夢見心地の呟きは、見渡す限りに澄んだ世界に消えていくばかり。

「いえ、そう……ここが、あの空の上」

私が、目指した場所。

忘れ去られた楽園の在処と信じた天空の果て。

けれど、此処には何もなく、誰も居ない。

「ここに来れば、エドベルト様に会えるとも思っていましたのに……」

清水のように澄んだ世界は、その実、荒涼として何も在らないだけ。

自分の行く手も去り手も蒼色と土色との交路があるのみの、無意味な果てが、自分の夢見た楽園なのだろうか。

「それとも、逝きそびれて迷ったのかしら、わたくし……」

一つ溜息を零し、ここに来た時から顕現したままの折れた白翼で、己を抱くように包む。

これで飛べたら楽なのに、と思いつつ、再び眼前を仰ぐと、

――――そこに“それ”はいた。

「まさか、そんな事ないよ、聖女ビビアナ」

世界を切り取ったように立ち、微笑んでくる“それ”。

「初めましてだね。君の事はずっと前から気に入っていて、始まりから見守っていたけど……君は本当に、私の期待を上回ってくれた」

「ぁ……貴方は……」

“それ”を呼ぶ音は幾つもあれど、“それ”を現す言葉はただの一つ。

微笑む声で、その名は告げられる。

「うん。その通り、さすがはビビアナ。私が――――私は在る(ヤハウェ)。君達の信仰する神であり、君に主命と力を与えた者」

言って、地上最高の勢力を誇る宗教の主神は、苦笑した。

「でも、君にしてみれば迷惑だったかな。主命なんて血みどろの聖痕、君には似合わなかった……」

「そんな事は、ありませんわよ? 我等が主よ。ええ、私は、この聖痕(つばさ)に感謝していますもの……」

大空を飛べた事。

天使と似た姿に成れた事。

大きな力を持てた事。

そして何より――――親友と肩を並べられた事を、感謝する。

「でも、確かに、ちょっとばかり辛かったのかしら……」

浮かぶ表情は、肩の力の抜けた微笑。

主命は終わり、生も終わりを迎えた。

肩肘張って歩く事もないだろう。

「そっか。じゃあ、その辛かった分、君にご褒美を上げるよ」

「ご褒美、ですの……?」

「そう、君の功績は天国へ入って幸福に暮らすだけでは見合わないからね」

何が良い?

そう問う神に、数秒の沈黙。

思い残す事などもう何もなく、特に思いつく事もなく、ならばと思う。

「貴方は、ヤハウェとは、一体何なのですか?」

唯一絶対と言われる神に何なのだと問うなど、ある意味、神を冒涜する疑問。

「なるほど。うんうん、それは良い問いだよ、ビビアナ」

それに、唯一神(ヤハウェ)は生徒を褒めるように笑った。

「じゃあ、簡潔に、かつ順を追って説明しようか? まず、君にとって私は、唯一絶対の神に見える?」

「唯一絶対……」

しばしビビアナは考え、はっきりと首を振る。

「いいえ、唯一絶対とは正確ではありませんわ。神秘管理局の管理下にはアース神族とヴァン神族がおりますし……ペルシャの悪神、アンリ・マンユも確認されていますわ。唯一神と言うのでしたら、悪神がいるのはおかしい。悪魔なら別ですけど」

「その通り。そもそも、私は世界で唯一絶対の神、なんて言った覚えはないんだよ。私はあくまでも、私と契約した者にとって唯一の神。つまり、私を崇めるなら、他神を崇める事なかれと、そう言っただけだ。疑うんなら、モーセの十戒の下り見てご覧?」

モーセの十戒の下り、

『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない』

そう、記されていたはず。

なるほど、と小さな首肯をすると、ヤハウェは続けて口を開いた。

「実は多神教を主張している宗派の方が正しい事を言ってはいるんだよ。キリスト教も間違いは言っていないけれどね。私を信仰するからには、彼等は他神を崇めてはいけないわけだし」

「なるほど……。ですが、主は世界をお創りになったのでは? これは聖書にも書いてありますけれど……」

「ここはちょっと難解だけど、先ずは――――世界は一つだけだと思う?」

「え……い、いえ、世界は、わたくしのいた地上と、天国、それと地獄はあるのですから、最低は三つ……」

その回答に、ヤハウェは首を振り、微笑を一つ。

「違う。世界は、最低で地球の全人口の数だけある。つまり、六十億を超えている訳だよ」

「…………主観の数だけ、世界がある?」

「そう、世界とはつまり、知的生命体――――否、魂を持つ存在全てが、己という窓から見つめている夢の俗称なんだよ」

夢――――それでは、世界というものは――――

「世界というものはとても不安定で、儚いものだよ、ビビアナ。夢見の主が目覚めてしまえば壊れ、二度と同じ夢は視る事が出来ない。奇しくもそれは、君が人を歯車に例えた事に等しい。命が一つ消えれば、世界は一つ壊れた事になる。それだけで、世界は二度と同じくは廻らない。

君は聡明だ。直感的に、この事実を知っていた」

「そう、だったんですの……。なら、わたくしもまた、世界を壊してしまったんですのね」

確かに、ビビアナという生命体を乗せない星は、昨日とは違うだろう。

その事実を改めて思いながら、では、と思う。

「世界は貴方が創ったものではない、と言いますの? 世界は、わたくし達人間を含めた、存在物の主観だから?」

「前者の問いは、半分正答で半分誤答。後者の問いは、正答と言えるね」

「では、世界は貴方が創った……いえ、それでも半分が正しく半分が否、ですのね?」

「その通りだよ。結論から論ずるなら、世界は私が創った場所もあるし、私が創る前より在った場所もある。

ここら辺で良いかな?――――ヤハウェ(わたし)の正体を語ろうか」

そう言い放つヤハウェの体が、微かに揺らぐ。

「疑問に疑問で返して悪いけれど、ビビアナ? “ヤハウェ”とはどんな意味かな?」

「ヤハウェとは……“私は在る”。そういう意味では、ないのですか? “アルファ(初め)でありオメガ(終わり)で在る”、などのように他にも貴方はご自身を表現なさいますけど……」

「その通り――――そろそろ、勘の良い君なら気づいているんじゃないかな? いや、そうだね、君は直感に生きる人だから、解っていても自覚出来ないかもね」

霧中に没したように霞んだ姿の私は在る(ヤハウェ)は、くすりと口元に手を当てた。

「じゃあ、重ねて問うよ? “私は在る(ヤハウェ)”と言ったのは、誰かな?」

「は……? それは、貴方、では…………――――」

――――いえ、それは違う。

その直感。

同時に、私は在る(ヤハウェ)の姿が再びはっきりとした輪郭を纏う。

それは、銀長髪を持ち、緑の眼はツンとした印象の――――

「そうです、ビビアナ。“私は在る(ヤハウェ)”と言ったのは――――いえ、今この一瞬にも、神や主、父と音こそ変えても、同じ言霊を言い続けているのは、他の誰でもない」

――――聖女ビビアナ・ハイアバード、その人に他ならない。

「貴方達、人間ですわよね、ビビアナ?」

「あ……」

目の前で、悪戯っぽく笑う自分。

そして、笑う自分はすぐに揺らいで、トマス・ベケットとなり、

ヒュー・ベケットとなり、

グレイス・ファーロングとなり、

「にゃはは、どうかにゃー? この“私は在る(ヤハウェ)”の正体が、解ったかにゃ?」

その体。その顔。その声。その仕草。

一つ一つが紛れも無い、世界最高の親友、エリザベート・ガイウス・カシス。

「…………」

思わず息が詰まる。

もう、思い残す事などないはずなのに――――。

「つ、つまり、“私は在る(ヤハウェ)”というのは……人々が創り上げた存在()と、そう言う事なんですの?」

「その通りだにゃ、それも、魔術によって創られた神。そもそも、宗教の始まりである死者を弔って死体を埋葬する、何て言う事も、死後という異界を意識した立派な魔術でしょ? それが理論化、体系化されて、口伝から石碑に何て刻まれたらもう大変だにゃ」

にっこりと笑い、“私は在る(ヤハウェ)”は最初の姿に還った。

「見た者全てが“私は在る(ヤハウェ)”と唱え、その教理を信じ、天を仰いで乞い願う――――それは巨大な魔術儀式であり、儀式によって生じた尋常ならざる魔力によって発動する魔術は、界元契約(世界の根底)()解約(魔術)だ。

ヤハウェ()という巨大な存在を創り、宇宙創生の時代に遡って過去の改竄すら成し、世界の一部は紛れも無く私が創ったという事実に変えた。やがて多くの天使を創り、また敵対者として堕天使も生んだ。その強大さたるや――――紛れも無く、ヤハウェ(この魔術)は世界でも最高クラスの魔術だ」

――――それがヤハウェの、否、多くの神々の正体――――

「解ったかな、ビビアナ? 君の疑問には、これで答えた事になると思うけれど?」

「え、ええ……正直、頭がついていきませんけれど、納得しましたわ……」

それは良かった、とヤハウェは笑い、己が傍らの空間を軽く撫でた。

「じゃあ、教えた所で君は次に進まなくちゃね。君が選ぶ道は、それこそ無限に広がっているよ」

重い、軋むような音を立ててその空間が真っ二つに割り開かれていく。

その向こうに広がるのは、光の世界。

「この向こうの楽園で暮らすのも、輪廻の輪をくぐって戻る事も、君の自由」

「あら、輪廻転生は御法度ではなくて?」

くすりと笑うと、ヤハウェも笑い返し、唇に人差し指を当てて、内緒だよ、と。

「規則があれば例外が生じる。君の功績はそれぐらい凄いものなんだよ。そうだね、久しぶりに、天使に昇華してあげても良いって、そう思えるくらいに……」

「天使……この折れた翼を、直してくださる、と?」

「その通りだよ、ビビアナ」

傷つき、破れ、砕けた白翼。

地上の大空を翔けた、自分の力。

「まあ、とりあえず、少しくらいは休んで言ったらどうかな? エドベルトも会いたがっているよ」

あら、と呟き、でしたら、と思う。

「少しだけ、休暇を取らせて頂こうかしら?」

「そうして行くと良い――――天の国は、正しく生きた者より上に七歩、常にその距離に存在するのだから」

光の世界へ踏み出しながらも、心に思うは地上の事ばかり。

どれほどの休暇になるのか――――思わず苦笑すれば、ヤハウェは答えを知った顔で笑っている。

 

ええ、すぐに、すぐに休暇なんて蹴っ飛ばしますわ。

待っているんですのよ、エリザ。

――――今度は、貴女の言いたい事を聴いて差し上げますから。

               そう、いつまでも、いつまでも――――

 


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