Two Heads Viper

 

墓標を前に

墓にあるのは沈黙で、真の笑みなど在り得る筈もなく。

 

 

良く晴れた日に、二人の影が香る緑の中を歩いていた。

二人が着ているのは、ナース服。一人は煙草を吹かし、肩に花束を背負っている。

今一人は、体の前方に両腕で花束を持っていて、こちらの方が背が低い。

二人がいるのは見渡す限りの丘に整然と立ち尽くす、物言わぬ運命の波を止める石達の中。

その石達に共通する事は、死者を埋葬する事が重点であり、死者を悼む物ではないという事。

共同墓地。

哀しみ手のいない、悲しい墓達。

その無言の中、二人のナースは一つの墓前に辿り着いた。

墓の形は六角の柱。仏教でも、イスラム教でも、基督教でもない。無宗教の墓。

対するナースも、両手を合わせるでも、十字を切るでもない、ただ真っ直ぐに墓石を見詰め続ける。

どれくらいか経っただろう、

「はっ」

と、背の高い喫煙者が笑った。

「無宗教ってのは、こういう時に何も出来ないからあれだね」

紫煙を吐き、肩に担いだ花束を墓に投げ渡す。

「そうね」

背の低い方がその場に跪き、静かな小波のような声で呟く。

「でも、花は供えられる。思い出す事も出来る。それに何より、生きていられる」

「そうだね……良いね、生きていられるってだけでさ」

静かな小波は、喫煙者に答えずに花を供える。

「おはようございます、皆さん。それとも、おやすみなさい、皆さん。そちらの暮らしはどうでしょう?」

答えは当然、あるはずもなく。

だが、喫煙者もまた、明るい楽団のような声で言う。

「こっちの暮らしは楽しくてしょうがないよ。忙しいけどさ、前ほどじゃないし、なんていうか……やりがいがあってね。へへ、羨ましいだろう?」

「ボクも、ルナちゃんも、まだまだ楽しくやっています。当分、四十ミリ砲弾を喰らっても死にはしないのではないかと思います」

「め、メイア姉、どうよ、その物騒な話は」

静かな声のメイアは無視。

「ですが、必ず、そのうちにそちらに逝きます。ボクの家族は、まだここにルナちゃんが一人いるけれど……皆がボクの家族だから、またそちらで楽しくやりましょう」

「ああ、そうだな……でもな、歓迎クラッカーはせめてショットガンにしておいてくれよ? 手榴弾は破片が危ねぇんだから」

「死んでるのだから問題はないとは思いますが」

おい、とルナは小さく突っ込む。

「とにかく、そちらでも体に気をつけて下さい」

「あたし達が逝くまで、そっちで一人でも欠けてないようにな」

音も立てずに、メイアが立ち上がり、一歩下がる。ルナが、背筋を伸ばして笑った。

「共に生きたあたしの家族達に」

「生き急いだボクの家族達に」

「「二度と銃弾が尋ねませんように」」

丘を、静かな風が走っていく。

 

挫折する者を前に

嘆く者は幸いである。その者はまだ嘆ける。

 

 

白亜の建物の六階から、遥か眼下の下界を覗く。

見えるのは病院の中庭。人工芝とコンクリートの通路、段差は可能な限り少なく、車椅子でも悠々と通れる。昼休みの今は、それなりの数の患者達が歩いていた。

フェンスの外側から覗く視界、車椅子の少年は、ふう、と溜息。

「さて、行くか」

きぃ、と車椅子が滑るように崖っぷちまで転がると、視界が広がる。

ああ、これから落下していく。何秒くらいかかるのだろうか? この高さならまず即死だから、痛みの心配はない。ただ、死体はぐちゃぐちゃになるのだろうな。

きぃ……と、視界が一瞬で加速した。

――上へ。

「っ!? うあああああ――!」

思っていたのとは真逆への重力に思わず少年は叫び、ぽーんと軽く飛んで屋上の逆側の端っこに着地、反動を車椅子が全て受け流せるはずもなく、投げ出されて地面に叩きつけられた。

「い、つつ……っ! なにしや――」

「なにしてやがるッ!!」

大気の塊のような大音量が、先程少年が居た辺りから爆音の如く飛んでくる。

見れば、女性にしては長身のナースの姿。腰に両手を当てて少年の睨みつけてくる瞳はブラウン、煙草を咥える顔立ちは明るそうだが今は酷く恐い、シャギーの入った金髪のショートが怒髪天といった有様だ。

やべぇ、と少年は生唾を飲み込む。

少年を担当している不良看護婦の――

「る、ルナ……」

「おうよ、あたしだ坊主」

ズン、という効果音と共に、ルナは倒れた少年へと一歩一歩近づき、ぐっと少年の髪を引っ掴んで顔を上げさせる。

「坊主、お前なにしてんだ?」

「いて、な、何もしてねぇよ!」

「じゃあ、あの切り取られたフェンスは誰がやったんだ!」

ルナが後ろを親指で指すと、綺麗にくりぬかれたフェンス越しに青い空が見えた。

「知らねぇよ! 俺が来た時にはもう――あいてて、髪引っ張るな、ハゲんだろうがよ!」

「嘘吐くんじゃねぇ! そのポケットに入ってるニッパーでお前がやったんだろうが!」

強引にポケットに手を突っ込み、どこからか持ち込んだ工具を奪い取る。

「ったく……そんなに死にたいんだったら、退院してからあたし等に関係ない所でしやがれ!」

ぎりっと工具を握り締め、ルナは屋上にあるくずカゴに放り投げた。

「あ! お前、俺のぐあっ――」

「誰がお前だ! ナース、もしくはルナさんって呼びな!」

「っつぅ……ゲンコで殴りやがって……暴力ナースが……」

ちっ、と少年――中学三年の、一ヶ月前に交通事故で両足の自由を失った木更光(きさらひかる)は舌打ちをした。

そのありありと見て取れる嫌味な態度に、ルナはくふーと息を吐き捨て、睨みつける。

「なんだよ? そんなにリハビリが嫌か?」

当たり前だ……。

吐き捨てるように光は言った。

「どうせ、治らないんだ。あんな――」

車椅子を敵のように睨み、

「あんな玩具に頼って生きるくらいなら、死んだ方がマシだ」

「“玩具ぁ”……?」

ルナの顔から、一瞬表情が退く。代わりに、眼前に掲げた拳が怒りを表した。

「お前、車椅子のおかげでどれだけの人が助かってると思ってやがる?」

は? と光は剣幕に脅えながらも疑問の声を上げる。

「足の悪い奴等はあれのおかげで外出出来るし、買い物だっていける。確かに、日常生活ならそこまでかも知れねぇ、だがな、戦場で足を撃ち抜かれた兵士や、歩けない程重症を負った兵士達はどうだと思う?」

銃口と見紛うほどの迫力を秘めたブラウンの眼光が、光を鷲掴んで離さない。

その瞳は間違いなく、今だけは戦場の野戦病院を眺めている。

「あれで戦場から去るんだよ。残して行く戦友達に後ろ髪引かれながら、残して来た家族達に想いを馳せながら……あれで帰るんだよ、自分の家へ!」

わかるか!? ルナは怒鳴る。

「戦場だけじゃねぇ! テロが起これば警察やら特殊部隊やらだって同じだ! 何の関係もない人質だってそうなる! それを、玩具だと!?」

ヒュンという風を切る音。拳が振りかぶられた音。

殴られる――どこか他人事のように光はそれを感じて、だが実現しなかった。

「止めなさい、ルナちゃん」

静かな小波のような声が、驚くほど強い力で弾劾の拳を引きとめていた。

振り向けば、ナース服に氷のような無表情を押し込めた、ルナより年上の女性の姿。

「め、メイア姉……で、でも!」

引き攣った声に、メイアは静かに首を横に振る。

「ボク達の仕事は、怪我を治す事。必要以上の怪我を防ぐ事。もう、怪我をさせる事ではないから、これはダメ」

「う……わ、わかったよ」

諌められた子供、そんな仕草でルナは拳を胸に引き寄せる。

それを呆然と見ていた光を、今度はメイアがブルーアイで見つめてきた。

凍てたような表情に良く似合う瞳、後頭部で団子状に纏められ、耳のサイドから垂れ下がっている黒い髪、色白で、ルナに姉と呼ばれるには無理があるほど似ていない。

その似ていない姉は、放られた衝撃で壊れた車椅子に視線を転じ、また少年に戻す。

「自分の足で歩いていきますか?」

それとも――無表情な眼差しは、しかし、厳しさを称えている。

「ボクに背負われていきますか?」

光は、自分の顔が赤くなるのを自覚した。

 

白亜の病棟をルナとメイア、メイアの肩にすがるようにして歩く光の姿がある。

「ほれ、頑張れ頑張れ、これも一種のリハビリだぁね」

からかうように言う笑顔のルナ、肩には、壊れた車椅子が軽々と担がれている。

それを、苦しそうに横目で光は見て、

「ば、馬鹿力め……」

「ははは、そういう口が叩けるなら大丈夫だね」

ルナが見れば、光の両脚が電流を流されているように震えていた。顔は必死の形相と言えるし、額に光る汗は見ていて痛々しい。

だが、だからこそ、ルナは別の明るい話題を口にする。

「メイア姉と肩を組めるなんて、そうそうないよなぁ……どうよ、若さ溢れる健全な男子としてのコメントかなんか」

「はぁ? ルナ、お前何言ってんだよ」

馬鹿馬鹿しい。こっちは必死なんだ。

そう思い、ルナとは逆のナースを見――光の呼吸が止まった。

息の触れ合う距離から、青い瞳が見つめている。

「どうかした? 若さ溢れる健全な男子としてのコメントは?」

「だ、な……っ!」

「メイア姉、ダメだよ、その距離はぁ……」

赤くなってどもる光に、ルナはにやにやと笑って答える。

「メイア姉に足りないのは愛想だけなんだからさぁ、中学生にそれは危ないよ、押し倒されちゃうぞぉ」

「だだ、誰が押し倒すんだよっ!」

「人一人抱えても受身は取れるけど……」

「わ、メイア姉、それって押し倒しオッケーって事?」

「別に、怪我はしないから良いけど?」

おお、とルナは楽しそうに笑い。

「光、光! お前、今度やってみろ」

「ななぁ……ルナ、おま、ばっか!」

ケラケラと笑うルナと、真っ赤になって慌てる光、そして、その二人を見ても無表情を守るメイア。

廊下をそれぞれ歩いていくと、前から純白のナース服が一人、歩いてくる。

「あははは……はは、は……? や、ば……め、メイア姉っ」

その緊迫した声に、メイアの視線も少年からそのナースを捕らえた。

「姫チーフ」

「あらあら、メイアさん、ルナさん。それに、光君ね」

おっとりとした優しげな声が、廊下の三人に囁く。

見れば、メイアよりも熟成を感じる温和な顔立ちに、慈母のような微笑を浮かべた女性。垂れ目の黒い眼、腰まで広がる黒い長髪、ルナよりも身長は低いものの、スタイルの良さならそれ以上といって良い美人ナースだ。

ナース達をまとめる評判の美人チーフは、光を笑って微笑を深め、それからルナの肩に乗った車椅子を見て、困ったように眉を潜めた。

「あらあら……これはどうしたのかしら? 大事な病院の備品が粉砕されてるなんて」

おっとりとした物言いの中に、怒りを感じるのは難しいが、そのどうしましょう? という表情が相手の良心を打つ。

うっ、と光はたじろぐ。なんたって壊す原因を作った張本人だ。

やば、とルナは身を退いた。なんたって壊した張本人だ。

「あ、いや……その……」

「こ、これは、ねぇ……」

その中、静かな小波のような声が空間を打った。

「姫チーフ。この車椅子、耐久度に問題があったようです。光ちゃんの自重で壊れました」

「あらあら、まあまあ……」

心底困った風に、チーフ、紅石姫の眉が潜まる。

「おかしいわねぇ。これ、どうみても百キロ以上の重量が――」

「すみません。嘘です。姫チーフ。一息で真実を申し上げます」

メイアは一拍で言い切ってしまおうと息を吸い込む。

「実はルナちゃんが最近ダイエットをサボっていてなのに光ちゃんの車椅子ではしゃいで遊んでいたのでこんな風に壊れ、いえ粉砕してしまいました……二息になってしまいました」

「メイア姉!?」

あたしのせい!?

あながち嘘でもない申告に、ルナは顔を引き攣らせた。

「あらあら、ルナさんダメよ? きちんとダイエットしなくちゃ……それは、確かにしすぎは良くないけれど、車椅子が壊れるほど重量があるなら絞り込まないと」

「え、あ、ちょ……なんか、それはそれで凄く悲しい……けど、はい、わかりました」

しょぼん、とルナは肩を落とす。

そんなに重く見えるだろうか、あたし?

そんな事は露知らず、チーフはおっとりとした笑み。

「では、この事は内密に処理しておきますから、安心しても良いわよ、ルナさん。過度に使用しすぎた方向で持っていくから……あ、でも、修理できるかもしれないから、メカニックの所に置いておいてね」

「はぁい……」

「ありがとうございます、姫チーフ」

「いえいえ、どういたしまして。ダイエット頑張ってね、ルナさん」

そう言い残し、チーフは靴音を立てて去っていく。

それを見送り、静かな小波のような声がぽつり。

「ダイエット頑張りましょう、ルナちゃん」

「メイア姉〜! そ、それは酷いぞぉ!」

「あ、ちょっと……ルナと、それと、メイアさん……」

二人のやり取りを見ていた光が、おずおずとした声。バツの悪そうな顔を掻きながら、

「ご、ごめん……俺のせいなのに。ほんと、ごめん」

俯いて、照れ臭そうに――悪戯を庇ってもらった担任教師にするように――謝った。

それを見て、メイアとルナは表情を見合わせ、ルナは笑い、メイアは無表情に光を見る。

「謝ってくれるんなら、あたしは別に良いって事よ。まあ、これからリハビリ頑張るんならなお良し」

「ルナちゃんがダイエットを頑張るように、頑張りましょう。光ちゃん」

なんだよ、それ。

光は力の抜けた笑み。

「わかった、頑張るよ……ルナのダイエットほど努力が必要とは思えないけど」

 

慰めの酒を前に

地下には誰が住む。古より、地下は鍛冶精の塒。

 

一般業務終了後の薄暗い階段を、地下へ向かって歩いていく足音が一つ。

肩に車椅子を背負う女性らしいラインのシルエットは、ルナのものだ。

「はぁ……」

影は、大きく溜息を吐く。

気が重い。

今日は、今までのナース生活で最大の失敗をしてしまった記念すべき日だ。

車椅子を壊してしまったし、メイア姉にも迷惑をかけてしまった。それに、どうせ姫チーフだって気づいているだろう。車椅子を壊した事が体重なんてギャグじゃない事くらい、あの人は気づける。気づいてなかったらアホだ。

まあ、確かにあの人は天然な所があるが。

だが、それでも患者さんの事に関しては敏感だし、どう対処して良いかも知っている優れた心の持ち主だ。

メイア姉にしたって、冷静冷徹で無愛想な問題者だが、患者から寄せられる信頼はそれに比例するように厚い。ミスなんて、妹である自分の知る限り四つ五つの些細なものばかりだ。

「はあ……」

もう一度、自嘲気味の笑みを浮かべての溜息。

比べて自分はどうだろう、と非常の灯りを見つめる。

大雑把で気が利かず、失敗なんて毎日しているようなものだ。隙を見ては喫煙だってする。

それだけならまだしも、自分の担当する少年が自殺まで思いつめていた事にすら気づかないなんて……

「ふ、くっ……」

震える唇を噛み締め、ぎゅっと目を閉じた。

そうでもしないと、情けない声と共に涙が出てしまいそうで悔しい。

どうして、こんなにも自分は大雑把なのか?

もっと繊細なら、もっと他人の痛みに敏感なら、今日みたいな人の死を防げるのに。

震える瞼から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。

「や、とまっ……ふぇ…っ」

よく昼間の仕事中に泣き出さなかったと思えるほど、涙はとめどなく溢れていく。

止めようという理性さえも押し流し、涙はただただ体を震わせて通り過ぎて、こんこんと悔しさをあふれ出させていく。

昔っから、自分は泣き虫のままだ。

「うぁぁ……っ」

絶望的に強くない自分に、ルナはついに嗚咽を漏らして崩れ落ちた。

地下三階の廊下。

一般の患者は絶対に来られない、病院の地下世界にナースの涙が飲み込まれていき、一つの音が返った。

闇の向こうから、ドアの開く音。

それから、さらにガツガツという靴音が響き、ルナの元へと近づいてくる。

「なんや、泣き声が聞こえたかと思えば、ルナかいな」

闇の中から現れたのは、ぼさぼさの赤い尻尾状の長髪をなびかせた、だぶだぶの作業服。

「あーあー、そんな泣いちゃってぇ……せっかくが台無しや」

微かにオイルと火薬の匂いを纏いながら、防弾ガラスのような厚さの眼鏡をかけた愛嬌のある顔が笑った。

「どうしたん? その――」

作業服の女性。病院の整備担当、メカニック、フェッロ・フオーコは泣きじゃくったルナの顔を見つめて、道具にすら命を見出す者特有の形で微笑んだ。

「――車椅子」

 

「ははぁん?」

物語に出てくるノームなどの地下精民の家を思わせるような、雑多な工具に溢れる窮屈な一室で、フェッロは壊れた車椅子を見ながらルナに声をかけた。

「危うく患者を死なせるとこしたねぇ……」

ルナは死刑判決でも受けた犯罪者のように身を縮め、小さな椅子に腰掛けている。

そちらに笑みを溜めた横目を巡らせて、フェッロはケラケラと言った。

「まあ、ええんちゃう? 結果的に死なせなかったし、立ち直らせたみたいなんやから」

「で、でもさ……今回は偶々だし、メイア姉にも迷惑かけたし……」

「迷惑かけたのはあれとして、偶々でもええと思うんけどねぇ」

よし、と車椅子を一撫でして、フェッロはルナの対面の椅子に座る。

ルナは、まだ泣きたそうな顔でフェッロを見つめ、すぐに視線を外した。それに構わず、フェッロはあちらこちらに視線を送りながら、

「ほら、うちらは元々、結果主義の世界に生きてきたやんか? どないに頑張ったかて結果が悪けりゃ、はい無能者……慰めかて意味なかったやん?」

「う、うん……そう、だったな」

苦笑して、あの頃は大変やったねぇ……とフェッロはスス汚れた天井を仰ぐ。

「うちは、それでも現場から遠かってん、ようわからんかも知れんけど……第一線で働く奴等の顔は正面から見てきたんよ?」

フェッロは、真っ直ぐにルナの反らした顔を見る。

「みんな、失敗した時ばっかりは辛そうな顔してたで、それこそ見るに堪えへんほどに。そないな時、うちら一介の技術屋どもはどう声かけたらええかわからんで、悩んだ時期があってん……懐かしいわぁ」

眼鏡を押し上げるフェッロは、満腔の懐かしみに、ささやかな寂しさを踏まえて、ルナの頬を捕まえる。

ほとんど無理矢理こちらを見させ、フェッロは強気な笑み。

「うちらが出した接し方はこうや」

「ひゃっ!?」

涙の痕が残る頬に軽いキス。

「元気だしい、文句やら愚痴ならさんざ聞いたるさかい。酒の勢いに任せて全部吐いてまい」

傍らのテーブルから日本酒の瓶を鷲掴み、コップをルナへと放り投げる。

「ほら、飲もっ! 大丈夫や、まだ生きてるんなら次がある、失敗は次に持ち越して成功にすりゃええんや。うちも協力惜しまんで?」

ケラケラ、モグラ住まいのメカニックは笑った。

 

 

月の光が降り注ぐ屋上で、フェンスの外側から光を浴びると、涼やかな風が駆け抜けていく。

風に小さく髪を揺らせるのは、メイアの姿だ。

澄んだ、と表現するべき氷の表情は、月と星の下で精霊のように美しい。

その顔にかかった自分の黒髪を軽く掻き上げ、メイアは静かに星を見上げる。腹部の前で揃えた掌の間には牛乳パック。

ちぅ、と音を立てて牛乳を飲めば、ほのかに甘い味。

「良い夜……」

無表情をそのままに、メイアは感嘆とした吐息を一つ。それから、首を僅かに後ろに向けて、問いを一つ。

「どうかしましたか、光ちゃん」

見れば、新しい車椅子で息を吐く患者の姿があって、メイアを見つめていた。

「もう就寝時間は過ぎていますが、屋上に用ですか?」

「あ、いやぁ……」

言い難そうに、光が何度か口で言葉を転がしているのを見て、微かに視線を鋭くメイアは問う。

「また、自殺をしようと考えましたか?」

え? と光は唇の動きを止めて、それから壊れた人形のように首を横に振った。

「っち、違うよ! お、俺は、メイアさんに話したい事、あって……他の人に聞いたら、ここだって」

「ボクに?」

今度は、メイアが小首を傾げる。

「光ちゃんが、ボクに、何の用でしょう?」

牛乳パックを持ったまま、メイアは光の方へと体を向けた。切り取られたフェンスが、丁度二人の間に空いている。

「えっと……ルナにさ、ごめんって言っておいてくれないかな?」

「ルナちゃんに? でも、それは昼に一度、ボクもルナちゃんも受け取ったと思ったけど?」

「いや、あれは、車椅子の事だけで……飛び降りようとした事は、謝ってなかったと思ったんだ。だから……」

光は顔を上げ、無表情なナースを見つめる。頷いた青い瞳が、本当に綺麗な夜だった。

「そういう事なら、ボクから伝えておきます」

ちぅ、とメイアは牛乳を飲んだ。

「あ、あと、それと……」

「はい?」

言い難そうに光は口をつぐんだが、今度は、メイアは邪推しなかった。

ただ、じっと言葉を待つ。

「俺の脚、また走れるようになると思うか?」

涼しげな風が、屋上の二人の間を逃げていく。それだけの時間が、問いの後に続いた。

あるいは、故意にそれだけの時間を開けたのか、答えは明瞭な確信を含ませられ、還る。

「なります。必ず、また、走れるようになります」

「そ、そっか……でも、なんで、そんな断言できるんだ?」

ちぅ、とメイアは牛乳を口に含み、甘さを味わって飲み込む。

やっぱり牛乳は甘い、という事実を後押しにするように、メイアは言う。

「ボクがそう思うからです」

は? と光は口を開いた。

「ルナちゃんもそう思うからです。姫チーフもそう思います……」

一拍、光に事実を味合わせる時間を作ってから、見つめ、

「光ちゃんは、そう思わないのですか? また、自分は走れるようなる、と。前よりももっと速く、走れるようになる、と」

「だ……な、なんだよ、それ……滅茶苦茶だぞ?」

そうでしょうか? とメイアは静かに囁く。

「大事な事です。可能だと信じる事は、不可能を超越しますから。死なないつもりで戦場に立つ兵士は、強いです。死ぬ代わりに千の敵を倒すつもりで立つ兵士は、やはり強いです」

牛乳パックを足元に置いて、ナースは青い眼に銃火を思い浮かべた。

「絶対に生きるつもりなら、ここから落ちても助かります。光ちゃんは疑うでしょうが、ボクは微塵も疑いません」

「お、おいおい……」

ここは六階建ての建物の屋上だぞ、と光は慌てる。落ちるまで何秒かかるか知らないが、即死は免れない。

「信じる事がどれほど凄いか、見せてあげます」

ふわりと、ナース服の裾が翻った。まるでプールへと飛び降りるように、メイアが一歩を横に滑らせたのだ。

「ちょ――!」

慌てて、光は屋上の崖っぷちまで車椅子を転がし、急停止。

広がった下界に、落ちるメイアの姿。横に身を捻り、縦に一回転、もう一度横に捻りながら、くるくると落ちていく。

水泳の飛び込み選手のように、空中を踊っている。

だが、下にあるのは水ではなく、死神のキスの如き地面だ。

「ひっ」

引き攣った声が光の喉からひねり出された。

激突の刹那。

メイアの体が空中制動を計り、地面に対して正確に足を向ける。右足を前に、左足を後ろにスタンスを取り、ヒールが地面の土を抉りながら広がっていく。体操の床の選手のように脚を大きく開脚しながら、さらに両腕で地面を一打ち。

渇いた音が響く。

そして、平然とナースは立ち上がった。

静かな小波のような声は、風が吹くと屋上までは届かない。

だから、メイアは屋上を見上げ、竦めるように肩を上げる。

『これくらいどうって事ない』

それから、右腕を軽く握って拳を作り、掲げた。

『だから、頑張れば良い』

拳を左胸に引き寄せ、頷く。

『自分を信じれば、出来るから』

音のない声が、下界から涼やかな風と共にやってきて、少年を奮わせた。

 

翌日は、どうにも沈鬱な曇り空が太陽を塞ぐ、そんな一日。

だから、太陽光が嫌いなモグラなんかは、多少は嬉しいんじゃないかと思う。太陽が嫌いだからって、シャバの空気が嫌いとは限らないわけだから。

そして、そんなモグラみたいな太陽嫌いの人種は、全地球六十億人を探せばそれなりにいるもので、こんな嫌な天気だと言うのに、こんな嫌な天気だからこそ頑張り始める。

「モグラちゃん、見つけた……」

リハビリステーションで汗を流す二人を見ながら、メイアはぼそり、呟いた。

一人は、黒髪を気合の入った感じにバンダナに巻いた勝気そうな少年で、もう一人は、同じくらい気合を入れてナースキャップにシャギーの金髪を押し込めたナース。

二人仲良く、両手を繋ぎあって(対面で)歩いている。

仲むつまじい事、この上なし。

だが、向かい合い、手を取って歩く少年の足が、ふっと力を失う。

「あ、転ぶ」

冷静な小波の声は、半分的中。

バランスを崩した少年は、片膝を柔らかいマットに突いたが、それ以上は沈まない。金髪のナースが、しっかりと支えているのだから当然だ。

そして、少年はナースを見上げ、「わりぃ」と一言。

ナースは、少年を助け起こしながら、「いやいや、頑張ったじゃないか」と満面の笑み。

それを、ぼんやりとガラス越しに見ているメイアは、ふと気づいた呼吸。傍らに現れた同じくらいの背丈の気配に、首を向ける。

慈母のような顔に、おっとりとした声。

「あらあら、あの二人頑張ってるのね、メイアさん?」

「姫チーフ……そのようです、とても仲が良いようです」

「元々、同じ穴のムジナという感じだからかしら?」

一拍、メイアは沈黙。

良い笑みに汗を浮かべた少年、木更光を二秒見て、同じく良い笑顔に軽く汗を浮かべたナース、ルナを一秒見る。

「同じ穴のモグラだと思います」

「まあ」

驚いたような姫チーフの笑い。

「本当、今日は良い感じに曇りの日なのね……それじゃあ、我が病院のメカ系モグラさんは起きてくるかしら?」

口元に手を当ててくすくすと姫が笑えば、ガツンという靴音が一つ、二つと連続。

ガツンガツン、作業靴の頑丈な踵の音。

「やほ〜、姫はん、メイア。今日はええ天気やねぇ?」

無骨な眼鏡を愛嬌のある笑顔の上に乗せた、尻尾髪の女性。

「うん? おぉ、なんや、ルナも頑張ってるやん。ちょっとばかし心配やってん、これなら気苦労やったね」

分厚い眼鏡を通して見える二人の患者とナースの笑顔に、フェッロも笑みを投げかけ、じっと顔を見ているメイアに気づく。

「な、なに? うちの顔に、なんぞついとるん?」

あらあら、姫チーフが笑った。

「モグラちゃん、見つけた」

メイアが、小波のような声で、囁く。

「おっ、なんだ光! お前、こんなに歩けるじゃねぇか!」

 

歯噛みする者を前に

それは、悔しさに疼く心臓を噛み潰すように……。

 

世界を打つ水の音が、まばらに響いている。

天気は雨で、少し湿気が鬱陶しい。そんな陰鬱な日でも、リハビリステーションでは少年とナースが一緒になって努力を重ねていた。

光とルナだ。

ルナは、光の腕を取って引っ張るように後ろへと歩いていく。

ゆっくり、ゆっくりと歩けば、歯を食いしばった光が、力の入らない脚に必死に指示を出して着いて行く。ふらふらと頼りない足取りだが、その眼差しは真剣に足元を見詰め、たまにルナのブラウンの瞳を見つめ、照れ臭そうに笑う。

笑うと脚への意識が一瞬途絶え、がくっと光の顔が真下へ降下。慣れた様子で、それをルナが抱きとめた。

「ふ、ふぅ……」

「大丈夫か? もう大分疲れたみたいだな、光」

「あー、大分疲れた。だから、もうちょっとこのままが……」

と、ナースの胸の魅惑的な柔らかい感触に光は顔を埋めようとして、ルナががしっと髪を掴む。

「くぉら、エロがき……」

「あててっ! わ、悪かった、ぉオレが悪かった!」

「ったく……」

光の頭を離し、後ろに回って体で背中を支えてやる。

「ん、もう十一時半過ぎてるな。そろそろ飯食べて来いよ」

体を支える足の頼りなさに、言い辛そうに光。

「う、うぅ? そだな、そうするよ……腹、減ったしな」

「おし、じゃあ、ほら、車椅子生活の始まり〜」

「おうっ!? あ、荒っぽいな、道具と患者は大切に扱え!」

車椅子の上に放り込まれ、光は本気のない睨み。ルナはカラカラと笑い、あ、と思い出す。

「やば、あたし、報告書仕上げなきゃいけないんだった!」

「え?」

光が不意を突かれた表情。

ごめん、とルナは苦笑の上に合掌を乗せ、何だか悲しそうな少年を見る。

「食堂、一人で行って頂戴っ。あたしを助けると思って、な?」

「あ……ああ、別に良いぞ? てか、普通は一人で行くものだからな、ルナはルナの仕事して来いよ」

ほんとは、あんまり一人じゃ食べたくないけど。

残念そうな表情は笑顔の下に仕舞い込み、光はしっしっとルナを追い払う仕草。

「ほら、行った行った。また後で俺の世話よろしく頼むんだから、仕事こなしてきやがれ」

「あたしは介護犬かなんかかよ」

ルナは恨めしそうに苦笑。

「じゃ、あたしは行ってくるよ、じゃな、光」

「お〜う」

廊下を走っていくナースの背中を見送り、光は溜息。それから、詰まらなそうに伸びをして、一人車椅子を進める。

「今日は何食おうかな」

カレー。カツカレー。カレーうどん。カレー丼。そうめんカレー。カレーパン。

なんだかカレーばっか思いつくなぁ――光はカレーが好きだった。

 

雨の窓を嬉しそうに見やりながら、白亜の廊下をポケットに手を突っ込んで歩く、作業服。

口元に人懐こい笑みを溜めて、相変わらず櫛の入れた風のない赤い尻尾髪を揺らしながら、フェッロは食堂を目指す。

こんな“良い天気”の日は、上で食事を取るのが一番だ。

ススっ気の溜まった地下で食べるのは晴れの日だけで充分。

「さあ、今日は何にしょっかな〜♪ ラーメンに、丼物、際どいとこでたこ焼きとかお好み焼きとか……う〜ん」

この廊下を右に曲がって、もうちょっと行けばもう食堂に着いてしまう。なんとかそれまでに決めておきたい所だ。

「ううう〜ん……難しい選択やで、ほんま。ああっ、もう食堂についてまうやん!」

悲鳴を上げながら曲がり角を曲がれ右。つと、そこで目に入る自販機。

いや、正確に言えば、自販機のボタンを必死になって押していた少年である。その頭に巻かれたバンダナは忘れもしない、ルナの担当患者の例の少年だ。

無事に自販機のボタンを押したまでは良かったが、今度はどうやら落ちてきたジュースを取れないでいるようだ。

まあ、確かに慣れないと辛いだろう。

フェッロは愛嬌のある笑みを浮かべ、少年の傍らへ。

「よ、坊主。どないしたん? おね〜さんが手伝ってあげよか?」

「ん?」

少年は顔を上げ、防弾ガラスみたいな眼鏡をかけたおね〜さんを見やり。

「いや、良いよ」

すぐにまた戻す。

「な、なんでや!? おね〜さん純粋に親切心で言うとるんよっ? うちを信じられんのかぁ!」

「は? い、いや、別にそんなんじゃなくて……」

やれやれ、と少年はおね〜さんをもう一度見る。

「確かに、あんたはちょっと怪しい感じの格好してるけど。俺は自分の事は自分でやっときたいの、これだってリハビリの一環みたいな感覚だから、悪いけど自分でやるよ」

「なぁんか、聞き逃し難い前置きがあったけど、まあええわ。立派な心がけやん」

フェッロは少年の頭をぐりぐりと撫で、何だか非難がましい視線は無視。

「うちの名前はフェッロ。フェッロ・フオーコ、気軽に呼んだってや」

「ああ、わかった。遠慮なく、フェッロ。俺の名前は木更光ってんだ」

ようやく、光は自分のジュース、見てみれば紙パックの牛乳を取り出して、フェッロを見た。

そして、何より気になった質問。

「なに人? イギリス? アメリカ? それとも、土人(どじん)とか?」

「本気でしばくで、光……」

「最後のは冗談だって。多分」

「ははぁん、喧嘩なら買うで、この怪我人が」

眼鏡に妖しい反射光を映しこませながら、フェッロは光を見下ろし、

「うちはイタリア人や。イギリスでもアメリカでもない。ま、どっちにも在住経験はあるけど」

「うぇ? その関西弁で?」

「語学力は豊富なんよ、うち。ぺらぺらやろ?」

何だか間違った関西弁だけど。

光はイタリア人の自尊心のため、言葉を飲みこんだ。

 

並んだ細長いテーブルの列。観葉植物と、食欲をそそる香ばしい煙。綺麗に掃除された一室は、言わずともがな食堂だ。

丁寧に水拭きされたテーブルに、カレーうどんとカレーうどんを並べて、フェッロと光は隣に座る。

「いやいや、ほんま助かったわ。うち、今日どないしよって思うとったんやけど、光のおかげでまるぅく治まったわ」

「別に、何かしたわけでもないと思うけど……」

「そんな事ないで、カレーうどんとは良いチョイスや。今日のうちのハートにぴったりやもん」

ケラケラ、楽しそうにフェッロは笑って、割り箸を口で咥えて割った。

おいおい、光は小さく笑う。

「本当にイタリア人? それ、思いっきり日本人に見えるんだけど」

「ふぇ? あ、あははは」

分厚い眼鏡の下、僅かに頬が染まる。

「な、なんやぁ、癖っちゅうか……初めてこれ見た時憧れてもうたんよぉ。ちょお、はしたない?」

「んや? 別にそんな事ないと思うけど。俺は気になんないし、ただ日本人っぽく見えるってだけさ」

「せ、せか。そないならええねんな……たははは」

箸をカレースープの中に突っ込み、フェッロは器用に箸で丸い麺をすくう。つるつると滑る麺は日本人でも掴みにくい人がいるというのに、一発で箸に絡め、つるるっと音を立てて啜る。

「…………」

「ん、なんや? じっと見て?」

「箸の使い方も持ち方も完璧なんだな……」

「そらもう、こっちきて一番に勉強したんやもん。ええよね、この箸って。特に麺をすくって音立てて啜るともう、うち溜まらんねん」

「ははは……」

光は呆れて苦笑。

「フェッロ、良い日本人なれたよ。惜しいね、生まれてくる国間違ってる」

「せ、せか?」

こくり、光は頷く。

「今度、どっかの祭りに着物で出向いてみな。神社とかで夏の頃やるはずだから、よぉく馴染むと思うぜぇ、その関西弁」

「き、きもの? い、いや、うちは……そういう服はちょお、勘弁やわ」

「勘弁って?」

「いや、ほらぁ……似合わんやろ? うち、そういう洒落っ気? ないもんやから」

「ふうん……?」

カレーうどんのスープを啜りながら、光はフェッロの顔を見る。少しだけ寂しそうに微苦笑を浮かべた肌は白く、髪は確かにバサバサとしているが、髪質自体は悪いだろうか? なんだか細く見える。

「まあ、洒落っ気は確かにないかもしれないけど……眼鏡をコンタクトに変えて、作業服以外の、そうだなぁ、ワンピースでも着たら意外と――」

化けるんじゃねぇ?

続けようとして、光の口は勝手に悲鳴を上げた。

「ってわ!?」

フェッロの背後に、いつの間にか一人の人影が幽鬼のように立っている。

いや、幽鬼という例えは些か行き過ぎだろう。よく出来た彫像のような影、だ。

ただ、その芸術作品は氷のような無表情で、トレイに牛乳の紙パックとほかほかのドリアを乗せている。

「あ、メイアやん。相変わらず、変な登場の仕方やねぇ……」

「一緒に、良い?」

とりあえず、メイアはフェッロの問いを無視。フェッロと光は顔を見合わせ、それから同時に頷く。

「「どうぞ」」

声を揃えて、また二人は顔を見合わせる。

「仲が良いのですね。フェッロちゃんと光ちゃん」

言葉は茶化しているようだが、その表情が全くの無とあっては冗談に聞こえない。

「い、いや、会ったばかりやけど……」

と、フェッロが返答をするので精一杯だ。

それを見えているのか見えていないのか、メイアはマイペースに椅子に腰掛け、牛乳パックストローを差込み、ちぅ、と一吸い。

何となく場に訪れた沈黙に、メイアの牛乳を飲む音だけが響き、メイアの青い瞳が二人のメニューを一撫で、気づく。

「光ちゃんも、牛乳?」

「あれ、ほんまや。光も牛乳やね」

二人の女性に指摘され、光は咄嗟に牛乳を掴み――どうしたものか、考える。

「え、ええと……体に、良いかな〜って、思って」

「うん」

メイアがストローに口をつけたまま頷いた。

「良いですよ。とっても」

「せやねぇ、成長期には欠かせへん栄養源やし」

「だ、だよね! 結構、美味しいし」

「……牛乳は好きですか?」

メイアの問いに、光は一寸フリーズ。

実は、そんなに好きでもない。かといって嫌いでもない普通の感覚だが、ここは今後の友好関係に思いを馳せて、

「好きな部類に入るなぁ」

嘘をつく。

嘘にメイアが気づいた風はない。無表情の顔をより光に向けて、一言。

「ボクもです」

同意? 今、自分は同意を貰えたのだろうか。うわー、嬉しいぜ、こんちくしょう。

光は心の中でガッツポーズ。

さらに白状すれば、牛乳を飲んでいるのは先日の夜、屋上でメイアと会って彼女が牛乳を飲んでいたのが記憶にあったからだが、真実は言わねばバレまい。

牛乳を口に含み、光は人生勝者の笑み。

「美味いなぁ」

「美味しいですよ」

ちょっとだけ、至福を味わう健全な男子の光である。

 

それから、フェッロが他愛もない雑談――機械工学の発展についての演説で盛り上がっている時、光はふと気づく。

この眼鏡をかけた作業服の女性は、“フェッロ・フオーコ”。

だが、あちらのナースの女性は、“メイア”。

『メイア』というのは、恐らくファースト(名前)であろう。

じゃあ、セカンド(名字)は?

ちょっとした好奇心が湧いた。

「メイアさん、ちょっと質問があるんだけど?」

「?」

しきりに熱く語るフェッロの声を中間に挟んで、メイアはスプーンでドリアをすくった手を止めて光を見やる。

「メイアさんの名字は、何て言うの?」

瞬間、メイアの指が、肩が、体が、瞳が揺れたのを、光は見た。

え? という形に唇を開いて、しかし声は出せずに光は止まる。

「それは……」

メイアの唇が、いつもの小波のような声よりさらに小さな呟きを零し、止まり、また少し震えて、終に黙った。

いつもの澄んだ氷のような表情が、少しだけ歪んだようにも見える。

その確認は光には出来ない。

がたっという音と共に、メイアが立ち上がって背を向けてしまったから。

「え、あれ?」

「ええよ、メイア」

光の声に一瞬肩を強張らせたメイアに、フェッロが強い口調で言う。

「うちが言うておく……行き。うちに任せい」

小さく、本当に小さく、それは震えとも取れるほど小さく、メイアは頷いた。

それから、ごめんなさい――彼女はそう言ったのだろうか。風の悪戯か、あるいは幻聴か、光には謝罪が聞こえた気がした。

去っていくナースの背中を呆然と見送るだけの光に、「さて」とメイアが声をかける。

「それじゃあ、レクチャーといこか、光」

フェッロ・フオーコも、ちょっとだけ寂しそうに愛嬌のある笑みを浮かべた。

 

相変わらず、何があったのかさっぱりわかっていない顔の少年を見て、フェッロは眼鏡を押し上げた。

「まあ、この国は平和やさかい……あんまりようわからんかもしれへんけど。落ち着いて、よぉく聞き?」

「う、うん」

「ええ子や」

にこりとした笑み。それを渋く曇らせて、フェッロ・フオーコは重たい唇を小さく開ける。

「せやな、まず……この国がどれだけ平和が言うてみよか? 光は、どれくらい平和だと思う?」

「……ふ、普通じゃ、ないの?」

「普通かぁ……これが世界標準クラスなら、どんだけええ事やろな」

羨ましそうな苦笑。

「違うんや。アフリカ行けば、難民が溢れかえっとって、毎日餓死者が出とる。信じられるか? この国では、好きなだけ食って吐き戻せるだけ食料があるいうのに、骨と皮だけになって死んでく奴等が、同じ地球上にいるんやで?」

それだけやない――独白は続く。

「中東……あそこの情勢は一触即発どころやない。毎日、人と人が殺しあってる現状や、同族がどうのこうのやない。誰も彼もが、敵が何であるかもわからずに殺しあってる事も珍しうない」

「で、でも……まだ安定してないだけじゃないのか?」

「安定しとる国っちゅうと、アメリカ辺りの事やな?」

辛抱強い教師のように、フェッロは真っ直ぐに光を見詰める。

「アメリカは、国民誰もが銃を持ってるような病んだ国やとうちは思う。ちょいと人気がなくなれば犯罪者が多いし、マフィアが警察とグルんなって麻薬売りさばいてる事もびっくりするぐらい多いんやで? ヨーロッパも同じようなもんやよ。カウンターテロ……凶悪犯罪者達に対抗する戦闘組織が、警察と別個に作られとるくらいや。巻き込まれて死んでく奴等も珍しくない」

フェッロは溜息。

「何より、人売りなんちゅう事、日本ではあんまりないやろ? お金に困ったかて、サラ金とかに借りに行くのが先や。自分の子供ぉ、そうそう売らんやろ……」

「え? まさか……メイアさん……」

「せや……」

悲しそうなフェッロの顔。怒りとやるせなさ、そして同情と、同情してしまう自分を嫌悪する自嘲の笑み。

「親の顔も知らんらしい」

「っ……」

光は息が詰まるのを感じた。

親も知らない。では、自分の名字も? ついさっきのあの反応は、自分の名字を言えないからで……

「ど、どうしよう……お、俺、滅茶苦茶酷い事……っ」

居ても立ってもいられず、その場から立ち上がってメイアを追いかけようとする少年を、フェッロは首を振って制止させる。

「大丈夫。メイアも大人やし、そんな人生を誰よりも知っとる……。名前聞かれただけで、あないに反応せえへんよ」

「で、でも! メイアさん、実際に……」

微かに涙すら浮かべる光の瞳を見つめ、フェッロも胸が熱くなる。

心臓から来た熱っぽい言葉が、そのまま口から出た。

「ほんま、ええ子やね、光」

分厚い眼鏡を外すと、薄桃色の優しい瞳が光を見るめる。

「メイアはねぇ、言葉に傷ついたんとちゃうよ……人生ってのは複雑やさかい。ちょっとバランス崩しただけなんよ」

「ば、バランス……崩したって、わけわかんねぇよ……」

「……人はな、それぞれが想いってもんを持って生きとる」

眼鏡の下から現れた整った顔立ちが、理想の教師の面持ちで光を見つめて語る。

「太い想い。細い想い。やらかい想い。かちかちの想い。熱い想い。冷たい想い――みんな違う想いやけど、それは誰もが持ってるもんや。そんで、想いは、人を支える事が出来る唯一の糸やねん。世界中の誰もがみんな、糸の上に乗っかって生きとる言うわけや」

例えば――軽い笑みを浮かべて、フェッロは光を指差した。

「光が頑張ってるのは、怪我を治そうと想ってるからやね? それは、光自身が自分を支えるために出した糸のおかげ」

それから、自分を指差し。

「そいで、その想いはうちにも影響する。光がこんだけ頑張っとる。頑張ろ言うとる。せやったら、うちも頑張らな……そうやって、うちの足元にも糸が出来る」

あ――光は口を開いて、声を出した。

何だかわからないが、だが良くわかる気がする。

「そう、世界中の誰一人として、自分だけで自分を支えてるなんて事……絶対無い。誰かを支えて、誰かに支えてもろてるんよ」

そう……支えて貰っている。

屋上から落ちようとしたあの時、誰が自分の命を地上に呼び戻してくれたか、光は知っている。

脚が治るかどうか不安で彷徨ったあの夜、自分に信じる事の大切さを教えてくれた人の顔を、光は知っている。

一人だけでは挫けそうな途方もないリハビリの時、付き合ってくれる人の笑顔を、光は知っている。

誰も見舞いに来てくれない時、カラカラ笑いながら見舞ってくれる人の明るい声を、光は知っている。

リンゴの向けないその人に代わって、リンゴをむいてくれる人の無表情さを、光は知っている。

「そっか……なんか、すげぇ臭いけど、わかるなぁ……それ」

「せやろ? 悪意でも、善意でも、勝手に足元に根付いてまうんや、その糸は……そんで、複雑な人生を形作っていく。道になったり、休憩する椅子になったり、ひょっとしたら、道を行くための車になってくれたり……」

あはは、車は随分人徳ある人やないと無理やろね。

フェッロの笑いが、場に軽さを呼び戻す。

「でも、そんな複雑な人生の中、特に大切な糸ってのはあるもんやん? 手放したくない、これからもずっとおって欲しい。まるで、空気や光、水のように当たり前で、絶対必要なもん」

光に見えるように、フェッロは両手を広げる。

その腕は食堂を示し、そして病院を示すように、大きく、大きく広がって、ようやく止まった。

「メイアにとって――いいや、うちにとっても、ルナや、姫はんにとっても……この病院は、そういった大事な想いが集中する、素敵な場所なんよ。そこで、光がまた一本、糸を足してくれようとしてる、嬉しいんや、めっちゃ嬉しいはずや」

だから……と、フェッロは寂しそうに表情を戻して、しかし理解を求めるように目元を綻ばせる。

「名前も教えられへん……自分が悔しいんや。嬉しいのを追い越すぐらい、悔しいんや」

 


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