悪夢を前に

嫌な過去。恐ろしい過去。

忘れたい過去。忘れられない過去。

全ては現在の後の、過去。

 

真っ暗な室内。白い床、天井、壁、ベッド、布団。微かに零れる月明かり。

眠れない。

眠れない夜だった。

体はそれなりに疲れていると思う。

午後も、出来たばかりの痛みを訴える心を叱咤しながら、しかしその痛みに励まされてリハビリを続けていたのだから、疲れているだろう。

光は、ぼんやりと天井を眺めながら、自然と自分の胸の上に右手を置いた。

全く無意識な行動だったが、それは不安を抑えるため。

視線を天井から落とし、ベッド脇の小型タンスを見る。上に乗っかっている、見舞いの果物。

そのうち、赤い色のリンゴを見つけて、不意に思い出す事。

 

それは、自殺を止められた翌日の出来事。

クラスの知り合いが持ってきた果物を前に、光は困っていた。

なるべく、クラスメートと一緒に食べてやりたいのだが、生憎果物ナイフの類がない。それに中学生になっておいてなんだが、リンゴの皮むきなどした事などない。

男は黙って丸かじり!

ずっとそう信じてきたのだから。

う〜ん。光が唸っていると、入り口の方から金髪シャギーのナースの姿。ナースキャップの具合を調整しながら、光とクラスメートの二人を見て、からかうような笑み。

「光、良かったな。ようやく見舞いの品にありつけるじゃないか」

すると、クラスメートはちょっとびっくりして光を見る。

「? どうした、伊佐凪(いさなぎ)?」

「ど、どうしたって……お前――」

伊佐凪――クラスでも随分と大人びいた雰囲気を持つ少年が、光に耳打ち。

「金髪美人だぞ?」

「ああ、ははん」

納得。

なるほど、黙っていればルナはやっぱり美人に見えるという事か。

そう、黙っていれば。

「でも、凶暴だぞ?」

普通の音量で光が言うと、ぶんっと空気が悲鳴を上げ、ルナの魔手がこめかみを鷲掴み。

「だぁれが凶暴だってぇ……」

アイアンクロー。

みしみしという音を上げ、光は声もなき悲鳴を二秒、ようやく解放される。

「ったく、口の悪い奴だな、お前は」

光は頭を摩りながら、涙すら滲んだ瞳で見上げ、

「手癖の悪いナースよりゃましだ」

ははは……。

渇いた伊佐凪の笑いが響いた。

「まあ、いいや。ルナ、悪いけどリンゴ剥いてくれない? 俺、こういうの剥けないんだよね、いっつも丸かじりだから」

その常識的台詞を聞いて、ルナはきょとんと硬直。

「え……?」

「いや、だから……リンゴの皮剥いてくれよって? 客分の伊佐凪に剥かせるわけにゃいかないだろ? 頼むよ」

ルナは、三秒熟考して内容を理解、顔をそらして壁を睨む。

「…………ない……」

「は? 聞こえねぇぞ?」

「あたし……きよ――きない」

光は伊佐凪と顔を見合わせ、今度は伊佐凪が、

「ええと、ルナさん……で、良いんでしたっけ? もう一度言ってくれると……そう、大きな声で」

「う゛……」

ルナが、嫌そうに赤く染まった顔を光と伊佐凪に向ける。

「あたし……そんな器用な事、出来ない……」

光と伊佐凪は、六秒熟考してその内容を理解、ルナから顔を反らして天井を見上げた。

「ああ……伊佐凪、今度のテストいつだっけ?」

「さあ……でも、今回はちょっと数学が厳しそうだね」

「へえ、なんでまた?」

「純粋にやってるとこが理解できないんだよ」

「ああ……」

光は顔に微笑を浮かべる。

はは、何だか学校行ってないと、早く学校に行きてぇなぁ……。

「うぅ……あたしは無視かい……」

どこかの井戸の底から聞こえてきそうな恨めしげな声に、ぎくりと光は視線を下した。

「だ、だってよぉ……」

同じく伊佐凪。

「触れない方が良い傷も、世の中にはあるって言いますし……」

う゛……。

そう言って怨霊は黙り込み、ブラウンの瞳が微かに潤む。

光は、伊佐凪が微かに「うわ、ポイント高い表情だな」と言うのを確かに聞いた。

このエロがきは……。

そう思いながら、まあ、確かにしおらしいとこを見るのはまんざら悪い気ばかりではないなと光は視線をルナに移し、その背後に幽鬼のように立つ影を発見。

「ルナちゃん……どうかした?」

幽鬼、というよりは氷の彫刻のような澄んだ美貌が、気遣わしげな色を含んで声をかける。

「メイア姉……り、リンゴがぁ……」

みっともない声の妹をメイアは数秒見て、頭をぽんぽんと撫でた。

それから、全部わかった風に光と伊佐凪に青い瞳を向けて、片手を差し出す。

「リンゴ」

「え? リンゴ?」

無表情に隠された意図を察せず、光はオウム返し。

「ボクが剥いてあげます」

「あ、ああ、良いの?」

「うん。ルナちゃん、まだ練習中だから」

「言うなよメイア姉……っ」

なんだか照れた最後の声は無視、メイアはリンゴを受け取ると、スカートの裾を少したくし上げる。

光が驚愕を、伊佐凪が感嘆の声を上げたのも知らず、メイアはその白い脚線美を僅かに露にして、そこにある黒い硬質感ある物体を掴んだ。

済んだ擦過温を立てて、銀色の光が翻り、メイアの繊手に握られたものは――

――ナイフ。しかも、若干戦闘用っぽい。だって、血が流れていくための溝だかなんだかが刻まれている。

「なんで……」

光の声も無視。

メイアは慣れた手つきでリンゴに切っ先を押し当てて、くるりとリンゴを回す。ルナがその下にゴミ箱を置いて、加速度的に長くなっていく皮を受け取った。

まるで魔法を見ているように、メイアの手の中のリンゴは赤い皮から白い中身を剥き出していく。そう思うのも束の間、あっという間にリンゴは丸裸。

「おお……」

馬鹿みたいに光と伊佐凪はそう呟いて、リンゴを凝視。

そこに、メイアが手首をスナップだけでカマイタチの如き風を吹き込み、ルナが皿をその下に構える。

へ?

光と伊佐凪がメイアの顔を見上げると、ぼたぼたという音と共に皿の上に切り分けられたリンゴが落ちていく。

「どうぞ」

静かな小波のような声が、その時ばかりは得意気だった。

 

くつくつ、思い出して光は笑った。

どうだろうか、あんなナース。普通じゃないと思ったが、あれでは漫画の料理人だ。

それに、あの時のルナ。なんというかまあ、随分と可愛らしい反応をするじゃないか。

「はぁ……」

溜息が一つ、夜気に溶けていく。

怪我をしてなんだが、病院というのは意外と居心地が良い。

いや――光はフェッロの言葉を思い出す。

「この病院が、居心地が良いのか……」

想いの集る場所か。

口内で呟いて、光は夢の世界に落ちていった。

 

 

白亜の清潔感のある廊下を、荒い息遣いが伝わっていく。

息の主は、視覚の手前、自分。

そしてもう一つ、視覚の見つめる先、漆黒の防弾防刃用のメタリックな輝きのプロテクターを装備し、額から出血したメイアの姿。

自分――ルナとほぼ同じ格好のはずだ。

覚えている――これは過去の映像だと。

覚えている――これは殺戮の映像だと。

覚えている――これは別離の映像だと。

ルナは、かつての自分の視界から、かつての自分が言った言葉を聞く。

「メイア姉、ペディ姉からの通信」

恐ろしく冷たい戦闘中の自分の声。

「わかった」

それより冷たい、当時のメイアの声。まるで感情の無い、機械の作動音。

額の出血に傷薬を塗っていたメイアが、その手で髪をかき上げながら耳の通信機をオンに。

「用は?」

斬るような口調に、しかしルナは何も感じない。両肩に担いだ大量殺人道具、マシンガンに弾倉を装填する事が先決。

だが、ルナの耳にもある通信機から会話は入ってくる。

今にも消え入りそうな、通信機の向こうの声。まばらに聞こえてくるのは、恐ろしい銃撃の火。もうすぐそこまで迫っている、死神の足音。

『メイアちゃん……ごめん。こっち、もう……』

「ペディ姉さん」

だが、メイアの表情は微動だにしない。

ルナも、僅かに顔をしかめただけ。

「そう」

短いメイアの返答に、通信機の向こう、ペディは小さく笑みを零した。

『メイアちゃんは相変わらずだね。ルナちゃんも、そうなんだね……強いなぁ』

「強くなんか――」

『ううん、声が震えて……ないじゃない』

通路の向こうの曲がり角、そちらで息を整えているだろう敵に注意を向けながら、ルナは気づいた。

通信機の向こう、銃声に隠れて気づかなかった、ペディという姉の震えた声。

『は、はは……いやだなぁ……。姉さんらしく、死にたかったのに、ごめんね? 凄く、凄く恐い……こんな、こんな恐いなんて……』

「ペディ姉さん……」

「ペディ姉……」

伝わってくる感情の波。

涙、だろうか?

死への恐怖。別れの悲しみ。殺される恨み。そして、生への未練。

『アンジェちゃんも、フレアちゃんも、クーレードちゃんも……みんな、死んじゃった。悲しいよ、悲しいよ……わ、私たちが、殺した人達も、こんな気持ち――』

突然、通信機が悲鳴を上げた。

銃撃による通信音声と二人は悟り、そしてその中に混じる女性の悲鳴も、確かに聞こえる。

『ひぎっ――――うあああああああああああああああああっ――――』

それきり、通信機は黙り込む。

何も、何も聞こえてこない。

何も、何も、何も聞こえてこない。

そう、もう、何も……。

「メイア姉……」

「ペディオン姉さんの死亡を確認。アンジェ姉さん。フレアちゃん。クーレードちゃん。ペディオン・フォーヘッズ班の班員の死亡を確認。残存戦力、メイア・カドゥケウス班のみ」

壊滅、確実と判断。

メイアの静かな呟きと同時に、通路の向こうの呼吸が変わる。

突入してくる気か……。

「共に生きたあたしの家族達に……」

もう用をなさない通信機を壊し捨て、ルナは呟く。

「生き急いだボクの家族達に」

通信機を踏み潰し、メイアも呟く。

「「二度と銃弾が尋ねませんように」」

同時、通路の向こうから手榴弾が放り込まれた。

壁に衝突し、こちらの方へ転がって――メイアの投げたナイフが、空中でその軌道を真逆に変える。

通路の向こうに再び消えた手榴弾に、悲鳴が上がり、閃光と爆音。

「援護射撃」

ナイフを右手に銃を左手に、メイアが地を這うような姿勢で駆けていくのに、ルナが無言で続く。

壁の向こうの呻き声に、歯を軋むほどに噛み締める。

――好きで、好きでこんな事をしてるわけじゃない……。

言い訳がましく、ルナは唇を震わせる。

「スリー……トゥー……ワン……っ」

前方、曲がり角を横っ飛びにメイアが突っ込み、左手のハンドガンを連発。壁を蹴って軌道を鋭角にしつつ、前方にさらに跳躍する。

それに続いて、滑り込んでルナが敵を視認した。

壁際で手榴弾の直撃を受けた対銃撃戦装備を着た肉塊が、焦げている。

「ッ――!」

すでに、メイアが銃弾を撃ちつくし、両手にナイフを取り出して戦闘可能な敵に踊りかかっている。

――生きるためだ。生きるためにしてるんだ。好きで、こんな事……っ!

「っらぁぁ!」

両肩に担いだマシンガンが、轟然と火を噴く。

這うように疾走し、時折跳ね上がってナイフを振るう姉には決して当てないように――否、その姉の攻撃のタイミングを百パーセントの精度で予測し、間隙に銃弾を通す。

十ミリの違いもない。許されない。カドゥケウス(双蛇)の異名を取る二人の戦い方が、次々と死体を増やしていく。

――こんな事……。

殺されたら、どれだけ辛いか――

どれだけ恨みが残るのか――

ルナはよく解った。いや、解っていて、さらに再確認した。

――こんな事、もうやだよ! ペディ姉、アンジェ姉……みんなぁ……っ!

視界が霞む。

急に、戦闘中には致命的な、涙が込み上げてきたのか。

「あ、ああ……っ!」

嗚咽に呼吸が乱れる。銃撃の反動を、腕が押さえられない。

ブレる。射軸が、ブレてしまう。

十ミリの違いも許されないカドゥケウスの戦術で、ぷっつりと、ルナの精神は途切れてしまった。

「あああああああああっ!!」

眼前で、鮮血が撒き上がる。

だが、絶叫はルナのものだ。

メイアは驚いた表情でルナを振り返り、そして、地面に沈んでいく。

「あああっ、メイアねっ、メイア姉!」

金属の上げる悲鳴のような声。

殺戮道具なんて投げ捨てて、ルナは姉へと駆ける。

撃ってしまった。姉を。自分を可愛がってくれた、血の繋がらない姉を。

親に売られて辿りついた組織の中、同じように辿りついた、二歳年上の、物静かな姉。

それとなく慰めてくれたり、それとなく励ましてくれたり、時には、優しく抱き締めて隣で寝てくれた。

辛い生活の中、自分を支えてくれた姉――

――衝撃。

連続して、もう三発。

何度か経験した感覚に、ルナは吹き飛ばされた。最愛の姉から遠ざけられた。

見れば、敵――カウンターテロのエキスパート、『SEAL』のメンバーが、硝煙を上げる銃を構えている。

「がふっ」

遅れて口に広がる血の味。

「め、ぁ…ね……」

意識が、漆黒の闇の中に囚われていった。

 

「――――ッ!」

闇夜の中、棺桶を突き破るようにルナは飛び起きた。

跳ね上げた白い布団が、ふわり、宙に舞っている。

「はっ、はっ、はっ……!」

荒い呼吸。落ち着く事を知らないかのように体を乱打する心臓。

額に浮かぶ、冷たい汗。

それは、夢で見た血の名残か。それとも、“家族”の流した未練の涙か。

……殺した敵の血と涙か。

いずれにしろ、呪いのようにべっとりと、体に張り付いて離れない。

「……うぅ……っ」

仮眠室のベッドの上で、膝を抱きかかえて前髪を指に握り締める。

寝乱れた衣服も、床に落ちた布団も頓着できない。

嗚咽が、込み上げている。

――好きで、好きであんな事してたんじゃないんだ……信じて欲しい。殺したかった訳じゃない。殺されたかった訳でもない。

肩が震える。

目の奥が、壊れたように涙を溢れ返させた。

――ただただ、生きていたかった。生きていたかっただけだ。人生の意味とか、そんな難しいんじゃなくて、あの時一緒に居た“家族”と共に……泣いて、笑って、怒って、また笑って、生きていたかった。

まだ見る悪夢は、追憶の罰なのか。

まだ、自分達を許してくれない人がいるのか。

まだ、死んでしまった“家族”は、この世を彷徨っているのか。

暗闇の中、世界は沈黙以外の回答を与えはしない。

あたかもそれは、牢獄の中で咎人に与えられる罰のように……。

 

 

きぃ……。

病院の廊下に、車椅子の音が響いた。

音の主は、最上階のエレベータードアから出てきた光だ。

あれから浅く寝入ったのだが、車にひかれた時の夢を見てしまいこの様。いつぞやのように屋上に来れば、誰かに会えるという淡い思いを抱いて車椅子を進めている。

夜の外気に通じるドアの近くまで来て、光は溜息――ここから大変なのだ。

鋼鉄製の重い引き戸を開ける苦労を思い出し、あれ、と首をかしげる。

「開いてる……」

誰か、先客がいるのだろうか。

前にここで会った無表情なナースの顔を思い浮かべ、光は前進。

夜の大気が、星空と共に広がった。

だが、どこか人工的な香りがある。煙ったい感じのこの匂いは、最近は毎日近くでかいでいる気がするが、何だったろうか?

ナースの誰かがつけていた香水……いや、違う。

見渡した視界の中、光が切り取ったフェンスの向こう側に、フェンスに寄りかかって紫煙を吐き出す影。ナースキャップのない頭は、金髪のシャギーが星の光を受けてきらきらと輝いていた。

煙草の灯火が、ルナの後姿に消え、どこかだるそうに煙を吐き出す。

「この匂い……ルナの煙草の匂いか……」

他に人影がないかしばらく見渡して、光は車椅子をルナの方へと動かす。

メイアの事を姉と呼ぶ、妹のルナ。

恐らく、彼女もまた、それ以上の名前を持たないのだろう。

だけれど、それを感じさせないくらい明るいナースの事だ。その事に触れなければ、良い話し相手になってくれるだろう。

――眠くなるまで、甘えようっと。

「お〜い、ルナ〜」

笑みを多量に含んだ呼び声に、後姿がびくっと震えた。

こちらを振り返らずに、

「ひ、ひか、る……?」

戸惑いに掠れた声が、夜気に淡く響く。

ルナらしくない弱弱しい声に、しかし光は気づかない。

「ちょっと眠れなくて、話しないか?」

きぃ……。

近づいてくる音に、ルナは慌てたようだった。

「ちょ、ま……ひかる、も……就寝じか……」

「良いじゃん良いじゃん、固い事言いっこなしだろ? ルナだって煙草吸ってんだから」

小さく笑いながら、光はルナのすぐ横まで来る。フェンスを越えるのはさすがにまずいので、ルナの一歩後ろだが。

「ルナ?」

だが、様子のおかしさはすぐにわかった。

光から顔を反らすために、ルナは光に丁度背中が来るように向きを変えている。そればかりか、煙草を持っている右手の指が、小刻みに震えているのだ。

さらによく見れば、体も震えていた。

「ルナ、ど、どうしたんだよ……」

「う、うるさい……どうも、しな……」

歯切れ悪く終わった声は、光が昔、小学生の女の子を泣かせた時のように弱々しい。

まさか。

光は否定と共に思い至り、しかし、間違いないだろうと確信する。

「ルナ……泣いてんの?」

「ん――ッ!」

首が強く横に振られた。涙らしき雫が夜空に飛び、月光を屈折させて煌く。

駄々っ子のようだ。

けれど、光は笑いも怒りも、込み上げてこない。

昼間に聞いた話――自分には想像も出来ない、そんな物語のような人生を送ってきたのだろう。なら、強く否定したい事もあるはずだ。そう、怪我した足が動く事はないと見限りをつけるよりも、もっと強く否定したい事も。

「そっか……まあ、なんだ……」

ついさっきまでは、ルナにこちらの話を聞いて貰おうと思っていた。

事故の時の話。

どれだけ恐かったか、とか。どれだけ痛かったか、とか。

でも、光はやめた。

そう、世界中の誰一人として、自分だけで自分を支えてるなんて事は絶対に無い。誰かを支えて、誰かに支えて貰っているのだから。

今度は、自分が支えてみようと思う。

光は、出来る限り柔らかい笑みを浮かべて、ルナの背中を見つめる。

「お、俺でよければ、なんか、相談とか、愚痴とか、聞くよ? ガキだけど……」

なんで、もっと格好よくいえないかなぁ……。

思わず赤面しながら言った台詞に、ルナがゆっくりとこちらを向いた。

驚いた、泣き顔で。

 

ブラウンの瞳から溢れる涙が、頬を伝い、顎へ滑り、夜に落ちていく。

ぽろぽろと雫を零す見開いた瞳が、ぐしゃっと歪んだ。

「う、うぁ、ああ……っ!」

煙草の灯火が、一瞬宙を舞って屋上の地面に落ちる。

それと同時、光の胸に人一人分の重さが圧し掛かった。

「ひく、ふぇ、ああぁ……!」

光の胸に顔を押し付けるように、ルナが鳴いている。嗚咽の全てをかき消して欲しいと言うように、必死に抱きついて。

「あ、あた、し……ひぁ、あたし……っ!」

「落ち着いてからで、い、いいんだぞ?」

しゃくりを上げる金髪を、ぎこちなく撫でてみる。

あのナースチーフの、紅石姫というナースがしてくれたように、そっとそっと、撫でてみる。

「う、く……ふぁ……っ! あたし、うそ、ついて……メイアね、に、嘘、ついてぇ……!」

「う、ん……?」

うそ?

内容を問いただそうとして、言葉を変える。

夜の屋上、メイアがそうしたように、問いただすのではなく、相手の言葉を待つために。

「あたし、あたしぃ…………メイア姉、撃った……でも、こわ、くて……事故だ、って、弾が、銃弾の軌道、変えたって……! 殺す、とこだった! 殺すとこだったぁ……!」

「うん……」

正直に言えば、要領の得ない告白。

でも、この姉妹に何かあった事はわかる。

メイアは、血を吐くような声で告白を続けた。

「それ、だけ、ない! ひか、る、あたし……人殺し、してたっ!」

「え……う、うん……」

「で、でも、違う! あたし、したくなんてなかった! メイア、姉も……みんなも! あたし達、違う……生きたかっただけ、みんなで、笑って、生きたかっただけぇ……!」

生きたかった。

――そうか。

光は思う。

わかるような気がする。こんなに涙を流す人だから、生きてる大切さをわかるんだなと思ってた。

だから、光は、いつの間にかカラカラに渇いた舌を動かす。

「わかった……うん、なんていうか、信じれるよ、それ」

びくりと反応したルナが、恐る恐る光の顔を見上げてくる。

ぐしゃぐしゃに泣き崩れた顔に、薄く笑みが混じり、すぐにまたしゃくりが上がった。

「ひぁ――!」

それだけ声に出して、ルナはまた光に顔を押し付けて泣いた。

光の胸の服はもう随分濡れていたが、まだまだ濡れるだろう。

 

「あたし……」

嗚咽も治まり、ようやく声の震えが小さくなってから、ルナは光の服の裾を掴みながら小さく語りだす。

「あたしは、小さい頃、親に売られた……一体、どれくらいで売られたのかな。多分、一日の酒代くらいだと思うんだけど……」

当時は、六歳だったと思う。

父親と母親の口論に脅え、二人の暴力に耐えながら過ごした、陰惨な日々。

今思い出してもまだ、指が小さく震えだす。

「売られた先は巨大な麻薬組織で、他にも何人かの売られた奴等がいた。メイア姉とは、そこで出会って……あたしに優しくしてくれたのが縁で、今でもこうして一緒にいる。あたし達はお互いを慰めるように寄り添って、年上を姉・兄と呼ぶようになり、年下は妹・弟として呼ぶようになった……“家族”って、皆は呼び合ったよ」

知らず知らず、微苦笑がルナの顔に浮かぶ。

「組織が欲しがってたのは、これからの勢力拡大に必要な抗争力……つまり、戦争の出来る人員。あたし達に与えられたのは、人殺しの道具と戦闘訓練の日々――そして、麻薬だった」

ルナは、ナース服の長袖をまくりあげ、肘の裏側――注射痕を月光に見せた。

「上手く訓練がこなせればきちんと麻薬が注射される、けれどミスれば無し……ははは……禁断症状が辛くてね。皆死に物狂いだったよ。あたしも、あの冷静なメイア姉でさえも」

毎日吸い込んでいた硝煙の匂い。

麻薬のもたらす異常な快楽。

荒んでいく心。

それでも、家族は確かに、お互いを支えあっていた。発狂者は、一人も出なかったのだから。

「それから十年が経つと……あたし達は戦線に投入された。相手も非合法の犯罪者が多かったけれど、たまに、警察組織も相手にした。あっちに大量の死人が出て、こっちにも死人が出る……でも、こっちの死人には墓も出来ない。その場に放り捨てられ、置き去りのまま警察の検死に回され、身元のろくにない死体からは、何の手がかりもない」

当然だ――ルナは、嘲笑の形に唇を歪める。

「あたし達の名前は、この世に存在していなかったんだから。あたし達が勝手につけて呼び合っていた、ファースト(名前)でもセカンド(名字)でもない、“家族”の愛称だけがあたし達の生きている唯一の証拠……社会的には、死人だったんだ」

どれだけ社会を恨んだ事か。

どれだけ親を罵った事か。

あんなものが家族であってたまるかと叫んだ事は、もう数え切れない。

「そうそう、愛称は、ペディオンっていう姉さんがつけてくれたんだ。あの人は博識でね……一番年上、長女で皆から慕われてたっけ……」

これこそが“家族”だと笑った事も、もう数え切れない。

あれから、生き残っている“家族”はもう一人しかいないけれど……一番、優しかった姉がまだいてくれているから、まだ生きていける。

「……組織は内部抗争によって自壊。その経過の中で、あたしとメイア姉はたった二人……“家族”で生き残った。あたし達が死刑にならなかったのは奇跡みないな事さ」

「それから……この病院で働いてるのか?」

「そう。二年で看護学校のコースを勉強して、二年間働いてる」

照れくさそうにルナは笑む。

「この病院で、怪我をさせるんじゃなく……治したり、防いだりするために働いてる」

「そっか……なんか、複雑な話だった」

「ははは……」

苦笑。

「ごめんな……嘘、吐いてたのと同じだよな、これじゃあ」

「そんな事ない!」

肩を落としたルナを見て、光は咄嗟に、怒鳴った。

「ルナの昔がどうだとか、メイアさんの昔がどうだとか、それは俺の面倒見てくれる二人とは全然関係ない! 関係あっても、二人はそれ以上に優しくしてくれる! 俺は確かにガキだけど、これだけは間違ってないはずだ!」

真剣な表情の光を、ルナは少し見上げ、はっと笑いを零しながら俯く。

それから、静かな声で。

「ありがとう……」

屋上の夜気が、小さく震えた。

 

屋上の入り口の脇の壁。

ルナと光からは決して見えない位置で、ちぅ、という音が鳴る。

音を立てながら、夜空を見上げる影はふと、微笑の形を、小さく、小さく唇に浮かべた。

「良い夜……」

 

旅立ちと未来を前に

さようなら……それは、新しい出逢いの笑顔の形。

 

それから、二ヶ月が過ぎた日。

金髪シャギーのナースが、医師からの言葉を承っていた。

「いや、これは凄いな……」

カルテをじっくりと読み込んだ医師は、微笑を一つ。

「実際、治らない程度の怪我でもなかったが、ここまで完璧に治るとは思いもしなかった。神経も百パーセントと言って良いレベルまで治っている。それも、この短期間で」

「ほ、ほんとですか?」

「ああ、嘘なんか吐かないよ。うん……退院を許可しよう」

しかし、と医師は金髪のナース、ルナを見つめ、

「頑張ったね。いつもいつも思うんだが、この病院のナース達は信じられない成果を上げてくる」

「え、あ、いや……ははは……」

「照れる事はない。これは誇れる事だ。うん、それじゃあ、退院許可を出しておこう」

ルナは、薄く染めた顔を上げ、楽団のように明るい声。

「はいっ」

 

色々とあった充足の日々に終りを告げる一日は、あつらえたような曇り空。

病院の正面玄関で、世話をされた人と、世話をした人が別れを交わしている。

「あー、シャバの空気だぁ」

光は、しっかりと自分の足で立ち、大きく伸び。

そこに、後ろから明るい声。

「ははん、そんなに病院の空気は不健康だったかよ」

見れば、ルナとメイア、姫チーフとフェッロの姿。

「いやまあ……だって病人がいる所だし?」

「あらあら、病人を治す人達もいるのに」

姫チーフ。

「でも、病人の方が多いんとちゃう?」

フェッロ。

「ボクは嫌いな匂いじゃないけど……」

メイア。

「ま、どっちでも良いんじゃねぇ?」

ルナ。

カラカラ笑い、ルナは胸を張って光を見やる。

「とりあえず、二ヶ月以上の入院生活も今日で終りだ。大変だったろうが、良く頑張った。あたしは嬉しいぞ」

「ん、ありがとよ」

光もルナを見返し、しばらく沈黙。

本当に色々あった。

自殺しようとして止められたり、屋上から飛び降りられたり、食堂で関西弁のイタリア人と話したり、屋上で泣きつかれたり……。

それも、もう終り。

退院すれば、滅多に病院に来る事はないだろう。

「もう、怪我すんなよ? 人間健康が一番だから、病院には来ないに越した事はない……まあ、そんな意味合いを込めて、お別れの挨拶だ」

「わかってるって……」

微苦笑。

もう、このメンバーと会う事もないのだろう。

やけに笑顔の眩しいナースチーフ。

牛乳好きの無表情なナース。

洒落っ気のないメカニック。

金髪シャギーのナース。

それぞれ、この病院でしか会えない人々。

大切な想いをくれた、大切な人々。

「それじゃあ……」

「「「「さようなら」」」」

四人の女性に言われ、嬉しいやら恥かしいやら、光は苦笑。

「ああ、さようなら」

背を向け、歩き出す。

こういう時は、振り向かないのがポイントだ。

映画か何かで良く見る。こっちの方が格好よく見えるだろう。

…………。

なにより、振り向いてしまえば、涙、止まらないだろうから。

ずっと歩いていく。

今日も、明日も、明後日も、ずっとずっと歩いていく。

また歩けるようになった、この脚で。

足元に根を張った、想いの糸の上を、ずっと歩いていく。

バランスを崩す事もあるだろうけれど、ずっと歩いていく。

病院を離れて、見えない位置まで来ても、ずっと歩いていく。

途中、ふと思い立って、ポケットに手を突っ込む。

ケータイを取り出して、登録された人々を確認。

友達――

知り合い――

家族――

ナース――

そして、

――アタック中

一番最後に登録されているアドレスに、メールを打つ。

「けけけ」

ちょっと悪戯っぽく、笑った。

 

「さて、行ったわね」

おっとりとした姫チーフの声に促され、病院へと踵を返す。

さあ、今日も仕事だ。

すると、隣を歩いていた無表情なナースの懐で、着信音が鳴った。素早くナースはケータイを取り出し、目を通し、うんと頷く。

「ルナちゃん、ルナちゃん」

「ん? なに、メイア姉?」

「デートのお誘い」

「へっ?」

見ると、差出人は『妹の恋人候補』という名前。

「な、な……! メイア姉!?」

「ルナちゃん、ケータイ買おうね。ボクのケータイでやり取りされると困るから」

一切の抵抗を無視して、メイアは文章を朗読する。

「“ルナ、今度の日曜日ヒマ? 俺でよければデートしない?”」

「わあ、わあ! よ、読むなぁ!」

素早く翻ったルナの手を、メイアは後方に飛び退いて回避。

「“場所はまあ、後で決めるけど……あ、今、メイアさんにいじめられてるだろう?”」

「うぐっ!」

ガツン、という感じにルナの首が下がる。

メイアはそれを見て、ぼそり、呟く。

「見透かされてる、幸せ者さん」

「うああ! 言うなぁ!」

「日曜日は休みだから、OKって返事を……」

「わああああああああああああああああああああ!!」

 


back next top