ライオン
030923 さらい
太陽は高く、空は青く、少年は自室のベッドで目を覚ました。
強い夏日の日差しが、小さめの窓のそれぞれから足下に落ちるまで、真っ直ぐ斜めの光芒を描いていた。
朝起きの予定が狂ったなあ、と彼はひとりごち、寝台を降りる。
石を敷かれた床は寝起きの末梢には未だひんやりとして冷たく、
彼は寝台の隅に腰掛け直して、おとなしく柔らかな部屋履きを履いた。
頭の片隅で、坊っちゃん、お腹を壊しますよ、と声がした。
外を覗こうと、ひたひたと窓に寄る。明らかな気温差に驚いている間に、肌の表面が汗ばみ始める。
思ったより寝過ごしていたらしく、慣れた兵訓練の声の代りに、子供の遊ぶ声が聞こえている。
彼は寝間着を脱ぎ、椅子に放り掛け、手近に目についた綿のシャツを着込むと、鏡も見ず、早々に部屋を出た。
「先生」
最上階に、馴染まない人影は少ない。見慣れた痩せ型の軍師を彼は呼び止め、駆け寄る。
会議室へ向かう真っ直ぐの廊下に肩を並べてから、
「おはようございます」
「おはようございます」
スローペースな印象で、彼らは声を掛け合った。
間もなく会議が始まれば少年も軍師も嫌というほど喋り詰めなければならないうえに、
今少しののんびりとした時間を味わうにも支障ない程にはこの廊下は十分長かったので、
彼らに当面挨拶を急ぐ理由などは見当たらないわけだった。
もっともそれには、彼らの生まれ持ったペースというのも随分関係しているように見える。
「モラビアはどんなに暑いでしょうね」
マッシュは懐から、深い緑の布扇を取り出し、ふとそれとスエンの額らへんとを視界に重ねて見てから、
「よくつくってくれたでしょう」
と言って彼にそれを手渡した。
先の戦にて、何だったかの咄嗟の傷の手当てにと軍主が自らの頭布を引き裂いて寄越した、
その余り端切れを拝借し、扇子につくらせたものであった。
それは土着の風習で、まあ些か古いものですが、と師は言った。
一度戦の時代になれば、持物が人間より長生きすることもままあったのだという。
「この蒸し暑さじゃ糊も溶けそうだなあ」
少年は笑って、その扇の、上下に波を描く弧を水平に、遠くを見るような素振りをした。
何度も洗い晒した布のために、糊を引いても毛羽立つ表面の繊維が陽光を受けてうっすらときらめきを纏っていた。
丁寧にそれを畳んで、腰の位置に保たれたやや日焼けして皺のある手のひらに乗せると、
「大事にしています」
やや細面の彼は、その目までをすっと細めて微笑んだ。
この軍師は特に年の行った人ではない。しかしその顔と手には、ほそく細かい多くの皺と、日焼けと少しの染みの痕が見て取れた。
正に長く田舎暮らしをした人の面差しをしているのだった。
その首はやはり日に焼けて浅黒く、骨張った輪郭から白い上着に吸い込まれるそれが、眺める彼にほんの少し不安を呼んだ。
何かについての支障ではなく、それはただ足のうらの青い影であったが、容易にもその予感を、彼は悟る。
天辺からの光に恥じぬ師の静かな笑みは、おそらく少年の心象を汲み取ったものではなかったが、
それでもそれは十分に彼の不安を擦り減らせた。その度に諦めと目を逸らしたい思いに駆られる。
角を曲がって、目の前に議場の扉が現れると、すぐに彼はげんなりとした顔をしてみせた。
そんな顔しないでくださいと軍師は笑って、彼の背を撫でた。幾分か少年より高いはずの上背は、今はほんの少し低く見える。
彼らとても討議をすること自体が嫌というのでなく、彼らの無機的な――そうでなくとも須らく机上の論議にてなされる決定によって
大勢の人間の生死が決まるそのことに対して憂いているのであった。
すべてを救える戦はとうに過ぎ、最早一歩間違えば犠牲を厭うことや躊躇が敗北へとつながる現状である。
勿論、軍師、軍主らしからぬ心情であると言える。本来打ち捨てなければならないものだと彼らは知っている。
だがそれゆえに命の救われた者たちが今この軍の兵としてこの湖城に生きていることも事実であった。
その甘さを支えるのもまた、右手の紋章なのだろうか。甘えては居ないか。あの女性の存在に。運命の流れというものに。
「さあ、参りましょう」
微笑みを崩さず、マッシュはスエンの背から乾いた手を離した。
少年は、この議場こそ戦場の初めの一歩であることを、すとんと落ちるように理解し、納得した気がした。
一日で一番暑い時間を過ぎると、すぐに空気が冷え込み始める。秋が近いということか。
釣瓶落しの日は光熱を撒くのを怠り始め、
また水辺の居城なれば朝夕の温度変化が激しいことも手伝って、
やや薄暗くなり始めた空を、はやくも肌を峙たせるほどの風が過ぎた。
ああ日が短くなったとしみじみ感じられるこのころになって、また肘を覆う衣や裾の長い部屋着に、
彼は半年前までの故国をぼんやり思う。
彼の傍には窓が開き、その扉は今朝方と同じ角度のままで外界とこの部屋とを繋いでいた。
少年は廊下に人の気配を感じたが、少しだけ逡巡したのち黙殺した。
どうしても伝えなければならない用件であるのなら、そしてかつそのような用件を伝えることが許される人間達であるなら
放って置いても何らかの反応をするだろうというやや投げやりな読みだった。
彼はその右手を覆いはしても頑なに周囲を遠ざけるようなことはしなかったが、
元来の性格として積極性の強い人間でもない。
少年と周囲の人間達の間に有る関係の土のような安定は、その明るみの部分と見て相違なかった。
少し待つと、外の気配はやや荒い動作に、ノックの手間すら省いて扉を開けた。
「何だ、居たのか」
入るぞ、と言い置くと、返事を待たずにビクトールは部屋に2、3歩足を踏み入れた。
頭に手をやって横を向くのを、彼のよくする動作だなと少年は思う。
もう片方の手には書類の束があった。
勿論、居たのかもなにも向こうも気付いてはいたろうが、少年の居留守に対しての妥当な反応と言えた。
全くと言ってよいほど嫌味も含みも感じさせないそれは、
この広い部屋にひとりでいた彼にとってとても心地よく耳に届く。
彼は自分に視線を向け続ける少年の横を半身素通りし、その書類を机に置いた。
「風邪の具合はどうだとさ」
一度言葉を切ってから、マッシュが、と付け加えた。
書類と共にことづてにきたというだけで、公務とは拘りのない発言ということだろう。
この軍においても、世間話の中に伝令を含むいくつかの方法を使っている。
主にはロッカク式のものだが、帝国と違い狭い軍ならではの用法で、
元来の小軍隊・小部落・あるいは特定の個人間を繋ぐ形を大いに活用していると言えた。
「ちゃんと寝てんのかァ」
ビクトールは部屋を数歩うろうろした後、ベッドにどっかりと腰掛けた。
また難しそうな、と彼が枕元の厚い本に手を伸ばしかけたとき、
「…あ」
それは、と言いかけて、スエンは口をつぐんだ。
直後、全く間抜けな発言になってしまったのを少し気にした。
「日記なんだ」
ややばつが悪そうに手を出すと、
「お、ああそうか、悪かったな」
ビクトールは数百ページある日記帳をヒョイと掴んで少年に手渡した。
「どうせなら…」
「ん?」
少年はその日記帳を机の引き出しにしまい込みながら、自身の腕を眺め、
「そのくらいガタイよくなってからがよかったなあと」
見比べるようにビクトールの腕を見た。
「背だってまだ伸びてたのに」
少年は彼の隣りの空間に、背中から倒れ込んだ。
よく干された布団の匂いと、汗の匂いが混じった。
「お前、あの親父さんまでになっちまったら可愛げねえよ」
「いやあ、追い越すつもりで居たんだけどね」
可愛げがあるだろう、と少年は笑う。
「その書類は?」
笑ったまま問うのを、ビクトールは曖昧に、ああ、と返した。
「あんまり楽しい内容じゃなさそうだな」
「そうだね」
いつもより厚みがいくらか割増されているのは、午後の会議を引けた分だろうか。
「今はゆっくり休んでおけ。
休みが必要なのはお前ばかりでもないからな。丁度よかったろ」
からからと小気味良い笑い声を部屋に響かせて、ビクトールは立ち上がった。
ただ暗くなってゆくばかりの空と重なった大きな背に、
少年は確かに黄色の夕日と強い光を見た。
無言の少年に、彼は振り返り、
「なんて顔してんだよ」
といつになくゆっくりと口にした。
その向こうには、薄らと夕焼けの色が低い空に伸びていた。
「君は馬鹿か」
およそ14歳の子供が放つ台詞ではない。
目の前に居るのは仮にも彼の所属する軍の軍主である。
「…そこまではっきりと罵られると、返す言葉も」
しかし当の軍主といえば、夜半になって少し上がった熱も手伝って思考を放棄しかけていた。
紋章持ちでも風邪を引くんだなあと口にすると、きみは本当に死なないつもりなのか、と言われた。
できることならばあまり早死にはしたくない。
だからといって、彼らにとってどの程度生きれば長生きで、どの程度で死んだら早死になのかは、今はよくわからない。
スエンは小さなため息が聞こえるのを遠く聞いていた。
「……」
普段あれほど尽きない彼の嫌味が尽きたのを悟ると、彼の人間味を覗いた気がして心地よかった。
あれは最後の一撃だったのか。小さく笑う声が届かないとわかるほどに、
窓の外はざわざわとして、風が強く吹き始めていた。
この地方の夏の終わりは、豪雨である。静かなものではない。
「明日は雨だなあ」
「…そんなの、見たらわかるじゃないか」
可愛らしいほどに素っ気無い物言いで、けれど行間を心得たような言葉遣いは少年には不思議なものだ。
ルックはスエンの額に乗せてあった手拭いを水に浸し、固く絞ってまた乗せた。
少年は硬い水音が心地よく、目を閉じると、彼が額の布で目許の汗を拭き取りまた自分の額に乗せたのがわかった。
「帰るよ」
彼は少年の目許に指先を触れてみせ、背を向けた。
もう寝ろということだろうけれども、硝子板一枚隔てた外界から響く風の音が心を逸らせるので、
体を横たえながらにそれはきっと無理だろうと感じていた。
雨と雷の予感は胸と耳滸をざわつかせる。
背を向けた彼は部屋を出るまでに、飾り時計の針を調え、椅子にかけられたままの少年の服を畳み、また椅子にかけなおし、
「いい加減に自分で服を畳むのを覚えてよ」
と小言を言った。
少年は限りないスローモーションを願い、彼もいつもよりはゆっくりとその動作を行ったかもしれない。
拾い上げた糸くずをくずかごに落とし、彼が訪れる理由として少年が貸し出した本を本棚に戻し、その隣を抜き取った。
そうしてやっとすることがなくなると、一度彼は少年を見つめた。
「おやすみ、スエン。僕はもう眠いんだ」
彼が呼んだ名前に動揺しているうちに、ルックは扉の向こうにすり抜けて行った。
手を触れたかもわからないほど静かに扉を閉めていったのを、白い指先が離れた瞬間だけを見届けて、認識した。
また風が吹き、窓枠がガタガタと大きな音を立てた。
部屋は不思議なほどに落ち着いていて、天井の不規則な陰影を眺めていると、
そのまま何時間でも眠れる気がした。
少年は深い呼吸を一往復すると、厚めにかけられた布団を跳ね除け、飛び起きるのと同時に部屋履きをつっかけて、
彼の背中の残像以外他の何も見ることなく、その部屋を飛び出した。
少年は夢を見ていた。
まだ若いたてがみ、しかし広くそびえる背、
しなやかな身体から伸びたやはりしなやかな脚と、その踏み締める乾いた地。眼下の景色。走り抜ける記憶。
連続した幾つかの、似通ったシーンが続いていったが、夢を見ている彼は疑問を持たない。
風はさながら逸る本能をかきたてて、前へ前へと押し出すように、その肢体を撫でた。
夢は黙してその意味を語らぬまま、その眠りを飽くまでも限りあるものとするために、渋りながらもやがて彼を手放した。
久しぶりのSSです。日記に収めきれない話がひさしぶりなのかな…
いつものことながら、意味ありげなことを書いておきながら
つまり何なのかよくわからない話です。
それでいいとおもってます。
小説を追求するつもりがないのでいっそ自由なんだなーと思います。