桜
050401 さらい
少しかさつく唇は春のせいだ。
陽気の良い季節である。湖岸に数本の桜が花衣を纏いはじめて数日経つ。
広報によれば、3日後には満開を迎えるだろうという見解だ。この城は、気象予報士なんか抱えていただろうか。
桜の咲く地域は多くないと聞く。だから彼は、故郷と同じ春を拝めることを純粋に喜んだ。
僕にしてみれば、水の傍にある城と言えども吹くのは風ばかりで、夏に涼しいかと思えば期待を裏切られた。難儀な立地である。
唇を離して暫く少年は考え込んでいたが、もう一度僕にそれを近付け軽く吸った。
互いに乾いた唇を軽く触れ合わせる、曖昧な時間が、ただ過ぎる生活の中にいつの間に居座りを決め込むようになったのか、僕は覚えていない。
購入若しくは拝借したものの未だ手をつけずいる書籍の数は増え、
決して広くない机に積み上がっていく。
それは恐らく僕が溺れた分だけ浮いたアクで、僕には掬えない、唯一目に見える形での感情の分泌なのだろうななどと他人事のように考えていた。
「したい」
彼の唐突な発言はいつものことだ。だが、
「珍しいね」
と僕は言った。内容の話だ。
未だ至近距離の瞳を覗き込み、
「どうしたの」
と訊く。
「どうかしないと駄目なの?」
いつもの笑顔と声だった。胡散臭いくらいの穏やかさだ。
答えの解釈を天邪鬼にとらえるだけで、正解に接近するこの単純さは何なのか。
僕は彼の首に腕を回し、馬鹿じゃないのと呟く。
息をつくと彼は、馬鹿だよと言って少し笑った。
投げやりな言い方かもしれないが、次に起きた時当然僕は裸で、動く事が億劫で仕方がない。隣りの寝顔を執拗なくらいに眺める。
起きないものだ。安心しているというよりも、彼は身に降る出来事に元からあまり良い期待をしていない。
彼は今でも無意識に、僕が彼に惹かれる理由をふとした瞬間見せつける。
言い換えれば、僕はいつまでも恋をしている。彼もそうであればいいと思う。
出来るなら自分も、僕にとっての彼と同じように、いつまでも彼をはっとさせる存在でありたい。
外へ向けて少し視線を外すと、開け放したままの窓から薄ぼんやりとした空が見えた。空と桜が、湖岸に沿って曲線を描いている。
明確に引かれない境界線は、桜の花で煙っているのだった。桜と雲の境は僕には見分けることが出来なかった。
四月と言えども裸では寒い、と気付く。窓から滑り込む風が冷やす部屋にあっては。
こんな格好でも何かをしていれば別で、いっそ歓迎できる計らいですらある、けれども。
そういえば窓を開けておいたのは彼だ。成る程、と僕は無意識の、知ったふりをした。
(加えて溜め息をひとつついた。ここは3階なので、下手な声も地面まで届かない)
シーツに潜り込み、彼に視線を戻すと、唇だけを動かすようにして何やら呟いている。
よく聞いてみようと軽い好奇心で耳を近付ける、それと同時に、不意の長い腕が僕の頭部を絡め取った。
ああ、と理解が追いつくまでに、視界が彼の首筋に沈む。彼は率直で不思議な動作をする。
何も言わず数秒居て、その姿勢がまるで当たり前の仕種のように落ち着いてしまってから、少し遅れて、小さな笑い声が喉元から聞こえた。
低い震えの余韻が肺の隅から目の端までを、ぼやかすように痺れさせた。
抗わず、僕は目を閉じる。
ただ嬉しかったのだけれど、下手に素直に喜ぶようなことをしたなら今度は僕が「どうしたの」と訊かれかねないので
僕はいつものように、悪態を如何に吐くかというようなことを考えながら、
彼の喉の窪みを眺め、遠くの桜を眺め、そして憮然として見せた。
この気持ち自体を誰がどう呼ぶか、良いことか悪いことか、僕の狭い世界に解答など転がっていない。
彼は自分にもそうだと云った。してみると僕などには一生わからないのかもしれない。いや、意外と彼も同じなのかもしれない。
(頷いている素振りをして、人の話を聞いちゃあいないことがあるから。他人に寛容なのと、自分に寛容なのとは違う)
「酒や煙草と同じだろう。気持ちよくて、少し辛くて、それ故の習慣性が」
「気持ちの介在しない触れ合いなら、そうかもしれないけど」
「気持ち自体がもうそんなじゃあないの」
「…ルックはそれじゃ駄目だと思う?」
本質は一つだけど、そんなふうな言い方をして彼は苦笑をしてみせる。
向こうは知っててやっているのかもしれないが、やや的はずれなそれにちっとも腹が立たない以上、
僕は匙を投げてしまったって構わないと思う。
壁を背にして寝台に腰掛ける、彼の肩が寒そうだったので、僕は身を寄せ、頭を預け、左手で軽く、放り投げる素振りをしてみせた。
「何を投げたの」
「匙」
それなりの回答として、文学的なやり取りを提示したつもりだったのだが、何のつもりか彼は吹き出した。僕の意図など遠く彼方だ。
「信用ないなあ」
「それはあんたが悪いだろ」
「別に例え話だっていいよ。だけどルック、そういうのは普通、真っ昼間に散々したあとの漸くの寛げに云うものじゃないんじゃあないの」
「…そういうことを云ってるんじゃないんだけど」
「そうだねえ」
「大体誰のせいだと思ってるの」
「僕だね」
彼はまだ笑っている。僕はその声の、寛容を感じながら、目を閉じて雲を追い払う。
わかりあうことなどできないだろう。だからこそ、この恋を僕は持ち続け、捨てがたいと感じているのかもしれない。
期待のいくつかを裏切り、僕に説教をし、それはそれとして、僕に触れる彼の手だとか、
僕にはもう手に負えないものしか残っていないのだ。
曇りの空も彼の声も、僕からは絶対に届かないような素振りで、
何か云おうとしている気がした。
(例え今の僕らが如何なる操作を試みたとしても、いつか袂を分かつ日が来るとして、
何を無駄だと言えるだろう。
僕が求めるものの総てを寄越してしまうようなことを彼はしないけれど、いつか終わりはやって来るのだ。
どんなに深く見える彼でさえも、心には底を持つ。行き着くことは安定だが、不安だろうと思う。
それが別れというものだと、僕はいつから知っていたのだろう。いや、彼はいつ。
何かを重ねる、せめて僕の素は人間だっただろうと考えられるのは、幸せなことだった。
…不条理な別れを、僕はまた彼に押しつけてしまうだろう。まだもつ関係をふいにしてしまうことは、彼が置いて行かれ過ぎてしまった人だからこそ枷のない選択だ。
僕の目が乾くばかりで、涙の岸辺へはゆけないように、
今思う、この全てが、良いことか、悪いことか。
けれども僕は考えてしまうのだ。
人と比べた僕の不細工はただひとつ、忘れられないことだとしても。)
桜が、と彼が言った。
桜が散る前に、一度帰らなければ。
そうなの、と僕がこたえた瞬間視線を揺らしたこの人を、愛しいと思った。
「最初に桜が好きだったのは僕じゃない。ありきたりな話だけど、子供の頃僕はあの木が怖くて」
そう話す彼の声に、自責や後悔の色は薄い。ただ彼は自分の一部を話しているのだった。
辛抱強いのか、ただ堅実なのか、そんなところまで意識を届かせてなどいないのか、
とにかく彼は、ひとつひとつを着々と消化する。
「ごつごつの肌も太い幹も怖かったけど、ソニアが桜の木は父に似ていると言った。僕は怖いと言えなかった」
ふうん、と気のない素振りで返事をしてみせた。何でもないふうに笑っている、話をする彼に、少しだけ目線を流す。
「嬉しそうに見るんだ。僕は嘘を吐きたくなかったから、僕もいつか怖くなくなるんだろうなって考えてた」
「…ほんとに変な子供…。」
茶化すというより割と本音で呟いて(相当今更なのだが、それでも彼の思考回路はおかしい)、
また少しはちゃんと聞いてやろうと視線を戻してみたが、茶色い彼の瞳がびっくりしたみたいに僕を見ているのと目が合ったら、笑い出してしまった。
「…笑う話だっけ?」
「あんたが話した話だよ」
放っておいても彼はまた喋りだす。それは往々にして言葉を発するのみに限らない。
例えば机を何かの音楽に合わせて指先で叩くのとか、椅子に座りながら爪先で屑入れをいじるのとか。
あれは誰でもそうかもしれない。独り言の一種。それが聞き取れる者でありたい。
「僕は桜は今も特に好きじゃあないよ。でも、うつくしいと思っている」
桜が花びらを散らすにはまだやや余裕があった。
果実の実ったような赤いがくには、白い花びらと、桃色のものと、薄緑のものが混じって五つ植わっている。
日差しは暖かい。僕はするりと薄いシャツを羽織って、半身をシーツに潜らせたまま壁に背を預けた。
彼は眠たがるように、本当に穏やかに、抱えた膝にもたれている。
随分前に書いたものですが、今さらのように表に出してみました。
なんかの理由があって隠してたんだとおもうんですけど
どうもよう覚えてないんでアップしておきます。
毎年桜の季節を逃しまくったことだけはおぼえてます。
あんまりなので更新日だけ桜の季節にしておきます。