アイルランドの伝統音楽
Traditional Irish Music

スライゴー県のパブで演奏されている伝統音楽
注目すべきは背後の壁に掲げられた、歴代の地域の音楽家の写真と絵である。豊穣な音楽の土壌の上に華麗な演奏は花開くものなのだ。彼らのエネルギーの源はご覧の通り机の上の酒である。楽器の多様さにも注目されたし。フルート、アコーディオン、ティンホイッスル(縦笛)、フィドル(バイオリンではない)、バウロン、ギター、日本製のキーボードもある。
アイルランドの伝統音楽について
世界のほとんどの先進国では著作権というものが定められている。この権利は演奏したり、作曲すると同時にその本人のものとなるというのが通例である。このおかげで多くのプロミュージシャンは物乞いにならないで済むのだから、実にありがたいものである。しかし伝統音楽の土壌からすればこのことはあまり好ましいものではない。地域の誰かが思いついた曲が、伝承される過程でさまざまな変容をきたし、時には別物に進化し続けることで、莫大な数の伝統曲としてアイルランド中に蓄積されているが、著作権というものはこれを固定化してしまう働きを持っているからである。最近亡くなった偉大な音楽家であるマイコー・ラッセルは、アイルランドで有数の伝統音楽の盛んな地域=クレアの出身であったが、なぜここ(クレア)は音楽性が豊かなのでしょうとインタビューされたとき明快な答えをしている。いわく「ビンボーだからだ!」どうも音楽家の地位向上と伝統音楽の豊かさは両立が難しいらしい。お互いが勝手の知れた村社会の中では個人的な作曲がすぐさま地域の共有財産となったとしても、作曲者は不満を感じなかっただろう。むしろ誇らしく思ったかも知れない。しかし最近の情報化社会ではこんなおおらかな気持ちにはなれないだろう。
多くの日本人のイメージと異なり、アイルランドの伝統曲は圧倒的にダンス曲である。基本的な曲は8ビートのリール、3拍子のジグであるが、それ自体基本のステップと対になっている。つまり身体の表現と共にこの音楽は進化を遂げてきたのであるから、音楽だけが一人歩きを始める、たとえばCDとなって売られるという事態は、伝統音楽のポップス化を意味している。これまた伝統音楽の危機というわけだ。
日本でアイリッシュ音楽が演奏されるとどうなるか?極端な表現を許していただくならば、大都市圏ではマニアのウンチクの対象となる傾向がある。それに比べ西南諸島の聴衆は熱狂的な身体表現で、この音楽にシンクロする傾向があるようだ。事前の予備知識など関係なしに身体がこれが何かを理解できるらしい。 どうも都市化するということは心と身体の分離をもたらすようだが、これは社会病理とも言えるのでは?この点からすればアイルランドの伝統音楽とは、人間本来のあり方と本質的に結びつくものがあるのだろう。この点ささやかに希望の灯があるのかも知れない。
エアー(Air)について
日本の明治維新後、沢山の外国人が文明開化に関わったが、公教育の分野も例外ではなかった。これに関わった外国人が西洋音楽を日本に導入するにあたり、このような意見を述べたもようである。
「日本の伝統音楽の音階はアイルランドや、スコットランドの民謡に似ている。ここから導入したらどうか?」
このような経緯からこれらの民謡が日本の公教育に導入されたが(例えばダニー・ボイ、蛍の光)、これらはアイルランドでエアーと呼ばれる曲種である。
先に述べたダンス曲の合間にソロでエアーが演奏されたり、歌われることはよくあることである。軽快なダンス曲と絶妙なコントラストがあり、効果絶大である。時には聴衆の唱和を伴い、涙を誘うものである。アイルランドの聴衆はこの時マナーとして沈黙を守るのが常である。重要なものはその歌詞で、それは悲恋であったり、英雄の勲であったりする。ダンス曲は今を謳歌するが、エアーは過去を追想するもののようだ。この組み合わせは一連の演奏に深みをもたせる働きがあり、このアレンジは演奏者の腕の見せ所でもある。