あいうえおかきくけこさしすせそたちつてと●はひふへほまみむめもやゆよらりるれろわを
波も涙も暖かい (A HOLE IN THE HEAD)
1959 アメリカ
監督 / フランク・キャプラ
原作 / アーノルド・シュルマン
脚本 / アーノルド・シュルマン
出演 / フランク・シナトラ エドワード・G・ロビンソン エリノア・パーカー
フランク・キャプラ、ラス前にあたる作品である。このあと、『ポケット一杯の幸福』を撮って、彼は監督業から引退した。
ウーム、やはり、衰えは隠せず、といったところだろうか。『ポケット一杯』よりも若干マシかとは思うが。
途中までは、往年のキャプラを彷彿させる展開によろこびをおぼえるものの、後半あたりからキャラクターの扱いがぞんざいになった。
結局、旧友3人のうち、タクシードライバーはほとんどなんの役割もなさず、もう一人の事業家にしても、100%の冷血男として切り捨ててしまっているのもキャプラらしくない。
主役のシナトラもおとなしい。これまたもの足りない。子役の男の子も平凡。
さらに納得できないのが、冒頭からステキなプロポーションで魅了するキャロリン・ジョーンズの「去り方」だ。いったい彼女はどうなったのでしょうか?
知らん間に消えている。ひじょうに落ちつかない。
ドッグレースのシーンがすばらしいが、それがそのあとに活かされていない。
美貌の未亡人、奔放な若い娘、堅物の兄(もしくは弟)……と既存の材料を使いまくっている。だがキャプラなら、と期待させるが、満足できなかった。
DVDで鑑賞(オリジナル音声+日本語字幕)。翻訳が今ひとつの印象だ。とくにラストシーンはわかりにくい。
原題は、ドタマに空いた穴=そんなところに穴が空いては困る……つまり不必要(やっかい)なもの、という意とか。
この映画でいえば、ダメ主人公は、対面を重んじ見栄を張ってばかりいたが、実はそんなものはドタマの穴≠ナあり、ほんとうに大切なものは別にあるということに気づき、それを最後にゲットした……ということだろうか。
とうとう主人公は見栄の象徴的な存在だった高級車を売らざるをえなくなる。滞納した家賃支払いにあてるためだ。しかし、そのカネを、これまた見栄を張ったためにバクチでスッてしまう。
見栄、体裁、対面、世間体などは"hole
in the head" と映画は言いたいのだろう。ここに「肩書き」などを加えてもいいかもしれない。
主人公のホテルと未亡人のせまい部屋、そこでの両人の対比も効いている。
そして、カネの融通に来た兄夫婦の最後のやりとり、「自分たちのほうこそpoorだ」というセリフも、なるほどと理解できるのである。
このあたり、衰えているとはいえ、キャプラ健在と思わされる。
邦題については、こういうのを評価する人もいるにちがいないが、私はクサくて採れない。
(2008/08/04記)
日本一のホラ吹き男
1964 日本
監督 / 古澤憲吾
脚本 / 笠原良三
出演 / 植木等 浜美枝
ウルトラ級のお調子者、初等(はじめ・ひとし)(植木)。超絶的楽天家であり自信家である。しかし、三段跳びのオリンピック候補選手でもあり、口だけ、というわけでもなさそうだ。
とにかく、日本一の会社に入ろうと、増益(ますます)電機の入社試験を受けるが落っこちる。しかしこの男がめげるはずもない。臨時雇いの守衛になり、社長に近づきゴマをする。
そして正社員に採用される。いきなり閑職にまわされるものの、超人的に働き、周囲にうとましがられる。しかしそれも計算のうちなのだ。
自分のめざすほうへと、わざと会社側に追いやらせる作戦なのである。
傍若無人にふるまいながらも、冷暖房と照明をかねた冷暖電球≠ヒットさせるなど、妙策を思いついては実行、
ついには会社の命運を賭けた大口の商談をまとめてしまい、重役の座をつかみとる。
この間、美人の同僚(浜)と結婚するなど、観ているこっちがアホらしくなってくるが、どうやらそれがこの作品のねらいのようである。
ピッチャーが苦境に立たされている。そこに駆けよっていって、
「今晩呑みに行けへんか?」とまったく脈絡のないことを言う。ピッチャーはあっけにとられ、一瞬、今の状況を忘れて冷静さを取り戻す、
という作戦があるが、あれに似ている。
「お笑いというのは、国民に対する『おつかれさん』」と矢沢永吉が言っていた。
まさにこの映画は当時、働きすぎる日本人の肩をもむ役割を果たしていたのである。それにしても、植木等がすばらしい。
今観てもじゅうぶんおもしろい。
ニュー・シネマ・パラダイス (NUOVO CINEMA PARADISO) (劇場公開版)
1989 イタリア=フランス
監督 / ジュセッペ・トルナトーレ
脚本 / ジュセッペ・トルナトーレ
音楽 / エンニオ・モリコーネ アンドレア・モリコーネ
出演 / フィリップ・ノワレ ジャック・ペラン サルヴァトーレ・カシオ
大人気作品。しかし、モリコーネ父子の音楽がなければ、中の上といったあたりの評価に落ちついたのではなかろうか。ラスト・シーンには泣かされるが、それもアンドレアの音楽があればこそであろう。
どうしても気になるのは、主人公トトの青年期を演じたマルコ・レオナルディのかもす違和感であり、ハッキリ言って、顔がまちがっている。ほかに役者はいなかったのかと思わずにはおれない。またその部分のストーリーも大甘で、もうすこし上品に描けなかったものかと見るたびに不満をおぼえる。少年期のカシオと実年期のペランは適役と思われるので、余計にそう感じてしまう。
カシオは大活躍であり、観ていて愉しい。
ペランもいい。人生に疲れていて、しかもまだ自分を見つけきっていないような男を自然体で演じた。朽ち果てた《パラダイス座》のなかへ、管理者の許可を得て入ってみるシーンなど印象的。ラストシーンでの表情もすばらしい。子供の心を忘れかけていた大人のトトがようやく感情をあふれさせる。そしてそこに流れる音楽(『愛のテーマ』)の哀愁美は奇跡と言いたいほどだ。
フィリップ・ノワレを忘れるわけにはゆかぬが、彼は、どちらかというと狂言回し的な位置に立っている。
私的に好きなのは、故郷に帰ってきたトト(ペラン)が生家の自室で、若いころに撮影した短い8ミリフィルムを観るシーン。フィルムには恋人(となる人)が映っている。作中、さまざまな名画の一部が流れて、ファンの目を愉しませる仕掛けになっているが、結果的に、あの8ミリほどの印象は残さなかった。主人公は名声を得はしたが、かならずしも幸福ではない。あのころがなつかしいというような素朴な感傷ではなく、帰れるものなら帰りたい、というような切実な想いがにじみ出ているような気がした。このあたりから、静かだったトトの心が徐々に鳴動しはじめるように思う。
ところで、『ニュー・シネマ・パラダイス』には完全版≠ネるものが存在する。聞けば、そちらでは、例の女性と何十年の歳月を経て再会することになっているという。これは聞き捨てならない。すると、あのフィルムを観るシーンはなんだったのか、ということになるではないか。
私はそれを知ったため、あえて完全版を遠ざけている。未鑑賞である。映画チャンネルなどでしょっちゅうやっている。だが、観ない。観るべきだとは思うが、今のところ、観てはならないという思いがまさっている。
それに、結果の良否、成否はともかく、鑑賞後感まで変えてしまうような再編集をやるなんて、創作者としてどうなのかという疑問もある。
トルナトーレ監督は、このあと、『海の上のピアニスト』という二番煎じとも思えるようなものを制作している。
ニューヨーク東8番街の奇跡 (*batteries not included)
1987 アメリカ
監督 / マシュー・ロビンス
原作 / ミック・ガリス
脚本 / ブラッド・バード マシュー・ロビンス ブレント・マドック S・S・ウィルソン
出演 / ジェシカ・ダンディ ヒューム・クローニン フランク・マレー エリザベス・ベーニャほか
一等地に建っているオンボロ・アパート。住人は、地上げ屋に立ち退きを迫られるなどのイヤガラセを受ける毎日だった。
そんなある日、まことに奇妙な助っ人が登場する。知能をもった小型UFOだった。バッテリー切れになりかかっていたらしく、一般家庭のプラグから電気をいただくために、地球に立ち寄ったようである。それがきっかけとなり、UFO(2機)と住人らのあいだに交流が生まれる。
UFOらは、その不思議な力によって、ゴロツキに破壊された調度品の数々をたちどころに修理、というよりリニューアルしてしまう。
日本のグズラ、北朝鮮のプルガサリなどと同様、メシは鉄クズである。
最後にはアパートそのものが放火により全壊してしまうが、それもUFO工務店がそっくり同じものを新築する。ゆうべ焼け落ちたはずのアパートが翌朝にはピカピカになって復活。仕事が速い。
市民は不思議でならない。それが評判になったか、アパートの取り壊し、住人の追放はまぬかれてストーリーは幕を閉じる。
これだけの人数で脚本を完成させているにもかかわらず、デキは今ひとつと言わざるをえない。子ども受けを狙ったのだろうか。
UFOのコミカルで愛らしい動きだけで、なんとか観客を引き留めているという感じである。
子どもにこびると作品は確実に落ちる。
子どもをバカにしてはいけない、オトナよりもよくわかっている――とは黒澤明監督の持論だった。
この愚を宮崎駿監督は犯しつつある。
ただし、老夫婦を演じた(※でいいのか、二人は実際に夫婦とか)クローニンとダンディはよかった。
邦題は妥当なところでしょう。
野のユリ
(LILIES OF THE FIELD)
1963 アメリカ
監督 / ラルフ・ネルソン
原作 / ウィリアム・E・バレット
脚本 / ジェームズ・ポー
出演 / シドニー・ポワチエ リリア・スカラ
典型的流れ者モノ。63年でモノクロである。低予算だったのだろう。上映時間も95分と長くはない。
それを簡潔なストーリー、ポワチエの自然な演技、彼の演じるホーマー・スミスの楽天的なキャラクターで人気と評価を勝ち取った。この作品で彼は米アカデミー最優秀主演男優賞を受賞。これがアカデミー賞史上初の黒人への授賞だったことはよく知られている。
砂漠地帯の一軒家に流れ着いた青年ホーマー。そこには修道女らが住んでおり、彼女らは東ドイツから亡命してきたのだった。生活は貧困そのもの。家屋は粗末で、雨漏りがする。教会もなく、どころか十字架一本立てることもできない。
ガチガチのマリア院長(スカラ)は、ホーマーを「彼こそ神が遣わした男」と手前勝手に解釈し、彼の都合などおかまいなしに歓迎、助っ人として引きずりこむ。
まず、彼女はホーマーへ屋根の修理を命じた。ホーマーの最大の不運は、彼自身がまさにその方面の職人だったことだ。
ともかく彼は、仕事として請け負い、実行する。しかし、報酬は出ない。アホらしくなり、退散しようと試みるものの、院長の迫力と、他の修道女の屈託のないまなざしに負けて、思い切れずにとどまってしまう。人のよさがわざわいし、見捨てられないのである。
彼は結局、進んで院長の口車に乗ることにし、教会を建てようと決意。おまけに英語の不自由な修道女の教師役まで買って出る。
そのうち街の連中も協力、やがて教会は完成する。
この映画のおもしろさは、まず、男というわかりやすい生き物をてらいなく描いたところにある。
教会は自分一人の手で造りあげたい。だから、他人の手は要らぬ。ところが、周囲は勝手に手を貸しはじめる。ホーマーはおもしろくない。とうとう拗ねてしまい、一時は連中に丸投げして、自分は高見の見物を決めこむ。ところが連中、まとまらない。リーダーがいないので無理もない。おのおの勝手に作業を進めて、あちこちでぶつかりあう。
困り果てた中心的人物に、「あんたがいなけりゃダメだ」と説得され、ホーマーはしぶしぶ作業に復帰する。彼が各人に的確な指示を飛ばすことで、建設はみるみるはかどりはじめる。一匹狼だったホーマーが、人を使うことのおもしろさに目ざめるあたりの描写など、きわめてさわやかだ。
やりがい≠ニは? ふとそんな問いかけをしてみたくなる。
シドニー・ポワチエでは、『いつか見た青い空』『夜の大捜査線』とならぶ好きな作品です。
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