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| ●クローズアップ● モデル・講師もこなすカメラマン 本堂亜紀さん |
| 人にパワーや感動を与えられる人間に |
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| ▲国際スポーツ大会の報道として活躍中の本堂さん。 |
| 浪速区のOCATビル4階にある難波市民学習センターで昨年秋、「OCAT・オータム・ギャザリング」 の一環として「本堂亜紀の初心者のためのわかりやすいデジカメ教室」が開催された。 今ブームとなっているデジカメ (デジタルカメラ) の楽しみ方を初歩から学べるとあって、40人の定員200人を超える申し込みが殺到。改めてデジタルカメラヘの関心の強さを印象づけた。 このデジカメ教室の講師が、タイトルにも名前の出ている本堂亜紀さんである。本職はカメラマンだが、講師のほか177センチの長身と美貌を生かしてモデルもこなすマルチウーマンなのだ。で、その仕事ぶりがすごい。 報道カメラマンとして、イベントからスポーツまでの撮影を担当。財界人や企業の撮影に携わることも多い。カメラやデジカメの講師としてはメーカーや量販店などの依頼を受け、消費者を対象に講師を務める。ほかにも、その生きかたをテーマにした講演会を経済団体やロータリークラブ等で開催しており、講演回数はすでに500回を超えるほどだ。 モデルでも活躍中で、海外有名ブランドのモデルを歴任。中国政府国家観光局の観光パンフレットのモデルを務め、北京に招待されたことも。これが縁となり、現在も本堂さんを指導講師に、年数回の中国撮影ツアーを開催している。 さらに3年前には、20代、30代の女性を対象に「FILLEフィーユ(仏語で女の子)」を立ち上げ、カメラを通じた研究会や撮影会のほか、上海‥旅行や国内流行を実施するなど超人的な活躍ぶり。すべてを紹介できないのが残念だが、今もっとも輝いている浪速のウーマンといえるだろう。 |
| ■バレーを断念して人生変わる 本堂さんは、大阪府八尾市生まれ。中学、高校、短大とバレーボール一筋の青春を過ごし、門真市にある大手電器メーカーに就職してからも、受付係で勤務するかたわら、バレーボール部で活躍を続けていた。だが、入社数カ月後に、それまで酷使し痛んでいた腰が「椎間板ヘルニア」と診断される。 ヘルニアを思いながらも、バレーボールを続けている選手は多い。選手生命が絶たれたと知って、マネージャーなど裏方に回ってチームを支える人もいる。この時の本堂さんが、どれほど悩んだかは想像の外だが、バレーボールを断念する道を選ぶのである。 なぜなら、「人に感動を与える試合をしろと、監督に言われ続けてきました。負けてもいいからボールを最後まで追って、人に感動を与えられる選手になれと。だから、裏方じゃなく表で (活躍して) 人を感動させることこそ、私のやるべきこと」と常々考えていたからだ。中学、高校、短大とエースアタツカーを張ったプライドもある。人の世話をし、人の輝いているところをみるのは主義じゃない。「自分が輝かなければ…。きっとどこかに、そのための場所がある」−。20歳で出したひとつの結論だった。 学生時代からずっと、家と会社とバレーボールの ″トライアングル″ だった。それが「バレーボールをやめて、家と会社の ″線″になったんです。他の人はショッピングをしたりデートを楽しんだりしているのですが、そうした気持ちも起こらなかった」という日々が続く。 「何かをしなければと思うのですが、その何かがわからない。たぶんそのころは会社でもすごく暗かったと思います(笑い)。付き合いも悪かったですし」。 そんなある日、短大時代の友人に誘われて出向いた講演会で、人生の転機を迎えるのである。 |
| ■写真に感動、カメラマンに 誘われたのは、カメラマンで、イベントプロデューサーでもある広中一人さんの講演会だった。「女性も一生を目標に目的をもち、一生通じる仕事をやりなさい」という趣旨の内容だったという。感動して聞き終わった講演会のあと、広中さんに薦められ、「若さと長身を生かした、撮られる勉強」をすることになる。 モデルとしての勉強が続いていたある日、広中さんに撮ってもらった1枚の写真に、また感動する。「素晴らしい写真で、これだけのものを撮ってもらえるというのが、すごくうれしくて。この1枚が自分の人生を変えたといってもいいくらいなのです」。と同時に、「自分も、人に感動を与えられるような写真を撮りたい」と「撮る側」 の勉強を決意し、広中さんに師事するのである。 会社勤めをしながらの修行時代。退社後の午後6時から午前零時までの6時間を勉強に費やした。そのほとんどがデジタルカメラとパソコンだった。当時は講座なども少なかったため、広中さんの知り合いのイラストレーターなどの事務所で、「仕事の手伝いをする形で勉強させてもらった」そうだ。徹底した現場主義、実践主義−d 勉強を始めて1年後、「深夜に終わって、八尾に帰るのが不便」と大阪での一人暮らしを両親に申し出るのだが、「家を出るなら勘当」と猛反対を受ける。 その後本堂さんが取った作戦は、なんと ″手紙攻撃″。「バレーのこと、カメラのことを手紙にして、毎日出発前にキッチンのテーブルに置いて出掛けたのです」。手紙攻撃を半年続けた結果、まず母親が折れ、母親の説得で父親の了解を得ることができた。以降2年間を勉強に費やした本堂さんは、23歳で円満退社し、カメラマンとしての人生を歩みはじめるのである。その後の活躍ぶりは、前述した。 師匠の広中さんに出会ったとしても、誰もが3年間の勉強に耐えられたとはいえない。バレーボールで養われた根性があり、人を感動させたいという人一倍強い意志があって成し得たことなのだ。また「一時の幸せょり一生の幸せ、と思うことで、苦労を苦労と思わない」という明るい性格も奏功した。しかも、普及間もないデジカメに取り組めたのも、デジカメ講師という新しいジャンルを切り開くことに結びついたといえるだろう。 「強連なんでしょうね。ジャンケンも弱いしクジ運もすごく悪いんです。それまでは運を感じることがなかった (笑い)。でもその運が、20歳でドーンと来てくれたっていう感じです」と素直に喜ぶのだ。 |
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| ▲デジカメについてレクチヤー。('01年10月 難波市民学習センター) |
| 今後もカメラマンを主軸に、講師やモデルを続けるが、「生きている限り大事にしたいのは、人にパワーを与えられる人間でありたいし、人に感動を与えられる人間でありたいということです」と自信の溢れる表情で言い切る本堂さん。どこまでも、″表″ で輝く浪速ウーマンなのである。 (文・脇本 勤/表紙写真・高島悠介/本文写真・広中事務所提供) |
| CLOSE−UP 1974年、八尾市生まれ。小学校6年生からバレーボールを始め、中学校から短大時代を通じてエースアタツカーとして活躍。門真に本社のある大手電器メーカーに就職後も、バレーボール部に所属していたが、堆間板ヘルニアと診断され続行を断念する。この直後に写一具家・広中一人さんの講演を聴講したのが人生の転機に。広中さんに薦められてモデルの修行に入り、ほどなくカメラの教えもうけることに。3年間の猛勉強を経て97年に退社し、広中事務所の所属となる。修業中を含め、海外有名ブランドのモデルを歴任。中国政府国家観光局制作の観光パンフレットなどにも登場している。カメラマンとしての活躍も、報道からCMまで幅広く担当。特にデジカメの分野では、初心者向け講座の講師として人気&ザ本堂 亜紀さんを博している。また99年10月には、女性写真遊団「FI L L E フィーユ」 (http://member.nifty.ne.jp/fille)を発足。すでに4回の中国撮影旅行を実現しており、この4月にも上海ツアーが予定されている。大阪市在住。 |