Write a wish!
本作はでじたる書房さんで販売している作品の第一話です。「続きが気になった」という方、ご購入いただければ幸いです。
一 まじない札
「まじない札?」
そう、と初美はうなずいた。「最近流行ってるの、知らない?」
私は「ううん」と首を振り、中味が空になったお弁当の蓋を閉じた。
「なに? それって、願い事でも叶えてくれるの?」
「あたり」
もったいぶった様子で、初美がうなずく。
「なんかね、すごい強力な魔法がかけてあって、どんな願いでも叶えてくれるんだって」
魔法、ねえ。
その響きになんだかうさんくさいものを感じつつも、私はやっぱりもったいつけた様子で語る初美の説明を聞いた。
「その札の裏に願い事と自分の名前を書いて、肌身離さず持ち歩いているとね、願い事が叶うんだって。ほんとに願いが叶うって、けっこう評判なんだよ」
なるほどね。
まあ、よくあるおまじないだ。私は「ふうん」と気のない返事をして、机の脇に吊り下げてある鞄に、弁当箱を放り込んだ。
「で? どこで売ってるの、それ?」
初美のことだ。「どこそこに売っているから買ってきてほしい」とかなんとかいい出すのだろう。
私が先回りして問うと、初美はにやりと笑って、「それがね」と、声を潜めた。
「売ってなんだって」
売ってない? そりゃまた珍しい。
「じゃ、どこかで配ってるの?」
再度の問いに、初美は「うーん」と首を傾げた。
「まあ、配っている、っていえば配っているのかもね」
なんだそりゃ? 売っているのなら売っている、配っているのなら配っているで、はっきりしているものではないのだろうか。
私の疑問をよそに、初美は言葉を続けた。
「どこから出回り始めたのかはよくわからないらしいんだけど、持ってる人から譲ってもらうしか、手に入れる方法はないんだって」
私はまた「ふうん」と気のない返事をした。
まあ、よくできているっちゃあよくできている。どこにも売っていない、願いを叶えてくれるおまじない。確かに、そんなふうに手に入れにくそうなものなら、願い事も叶うのかな、なんて気もしてくる。
「で? 私にそれを探してこい、なんていう気じゃないでしょうね?」
そもそも、今さっき初美からその話を聞くまで、そんなものが流行っていることも知らなかったのだ。他の知り合いに聞いてみるくらいは構わないけれど、彼女たちがそんなものを持っているかといったら、少々あやしい気がする。
「違う違う」
私の心配をよそに、初美は苦笑して首を振った。そして彼女はにっと笑って制服のポケットに手を突っ込むと、「じゃーん」なんて効果音をつけながら、何枚かのカードを取り出した。
てのひらから少しはみ出すくらいの、ちょっと小振りなトランプのようなカード。その一面に、なにやらあやしげな幾何学模様が、黒い線で描かれている。初美はそのカードを、ババ抜きでもするかのように広げて、私の方に向けてきた。カードは……ひいふうみい……全部で六枚。
「なに? それが、そのまじない札なの?」
「あたり」
初美は得意そうに笑った。
「ちょっと見せて」
ババ抜きの要領で初美の持っているカードから一枚を引き抜いて、カードをひっくり返してみる。カードの裏面にも、やはりなんだかあやしげな幾何学模様が描かれていたけれども、そちらの面は願い事を書くためだろう、幾何学模様はカードの縁に申し訳程度に描かれているだけで、残りの大部分は白くなっている。
材質は……しっかりした紙だろうか。それこそ、願い事を書く面にスペードだのクラブだのが印刷してあれば、トランプそのものだろう。
こういってはなんだけれども……こんなもので願いが叶うなら苦労はしない。
ついでにいわせてもらえば、「まじない札」なんて大層な名前がついている上、「強力な魔法がかけてある」とまでいわれているのだ。一人一枚しか持つことができないとか、そんなものを想像していただけに、こうして目の前に五枚も六枚もあると、なんだかありがたみも薄れてしまう。
「なんか、わりと普通だね」
初美がこれを手に入れるのにも、色々と苦労はしたのだろう。あまり変なことをいうのも悪い気がして、私は当たり障りのないことをいって、そのカードを返した。
「そう? この模様とか、なんか本格的っぽくない?」
「そうかなあ」
首を傾げながら、初美がそのカードを揃え、半分に分けるのを見つめる。何をするのかと思えば、初美は半分に分けたまじない札の片方を、私に差し出した。
「佳奈子もどう? いらない?」
「は?」
初美の真意が見えず、思わず間抜けな声が出てしまう。
「いいの? 貴重なんじゃないの?」
初美は「あはは」と笑って、
「いいのいいの。そんなに願い事もいっぱいあるわけじゃないし。……それに、なんにもしないでこんなにいっぱい願い事叶えたら、罰が当たりそうじゃない?」
初美のいうこともなんとなくわかる気がして、私は「なるほどね」とうなずいた。
いかにもうさんくさいおまじないだとはいえ、くれるというのなら貰っておこう。
「ありがと。じゃ、遠慮なく貰うね」
「どうぞどうぞ」
初美は笑った。そして唐突ににやりと笑って声のトーンを落とす。
「岡崎先輩とうまくいくように、って書いてみたら?」
私は照れ笑いを返した。
「そうだね。うまくいくといいんだけど……」
応えてから、ふと思いついて、
「初美も、新しい彼氏がほしい、って書けば?」
その、何の気なしに出した言葉に。
初美は表情をこわばらせた。
……しまった。やっちゃった。
私はあわててフォローの言葉を続けようとしたけれども、それよりも早く、初美は硬い表情で小さく首を振った
「当分、そういうのはイイや」
はあ、と息をつく初美の顔を見つめる。
彼氏と何かがあったらしく、初美が私に泣きついてきたのが二週間ほど前。その何日か後に初美から「彼氏と別れた」と報告があった。つきあい始めたのが一か月くらい前だったはずだから、彼女がつきあっていた期間は実質二週間くらいのはずだ。その二週間でいったい何があったのかは聞いていないのだけれども、よほどのことがあったのだろう。
まあ、相手が三組の佐久間利規だ、って聞いたときから、ちょっと心配はしていたのだ。
一年生の時に私と同じクラスだった佐久間は、けっこう整った顔立ちに加えて話し上手、さらに気さくな性格とあって、女の子受けはすこぶるよかった。
ただ……やはり自分がもてる、っていう自覚はあるのだろう。かなり遊んでいる、っていう噂もあって。
対する初美はといえば、どちらかといえば生真面目な部類。勉強もそれなりにできるし、佐久間なんかと違って派手に遊んでいるわけでもない。実際、つき合ってみればそんなにお堅いタイプではないのだけれども、彼女を「あんまりおちゃらけたことはしない、マジメ人間」なんて目で見ている人も多い。
多少は、見た目で損をしている部分もあるのかもしれない。背中まで伸びたまっすぐな黒髪に黒いフレームの眼鏡というのは、どうしたって真面目な優等生に見えてしまうものだし。
そんなだから、佐久間みたいなのは初美には向いていない相手なんじゃないか、という危惧はあったのだ。
けれども、初めて彼氏ができた、と浮かれている初美に水を差すのも悪い気がしたし、佐久間と初美みたいな取り合わせだから逆にうまくいく、なんて可能性を考えもしたので、あえて何もいわなかったのだけれども……それが良かったのか悪かったのか。
まあ、それでも初美が早いうちに佐久間と別れてくれてほっとした、というのも正直なところだったりする。二週間がたって、今みたいに私がうっかり口を滑らせたりしない限りはずいぶんと落ち着いてきたようなので、傷はそう深くはなかったのだろう。
「ごめんね」
私は素直に謝った。
「いいよ。大丈夫だから」
初美はそういったけれども、やはりその表情は硬い。
失敗したなあ。
私は話題を変えようとあたりを見回し、ふと、こちらに目を向けている女の子がいることに気付いた。
助かった。私はことさら明るい声を出し、
「西山さんも、興味あるの?」
「え?」
唐突に話を振られたほうはいい迷惑だっただろう。案の定、西山さんは困惑顔を浮かべている。私は席を立つと、初美から貰ったまじない札を持って西山さんへと歩み寄り、簡単にまじない札のことを説明した。
どうやら初美は、私の意図に乗ってくれたらしい。すぐにこちらにやってきて、
「そうだ。ねえ、西山さん。このまじない札って、本当に効果があるかどうか、わかる?」
「え? そんなこと、いきなりいわれても……」
初美の問いに、西山さんはますますの困惑顔を浮かべた。
西山さんの趣味は占い……カード占い……で、タロットなどとは違う、私たちの知らないカードを使って占いをする。それがけっこう当たると評判で、他のクラスの子が、彼女に占ってもらいに来たりもするのだ。
初美の考えていることはなんとなくわかった。方やカードの占い、方やおまじないのカード。占いもよく当たるし、おまじないもよく効くという。こうして並べてみれば、何か関係があるのかな、という気がしても不思議ではない。
初美は西山さんに応えて、私が考えていたのと全く同じことを話した。話を聞いた西山さんは小さく苦笑して、
「占いとおまじないじゃ性質が全然違うから。いくら似てるっていわれても……」
当たり前といってしまえば当たり前のことをいわれて、私たちは「まあ、そうだね」と納得するしかなかった。けれども、西山さんはそんな私たちに、
「見てみるだけ見てみるから、一枚、貸してもらっていいかな?」
「え? あ、うん。いいよ」
私は応えて、まじない札を一枚、西山さんに手渡した。西山さんはカードを上にしたり下にしたりと、ずいぶんと熱心に眺め続けた。
そんな姿を見ながら。
……西山さんって、美人だよねえ。
私はちょっと場違いなことを考えていた。クラスの中でもおとなしくて、いつも一歩後ろにいるからだろうか。そんなに目立つ方ではないのだけれども、よくよく見れば、彼女は充分に美人だった。
色白で、よく整った細面。ゆるやかなウェーブを描いているショートカットは、パーマとかではなくてくせっ毛らしい。切れ長の細い眼に、長いまつげ。形よくふっくらとした唇。鼻がちょっと低いのが難点といえば難点だけれども、全体のバランスで見れば、ちょうどいいところにちょうどいいものがおさまっている感じ。身体つきはスリム、というかスレンダーで、これでそれなりに見栄えのする格好をして街を歩けば、それはすごいことになりそうな気もするのだけれども、どうも彼女にはそういう気は全くないらしい。一度だけ私服で街を歩いているのを見かけたことがあるけれども、やっぱり彼女はかなり地味目だった。
その西山さんは今、まじない札の裏面に印刷されている幾何学模様を、じっと見つめている。やはり「性質が違う」とかなんとかいっても興味はあるのだろう。その目は真剣そのもので、スタート直前にゴールを見据えているスプリント選手のようだった。
ほどなくして、その目からふっと力が抜けた。
西山さんは初美に目を向けて、「ごめんね。やっぱりわかんないや」と小さく笑い、「ありがと」と、私にカードを差し出した。私は受け取ったカードを、西山さんがしていたみたいにまじまじと見つめてみたけれども、西山さんが見てもわからないものが、私にわかるはずもなかった。
五月も半ばの放課後。どこまでも透明な青い空の下。陸上競技用のグラウンドの真ん中に、私は立っていた。
大勢の新入部員たちの顔と名前がようやく一致してきたこの季節は、同時に県の陸上大会を一ヶ月後に控えた、大事な季節でもある。選手に選ばれた人は大会目指しての練習に余念がなく、そうでない人もそれなりに。また、私のようにぎりぎりで選手になれなかった数人は、補欠として選手と同じメニューでの練習となっている。
とはいえ、やはり補欠は補欠。同じメニューをこなしてはいるけれども、選手として練習するのとは気分が違う。確かに選手になれなかったことは悔しいけれど、さわやかな初夏の空の下、一秒未満の数字を気にしてしゃかりきになる必要がない、というのは、それはそれで気持ちがいいものだ。
……なんてね。
実をいうと、本当にぎりぎりのところで選手の座を逃してしまっていたので、そうでも思っていないとやっていられない、というのも本音だったりもするのだけれども。
選手になる気満々で練習を続けていたのに、フタを開けてみれば練習メニューだけが選手と同じ、というのは正直少々きつい。
その私が、なぜグラウンドの真ん中に立っているのかといえば。
二百メートルを一本走り終え、スタート地点へ戻るために歩いていた時に、少し離れたところで練習している男子がタイム計測をしていることに気付いて、足を止めたからだった。
今走っているのは、岡崎俊弥先輩。
短距離走では県下トップクラスの実力の持ち主で、その名前は私が中学生のころから聞こえていた。
去年も県大会では堂々の優勝、インターハイでも三位入賞と大活躍だったのだけれども、過度な練習がたたったのか、先輩は二年生の終わりにヒザを壊してしまった。
そのため、今年の夏の大会……先輩にとっては高校生活最後の大会……の出場も危ぶまれていたのだけれども、故障も無事に治り、現在は徐々に成績も伸び始めている。
この調子なら、たぶん今年も県大会、インターハイともに上位を狙えるはずだ。
復帰直後はずいぶんと乱れていたフォームも、今では以前と変わらない力強さを取り戻している。
瞬く間に百メートルを走り抜けていった先輩の姿を、私はじっと見つめていた。
ここから見ていても「速いな」という印象の一本だった。その印象の通り、かなりいいタイムが出たのだろう。ゴール地点で計測をしていた今川先生が、驚きの表情を浮かべている。岡崎先輩が先生のところへ近づいていくと、先生は興奮した様子で何かを話しかけながら、ストップウォッチを先輩に見せた。先輩はちらりとそれを見たけれども、うれしそうな表情を浮かべるでもなく、何か短い言葉を返すと、ぷいと先生から目をそらし、スタート地点へ向かって歩き始める。
――相変わらずだなあ。
苦笑が漏れる。
先輩の無愛想と仏頂面は、その成績と同じくらい有名だった。嬉しかろうが悔しかろうが、とにかくどんなことがあっても仏頂面を崩さない。嘘か本当かは知らないけれども、中学生の頃、地区大会で優勝した際の表彰式で、表彰をした大会の実行委員長に「もっと嬉しそうにできないのかね?」といわれた、なんて話も伝わっている。
歩いている岡崎先輩を見ていた私の後ろで。
「岡崎先輩、ケガが治ってからますます無愛想になったよねえ」
誰かがいうのが聞こえた。
「成績がいいからって、ちやほやされて天狗になってるんでしょ」
それに応える、吐き捨てるような声。
「ケガの間も、みんなが色々と世話をやいてくれたもんだから、余計勘違いしちゃったのよ。いくら成績がよくたって、あんなんじゃダメだよね」
この声は……たぶん、谷川だ。
よくいうよ。自分だって、選手に選ばれたのをいいことに、後輩を好き勝手使っているくせに。大して成績がいいわけでもないのに、天狗になっているのはどっちだ。
私は振り返ってそういいたくなるのをこらえながら、先輩の姿を目で追いかけた。先輩は淡々と、スタート地点へ向かって歩いてゆく。
一週間ほど前に行われた選考会。あの日、体調が悪くなければ、選手に選ばれていたのは私だったはずなのに。本当にぎりぎりのところで、私のタイムは、自己ベストを出した谷川に及ばなかった。
けれどもその日以来、谷川の記録は落ちる一方で、現状なら私の方が圧倒的に速い。今、もう一度彼女とタイムを競えば、私の圧勝になるのは目に見えているというのに。
私は小さく唇を噛んで、谷川の声が通りすぎるのを待った。谷川はまだ、岡崎先輩の悪口をいっている。あの不機嫌そうな顔が気に入らないだの、そんなに陸上がおもしろくないのなら、やめてしまえばいいだの。
あんたなんかに、先輩の何がわかっているっていうのよ。
……そう。岡崎先輩は、いつもはあんな態度だけど、本当はとても優しい人なのだ。
一年生の時、成績が振るわなくて落ち込んでいた私を励ましてくれたのは今でも記憶に残っている。恐ろしく無愛想だったので、それを「励ましてくれたんだ」と気づいたのは先輩がいなくなってからだったけれども。
そしてそのときから、私の中で先輩の評価が変わったのだ。
この間だって、雨の中、道ばたに捨てられて鳴いていた何匹かの子猫にエサを与えて、タオルにくるんで連れて行ったのを見つけた。
仏頂面がトレードマークになっている先輩ではあるけれども、よほど動物が好きなのだろう。子猫を抱き上げていた先輩の顔には、うっすらと微笑みが浮かんでいた。
その後聞いた話では、先輩はその猫の貰い手探しに奔走もしたらしい。
そして、先輩は陸上に強い愛情を持っている。ケガをして走れない間、目につかないところで私たちのためにグランドの整備をしたり、機材の整備をしたりと、色々と気を使ってくれていたのだ。谷川のいうように、成績が良くて天狗になっていたり、陸上が嫌いだったりする人が、そこまでできるはずはないだろう。
先輩のそんな部分に目を向けず、目につきやすいところだけしか見ないで、勝手なことはいわないでほしい。
私は、歩いている谷川の背中をにらみつけた。
喜色満面の初美が私のところに近づいてきたのは、翌朝だった。うれしくて笑いが止まらない、といった様子の初美は、私のところに来るなり、
「すごいよ、あれ。効果テキメン」
「は?」
初美が何をいっているのかわからず、私は彼女の顔をぽかんと見つめた。
「まじない札よ、まじない札」
はしゃいでいる初美に、納得して「ああ」と声を出す。
「なに? 願い事、もう叶ったの?」
「うん」
初美は大仰にうなずいた。そして、辺りをうかがうようにきょろきょろと見回し、「あのね」と、声を潜めた。
「『インディケーション』のライブチケット」
「うそぉ?」
思わず大きな声が出てしまう。初美はあわてた様子で「しーっ」と、唇に人さし指を交差させた。
インディケーションは、最近売れに売れているロックバンドで、そのライブチケットを入手するのは、宝くじで一等を当てるよりも難しい、なんていわれている。
「ちょっと前に、ジュースのキャンペーンで、チケットが当たるやつがあったでしょ? ダメモトで応募してたんだけど、それが当たってたの」
「へえー」
私は少し驚いて声を出した。ただのうさんくさいカードだとばかり思っていたけれど、そんな話を聞くと、ちょっと「本当なのかも?」なんて気もしてくる。
「私も、なんか願い事、書いてみようかな」
私のつぶやきを聞き取ったようで、初美は気軽に、
「書いてみればいいじゃない。別にそれで損をするわけじゃないし」
「まあ、ね」
私は苦笑しながら応えた。
「でも、今すぐ叶えたい願い事なんて……」
ないし、と続けようとして。
私の頭の中を駆け抜けていくものがあった。……そうか。あるといえばあるんだ、願い事。
それを当然のことのように受け入れてしまっていたけれども、まじない札がそんなに効くというのなら、現状を変えることだってできるのかもしれない。
……願い事、書いてみようか。
なんとなくその気になって、私は机の中に手を伸ばした。まじない札は、昨日机の中に入れっぱなしにしていたはずだ。
すぐに私の手に、それらしい硬質な紙が触れた。それを一枚手に取って、引っ張り出そうとして。
あれ。そういえば。
これに願い事を書くのに、何かルールはないのだろうか。
どうでもいいといえばどうでもいいことに気づいて、私はまじない札から手を離した。
願い事と名前を書けばいいだけなんて、お手軽すぎて気持ちが悪い。ルールを守らなかったら罰が当たるとか、そういうことはないのだろうか。
私はなるべくさりげなく聞こえるように、初美に訊いた。
「ねえ、まじない札って、どんな願い事でも叶えてくれるの?」
「うん。特別何がだめ、っていう話は聞いてないよ」
ふうん、なんてもっともらしくうなずいて、私はもう一つ、本題の方を訊ねてみる。
「あと、これって何か特別なルールはないの? 願い事は赤いペンを使うとか、満月の夜に書かないといけないとか」
「そういう話も、別に聞いてないなあ」
初美は首を傾げた。
「私が書くのに使ったのはムラサキのボールペンだったし、まだ、満月でも新月でもないはずだよ」
改めて聞いてみると、本当に気持ち悪くなってくるくらいお手軽なおまじないなんだな。
まあ、そのくらい手軽でなければ、初美がいうように流行ったりもしないだろう。
私は初美に「ありがと。じゃあ、何か願い事、考えてみるよ」といった。
「うん、やってみてやってみて。ほんとに願い事、叶うから」
初美が嬉しそうに応えたところで、担任の北村先生が教室に入ってきた。初美も含めて、席から離れていた生徒たちが、一斉にばたばたと席に着く。
いつもと変わらないホームルームが始まる中、私はまじない札を一枚、こっそりと取り出し、そこに鉛筆を走らせた。
『谷川がケガをして、私が大会に出場できるようにして下さい
遠藤佳奈子』
岡崎先輩の悪口をいうようなやつなんて、ちょっとケガをするくらいの罰が当たればいい。それで私が大会に出場できるようになれば、万々歳じゃないか。
たとえ願いが叶わなくたって、私が損をすることは何もない。
やってみるだけの価値は、あるだろう。
「肌身離さず」というのがどこまで肌身離さずなのかよくわからない……まさかお風呂に入っているときまで持っていろ、ってことはないだろう……のだけれども、私は願い事を書いたまじない札を制服のポケットに入れて一日を過ごした。
クラブの時間はどうしようか。体操着にはポケットはついていないし、仮にポケットがあったとしても、練習で走ったりすれば、ポケットから落ちてしまうかもしれない。効くか効かないかわからないまじない札が落ちるのはかまわないけれども、願い事を人に見られたらかなり恥ずかしい。
そんなことを考えながら陸上部の更衣室に向かっていると、私の少し前を、何人かの女の子が同じ方向に向かって歩いているのが見えた。
お喋りをしながら歩いている集団は、見えているのが背中だけなのでどれが誰とははっきりとはいえないけれども、たぶん一年生の仲のいいグループだろう。その歩みはゆっくりで、ほどなくして私は、彼女らのすぐ後ろまで近づいてしまった。
その集団に声をかけようかとも思ったけれども、彼女らはお喋りに夢中になっているようで、なんとも声をかけにくい。だからといって彼女らを無視して追い越していくのも、それはそれで「冷たい先輩」なんて目で見られてしまいそうで、あまり面白くない。
どうしようか決めかねているところへ、突然「岡崎先輩」なんて声が聞こえてきて、私は思わず耳をそばだてた。
話の内容は、とりたててどうということもない噂話だった。さすがに二学年も離れると岡崎先輩の話もあまり伝わっていないのか、事情を知っているらしい子が、岡崎先輩の入賞歴や、表彰式事件のことを披露している。とりとめもない話題が続いたあと、やがて話題は、先輩のケガのことになった。
ケガをしている間、裏方をやっていた岡崎先輩の姿を見たのは私だけではなかったようで、その姿を見た子が、熱弁をふるってその様子を語り、最後に「岡崎先輩はかっこいい」と評していた。
その子が誰なのかは、すぐにわかった。一年生の中でも小柄な子で、まっすぐに切りそろえたボブ・カットが揺れている。藤原葵さんだ。小柄でおとなしめ、加えて結構かわいい感じの顔立ちの子。どことなくあどけない雰囲気が残っていて、まだ中学生といっても通用するだろう。
うんうん、わかっているじゃないか、藤原さん。
けれども、やはり普段の仏頂面と無愛想が影響しているのだろう。大半の子は、岡崎先輩を「恐そう」などと評価していた。……まあ、普段の様子だけ見ていれば、確かに恐そうな先輩に見えるというのは、悲しいけれども認めなければならないだろう。
「あ、でも……」
と、グループの真ん中、藤原さんの隣にいた子が口を開いた。
「この前の日曜に、岡崎先輩が女の人と歩いてるの見たんだけど、すごい楽しそうに笑ってたよ」
……え? 今、なんていった?
「うそぉ?」「あの先輩が?」
口々にはやし立てる一年生。彼女らが話題にしているのは、「先輩が笑っていた」という部分だったけれども、私には、その言葉の中にあったもう一つのことの方が重要だった。
先輩が、女の人と歩いていた。……それも、楽しそうに笑いながら。
去年、県大会で優勝したときだって顔色一つ変えなかった先輩が。子猫を抱き上げた時に見せてくれたのが唯一の笑顔だったというのに。
その先輩が、楽しそうに笑いながら歩くような女の人。考えられる可能性は、そう多くはない。
もちろんはっきりしたことはわからないから、それが即……と決めつけるわけにはいかないだろうけれども、それが先輩の特別な人だ、という可能性は決して低くない。
もちろん、先輩にそういう人がいるんじゃないか、というのは漠然と考えたこともあったけれど、先輩の普段の態度からそんなものは全然感じられなかったし……。
「ねえねえ、それで、相手の女の人って、どんな人だったの?」
聞こえてきた声に、私ははっとした。
「遠目だったからよくわかんないけど、けっこう美人だったと思う。ショートカットで、背はわりと高かったかな」
背の高い美人、かぁ。
岡崎先輩もけっこう上背があるので、そんな二人が並んで歩いたらかなり絵になるだろう。思わず、岡崎先輩と、その顔も知らない背の高いショートカットの美人が並んで歩いている光景を想像してしまう。
お似合いだよ、ね。やっぱり。
私自身を省みれば、容姿は十人並みだし、突き抜けた特技があるわけでも……陸上だって、成績はせいぜい中の上だ……ない。確かに岡崎先輩なら、今の話に出てきたみたいな人の方がふさわしいだろう。
いいようのない悲しさと悔しさ、無力感が押し寄せてきて、私は小さくため息をついた。
と、同時に。
前方で話をしていた一年生の一人が、ようやく私に気付いた。その子は「あ、先輩。すみません、気がつかなくって」
と少しあわてた様子でいった。
「いいのいいの、気にしないで。なんか、楽しそうに話してたから、邪魔しちゃ悪いかな、と思って」
私はあわてて笑顔をつくろった。
体操着に着替えてグラウンドに出てからも、更衣室へ向かう途中で聞いた一年生の話が忘れられなくて、どうしても練習に集中できなかった。
ふと気がつくと、つい、岡崎先輩を目で追ってしまっている自分がいる。先輩は相変わらずの仏頂面で、けれども練習のメニューだけは、いつものように淡々とこなしていた。
思わずため息がもれる。
と。
「どうしたの? 調子悪いじゃない」
声をかけてきたのは谷川だった。
勝者の余裕、というやつだろうか。私との勝負に勝って選手に選ばれてから、谷川はやけに馴れ馴れしい。私は、あんたが優越感に浸るための道具じゃないっていうの。
「ま、ちょっとね」
内心のいらいらを隠して応え、私はまじない札が制服のポケットに入ったままだ、ということを思い出した。岡崎先輩のショックが大きすぎて、すっかり失念していた。
「谷川も、選考会からこっち、記録が落ちっぱなしでしょ。そんなんで、大会大丈夫?」
あんまりいわれっぱなしというのも癪だったので反撃してやると、谷川はしれっとした顔で、
「大丈夫。私、本番に強いから」
大した自信だこと。私は呆れ気味に「あ、そう」と投げやりに言葉を返した。
谷川の顔を見るのがいやだったので、視線を泳がせる。
ふと、グラウンドの向こうを歩いている何人かの男子生徒に目が留まった。そのグループは、一人の生徒を中心にして、その周りを三人の男子がちょろちょろしている。
中心で軽薄そうに笑っているのは……佐久間利規だ。たった二週間だけ、初美の彼氏だった男。佐久間をいいと思っている女の子には、佐久間の笑った顔を「素敵な笑顔」なんていっている子が多いのだけれども、私がよく目にする佐久間の笑った顔というのは、どうひいき目に見ても「素敵な笑顔」なんてものではなく、どちらかといえば品のない、軽薄な笑いばかりだった。
もしかしたら、私ではない女の子の前では、その子たちのいう「素敵な笑顔」を見せているのかもしれないのだけれども、少なくとも私は、佐久間のそんな素敵な笑顔などついぞ見たことがない。
佐久間と一緒にいるのは、彼とよくつるんでいる連中だろう。私と同じクラスの島本を始め、何度か見たことのある顔ぶれが揃っている。
佐久間は、やけに楽しそうな顔をしていた。なにやらカードのようなものをたくさん両手に持って、一緒にいる生徒に見せびらかしている。あれは……まじない札?
間違いない。あれはまじない札だ。
それにしても、よくあれほどの数のまじない札を集めたものだ。私のいるところからでははっきりわからないけれども、少なくとも片手に五枚ずつ、合計十枚は持っているだろう。
あんなにまじない札を持っていたって、願い事なんてそうたくさんはないだろうに。
私は感心半分、あきれ半分で、佐久間の姿を見ていたけれども、
「なに見てんの?」
横から、谷川の声が聞こえた。私はその声は無視して佐久間の方を見ていたけれども、すぐに彼女は、私が見ているものに気付いたようだった。
「ああ。佐久間くん? ……遠藤って、あんなのが好みなの?」
「まさか」変な勘違いをされても困るので、私は谷川に目を向け、それを即座に否定した。なんの理由もなしにそちらを見ていた、なんてなれば、逆に勘違いを助長しかねないので、私は佐久間に目を向け直し、
「佐久間、何か持ってるでしょ。あれ、何かな、って」
「ああ、あれ? まじない札じゃない? 最近流行ってるんだって」
「まじない札?」
私はそれが何かを知らないふりをした。谷川は「うん」とうなずき、
「あのカードに願い事を書くと、願い事が叶うんだってさ」
私が「ふうん」なんてもっともらしくうなずくのと同時に、
「おーい、そこ。くつろいでないで、練習するぞー!」
大きな声で呼ばれて、私はあわてて「はーい」と返事をした。そちらへ向かって駆け出すと、それに少し遅れて谷川が駆け出す気配があって、その直後。
「危ない!」
誰かが叫ぶ声が聞こえた。
なに?
私はその声につられて立ち止まり、その私のすぐ後ろで。
どさり、と、何かが倒れる音が聞こえた。
ふり返ると、私のすぐ後ろを走っていたはずの谷川が地面に転がっていた。そのすぐそばを、野球のボールが一個、なんでもないような顔をして転がっている。
転んだときにボールにつまずいて足首でも捻ったのだろうか。谷川は身体を折り曲げて右足首を押さえ、苦悶の表情を浮かべていた。悪い捻り方でもしてしまったのか、谷川の表情は尋常ではない。
「谷川! 大丈夫?」
私は声をかけて谷川に駆け寄ってしゃがみ込んだ。ほぼ同時に、野球部のユニフォームを着た男子生徒が一人、こちらに駆け寄ってくる。
「わりぃわりぃ。大丈夫か?」
私はその生徒を見上げ、「見りゃわかるでしょう」と語気を強めた。自分でも驚くくらいに強い声が出てしまい、野球部員はひるんだように身をすくませる。
すぐに部長と何人かの部員がこちらへと駆け寄ってきた。
「宮下さん、谷川さんを保健室へ連れてってあげて」
部長の指示で部員の一人が谷川に駆け寄る。私は彼女と二人で谷川を助け起こした。谷川はそのまま宮下さんに支えられて、右足を引きずりながら校舎へと向かっていく。
その様子を見送っていると、部長の声が聞こえ、私はそちらへ目を向け直した。
「あの子、今度の大会の選手なんだけど」
部長は腕組みをして、憮然とした表情で野球部員を見つめている。
「だから悪かったって……」
野球部員の声は、部長の一睨みでだんだんと尻すぼみになっていった。
「じゃあ聞くけど、あんたたちのスタメンの選手が私たちのせいでケガしたら、『悪かった』で許してくれるわけ?」
「それは……」
野球部員はしょんぼりとうなだれる。部長は一つ大きく息をつくと、足下に転がっていたボールを拾い上げ、野球部員に差し出した。
「練習が終わったらでいいから、そっちの部長にこっちに来るようにいっておいてちょうだい」
「わかった」と力無くうなずいて、野球部員はボールを受け取り、とぼとぼとグラウンドを去っていった。
なんだか妙に哀れっぽいその後ろ姿を見ながら、部長は大きく息をついた。そして部長は、去っていく野球部員の方を見たまま、
「遠藤さん。急で悪いんだけど、もし谷川さんのケガが重いようなら、大会、代わりに出られる?」
私は、息をのんだ。
谷川がケガをして、私が選手として大会に出場できるようになった。
……これって。これってもしかして。
高鳴る動悸を押さえきれないまま、私は部長の言葉にうなずいた。
「大丈夫です。やれます」
その後は何事もなかったかのように練習は続いたけれども、保健室から病院にでも直行したのか、最後まで谷川が姿を現すことはなかった。
練習を終えて後片付けをしていると、野球部の部長らしい、ユニフォーム姿の人がやってきた。その姿を見つけた部長が野球部の部長に近づいてゆくのを、私たちは後片付けの手を止めて、見守っていた。部長はそんな私たちに目を向けて、片付けが終わったら解散していい、といって、野球部の部長と一緒にグラウンドの隅の方へ行って、話を始めた。
いつもなら、練習が終わった開放感から皆が饒舌になるこの時間も、今日に限ってはやけに静かだった。私たちは黙々と片付けを終え、話を続けている部長をグラウンドに残したまま、ぞろぞろと更衣室へ向かった。
更衣室に入っても、やはり私たちは寡黙なままだった。皆が黙ってうつむきがちに着替える中、私の後ろで誰かがぽつりと口を開いた。
「谷川、大丈夫かな」
「どうだろうね。練習に戻ってこなかったし、ケガが重くて、病院にでも行ったんじゃないのかな」
「かなり痛がってたもんね。あれじゃ大会、無理かなあ」
「かなりヤバイんじゃない? 大会までにケガが治っても、本番までに調整はできないんじゃないかな」
「あーあ、可哀想に」
私は黙って着替えを続けながら、背中から聞こえる声に耳を傾けていた。そのやりとりがきっかけになったのか、そのほかにも少しずつ、他愛のない会話がそこここで始まる。けれども私は、後ろで交わされている会話に意識を集中した。
「でもまあ、谷川、逆に大会に出られなくなって良かったんじゃないの。最近、タイム落ちっぱなしだったし」
「そうだよねえ。選考会の日が良すぎたんじゃないの? あの日のが、確か谷川のベストタイムでしょ? 今のタイムで大会に出たら、それこそ目も当てられないよ」
やっぱり、同じようなことを思っていたのは、私だけではなかったのだ。私はちょっとだけ安心して、制服の上着を着て、ボタンを留めた。
着替えの早い人たちが、「お先に」と声をかけて更衣室を出ていく。私はそれに応えて「お疲れさま」と声を返して、ロッカーの中の鞄を持った。
ふと気付くと、帰り道の方向が一致している、いつも一緒に帰っている面々が、支度を終えてこちらを見ている。私は後ろで話しをしていた人たちの話題が谷川のことから離れているのを確認して、「ごめんごめん」とそちらへと歩いていった。
私たちはそのまま学校を出て、当たり障りのない話をしながら、帰路を歩いた。みんなに話を合わせながらも、私の頭の隅には谷川のことが居座っていた。時折私に向けられる言葉に適当に相づちを打ちながら、どうしても思考は谷川の方へと向かってしまう。
彼女がグラウンドに倒れ、苦悶の表情を浮かべている姿が。そして宮下さんに支えられて保健室へと向かっていく姿が。
私の頭の中を、ちらついていた。
やがてみんなと別れて一人になったところで、私はポケットからまじない札を取り出した。改めて、私が書いた願い事を読み返す。
『谷川がケガをして、私が大会に出場できるようにして下さい』
確かに谷川がケガをして、私は大会に出場できるようになった。
……もちろん、偶然、ということだって十分に考えられる。あらぬ方向へ飛んだボールが陸上部のグラウンドまで来るのは野球部に限らずよくあることだし、あの時の状況下、ボールが私の方に飛んできていれば、転んでケガをしているのは私の方だった。
でも。
それを偶然といって片付けてしまうほうが、逆に不自然な気がする。
ボールが飛んでくることはあっても、それが原因でケガをするなんて、少なくとも私が陸上部に入ってからは初めてのことだ。それに、私がまじない札に願い事を書いた途端に谷川がケガをするなんて、そんな都合のいい偶然があるのなら、もっと色々なことがうまくいっているはずだ。
だからといって、私の願い事をまじない札が本当に叶えてくれた、と決めつけるには早計すぎるような気もする。いくら都合がいいように見えたって、それが本当に偶然起きた可能性だってあるのだから。
一番いいのは、もう一度まじない札に願い事を書いてみることだろう。
もしも谷川のが偶然だったのなら何も起こらずに終わるだろうし、まじない札の力が本物なら、願いが叶うはずだ。
と、すれば。
まじない札に、迂闊な願い事を書くわけにはいかないだろう。まじない札はあと二枚。変な願い事を書いてそれがうっかり叶ってしまったりしたら、目も当てられない。
別に時間に制限があるわけじゃないんだ。
慎重に決めよう。