100マイルの約束
センチュリーライドというイベントをご存知だろうか。
センチュリー(百)マイル、およそ百六十キロメートルを制限時間内に自転車で走ろう、というイベントである。
毎年正月に行われている有名な大学対抗の駅伝競走の、一区から四区の区間、東京大手町から小田原までの間を往復すると、およそ百七十四キロメートルとなるから、そのおおよその距離がイメージできるのではないだろうか。
その距離を、自転車で走るのである。
普通の感覚では、およそ考えられないようなことだろう。
けれどもスポーツとして自転車に乗っている者、特に普段レースなどに縁のない者にとっては、その距離は「挑戦しがいのある距離」となる。また、このイベントは速度を競うレースではなく、制限時間は非常にゆるく設定されている。そのため、それほど無理な速度を出さずにマイペースで走ってもゴールすることは可能である。
レースではない、ということもまた、参加のためのハードルを低くしている。そのために、自転車をスポーツとして愛好している人たちの間では、それなりに人気のあるイベントである。
基本的には完走が目的のイベントなので、もちろんそこには勝った負けた、などという概念は存在しない。強いていえば、「自転車に乗って長距離を走ることを楽しむ」ことができた者が勝者といえるだろう。
特に、ハワイのオアフ島で行われているホノルル・センチュリーライドが有名であるが、各地で似たようなイベントが開催されており、日本でも「センチュリーライド」の名を冠したイベントをいくつか見つけることができる。また、同種のイベントとしてサイクルマラソンと呼ばれるものも開催されている。
そんな、いくつかあるセンチュリーライドイベントの中に、徳馬センチュリーライドもあった。
町おこしの一環として徳馬町の観光課が企画したイベントで、農閑期となる晩秋、「美しい徳馬の紅葉に親しもう」というキャッチフレーズの元に開催されたのだが、これが意外に自転車愛好家たちに好評だったのである。
その後このイベントは十数回もの回数を重ね、その間、主催は観光課から「徳馬センチュリーライド実行委員会」という立派な名前のついた部署へと移るなど、細かい部分では色々な変化もあったが、センチュリーライドの本質である、「走ることを楽しむ」という一点だけは、常に守られてきた。
……一部の例外を除いては。
「今年こそは、負けんからな」
アルコールで真っ赤になった顔をして良平をにらみつけ、作蔵はコップに半分ほど残ったビールを一気にあおった。
「何をぬかすか。毎年毎年そういっているくせに、真っ先にリタイヤするのはどこのどいつだ?」
余裕綽々で応える良平の顔も赤い。良平は、テーブルの上にあったビールの瓶を持ち上げ、注ぎ口を作蔵の方へ向けた。作蔵が泡ばかりになったコップを差し出すと、良平はそこへビールを注ぐ。
なみなみと注がれたビールを二口ほど飲んで、作蔵はコップを置いた。にやりと笑って、良平に意味ありげな目を向ける。
「今年の俺は、ひと味違うぞ」
「そのせりふも、毎年毎年聞いているような気がするがな」
「うるさい。今年は本当にひと味もふた味も違うんだ。後でほえ面かいても知らんぞ」
それまでの実績がそうさせるのだろうか。そんな作蔵の言葉を聞いても、良平の表情は変わらなかった。
「だからって、それまで二十キロしか走れなかった奴が、いきなり百六十キロ完走できるわけはないだろう。なんなら、今年は八十キロクラスにエントリーしてもいいんだぞ?」
二十キロしか走れなければどのクラスで走ろうが、リタイヤするのは一緒だけどな、と良平は意地悪くつけ加えた。作蔵はふんと鼻を鳴らし、もう一度「後でほえ面かいても知らんぞ」といった。
そんな二人の様子を、同じテーブルの少し離れたところから、二人の妻たちが呆れ笑いを浮かべながら見ていたが、作蔵も良平も、その視線には気付いてはいないようだった。
作蔵は良平のコップの中身が減っているのを見て、ビールのビンを手に取った。それに反応して、良平が自分のコップのビールをあおる。
「大した自信だな。今年は何か、秘策でもあるのか?」
「おう、あるぞ。お前より二時間も早くゴールしたからって、地団駄踏むなよ」
差し出されたコップにビールを注ぎながら、作蔵は自信たっぷりにいった。
「そしたらお前、その歳でツール・ド・フランスにだって出られるぞ」
ビールの注がれたコップを口元に持っていきながら、良平は大笑いしながら作蔵に応えた。
「おう、ランス・アームストロングだって抜かしてやるわい」
自信たっぷりの言葉は、もちろん誰一人として本気にはしなかった。
二人が徳馬センチュリーライドに初めて参加したのは七年前になる。
東京にいる作蔵の次男夫婦が「親父たちは運動不足だろうから」と、結婚記念日にお揃いの自転車を送ってきたがきっかけだった。
聞けば大層立派な自転車らしく、乗ってみると、確かにホームセンターで一万円程度で売られている自転車とはまるで違う。
「それならば」ということで、作蔵夫妻は毎年盛り上がりを見せている徳馬センチュリーライドへの参加を決めたのだった。
当初は、妻が「初めてなのだから」と一番距離の短いクラスへの参加を提案し、作蔵もそのつもりでいたのだが、申し込み前にたまたま、良平と酒を飲む機会ができた。
酒の席で徳馬センチュリーライドに参加することを話すと、驚いたことに良平はもう何年も前から夫婦でこのイベントに参加している、といった。
詳しく話を聞いてみると、良平は毎年百六十キロメートルのクラスを完走、妻も四十キロメートルクラスを走っているという。
それを聞いて作蔵は、「良平にできて俺にできないことはない」と、妻の制止を振り切って、百六十キロメートルクラスにエントリーしてしまったのである。
結果は、いうまでもなく轟沈であった。
普段の不摂生と運動不足で体力が衰えているというのに、大会当日に「良平に負けるものか」とばかりに無理をして飛ばしすぎた。二十キロメートル地点付近で体力を使い果たしてしまい、あえなくリタイヤとなってしまったのだ。
そんな作蔵を尻目に、良平はその年も百六十キロメートルを完走したのだが、それが余計に作蔵の闘志に火をつける結果となってしまった。毎年秋、センチュリーライドの開催時期に良平に勝負を挑み続け、今ではすっかり、作蔵と良平の勝負も、このイベントの名物と化してしまっている。
作蔵と良平は、幼い頃からのつきあいだった。同い年で誕生日も近く、小中高と同じ学校に通っていた。さらに付け加えれば、背格好までよく似ている。腐れ縁といってしまえばこれ以上の腐れ縁もないだろう。
高校を卒業した二人は、それぞれ地元にある別々の企業に就職したが、やがて作蔵は会社を立ち上げ、良平は会社勤めを続けながら、農家であった父の跡を継いだ。
たどってきた道は違うけれども、還暦を前にしてどちらも子供の手が離れ、あとは仕事を引退して残りの人生を楽しむだけ、という点では共通している。
「腐れ縁」などといいつつも、長い期間に渡って利害を抜きにしたつきあいが続いているのは、それなりに馬が合っているからなのだろうが、この二人には悪癖があった。
とにかくどうでもいいことで競いたがるのである。
学校の成績、テストの点数、短距離走のタイム、マラソン大会の順位……。
さらに学生時代には、二人揃って同じ女子生徒に恋をして、どちらが先に口説き落とせるか、などということまで競い合った。もっともこれは、意中の女子生徒がどちらも相手にしていなかった、ということで痛み分けに終わっていたが。
高校を卒業して働き出してからも、温泉に行けばどちらが長く湯につかっていられるか、祭りに行けば金魚すくいでどちらが多くすくえるかと、まるで子供のような競争を繰り返していた。
そのようなこともあって、二人が徳馬センチュリーライドで順位を競うようになったのは、当然といってもいいくらいの成り行きであった。
しかし、過去六年間、作蔵は一度も百六十キロメートルクラスを完走していない。これでは良平を相手に勝った負けたのという以前の問題である。無論作蔵もそれなりに経験を積んではいるので、毎年徐々に距離が伸びてはいるが、それでもまだ百六十キロメートルには遠く及ばない。
そのような状況であるから、作蔵がいくら「今年はひと味違う」などといったところで、確かにそれはただの強がりにしか聞こえなかっただろう。
時刻は、すでに十時を回っている。それと気づいて作蔵の妻の美智代が、
「お父さん、そろそろ帰らないと」
と、控えめに口を挟んできた。作蔵は腕時計に目をやり、「もうこんな時間か」と、腰を浮かせた。
「もう少しゆっくりしていけばいいのに」という良平の妻の言葉を、時間が遅いことを理由にして辞退し、作蔵と妻は立ち上がった。
「側溝にはまって溺れ死ぬなよ」
良平の揶揄を「そこまで酔っちゃいないわい。それに、お前に勝つまでは死んでも死にきれんわ」と返し、二人はそのまま良平の家を辞した。
良平の家から作蔵の家までは、数百メートル程度であろうか。歩けない距離というわけではないが、このあたりの者は、普通はそのような距離でも移動に車を使う。公共の交通機関が少ない地域のため、どうしても買い物などに車を使わざるを得ず、車での移動が習慣化してしまう。そのため、今度はわずかな距離の移動でも、車を使うようになってしまうのである。田舎の悪習といえよう。
けれどもその夜、作蔵と妻は、その習慣には従っていなかった。どちらも徒歩で良平の家を訪れていたのである。
この時間になってしまうと、道は人通りも、車通りも途絶えてしまう。ずいぶんと冷え込むようになった道路を、規則正しく並んだ街灯だけが照らしていた。
少しの間、二人は何もいわずに歩いていたが、やがて唐突に、作蔵は小さな笑いをもらした。
「良平の奴、大会になったら目を回すぞ」
仕掛けたいたずらに引っかかるのを楽しみにしている子供のような口調で作蔵がいうと、半ばあきれ気味に「そうですね」と美智代がうなずいた。
「良平さんも、きっとびっくりしますよ」
妻の言葉に作蔵は満足そうに何度もうなずく。
「良平の奴、腰を抜かして自転車から落ちなきゃいいがな」
そういって、作蔵は一人にやにや笑いを浮かべた。その横で美智代が、やはり小さな苦笑を浮かべていたが、作蔵はそれには気付いていなかった。
今年のセンチュリーライドまで、あと一カ月ほどである。
作蔵の朝は早い。
昨年までは七時をすぎても目を覚まさなかった男は、しかし今では六時前には布団を起き出すようになった。
寝間着をジャージに着替えた頃に、妻が目を覚ます。妻が朝食の支度をするのを横目に見ながら、作蔵は家を外に出て軽い体操で身体をほぐし、車庫のすみに佇んでいる自転車を外に出す。
作蔵が自信たっぷりに「ひと味違う」といったのは、密かに早朝トレーニングを始めたのが、その一番の要因だった。
去年のセンチュリーライドでリタイヤしてからおよそ一年、毎朝一時間のロードトレーニングをほぼ毎日続けてきた。
足の筋肉は締まり、体重も十キロ近く落ちた。それは見事だったビール腹も、今ではずいぶんとへこんでいる。
年が明けてからは、タバコもやめた。
酒はやめることはできなかったが、それでもタバコをやめたのがよかったのか、客観的なデータこそないものの、持久力が上がったような気がしている。さらに最近は、休日を利用して長距離を走るトレーニングもするようになった。
作蔵はペダルを踏み出した。タイヤが路面から受ける抵抗が、ペダルを通して足に直接伝わってくる。
息子が買ってくれた自転車は、クロスバイクと呼ばれる種類のものだった。ママチャリに比べてサドルの位置が高く、一文字ハンドルまでの距離が遠いため、乗車姿勢は自然と前傾になる。泥よけやカゴといった、便利に、快適に乗るための装備は一切取り付けられていないが、その代わりにこの自転車は、自転車のもっとも基本となる「走る」という点においては、ママチャリの比ではない性能を発揮した。スピードが出るのはもちろんだが、もっとも大きな違いは、自分の力が、非常に効率よく自転車の推進力へと変換されるという一点に尽きるだろう。
作蔵のペダリングに応え、自転車がゆっくりと進み始める。ペダルの回転を速めていくにつれ、自転車は徐々にスピードを増していく。作蔵はシフターを操作し、後輪のギアを一段重いものへと変えた。足にかかる抵抗が増し、それに負けぬよう、足に力を込める。
冷たく透きとおった秋の空気の中、一台も自動車の通らない田舎道を作蔵の自転車だけが走っていく。
少し視線を上に向ければ、地の果ての、さらにその向こうまでも続いていそうな空が広がっている。
空がこれほどにきれいなものだというのも、早朝トレーニングを開始してからようやく思い出したことだった。
このトレーニングを始めてから、作蔵はいろいろなことに気づいた。
いや、気づいたというよりは、「思い出した」といった方がいいのかもしれない。空の青さや、季節の変化とともに変わる外の気温。路傍に咲く花。
自動車で移動していたときには見えなかったものが、自転車に乗っていれば目にとまる。自分で会社を興して二十年あまり。ずっと働き続け、最高速度で走り続けてきた作蔵は、速度を落とすことでようやく、自分がどのくらいたくさんのものを見落としてきていたのかを、実感するようになった。
早朝の気温はそろそろ肌寒さを感じるようになってきていたが、十分間も走れば身体は温まり、寒さを感じなくなってくる。
身体が温まってきたところで、作蔵はさらにペダルを回す速度を上げた。
作蔵に応え、自転車が速度を上げる。自分ががんばればがんばっただけ、自転車はそれに忠実に応えてくれる。自分のやったことが、すぐに直接的な結果となって現れるというのは、それだけでも楽しい。
――そう。楽しいのだ。
最初は、良平に勝ちたいがために始めたトレーニングだった。良平が、多少の距離の移動ならば、トレーニングがてら自転車を使っているという話を聞き、「それなら俺は毎日トレーニングしてやる」と決意したのが最初だったのである。
動機がどのようなものであれ、肉体はトレーニングによって確実に変わる。六十歳を前に、身体はそろそろ衰え始めてはいるが、どれほど年をとろうとも、トレーニングを繰り返せば、ある程度は身体は発達してくれる。
つつけばぷるぷると揺れていた腿の肉が締まりはじめ、身体が徐々に軽くなっていく。同じ距離を走っても、それにかかる時間が短くなり、一時間と決めていたトレーニングの時間を消化するために、走る距離が伸びる。
自分自身の能力の限界が、自転車という道具によって何倍にも増幅され、やればやっただけの手応えがあるというのは、それだけで楽しかった。
さらに、身体を思い切り動かすことで、汗とともに心の中に澱んでいるもやもやしたものが吹き飛んでゆく。
一ヶ月ほどで作蔵は自転車の魅力にとりつかれ、「良平に勝つ」という目的もさることながら、自分自身のためにも、自転車に乗るようになった。
住宅街を抜け、収穫が終わってうらさびしくなってしまった田畑の間を通る農道へと走っていく。見通しのきく広大な空間の中を一人自転車で走っていると、自分がすべての束縛から解放されたような、そんな気にもなってくる。
ペダルを回す足を止め、惰性だけでまっすぐに走り続ける。十分にスピードの乗っていた自転車は、さほど速度を落とすこともなく、ただ静かに前進を続けた。
――まったく、たかが自転車が、これほどいいおもちゃだったなんてな。
作蔵はそんなことを考え、再びペダルを回しはじめた。ペダルを踏み込む足に軽い抵抗がかかるが、それもわずかな間だった。そのまま一気に農道を走り抜け、朝のトレーニングルート一番の難所へとさしかかる。
作蔵はさらにペダルを踏み込んで自転車のスピードを上げ、その難所……勾配の急な坂道へと突っ込んでいった。
坂は、多少の加速をしただけでは登り切れる長さではない。自転車は見る間に速度を落とし、作蔵の足に重い負荷がかかる。変速機を操作してギアを軽くしてもなお、その坂は強敵だった。
歯を食いしばってペダルを回し、最後には立ちこぎも混ぜても、今にも止まってしまいそうな速度しか出ない。それでも作蔵は、顔を真っ赤にしてその坂を登り続けた。作蔵のペダリングに応え、自転車はよたよたと坂を登ってゆく。
やがて、坂に終わりが見えてきた。あと十メートル、五メートル。重い負荷に腿が悲鳴を上げるが、そんな身体にむち打って坂を登り続ける。三メートル、二メートル、一メートル。
坂を登り切ると同時に、作蔵は大きく息を吐き出した。
後ろを振り返り、自分が征服した坂を見下ろす。
トレーニングを始めたときには登り切ることができなかった坂が、今ではこうして一度も立ち止まることなく登頂できる。初めてそれができた日に柄にもなく大はしゃぎしてしまったことを、作蔵はまだ覚えていた。
坂を登り切ったあとは、少しだけ平坦な道が続き、すぐに下りになる。下り道にさしかかった作蔵はペダルを回す足を止め、そのまま一気に坂を下っていった。ペダルを回さずとも自転車は加速を続け、坂を下りきると、その勢いのままペダルを回し、さらに加速する。
いつだったかに、この登り坂で学生の乗っている自転車を追い越したことがあった。学生に比べれば、体力的には劣っているはずの自分にそのようなことができたことにまず驚き、次にそれは「俺だって、まだまだやれるじゃないか」という自信につながった。
坂を下りきってから十分ほどで、ゴールである自分の家が見えてくる。作蔵は自転車を減速させ、家の庭へと入っていった。
自転車を降りて車庫に入れ、家の玄関へ入る。風呂場に行ってジャージを脱ぎ、シャワーで汗を流す。服を着替えて食事のテーブルに着くと、七時十五分。
それは、作蔵がトレーニングを始める前に起床していたのと同じ時刻だった。
一年前には抜くことの多かった朝食を食べ、一キロメートルほど離れたところにある会社へ自転車で向かう。
身分は一応社長とはいえ、従業員は自分も含めて十人に満たない小さな造園会社である。さすがに最近は一線を退きはしたものの、まだ自分にできることもあるだろうと、現場に立つことも多い。
自転車で通勤してきた社長の姿を見て、最初は従業員に驚かれたりもしたが、今ではその姿もすっかり馴染みのものとなっていた。最近では、自転車で会社に来ないと「何かあったんですか?」などといわれる始末である。
また、長年苦楽をともにしてきた専務からは、「年寄りの冷や水」などといわれていたが、そんなとき、彼は決まって楽しそうに「バカヤロ、まだ俺はそんな歳じゃねえよ」と返すのだった。
作蔵の携帯電話の呼び出し音が鳴ったのは、その日の昼過ぎだった。現場で植樹作業を監督していた作蔵は、ポケットから電話を取り出し、番号を確認した。
その顔に、笑みが浮かぶ。
電話の液晶画面に表示されているのは、馴染みの自転車屋の名前だった。店主は若いが自転車の知識が豊富で信頼できる。
昨年の秋、トレーニング中にパンクして立ち往生してしまい、その時に偶然通りかかった店主が、そのパンクを直してくれたのがつき合いの始まりだった。
店主に勧められて整備をしてもらうと、自転車はまるで別物のように軽くなった。さらに店主は個人でできる自転車の整備の方法を教えてくれたり、トレーニングのアドバイスまでしてくれた。
トレーニングのアドバイスはともかく、自転車の整備の方法など、教えてしまえば客が減ってしまうのではないか、と作蔵がいうと、店主は照れくさそうに笑って、
『自転車というスポーツを好きになってくれる人が増えればいいなと思って。自転車を楽しんでくれる人が増えれば、お客さんも増えますから』
と応えた。
その言葉で、作蔵はこの店主を信用するようになった。
電話に出てみると、その店主の、聞き慣れた声が届いた。
「スナガサイクルですけれども」
「おうおう、待ってたぞ。届いたか?」
思わず声が弾む。電話の向こうで店主が言葉を続けようとしていたような気配があったが、それは作蔵の言葉にうち消されてしまった。
一瞬だけ遅れて、
「はい、お待たせしました。ご注文の自転車と、その他一式、一通り揃いましたので、ご来店をお待ちしております」
「わかった。ありがとう。じゃあ、今度の土曜日にでも取りに行くから」
「かしこまりました。お待ちしております」
そういって、店主は電話を切った。作蔵も携帯の通話終了ボタンを押し、ポケットにしまった。
ついに来た。この日をどんなに待ったことか。作蔵は小躍りしたくなるのをこらえて、現場に目を向けた。
「社長、うれしそうですね。何かありました?」
従業員の一人が、作蔵に声をかけた。
「ん? ああ、まあな」
作蔵は取り繕うように、努めて冷静を装って応えたが、とてもそんな演技などできるものではない。作蔵の心は、土曜日に自分のものになる予定の、新しい自転車のところへと飛んでいた。
そして、土曜日。
作蔵は妻を助手席に乗せて、隣町にある自転車店へと向かった。早く自転車を見たくてうずうずしている作蔵を見て、妻は「まったく、いつまでたっても子供みたいなんだから」と、あきれ声を出したが、そんな言葉は作蔵には届いていなかった。
自転車店の前に車を止め、作蔵は妻を伴って店へと入った。
店内にいたのは店主一人だけで、店主は「いらっしゃいませ」と二人を迎えたあと、「自転車、仕上がっていますよ」と穏やかに微笑んだ。
「少々お待ちください」といって店主は店の裏手へと引っ込み、ほどなくして、一台の自転車を押して、店内へ戻ってきた。
漆黒の、ちょっと力を入れれば折れてしまいそうなフレームに、すぐにパンクしてしまいそうなほどに細いタイヤ。ドロップハンドルと呼ばれる、「つ」の字に折れ曲がったハンドルと、その湾曲部分に取り付けられたブレーキレバー。
それは、ロードバイクと呼ばれる自転車だった。
ママチャリを乗用車、クロスバイクをスポーツカーに例えるならば、それはまさにレーシングカーだった。
より速く、より遠くへと走るために設計され、乗り手の力をそれ以上の推進力に変換するために、先端技術の粋を結集して作られた自転車である。
マドンSL5.9。
それが、この自転車の名だった。
アメリカの自転車メーカー、トレックが開発したこの自転車を駆って、ランス・アームストロングがツール・ド・フランスにおいて前人未踏の七連覇を成し遂げたのは、記憶に新しい。
作蔵は、良平との勝負のために、この自転車を用意したのである。
小さな町で開催されるセンチュリーライドイベントに持ち出すには、この自転車は少々大げさにすぎるということは、作蔵も十分わかっていた。そしてまた、自分の実力には、この自転車は不釣り合いだということも。いくら機材が良くとも、それを動かすエンジンが良くなければ、その性能を発揮することはできない。マドンにまたがった六十間近の親父を見れば、誰もが「成金親父が金と暇にあかせて自転車『だけ』はいいものを使っている」と思うに違いないだろう。
けれども。
どうしても、一度は良平に勝っておきたかったのだ。
百六十キロメートルという距離は、作蔵が一度として完走することのできていない、まさに未知の領域である。それを完走した上で、さらに良平に勝とうというのだ。いい機材を使うことでそれができる可能性が上がるのならば、甘んじて陰口も受けるつもりだった。
それにしても、美しい。
機能美、という言葉は、まさにこのようなもののためにあるのだろう。それを構成する部品のすべてが、ただ走るためだけに存在しており、無駄な部品はネジ一本たりとも存在していない。
「それが、新しい自転車ですか?」
ほれぼれと自転車を見つめていた作蔵の後ろから、美智代が声をかけた。
「かっこいいだろう?」
作蔵は顔だけを妻の方へ向けて応えた。
「私には、どれもあんまり代わり映えしないように見えますけどね」
妻の言葉に作蔵は苦笑を漏らしたが、すぐに新しい愛車の元へと歩み寄った。そんな作蔵に、妻が再び声をかける。
「これで良平さんに負けたら、かっこ悪いですよ」
「わかってるわい」
作蔵はわざと不機嫌そうに応えたが、その目は笑っていた。そして彼は店主にいわれて自転車のサドル位置を調整してもらい、自転車と同時に購入したものも、引き渡された。
サイクルウェアにレーシングパンツ、そしてヘルメット。
ペダルと足を固定するためのビンディングペダルと、それに対応したサイクルシューズ。自転車には、スピードメーターが取り付けられている。
作蔵は預かったそれらをいったん妻に渡すと、クレジットカードで支払いを済ませた。合計金額はかなりのもので、それは決して、作蔵にとっては安い買い物ではないが、それだけに、「それを持つことができた」という所有欲をも同時に満たしてくれる。
作蔵はもう一度、我がものとなった自転車に目を向けた。
真新しい自転車は静かにたたずんで、その主がサドルへとまたがるのを待っている。
ビンディングペダルで足を固定するのは初めてだが、センチュリーライドまでの一カ月で、慣れることもできるだろう。最悪の場合には、今使っている自転車についている普通のペダルをつけ替えればいい。
じっと自転車を見つめていると、
「センチュリーライドに、参加されるんですよね?」
店主に問われ、作蔵はそちらへ目を向けた。
「もちろん。そのために、こいつを買ったんだからな」
作蔵は胸を張って応えた。そんな作蔵に、店主は微笑みを浮かべて、「たくさん、楽しんできてくださいね」
といった。
「もちろん」
作蔵は、しっかりとうなずいた。
「それじゃあ、自転車を外に出してくれないか。そろそろ、帰るとしよう」
そういって、作蔵は店主が自転車を押して外に出るのを見送って、妻に預けていたウェア類を手に取り、車まで戻った。
車の後部座席にウェアとシューズを放り込み、表に出ていた店主から自転車を受け取る。妻はすでに、車の運転席のドアの近くに立っていた。車の運転は妻に任せて、自分は自転車で帰るつもりだった。
店から自宅まで十キロメートルほど。軽い慣らしにはちょうど良い距離だろう。
「それじゃあ、お父さん、気を付けてくださいね」
「わかってる。お前もな」
うなずきを返すと、妻は「はい」と応えて車に乗り込み、エンジンをかけた。車が走り去っていくのを見送り、作蔵はまだ店の外にいる店主に顔を向けた。
「じゃあ、色々とありがとう。また何かあったら聞きに来るから」
「はい、お待ちしています。何かあれば、いつでも御相談下さい」
店主は愛想良く応えた。「それじゃあ」と作蔵はもう一度いって、自転車にまたがった。店主に目配せをすると店主は小さく会釈を返した。
ゆっくりと、ペダルをこぎ出す。
ロードバイクには幾度か試乗もさせてもらっていたので、ドロップハンドルや、ブレーキレバーと一体になった変速機には特別な違和感を感じることはなかった。
第一印象は、軽い、だった。
ギア比から考えれば、それまで乗っていたクロスバイクよりも重くなければならないはずのペダルが、異常なまでに軽い。だというのに、自転車は驚くほどよく進んだ。
その代わり、というわけではないだろうがフレームは堅めで、路面の小さなギャップも確実にとらえ、それが身体に直接響く。カーボンのフレームは振動を吸収する、という話を聞いてはいたけれども、彼が思っていたほどには、振動吸収の効果はなかった。
けれども、その感覚は決して不快なものではなかった。むしろ路面の状態を直接身体で感じることで、自転車という乗り物が、自分の身体の延長となったような気にさえなる。
ペダルの回転を速めれば、自転車はそれに応えて速度を増してゆく。作蔵はギアのシフトアップを繰り返しながら、さらに自転車を加速させた。歩いているときには意識することのない空気が、走り続ける作蔵の抵抗となる。
空気の壁を切り裂きながら、作蔵は前へ前へと走り続けた。
十キロメートルなど、あっという間だった。
無論、それなりに時間はかかってはいるのだが、その時間の経過など、まるで感じることはなかった。家が見えてきたところで作蔵は自転車を減速させ、家の庭へと入っていった。心地よい、軽い疲労感が良平を包んでいる。
車庫には、妻が乗って帰った車が入っていた。作蔵は車庫の隅、それまで自分が乗っていたクロスバイクの近くに、新しい自転車を立てかけた。
満足げに、自転車を眺める。
この自転車ならば、百六十キロメールだって走りきることができるだろう。
「待ってろよ、良平」
作蔵はつぶやいて、家に入った。
イベントの当日に驚かせてやるつもりだったので、良平には新しい自転車を買ったことは教えていなかった。週が明けてからは仕事も少し忙しくなり、作蔵は水曜日まで、そちらにかかりきりになってしまっていた。
その日帰宅した作蔵を玄関で出迎えた美智代の顔が、蒼白になっている。どうやらただごとではないことが起きているらしい。
「どうした?」
作蔵は妻に声をかけた。
「今さっき、良平さんの奥さんから電話があって……」
「良平に何かあったのか?」
妻の表情と口ぶりから、そのことはすぐに察せられた。妻は「ええ」とうなずき、
「胃に、癌が見つかったって」
作蔵は妻の顔を見つめた。
「本当なのか?」
無論、冗談や悪ふざけでそのような連絡ができるはずもない。それでも作蔵は、そう問わずにはいられなかった。その問いに、妻は静かに「ええ」とうなずく。
四十歳を過ぎると、癌の発生率が高くなる。どこかでそんな話を聞いたことはあったし、癌という病気が、さして珍しいものでもないことも知っている。それでもやはり、そんな話を聞くと、それまでは遠い彼方にあったものが、唐突に目の前に突きつけられたような気分になる。
「詳しいことは聞いたか?」
「詳しいことは検査してみないとわからないけど、転移はしてなさそうだから、胃を切ればとりあえず大丈夫だろうって」
大丈夫といったところで、胃を切らなければならないというのは大事である。そうか、とうなずいて、
「良平は、家にいるのか?」
「そこまでは聞いていませんでしたね」
妻の言葉を聞きながら、作蔵は家に上がった。リビングの隅に置いてある電話を手に取り、良平の家へ電話をかける。
何度かのコールの後、電話に出たのは良平の妻だった。作蔵が名乗ると、良平の妻は彼の意図をすぐに理解したようで、
「いますよ、ちょっと待ってくださいね」
といった。受話器に手を当てて声を出しているのだろう。くぐもった声で良平を呼ぶ声が聞こえ、ほどなくして「もしもし?」といつもと変わらない声が聞こえてきた。
「なんだ、意外と元気そうじゃないか」
「癌だとわかって意気消沈しているかと思ったか? おあいにく様、だ」
作蔵の軽口に、良平も軽口で返してきた。
「胃癌だと?」
「おうよ、日本で一番発生している癌だぞ」
「自慢になるか、そんなこと」
自信満々にいった良平に、作蔵は半分あきれ気味に応えた。
「で、どうなんだ?」
「詳しいことはもう一度検査をしてみなきゃわからんらしいがな。まだ腫瘍も小さいし、転移はしていないだろうから、手術で取っちまえば大丈夫だろう、って話だ」
先ほど妻から聞いた以上のことがわかるかとも思って訊ねてみたが、返ってきたのは妻から聞いたのとほとんど変わりないものだった。
「もう遅いのかもしれんが、とりあえず酒は控えることにしたよ」
仕方がないといってしまえばそれまでなのだろうが、良平の酒好きは作蔵ならずとも知っている。酒好きから酒を取り上げてしまったら、それはそれで逆にストレスから胃に負担がかかるのではないか、などとばかばかしいことを作蔵は考えた。
「気の毒になあ、飲んだくれから酒を取っちまったら、なんにも残らないじゃないか」
「余計なお世話だ。お前こそ、肝臓壊して入院なんてことにならないように、酒を減らしたほうがいいんじゃないのか」
「安心しろ、うちの家系は代々肝臓が強くてな。親父も爺さまも、酒飲みだったが肝臓は壊さなかったぞ」
「親が大丈夫だったからって、お前まで大丈夫って保証はどこにもないんだぞ」
「それこそ余計なお世話だ」
軽口の応酬の後、良平は作蔵の言葉に小さな笑い声をあげたが、その笑いはすぐに、小さくため息に取って代わられた。
「俺らも、歳を取ったよなあ」
「当たり前だ。もう六十近いんだからな。あちこちガタだって来るさ」
作蔵の言葉に、良平はもう一度ため息をついた。
「お前には悪いが、今度のセンチュリーライドは、参加取りやめだ」
「医者に止められたか?」
「いや、止められはしなかったんだが、なんかこう、な」
「治る」といわれたところで、自分が癌に冒されているとわかれば、そう冷静でもいられないだろう。のんびり自転車に乗るような気分でもないのかもしれない。
作蔵はそうか、とうなずいて、
「来年は、参加できるのか?」
「どうなんだろうな。胃を取った後が大変らしいからなあ。一ヶ月や二か月じゃ運動なんてできるようにはならんだろうし。まあ、当分はお前との勝負はお預けだな」
良平はごくなんでもないことのようにいったが、それは決してなんでもないことではなかった。
詳しいことは知らないが、もしかしたらこの先ずっと、良平は運動ができなくなってしまったりするのだろうか。
だとしたら。
少しの間、作蔵は受話器を耳に当てたまま立ちつくした。顔を伏せ、じっと足下を見つめる。
やがて作蔵は、ゆっくりと、絞り出すように声を出した。
「そいつは……残念だな。今年こそ、俺がゴールでお前を出迎えてやれると思ってたのに」
「そいつはまあ、次の楽しみに取っておくよ」
作蔵の口調の変化に良平が気付いていないはずはないのだろうが、良平の話し方は先ほどまでと何一つ変わっていなかった。
「ランス・アームストロングも癌から復帰した後にツール・ド・フランスの七連覇をしているからな。もしかしたら俺も、ツールで十連覇くらいできるかもしれんぞ」
「お前なんぞ、初日のタイムトライアルで……」
冗談に冗談で返そうとしたものの、途中で言葉が出なくなった。別の何かが喉元までこみ上げてくるのを懸命にこらえ、ようやくのことで作蔵は、言葉の続きを口にした。
「……タイムトライアルで、失格に決まっとろうが」
電話の向こうで良平が「違いない」と笑ったが、作蔵はどうしても笑うことができなかった。ほどなくして良平は笑うのをやめたが、作蔵は何をいえばいいのかわからなくなった。
作蔵の言葉を待っているのか、電話の向こうの良平もまた、口を開こうとしない。
気詰まりな沈黙がしばらく続いた後、ようやく良平が口を開いた。
「なんだ、お前。まるでお前が癌になったみたいじゃないか」
作蔵を揶揄する言葉に、彼はやはり応えることができなかった。
「お前がそんなに深刻になってどうする。手術しちまえば治るっていわれてるんだから。大体俺が気にしてないんだから、おまえが苦にすることはないだろう」
「それはそうだが……」
何かをいいたいのだが、うまい言葉が見つからない。口ごもる作蔵に、良平は、
「心配するな。俺が逝くときは、おまえが地獄に堕ちるのを見届けてからって決めているからな。それまでは死ねんよ」
電話の向こうで、良平がからからと笑った。そんなことで、作蔵の心の中に積もったもやもやとしたものがなくなったわけではなかったが、彼はとりあえずいつもの調子を取り戻した。
「棺桶に片足突っ込んだ人間がよくいうわ。俺は、おまえの葬式に出てから十五年は生きてやるつもりだからな」
「できるもんなら、やってみろや」
憎まれ口を叩いたあとで、良平はがらりと口調を変えた。
「ま、そんなに心配するなや。身体が治ったら、絶対にまた大会には参加するから」
電話の向こうで、良平がにやりと笑ったような気がした。作蔵は、一つ大きな息をつくと、
「絶対だな?」
「絶対だ」
返事は、即座に帰ってきた。そして良平は、まるで今夜飲みに来ないか、とでもいうような気軽さで、
「俺がまた自転車に乗れるようになったら、今度はみんなでツーリングでも行こうや」
一緒にツーリング。
常に良平とは何かを競い続けていただけに、作蔵には、その言葉がやけに新鮮に聞こえた。作蔵は小さく微笑み、「そうだな」とうなずいた。
「それじゃあまあ、また何かあったら連絡するから」
最後に良平はそういって、電話を切った。回線が切れたことを告げる発信音を少しの間聞いたあと、作蔵は電話を切った。そして電話を定位置に戻すと妻の方に目を向け、
「あいつ、思っていたよりも元気そうだったぞ」
と告げた。
翌日からも、作蔵は早朝のトレーニングを欠かすことはなかった。これで大会を棄権すれば良平に笑われてしまう、という思いがあったのは無論だった。
いつも通りに起床し、準備運動をして、自転車をこぎ出す。
まっさらのマドンはこの上もなく快調だった。最高級グレードの変速機は音もなく動作したし、タイヤは驚くほど軽快に回りつつも、カーブではしっかりした粘りを見せてくれる。ブレーキもしっかりときき、それだけで、自分の乗車テクニックが数段上になったような気にさえなってくる。
けれども、その高級なカーボン製の自転車を駆るライダーの調子が、このところ今ひとつすぐれなかった。
自転車を変えてからは順調に伸びていたタイムは目に見えて落ち、現在では前の自転車と大差ないレベルにまでなってしまっている。
集中力が落ちているのか、先日などは交差点を走ってくる自動車に衝突寸前まで気づかず、公言していた葬式の日程が、すんでの所で逆になるところだった。
そんな作蔵の変化は自転車以外のところにも現れていた。うっかり植樹をする場所を間違ったり、現場を行きすぎてしまうなどというのはまだかわいい方で、一度など、重要な工事の契約日を失念しかけ、危うく契約をふいにするところであった。
その原因は誰の目にも明らかではあったが、当の本人だけは自分が変化していることは頑なに否定し続けているのだった。
そうして、大会を十日ほど前に控えた日。
いつものように早朝トレーニングに出発した作蔵は、いつものコースを走っていた。
どうにも身体が重く、思っていたほどのスピードが出ない。ギアを上げればペダルが回ってくれず、ギアを下げても足を回すことができない。半ばムキになって、作蔵はスピードを上げようと、さらに自身の身体に負荷をかけた。視線を下に落とし、ドロップハンドルの下を握って、ただ闇雲にペダルを回し続ける。
心拍は上がり、呼吸が速くなり、太股が悲鳴を上げ始めた頃にようやく、自転車は作蔵の目標とする速度へと到達した。
その段階で、ようやく作蔵は視線を上へと上げた。
その、すぐ目の前に。
犬の散歩をしている女性の姿があった。
速度ばかりを気にするあまり、周囲の状況が目に入っていなかった。女性まで、もう何メートルもない。作蔵はドロップハンドルを握りしめていた指を離してブレーキに指をかけ、レバーを力一杯引いたが、明らかにタイミングが遅すぎた。
タイヤがアスファルトにこすれて悲鳴を上げ、その音でようやく気づいたらしい女性が、こちらを振り返る。
作蔵はハンドルを切って女性を避けようとしたが、慣性によって前に進み続けようとしている物体が、そのような急激な方向転換をすればどうなるかは目に見えていた。
安定を失った自転車はいともあっけなく転倒し、作蔵も巻き込んでそのまま一メートルほどの距離を滑って、女性の目の前で停止した。
「大丈夫ですか?」
あわてた様子で女性がこちらへ駆け寄ってくる。そんな状況下で、作蔵の頭に真っ先に浮かんだのが、「恥ずかしい」という感情だった。
いい年をした男が、自転車に乗っていて転んでいるところを見られてしまった。しかも、よく見れば相手は自分の一番下の子供よりも年下にも見える、若い娘である。
この状況が恥ずかしくないはずがない。作蔵は「大丈夫です」と一言応えると、あわててペダルを足からはずして起きあがり、自転車を起こした。
「すみませんでした。お怪我はありませんか?」
「私は大丈夫ですけど」
女性は応えて、作蔵を上から下まで見回した。その女性の視線が耐えられず、作蔵はあわてて「それはよかった」というと、自転車にまたがった。
「本当に、すみませんでした」
そういって、逃げるように走り去る。女性が何か声をかけてきたような気がしたが、とにかく作蔵はとりあえずその場からいなくなるのを一番に考えていた。
自転車にトラブルでも起きたのか、やけにペダルが重いが、とりあえず作蔵はそのまま走り続け、すぐ近くにあった曲がり角を曲がって、自転車を止めた。
自転車を降り、被害状況を確認する。
着衣が、今日は少し厚手のトレーナーだったのが幸いした。着衣こそすり切れてしまったものの、身体の方は右ひじと右の太股をすりむいたくらいで、大きなケガはなさそうだった。
けれども、自転車の損害が大きい。クランクがゆがみ、後輪の変速機も取り付け位置がゆがんでしまっている。この状態でチェーンが回ってくれているのは幸いだったが、このまま走り続けたら、どこかが壊れてしまいそうな気もした。おそらくは、タイヤも少しゆがんでしまっているだろう。
家まではまだ少し距離があるため、この状態の自転車を押して帰ったら、確実に仕事には遅刻してしまう。少し迷った末、作蔵は携帯電話を取り出し、家に電話をかけた。
電話に出た妻に事情を話し、迎えに来てもらうように頼む。美智代は
「転んでしまったんですか、自転車で?」
とあきれ声を出したが、「すぐに行きます」と電話を切った。
「まったく、やれやれだ」
作蔵は電話をポケットにしまうとため息混じりに小さくつぶやいて、自転車を押して歩き始めた。ほどなくして妻の乗った軽トラックがやってくるのが見えた。軽トラックは作蔵のすぐそばで停車し、彼は荷台に自転車を積むと、助手席に乗り込んだ。作蔵の姿を見た美智代は目を丸くして「大丈夫ですか?」と問うたが、
「身体は大丈夫だ。服はすごいことになってるけどな」と応えた。
「気をつけてくださいね。もう若くもないんだから」
美智代はそういいながら、軽トラックを発進させた。途中、いったい何があったのか、と問われ、作蔵は起きたことをそのまま話した。
美智代は小さくため息をつき、もう一度「気を付けてくださいね」といった。
十分ほどで家にはついたが、すでにいつもの出社時刻は過ぎている。
一日くらい自分がいなくなったところで、仕事が回らなくなるというわけではない。たまにはこんな休日もありだろう、と作蔵は自分を納得させ、今日の仕事は休むことに決めた。
会社に電話をかけ、今日は休む、と伝える。電話に出たのは若手の従業員で、「何かあったんですか?」と訊かれたが、作蔵は曖昧な返事を返して電話を切った。
風呂場の脱衣所に行って、破れてしまったトレーナーを脱ぐ。傷は深くはなかったが思っていたよりも範囲が広い。中途半端に血液が固まっているかさぶたは、土埃が混じってどす黒くなっている。
作蔵は浴室に入り、シャワーの温度を調節して、ゆっくりと足の傷にシャワーヘッドを近づけていった。水量も絞ってなるべく刺激が少なくなるように水をかけたが、やはり最初はひどくしみた。
傷口を覆っている、半ば凝固したかさぶたと傷口についていた土埃が洗い流され、徐々に傷口がはっきりとしてくる。
それは、これ以上はないというくらい、見事な擦り傷だった。皮膚が破け、少し深いところはピンク色のものが見えている。こうしてみると、傷の深さについても少々勘違いしていたようだ。
――傷痕が、残るかもしれんな。
そんなことを思ってから、自転車で転んで擦り傷を作ったという話だけをすれば、それがなんとも幼稚なケガであるような気もしてくる。
――こんな格好を見られたら、また若い連中に「年寄りの冷や水だ」なんていわれてしまうな。
作蔵は苦笑を漏らすと、シャワーヘッドを持ち替え、足に当てていた温水を右腕の擦り傷へと向けた。こちらもやはり、温水が傷口にしみる。作蔵は顔をしかめて傷口の洗浄を続けていたが、やがて浴室のドアが開き、美智代が顔を覗かせた。
「どうした?」
作蔵は妻の方へ顔を向けた。
「いつまでたっても出てこないから、何かあったんじゃないかと思って」
妻の言葉に、作蔵はそんなに長い時間浴室にこもっていたのか、と、首を傾げた。
「大丈夫だ、心配ない。そろそろ出ようかと思っていたところだ」
そうですか、とうなずいた美智代が、作蔵の傷を目に留めたらしい。
「そのケガ、ずいぶん大きいけど、医者に行かなくても大丈夫ですか?」
「このくらいなら大したことはないだろう」
作蔵は応えてシャワーを止め、立ち上がった。
「あとで自転車屋に行って自転車を見てもらわないとな」
その後作蔵は傷口の様子を見ながら午前中を過ごし、午後に妻と共に自転車店へと向かった。店の前に軽トラックを止め、自転車を降ろしてから店に入る。
店は店主の他にもう一人、若い男の店員がいたが、店主は作蔵の姿に気付くと、「いらっしゃいませ」とこちらへ歩み寄ってきた。
「ちょっと、ハデに転けてしまってな。自転車を見てもらいたいんだが」
作蔵が笑いながらいうと、店主は「お身体の方は大丈夫ですか?」と驚いた様子でいった。
「転んだくらいでどうかなるようなヤワな身体はしとらんよ」
作蔵は陽気に応え、
「自転車が外にあるんだが、ちょっと見てくれないか」
店主は「わかりました」と、店の外に痛々しい姿でたたずんでいるマドンを、店内へと導いた。
「あちこちやられてますね。本当にお身体は大丈夫ですか?」
店主は自転車をぱっと見ただけで、即座にそういった。
「腕と足をちょっとすりむいたがな、まあ、問題はないよ」
そうですか、と店主はうなずき、「すぐに修理はできそうにないので、しばらく預からせて下さい」といった。派手に転んでしまったのでそうなる覚悟はあったが、問題はいつそれが直るのか、であった。
センチュリーライドは再来週の日曜日である。
作蔵は早々と傷物になってしまった自転車に目を向けた。
「センチュリーライドには、間に合うかな」
マドンを見つめたまま、つぶやくように問う。
「ちょっと微妙ですね」
店主の言葉は、作蔵の予想通りだった。作蔵が店主に目を向けると、店主は渋い顔で、
「詳しく調べてみないとなんともいえないんですけど、もしかしたらフレームの方にまでダメージがいっているかもしれないので、そうなるとちょっと……」
店主がそういうからには、おそらくはこの自転車で大会に出るのは絶望的と思っていたほうがいいだろう。
そうか、とうなずいて、作蔵は鼻から大量の息を吐き出し、もう一度マドンに目を向け直した。
ふと気付くと、すぐ後ろに妻が立っていた。作蔵がそちらに目を向けると、妻もまた、じっとマドンを見つめている。
「残念ですね」
「仕方ないさ。他の誰でもない、自分が悪いんだしな」
妻の短い言葉に応えて、作蔵はため息交じりにいった。そして店主の方へ目を向け、
「まあ、間に合うにしても間に合わないにしても、一度連絡をもらっていいかな」
「わかりました。二、三日のうちにはご連絡できると思います」
「すまんね。じゃあ、頼んだよ」
「はい。お預かりします」
店主の言葉を聞いて、作蔵は妻と共に店を出た。妻が車の助手席に乗るのを横目に見ながら運転席側に回り、軽トラックに乗り込む。車のエンジンをかけ、大きく息をつくと、作蔵は車を発進させた。
少しの間、作蔵は押し黙ったまま運転を続けていたが、ほどなくして助手席の美智代が口を開いた。
「大会は、やっぱり前の自転車で出るんですか?」
そうだなあ、と応えて、作蔵は口ごもった。
まずは良平のリタイヤで参加する意味が薄れてしまった。そして今度は自分がケガをした上に、参加用にと新調した自転車までもが壊れてしまった。
「やっぱり、今度の大会は出るなって、誰かがいってるのかなあ」
ため息をつきながら呟くようにいうと、
「珍しく弱気ですね」
「馬鹿をいうな。そんなことはないわい」
作蔵は語気を強くしたが、三十年以上も共に人生を歩んできた妻は、小さく笑って「はいはい」と応えただけだった。
「前の自転車では、百六十キロを走る自信はないんですか?」
「いや、前の自転車に乗ったって、二百キロでも三百キロでも走れるぞ」
作蔵は即答した。
「だったら、前の自転車で走ればいいじゃないですか。せっかく頑張って練習してきたんだし」
「それはまあ、そうなんだがな」
曖昧に応えて、作蔵はため息をついた。
「なんだかな。どうもこう、気分が乗らんのだよ」
横で妻が小さく微笑むのを、作蔵は視界の端にとらえていた。
「それは、良平さんが参加されないからですか?」
「そんなわけがあるかい」
作蔵は妻の言葉を一蹴した。
「あいつが走らないんなら、去年のあいつのタイムを更新して、あいつに地団駄踏ませてやる」
鼻息荒く語る作蔵の姿を見て、妻が小さく苦笑したのだけれども、彼はそれには気づかなかった。
その日の夕方に自転車店から電話が入り、やはり自転車は、センチュリーライドには間に合わないだろう、と告げられた。
翌朝。
いつもの時間に目覚めはしたものの、作蔵は少しの間、布団の中でぼんやりと天井を見つめていた。
気分が乗らない。
練習をしなければ、という思いはあったが、どうしても「さあ、やるぞ」という気分にならないのだ。
自転車に乗って走りだしてしまえば多少は違うのだろうが、どうしても自転車に乗りたい、と思うことができない。
そうこうしているうちに、隣の布団で寝ていた妻が目を覚ましてしまった。
美智代は作蔵の顔をのぞき込んで、「起きているんですね」といい、
「今日は練習はしないんですか?」
と問うてきた。
作蔵は「ああ……」と曖昧に言葉を返したが、妻はそれを勘違いしたらしい。
「昨日のケガが、どこか痛みます?」
「いや……」
大丈夫だ、と応えようとしたが、作蔵はそれを思い直した。
「ああ、まあ、ちょっとな」
美智代は小さくため息をついた。
「あんまり無茶はしないで下さいね。それなら今日は、練習は休んだらどうです?」
美智代の言葉に、作蔵は少し考えるふりをしたが、やがて、「そうだな。そうしようか」と、力なくいった。その様子に何かを感じたのか、美智代が、
「大丈夫ですか?」
と問うてきたが、作蔵は「大丈夫だ」と、身体を起こした。
「もう少し休んでいたらどうですか?」
「いや、大丈夫だ。とりあえず起きるよ」
作蔵は応え、妻と共に寝室を後にした。朝食の支度をする妻を後目に朝刊を読み、このような時間には見ることのないテレビをつける。
けれども、朝刊の記事も、テレビのニュースも、彼の頭には入ってこなかった。新聞を読もうがテレビを見ようが、ふと気付くと考えているのは、修理中のマドンのことと、そして競争相手のいないセンチュリーライドのことだった。
彼自身は意識はしていなかったが、小さなため息を何度もつく。そうこうしているうちに、美智代が朝食を運んできた。
作蔵はまた小さくため息をつくと、食事に向き直った。
「サイクリングに行きませんか」
唐突に妻が提案してきたのは、センチュリーライド開催一週間前となる日曜日の、朝食の時間だった。
妻の方から「サイクリングに行こう」などと誘ってきたのはこれまで一度もなかったことで、作蔵は少々面食らって「は?」と応えた。
美智代は小さく微笑んで、
「ほら、大会まであと一週間ですし。もう少し長い距離を走る練習もしておいた方がいいんじゃないかと思って」
いうことはもっともだったが、その提案が妻からされたということに、作蔵は違和感を覚えていた。
とはいえ、天気もいいし気温もちょうどいい。確かにちょっと足をのばしてサイクリングとしゃれ込むのには、最適な日である。作蔵は少し引っかかるのを感じながらも、「そうだな。たまには一緒に、どこかに出かけようか」とうなずいた。
美智代はうれしそうに「はい」と微笑み、「行きたいところがあるんです」と、隣町にある名の通った神社の名前を挙げた。
「いつでも行くことができる」という気持ちがあるためか、身近なところにある観光地というのは、意外と足をのばさないものである。ご多分に漏れず作蔵夫妻も、その神社には訪れたことがなかった。
神社までの距離は、三十キロメートルほどだろうか。往復しても百六十キロメートルにはほど遠いが、神社の周辺には他にもいくつかの観光地が点在している。それらも回れば、百キロメートルほどは走ることになるだろう。
他に思いつくようなところもなかったので、作蔵は妻の提案を受け入れた。
二人は早々に朝食を切り上げると、トレーナーに着替えて家を出た。自転車のタイヤにに空気を入れて、チェーンに油を差す。そして二人は自転車にまたがると、ゆっくりと走り出した。
一人で走っているときにはつい力が入ってスピードを出しすぎてしまうが、やはり妻と二人の時には、体力的には劣っている妻にあわせて走らなければならない。それは少々不自由ではあったが、こうして二人で一緒に走るという行為は、作蔵は決して嫌いではなかった。
天気は上々で、自転車にとっては天敵ともいえる、坂も向かい風もない。絶好のサイクリング日和の中、二人の自転車は静かに進んでゆく。
そうして一時間ほど走ってから、美智代の提案で休憩をとることになった。幸いなことにすぐ近くに喫茶店があったので、二人はその喫茶店へと向かった。
店は小振りで、車を三台ほど止めることができる駐車場があったが、その一角に自転車が二台、寄り添うように並んでいるのを作蔵は見逃さなかった。
どちらもスポーツ用自転車で、買ったばかりなのか、二台ともフレームも変速機も、新品の輝きを放っていた。
一台はクリーム色のクロスバイク、そしてもう一台は、プロの選手も乗っている、イタリアの高級自転車メーカー、コルナゴの最高グレードのロードバイクだった。
その自転車を見て、作蔵は自分のマドンのことを思い出してしまった。自分に原因があるとはいえ、新品の自転車をいきなり病院送りにしてしまったことを考えると、何ともいえない、やりきれない気分になってしまう。
作蔵は立ち止まって少しの間その自転車を見つめていたが、ふと気付くと、妻がすぐそばに立って、同じようにその自転車を見つめていた。
「この自転車も、ずいぶん高そうですね」
「プロの選手も使っている自転車だからな」
妻の言葉にうなずいて、作蔵は未練を断ち切るかのように、コルナゴのロードバイクから目を離した。妻を促して店に入ると、「いらっしゃいませ」と、三十代半ばほどの、こざっぱりとした身なりの男が迎えてくれた。店は他に店員の姿はなく、入っている客もまだ一組だけだった。
「お好きな席にどうぞ」といわれ、作蔵は店内を見回した。店はさして広くはなく、どこに座っても代わり映えはなさそうだったが、一組だけの先客が座っている席にほど近い、窓際の席へ向かって歩き出した。
その、作蔵の足が止まる。それにつられるように、妻も歩みを止めた。
先客に、見覚えがあったのだ。
……いや。見覚えがある、どころの話ではない。
先客は作蔵に目を向けると、「よう」と、片手をあげた。
「遅かったじゃないか」
先客――誰あろう良平――は、にやりと笑ってそういった。その向かいに座っているのは、無論良平の妻である。良平の妻は、二人に向けて小さく会釈をした。
「な、な、な……」
なんでお前がここにいる、という言葉が上手く口から出ずに、作蔵は「な、な、な」と繰り返した。
そんな作蔵を面白がるように、良平はまたにやりと笑い、「まあ、こっちに来いや」と作蔵を手招きした。同時に、良平の妻は立ち上がって、良平の隣りに席を移った。
状況がよく飲み込めないまま、作蔵は少し憮然とした表情で、良平の向かいに座った。美智代もそれに続いて、作蔵の隣りに座る。
喫茶店の店員が注文を取りに来たので、作蔵と妻はコーヒーを注文した。
店員が去っていくのを見届け、作蔵は「で?」と不機嫌そうに声を出した。
「なんでお前がこんなところにいる?」
「乗り納めだ。入院したら、しばらくは自転車に乗れなくなりそうだからな」
作蔵の問いに、良平は微妙にずれた返事を返したが、いいたいことはなんとなくわかった。
それぞれ違う目的でサイクリングに出かけた良平と作蔵が、このように同じ店で出会う確率など、限りなく低い。それに、先ほどの良平の言動を考えれば、誰かがこの状況をお膳立てしたのは明らかである。作蔵は隣の妻に目を向けたが、妻は素知らぬ顔で出された冷水を口にしている。
作蔵は、再び良平へと目を転じた。
「外にあったコルナゴは、お前のか?」
目敏いな、と良平は笑った。
「あんなにこれ見よがしに置いてあって、目敏いも何もないだろう」
作蔵が呆れ口調でいうと、良平は「たしかにな」と、その言葉を素直に肯定した。
「本当は、あれでセンチュリーライドに出るつもりだったんだがな。癌が見つかってから、自転車が届きおった」
そういって、良平は陽気に笑った。作蔵は大きくため息をついて、呆れ声を出した。
「お前を見てると、癌も風邪みたいな軽い病気に思えてくるわ」
良平はにやりと笑って「だろう?」と応え、作蔵はまた、大きくため息をついた。ほどなくして店員がコーヒーを持ってきたので、作蔵はそれを口にした。
作蔵がカップを置くと、
「マドンをいきなり壊したんだと?」
良平が楽しそうにいった。
「うるさい」作蔵は不機嫌そうにいってから、「なんでお前、俺がマドンを買ったことを知っている?」
「スナガサイクルの客は、お前だけじゃないってこった」
良平は笑って応えた。このあたりで本格的なスポーツサイクルを販売しているのはスナガサイクルだけなのだから、普通に考えれば良平もそこで自転車の整備や購入をしている、という結論に至るだろう。
ただ、あの店主が他の客の購入した自転車のことをべらべらと話すはずもないだろうから、作蔵がマドンを買った、という情報は、別のところから漏れたと考えるのが自然だろう。作蔵はまた妻に目を向けたが、やはり妻は素知らぬ顔でコーヒーを飲んでいた。
妻に何かいってやろうかと思ったが、うまい言葉が見つからず、作蔵は渋い顔で目線を良平に向けた。
「来週、入院だ」
唐突に、良平がいった。
作蔵は少しの間良平を見つめ、やがて「そうか」と短く応えた。
「手術が終わってから一週間くらいは入院していなきゃいかんらしいから、お前がリタイヤするところは見ていてやれんなあ」
「いってろ。こっちこそ、俺の走りを見たお前が腰を抜かすのを見れなくて残念だわ」
もはや条件反射のように、作蔵の口からは憎まれ口が出てきた。良平は「俺が腰を抜かすほどの走りか? そりゃあ、見たかったなあ」といって、からからと笑った。
けれども良平はすぐに真顔になると、
「それでな、一つ、頼まれてほしいことがあるんだ」
「頼み? お前がか」
明日は槍でも降るかな、というと、良平は「かもしれんな」とうなずいて、
「俺のコルナゴがな、今度の大会に出たいって泣いてるんだ。せっかく大会用に準備万端整えたのに、出られないなんてやってられない、ってな」
「まあ、そりゃあそうだろうなあ。走るために買った高級自転車が走れないんじゃ、自転車も浮かばれまい」
作蔵の憎まれ口に、良平は応えなかった。
代わりに良平は「それでな」と、真顔で作蔵を見つめた。
じっと自分を見つめる良平の視線をまっすぐに受けとめる。
作蔵は、居住まいを正して良平の言葉を待った。
「……俺の代わりに、コルナゴを大会のゴールまで連れていってやってほしいんだ」
良平の表情とは裏腹に、その言葉は「近くにあるハサミを取ってくれ」とでもいっているかのように気楽だった。作蔵はたっぷりと十五秒ほども良平の顔を見つめたが、いうべきことをいったからなのか、良平は先ほどまでとは違う、穏やかな目で彼を見つめ返すだけだった。
「俺に、お前のコルナゴに乗れといってるのか?」
「ま、早い話がそういうことだな」
良平がうなずくと、ずっとその隣でにこにこと微笑んでいた良平の妻が、ゆっくりと口を開いた。
「本当はね、うちの人、作蔵さんと一緒にゴールするのを、ずっと楽しみにしていたんですよ」
「悦子」
良平は隣に座っている妻に声をかけたが、悦子は小さく微笑みながら首を振り、作蔵に向けて言葉を続けた。
「去年あたりから、作蔵さんが練習を始めたでしょう。それを見てうちの人ね、『これで一緒にゴールできるぞ』って。それでがんばってお金を貯めて、外に置いてある自転車を買ったんですよ」
練習をしていることは秘密にしていたはずだというのに。作蔵は驚いて良平を見つめた。良平はまたにやりと笑い、
「朝練してるのは、お前だけじゃないってこった」
「自転車店」と「朝練」だけを入れ替えて、同じ言葉を吐いた。
「お前……気がついていたのか」
「きっと自分が気がついていることを知ったら、作蔵さんが練習をやめちゃうだろうから、っていって、内緒にしていたんです」
良平の代わりに、悦子が微笑んで応えた。
「癌が見つかって、今年は一緒に走れないだろうってわかったときのこの人の落ち込みようったら、なかったんですよ」
「そんなことまでいわなくてもいいだろう」
あわてた様子で良平は妻の言葉を止めたが、それは遅きに失した。作蔵はもう一度良平の顔をまじまじと見つめ、
「そうこうしているうちに、今度は美智代さんから作蔵さんが転んでケガをした、なんて連絡も来るし」
悦子の言葉で、作蔵は自分の妻へと目を向けた。
「やっぱり、お前か」
作蔵が問うと、美智代は「ええ」と微笑んだ。
「良平さんの癌が見つかってから、ずっと落ち込んでいたじゃないですか。なんとかしてあげたいと思って」
作蔵は鼻を鳴らして、いすにふんぞり返った。
「どいつもこいつも、俺を置いてけぼりにして勝手にあれこれしやがって」
「まあ、そう怒るなや」
良平が苦笑しながらいった。
「で、どうだ? 俺の代わりに、コルナゴでゴールまで行ってくれるか?」
「その代わり、コケて壊してもしらんからな」
作蔵はぶっきらぼうに応えた。良平は大きな声で笑った。
「そん時は、修理が終わったお前のマドンを、代わりに俺がもらってやるよ」
* * *
「よう、おっさん。今年はまたえらくいい自転車に乗ってるじゃないか」
声をかけてきたのは、何年か前に、このイベントを通して知り合った若い選手だった。お互いに名前も知らない相手だが、このイベントを通して得た、共通のつながりのようなものを、作蔵は感じていた。
最初は、口の悪い礼儀知らずな若造だと思っていたが、競い合って走る作蔵と良平を、すぐ近くで応援しながら伴走してくれたことがきっかけで、作蔵はこの若者に好感を持つようになった。
この若者は一昨年、去年には、良平に置いて行かれた作蔵を、リタイヤするまで励まし続けてくれたりもしていた。
「まあな」
作蔵は若者に短く応え、コルナゴのフレームに目を向けた。日本のシマノに並ぶ自転車パーツメーカー、カンパニョーロの最高級パーツで構成された自転車は、やはり彼の買ったマドンに負けず劣らず、よく走ってくれる。
「で、おっさんの相棒は?」
「あいつなら……」
作蔵は、なんと応えようか一瞬迷った。
「敵前逃亡しやがった」
作蔵の言葉に、若者は「はぁ?」と首をかしげる。作蔵はわははと笑うと、
「あの野郎、癌が見つかってな。今年は手術で欠席だ」
大丈夫なのか、と問う若者に、作蔵は「来年は出るって大口を叩いてるわ」と笑って応えた。
若者は他にも問いたいことはある、といった表情を見せながらも、「そうか」とうなずき、
「おっさんも、気をつけろよ。もう若くもないんだし」
「余計なお世話だ」
作蔵は楽しそうに応え、
「それよりもほれ、もうすぐスタートだぞ」
「わかってるよ」
若者はうなずいた。
「じゃあ、おっさんも気をつけてな」
ああ、と応えて、若者の背中を見つめて。
作蔵は、よく晴れた空を見上げた。
大きく、息を吸い込む。
――来年こそは、一緒にゴールしようじゃないか。
作蔵はそのまま、大きく息を吐き出した。
創作データ
| 執筆開始 | 2006年1月31日 |
| 執筆終了 | 2006年3月1日(サイト登録時(2008/2/16)に一部加筆修正) |
| 一言 | 「第3回 さいたまスポーツ文学賞」応募作。個人的には割といい出来だと思ったのだけれども、入選はならず。生まれて初めて書いた、おっさんが主人公の話。 |