1902 明治35年 3月13日に東京府南多摩郡川口村楢原の橋本喜市と
妻春子の次男として出生
1909 42年 川口村立陶鎔小学校に入学。無口で乱暴を嫌い、何でも試してみないと気がすまない少年で、冬の夜炉端で困民党事件の話を聞いて憤る
1917 大正6年 青梅の府立農林学校に入学。文芸誌『新潮』を読む
1920 9年 卒業後家業(土木業・農業)を手伝う。トルストイや武者小路実篤らの作品を読む
1924 13年 村の青年たちと念西庵を「教育の家」と呼び、読書会や回覧誌「自然人」「揺籃」の発行などおこなう
1925 14年 内村鑑三に傾倒する
1926 15年 下中弥三郎らの農民自治会運動に参加。生活改善や悪習廃止にとりくむ
1928 昭和 3年 友人たちと
1929 4年 井出定子と結婚。歯科医の須田松兵衛や桑都公会堂の書記松井翠次郎と親交をむすぶ
1930 5年 「揺籃社」の新店できる(横山町富士銀行付近)。のちに多摩地方の教育・文化センター的役割をもつ
1935 昭和10年 厭世観のあと、ライプニッツの<理由なしには何物も存在しない>の言葉に目を開かれる
1937 12年 教育科学研究会のー行が
1939 14年 岩波書店出版の『教育』誌に「八王子における教育運動―薫心会を中心にー」を書く
1940 15年 教育映画「村の学校図書館」に出演。野副婦美と再婚
1941 16年 多摩郷土研究会を結成(6月)。無医村解消運動を起こして成功する。太平洋戦争開始(12月8日)
1942 17年 市川英作らと大東亜黎明会をつくる(1月)。日米の戦力を分析して敗北することを知り解散(12月)
1944 19年 治安維持法違反で早稲田署に拘禁される(12月7日)
1945 20年 釈放(4月)。空襲で「揺籃社」と生家焼失(8月2日)。敗戦。新生日本のあり方について「わが主張」14項目を記す(8月18日)
1946 昭和21年 「戦争犯罪自己調書」を書く(2月)
1947 22年 戦後の世相に失望して自殺を図る
1948 23年 楢原の青年たちから郷土研究の指導を頼まれる
1949 24年 祖国復興に天才を役立てる研究に没頭する
1951 26年 自宅に「地方文化研究会」をつくり、科学的な地方史研究を開始。以後埋もれた義民などを顕彰する建碑活動(6年間に15基)や「地方文化資料」の刊行(10年間に50冊)にとりくむ
1954 29年 『歴史評論』誌に「困民党事件」を発表
1956 31年 この年から「商工日日新聞」など地方紙への投稿文が急増する(15年間に2100篇以上)
1958 昭和33年 ふだんぎの会をつくって婦人回覧誌を発行。多摩地方の文化活動を発展させるために奔走する(翌年多摩文化研究会結成)
1960 35年 『平凡人の教育・文章』(ふだん記運動の原典)・『古代中世研究法稿』など執筆活動盛ん
1962 37年 井上郷太郎の古代瓦コレクション寄贈に感動し、その実現化運動に加わる(8月)
1967 42年 四宮さつきを知る。
1968 昭和43年 『ふだんぎ』創刊号が大野聖二宅で誕生(1月27日)。ふだん記活動開始
1974 49年 「執筆者身辺年表」作成。のちの「自分史年表」のもとになる
1975 50年 色川大吉『ある昭和史―自分史の試みー』(中央公論社刊)で初めて「自分史」の語を使う(この中に橋本義夫の生涯を詳述)
1975 50年 “多摩の自然を守る展”で「丘君・雑木林君」の題で講演(7月)。その記録『抑制の哲学』刊行
1977 52年 『書いて花咲く哲学』刊行(欅出版)。「新人類文化研究会」発足
1978 昭和53年 『だれもが書ける文章−自分史のすすめ』刊行(講談社)。第1回
1982 57年
1984 59年
1985 60年 癌のため戸吹町の三愛病院に入院(5月)。「老枯日記」を記す。文友たちを励ます。8月4日永眠
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橋本義夫略年譜
椚 國男氏編
