読書四方山話
最近、読んだ本などについて


Last Update:2009/11/04

2009/11/04 Wed ウィルフレッド・セシジャー著・白須英子訳『湿原のアラブ人』

 翻訳者の白須さんから恵贈いただいた。彼女によれば、この本の出版には間接的に私が関係しているという。以前、私が会社で出版本部長をしていた時に、部下の編集者に「翻訳家の白須さんをどう思うか」と訊いた。彼は「素晴らしい翻訳家です。機会があれば、わが社でも仕事をしていただきたいと思っている」との言葉が返ってきた。この編集者を私は高く評価していた。歴史家ポール・ジョンソンの数多くの著書の翻訳権を取り、企画に取り上げていた。白須さんがロシアやドイツなどの本からイスラムに仕事の中心を移し始めたころで、私は「彼女にイスラム関係でよい翻訳の機会を探すして企画にしてほしい」と彼に求めた。

 1年ほどして、彼から企画の打診があった。元ニューヨーク・タイムズのジェーン・フレッチャー・ジェニスという女性記者が英国の女性探検家フレイア・スタークの伝記「パッショネイト・ノマド」の翻訳権が取れそうなので、白須さんにお願いしてはどうか、というのである。私はフレイア・スタークという探検家を知らなかった。伝記の梗概と翻訳権料などを企画書にして出すよう求めた。詳しいことは省くが、フレイア・スタークは“アラビアのロレンス”の女性版と言ってもよいような人で、1993年5月に100歳で死去した。イスラム世界を旅行し、多くの冒険を重ね、さらに個人的にも波瀾万丈の生涯を送った、実に稀なる人物であることが分かった。私は「これだ!」と思った。そして、この本の翻訳を白須さんにお願いすることになったのである。

 この本の出版について、私は担当編集者に個人的な無理を言った。それまで私は個人的な希望を仕事の中で求めたことはなかったが、この本については別だった。当時の私は出版本部長という役職があと1年少しで終わるだろうと思っていた。2期計4年というのが会社の慣例になっていたからである。そこで私がこの役職に就いている間に本を出してほしいと求めたのだ。というのは、私がいた会社では出版の責任者である出版本部長が本の発行人になっていたからである。奥付の発行人の名義が私である間に出したかったのだ。編集者はその私の願いをかなえてくれたのである。こうして白須英子訳『情熱のノマド 女性探検家フレイア・スターク』上下巻が出た。

 さて、余談が過ぎたが、『湿原のアラブ人』を白須さんが翻訳することになったのは、白水社の担当編集者が翻訳権を取得したものの、誰に翻訳してもらうかで、適当な人が見つからず困っていた時に、この『情熱のノマド』の翻訳者が白須さんであること知り、私がいた会社に連絡を取って、白須さんの電話番号を知り、翻訳を頼んできたのだそうだ。間接的に私がかかわっているというのはそういう意味である。

 セシジャーの『湿原のアラブ人』はイラク南部、チグリス川とユーフラテス川に挟まれた広大な湿地帯の水上生活民とともに暮らした1950年代の生活誌である。イラク研究の古典的名著とされている。魚や鳥を獲り、水牛を飼い、ナツメヤシや麦を栽培し、葦で住居や舟を造って、それらを活用して暮らす貧しい人々の暮らしの中に英国人のセシジャーは溶け込んでいく。その体験の詳細が生き生きとレポートされているのだが、私たちはサダム・フセインのイラクやブッシュ大統領によって攻撃されたイラク戦争のこの国しか知らない。中東地域は、第1次大戦のころから英国が入り込み、オスマン帝国から決別して、英国の影響下に王国として過ぎてきた。第2次大戦後、イスラム世界も独立の機運が広がり、車社会の発達とともに石油資源の発掘が進み、同時にイラクでも都市化が進み始める。

 それでも1950年から57年ごろまでは、イラク各地で政府の支配の一方で、各地の部族長が地域権力を持って部族社会ともいうべき伝統的な生活が色濃く残っていたようだ。『湿原のアラブ人』はそんな変化の兆しが目立ち始めたころのイラク南部の人々の生活を描いている。人懐っこく、旅人を見ると、我が家に泊って行けという。食糧といえば、魚や鳥肉、イノシシの肉などとパン、それに甘いお茶である。医療の知識もあったセシジャーは、彼らの治療をすることで信頼を得ていく。イスラムの宗教通過儀礼である割礼の手術を頼まれたり、部族間の抗争の仲裁までするようになる。

 この地方は今度のイラク戦争で日本でも報道されたサドル師の宗教的権力の基盤となる地方でもあるという。そういう現代のイスラム世界を考え合わせながら読んでいると、セシジャーが過ごした時代から半世紀が過ぎたイスラム世界の激変に改めて目を見張らされる思いがする。

 白水社が多くの名著を出版してきた名門出版社だが、今回読んでいて誤植が多いのに閉口した。出版不況の折から、これほどの出版社でも編集の質が下がってきているのかと思うと、暗澹たる思いにも見舞われる。(白水社)


2009/10/14 Wed エマニュエル・トッド著・石崎晴己訳『デモクラシー以後』

 この本の日本語版が出たのを機に著者が来日し、シンポジウムが開かれるというので読み始めた。フランスの人類学者であるトッドについては、今年の初めにNHKの番組「未来への提言」でインタビューが放送されたのを見て知った。1976年24歳の時に図書館でソ連の乳児死亡率が異常に高いWHOのデータを見て、ソ連の社会システムに大きな問題があることを直観し、ソ連が崩壊することを予想する著書を発表したと言われる。アメリカについても数年前に金融システムの崩壊から危機を迎え、アメリカの世界支配が終わることを予測したとされる。

 統計データを駆使した社会分析によって現代世界を考えるという手法が面白いと思った。今回の本を読んでいて、各国の民主主義の成立をそれぞれに地域における”家族制度”の在り方から分析し、現代の民主主義がどうなっていくのかを分析しているのだが、私はこの本をまだ読んでいる最中で、後者のところまで進んでいない。民主主義の成立と家族制度との関係分析は、今まで目にしたことはなく、とてもユニークな研究であると思った。

 家族関係の中で例えば、相続を見ても、長子相続、末子相続、子供に平等に遺産を分割して相続したり、また親が遺言でだれにどれだけ相続させるかを決めるスタイルもあるなど、さまざまな形がある。暮らしの在り方にしても、男の子供が結婚しても親と同居したり、親から別れて核家族を形成したりする。これらは地域、民族などによってそれぞれの方の傾向がある。そういう家族関係が人間観を規定することも理解できる。子供に平等に相続させる文化は、平等な人間観を育てることになる。アジアやドイツは長子相続が多かったようで、これらの地域では、長子とその他の子との間に差別が生まれる。そうなると平等という観念が育たない。そういう風に考えることができる。イギリスとフランスで近代民主制が生まれたのは、こういう家族関係が大きな要因になっているというのである。ヨーロッパでもドイツが遅れたのもこの辺に原因があるという。

 古代ギリシャの民主制がギリシャの家族制度とどんな関係にあるかは、古代ギリシャの家族制度がよくわからないので、直に家族制度と関係づけることは難しいかもしれない。ただ古代ギリシャについて言えば、いわゆる市民と奴隷との階級がはっきり分かれ、ギリシャの民主制はあくまでも市民にとってのそれであったという問題がある。アメリカでも民主制は発達したが、これも黒人奴隷あるいは先住民を除外した白人社会での民主制であった。

 これらがすべての人間を平等に考える現代の民主制に発展するには、教育の普及、特に識字率の向上と大きいともトッドは考える。識字率の向上を彼は「識字化」と呼び、識字化の程度についての統計を分析して、民主制の発達の程度と相関関係があることを突き止めている。非常に面白い研究であると思った。(藤原書店)


2009/10/08 Thu 村上春樹著『1Q84』

 私はこの作家の小説をほとんど読んだことはない。私が文芸記者をしていた時に、彼は「風の歌を聴け」で群像新人賞を受賞して作家デビューした。しかし、その時はなかなか才能のある新人だとは思ったものの、その世界に引き込まれるということはなかった。その後、新作が出るたびに話題を呼んだが、それらもほとんど読んでいはいない。読んだのは「ノルウェイの森」ぐらいであろうか。

 今度の「1Q84」にしても、出た当初は読もうとは思わなかった。この夏に、ある賞の選考で多数の本を読む義務があったから、余裕がなかったこともあるかもしれない。それが一段落した時に、ふっと書店で買ってしまって読み始めたのである。文章はそれほど素晴らしいとは思わなかったが、ストーリーの展開で読ませられてしまった。「青豆」とか「ふかえり」といった登場人物の名前の付け方などには多少の違和感を感じたが、読み進むうちに、日頃から私も感じることの多かった、この世界への違和感といったものに感じ合うものが芽生えてきた。

 私はもう70歳に近いのであるが、日頃、大学などで若い人に接していて、俗に言えば年代の差といったものを感じることが多い。私と若い人では生きている世界が異なるのではないかというような思いである。読んでいるうちに、そんな世界の見え方の違いといったものを、この小説はテーマにしているように思えてきたのである。

 私はキリスト教のプロテスタントの世界で育ってきた。と言っても、家庭がキリスト教だったわけではない。足の悪い姉が教会に通っていたから、彼女を自転車で送り迎えしているうちに、なんとなく接近していったのである。自分の性格もあって、熱心なクリスチャンとは言えない。中学、高校から大学という人間形成の時期にキリスト教の世界に片足を突っ込み続けたような状態だった。

 なぜ片足かと言うと、高校時代に洗礼を受けたものの、大学に入って間もなくキリスト教は信仰の対象というよりは、私にとっての対抗存在となってきて、内的にそれと闘うといった関係の在り方に変容してきたように思うからだ。信仰の世界に没入するのではなく、どこかに自分というものを別に持っていたいという思いもあった。そういう心境は現在まで続いている。教会に行かなくなったのもそういう思いの表れと言えるかもしれない。

 大学を出て、社会に出ると、すでにその頃、創価学会がかなりの勢力を広げていたが、その後、1970年代になると大学生を中心に原理研という宗教活動が盛んになり、さらにはオウム真理教をはじめとした、オカルト的宗教活動が蔓延していく。これは1960年代後半からの大学紛争をはじめとする過激な思想運動と表裏の関係で生まれてきたもののように私は思っている。そして、過激派の挫折に続いて、若い人たちの精神のの根底に自分自身を信じることができないという状況が表れ、さらにそんな閉塞状況から脱したいという願望が生まれてくる。現在自分がいるのとは別の世界に入っていきたいということもあったかもしれない。

 「1Q84」はそういった状況を背景にしているように思ったのである。1984年という時代設定は、オーウェルの想定した暗黒の未来社会と重ねられているのは明らかだが、それだけではなく現実の1984年が、ここに書いたような時代であったことと呼応していたからと言えるのではないだろうか。そこには現実の世界とともに、それとは異なる別の世界があって、人の中にはその世界に没入して行くものもかなりの数でいるということだ。

 青豆という女性の両親は、キリスト教のある狂信的な集団の会員であり、幼い自分はその両親とともに家々を回って入信を勧めるという活動をしていた。彼女は中学生ぐらいのある時、そんな両親から決別する。30歳に近い現在は、ある種のテロリストになっている。彼女は別の世界から現実んの世界に抜け出したはずなのに、結局は別の世界の一つに生きてしまっているのだ。

 この作品には、もうひとりの主人公天吾がいる。小説家を目指している青年だが、ある文学新人賞に応募した17歳の少女の作品に魅せられ、編集者の要請によってそれをリライトしたことから、否応なくもうひとつの別の世界にかかわりを持たせられていく。その少女はオカルト的な宗教団体の中で育ち、別の世界を見たために、二つの世界を行き来するような宿命を背負っている。

 小説の構造としては、青豆の物語と天吾の物語はパラレルに進んでいくが、次第にそれが間隔を狭め、二人は内的に結び合うのだが、現実に会うことはなく、青豆は死んでしまわざるを得なくなる。

 現実の世界ともう一つの別の世界といえば、パラレル・ワールドと見ることもできるが、スペース・フィクションとしてのそれに留まらない、妙なリアリティがることも確かだと思った。

 村上春樹は阪神間に生まれ、キリスト教の環境で育ったと思われるが、そんな影響の垣間見られて、私には意外に面白かった。(新潮社刊)


2009/09/22 Tue 山田風太郎著『橘傳來記』

 養父市の山田風太郎研究家の有本倶子さんから『新訂 もう一人の山田風太郎』を恵贈いただき読んだことから、彼女が編んだ風太郎の初期作品が読みたくなり、以前いただいていたのを引っ張り出して読んだ。

 山田風太郎は旧制豊岡中学在学中の昭和15年に短編小説「石の下」で雑誌「受験旬報」の懸賞小説に応募して1等に入選していらい、同誌や「蛍雪時代」の懸賞に次々に入選して、それが戦後の作家生活につながるのだが、それらのいくつかを除いて読んでいなかった。有本さんは、豊岡中学とその後身である県立豊岡高校の同窓会である達徳会事務局を訪ねて、風太郎が在学した頃の豊岡中学の機関誌「達徳」を調べて、「石の下」以前の作品を発掘した。すると、昭和12年の同誌に「朝馬日記」「嵐」13年に「火事」の短編を書いており、14年には「橘傳來記」という中編小説を発表していたことがわかったというのである。そして、これらの未見だった作品を含めて中学時代から浪人中に「蛍雪時代」に応募して当選した初期の小説を集めたのが本書である。

 「朝馬日記」は荷を運ぶ馬の目で早朝仕事へ出かける姿を描いた原稿用紙で数枚の掌編である。馬の目から見たという発想の面白さだけでなく、その後の作品に見られる中学生とは思えない観察眼の萌芽が見える。「嵐」「火事」になると、観察眼はより鋭くなり表現も中学生とは思えぬものが芽生えている。

 「橘傳來記」は数十枚の歴史小説だが、これには目を見張った。風太郎や私、有本さんの郷里は、兵庫県の但馬である。但馬の古代伝承に田道間守(たじまもり)伝説がある。新羅の王子、天日槍(あめのひぼこ)の子孫である田道間守は垂仁天皇に寵愛され、常世の国へ行って非時香菓(ときじくのかくのこのみ)を探して持ち帰れとの勅命を受けて、10年後にそれを持ち帰った時には天皇は崩御していた。天皇の陵に持ち帰った非時香菓を供え、殉死したという話である。非時香菓は蜜柑の一種のようであるが、それを材料にした菓子とも考えられていると聞いたことがある。豊岡市神美の中嶋神社は、この田道間守が祭神になっており、「お菓子の神様」として製菓業界の信仰を集めている。

 小説はこの伝承を小説化したものである。一種の歴史小説と言えるが、風太郎の想像を広げたものでもあろう。のちの伝奇小説に至る前の習作とも読める。彼独特の近代的な発想による解釈もみることができて、この作品に興味をひかれた。というのは、その後の受験雑誌の応募作品は、受験制度の中での受験生の苦しみなどをテーマにし、戦時下の作品は、旧制高校への受験とともに、労働力として徴用される若者たちの苦悩を、当時の軍部による思想に順応させることに収斂させていく小説が、時局に合わせた内容になっているからである。そのことに疑問を持ちながら、雑誌の懸賞ということを考えるとやむを得なかったとも言える。ただ、今読んでも、当時の若者たちはこうだったのかということがわかって、それなりの価値はあるとも言える。それにして、少年時代の山田風太郎の才能には感嘆してしまった。(出版芸術社)


2009/09/10 Thu 中塚明著『司馬遼太郎の歴史観』

 副題に「その『朝鮮観』と『明治栄光論』を問う」とあるから、司馬のそれを批判しているのである。司馬遼太郎の朝鮮観の批判については、この欄の2007年に備仲臣道さんの『司馬遼太郎と朝鮮』を取り上げたことがある。論旨はこの本もほぼ同じである。ただ中塚氏は朝鮮史研究の専門家であるだけに近代日朝関係史の研究を踏まえて詳しく論じているところに特徴がある。

 『坂の上の雲』は正岡子規、秋山好古、真之兄弟の3人の若者を主人公に日露戦争を背景に明治の若者たちを描いた大長編小説だ。私もこの小説を若いころに読んだ。その時は明治のロマンにわくわくしたものだったが、京都で高麗美術館を開設した在日朝鮮人の鄭詔文氏や詩人の金時鐘さんらと交友を深める中で、次第に疑問を感じるようになってきた。この本でも、備仲さんの本でも、『坂の上の雲』には日本が当時の朝鮮に対して行った侵略的行為が書かれていないことである。

 日露戦争前の江華島事件、閔妃暗殺事件などである。角田房子さんの「閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母」(新潮社)を読んでいたから、日露戦争で勝利したことで日本は狂い始め、日韓併合に至り、さらに満州事変から15年戦争に突き進んで行って敗戦に至ったという司馬史観とも言えるものに疑問を感じるようになったのである。ただそれが明確なものではなかった。

 というのは、先の鄭詔文さんや金達寿さんらと司馬さんは交友が深く、私が30代のほぼ10年間にわたり鄭詔文さんが出していた季刊誌『日本の中の朝鮮文化』をボランティアで手伝った時に、しばしば司馬さんは鄭さん、金さん、さらに上田正昭、森浩一、岡部伊都子さんらといっしょに集まることがあり、私もその末席につらなっていたのであった。これらの人たちは司馬さんの朝鮮観について表立って批判することはなかった。ただ岡部さんはある時「私は司馬さんとは考えがちょっと違う」というような意味のことをそっと洩らされたことがあった。それが何を意味しているのかはその時は明確ではなかったが、今にして思えばわかるような気がする。

 司馬さんの作品では「ひとびとの跫音」「故郷忘じ難く候」など好きなものもある。大作家であるだけに、批判すべきところは批判される。それは必要なことである。

 中塚氏がこの本を書こうと思った動機は、NHKが今年の暮れから3年をかけて司馬遼太郎の代表作『坂の上の雲』をドラマ化して放送することにあったという。NHKがそういう司馬さんの批判されるべきところをきちんと押さえてドラマ化するのか。それとも明治の青春礼賛で終わるのかは、見どころだろう。司馬さん自身、自分の作品の中で『坂の上の雲』だけは映画やドラマなどに映像化されたくないと言っていた。それは日露戦争の戦闘場面が詳細に書かれているので、明治の若者たちの青春と戦争を重ねてみてしまうことで、戦争礼賛の作品と思われるのを危惧したのであろう。(高文研)


2009/09/07 Mon 有本倶子著『新訂 もう一人の山田風太郎』

 著者の有本さんとは古い友達である。彼女は兵庫県の関宮町(現在の養父市関宮)在住であるから私郷里豊岡市に近く、同郷といってよい。彼女はまた歌人でもあり、与謝野鉄幹・晶子の「明星」の歌人で結核のために夭折した前田純孝(翆渓)の評伝を彼女が出版した時に、私がそれについてコラムで論評した。当時彼女は三鷹市に住んでおり、コラムを読んで私に会いたいと言ってきた。

 前田純孝については、西村忠義という人がやはり評伝を書いており、その純孝観に私は違和感を抱いていた。有本さんの評伝も西村氏の純孝観を受け継いでいるところがあったので、そのことを指摘すると、自分もその後の調査で西村氏には批判を持っているので、新しく純孝の評伝を書き直しているの原稿を見てほしいと言う。それで彼女と付き合うようになり、新しい評伝に意見を言い、彼女はそのために6回にわたって原稿を書き直した。その後、河出書房新社の編集者だった友人の飯田貴司さんに持ち込んで『つひに北を指す針』の題で出版できた。

 この評伝を書いている最中に、さまざまな事情から彼女は一家で帰郷した。郷里で短歌教室などを主宰して活動をしているうちに、関宮出身の作家山田風太郎記念館を設立する活動を始めたのである。その辺りの経緯は本書に詳しく書かれている。私は風太郎についてはほとんど読んだことはなく、『戦中派不戦日記』が出た時に拾い読みをした程度であった。彼女も風太郎は“大衆作家”と思って全く読んだことがなかったという。ある人に勧められてエッセー集『風眼抄』を初めて読んで目を開かれたのだそうだ。

 一たびのめり込むと徹底的に追求する彼女は風太郎について調べ始めた。風太郎の父で村で唯一の医者であった山田太郎とは彼女の父君とは俳句仲間で親交があったこと、太郎が亡くなった後、母は太郎の弟と結婚したが、その義父もやはり父親の俳句仲間で医師だったが、子供の頃病弱だった有本さんはこの人によく診察してもらったりした。

 そんな関係もあって、山田家の系図を調べていくと、なんと山田家は出石藩の家老につながっていることがわかった。しかも、徳川時代に「三大お家騒動」として知られる仙石騒動の張本人、仙石左京につながっていたのである。伊達騒動の原田甲斐は歌舞伎の「伽羅先代萩」以来悪人とみられてきたが、山本周五郎の『樅の木は残った』で復権された。だが、仙石騒動の仙石左京は今も悪人のままだ。左京につらなる仙石家は久岐、山田と姓を変えて存続した。山田家の人たちは仙石左京につらなることを子孫にも伝えずにきたのである。

 それで有本さんが晩年の風太郎に会った時に、そのことを伝えたのだが、風太郎は知らなかった。「君は僕よりも僕のことについてよく知っているね」と言ったそうだ。有本さんは風太郎に仙石騒動を小説に書いてほしいとの希望を持っていたが、80歳を過ぎてパーキンソン病にかかっていた風太郎には、その力はなかった。(出版芸術社)


2009/07/24 Fri 山崎豊子著『運命の人(全4巻)』

 この小説が雑誌「文芸春秋」に連載されていた時、単行本になったら読もうと思っていた。1972年の沖縄返還の際に、日米政府間で基地返還に伴い基地が縮小された。米軍基地に土地を提供していた沖縄の地主に原状回復して元の所有者に返す場合、その費用は米国政府が負担するのが当然なのだが、それを日本政府が肩代わりするという密約が結ばれた。このことを暴露した毎日新聞の西山太吉記者が国家公務員法違反で逮捕されたのはマスコミに働いた経験のある者には忘れられない事件である。この事件を真正面から取り上げたのがこの小説である。

 当時、西山記者は外務省に努める女性事務官と「情を通じて秘密文書を入手した」と検察が主張し、密約のスクープを、「機密漏洩事件」として起訴した。ここで問題のすり替えがあったのだ。マスコミ各社は当初は「国民を欺く密約」として報道したものの、このすり替えによって「情を通じての機密漏洩事件」として報道する方向に傾いていったのである。1審では無罪判決を獲得したものの、最終的には有罪とされた。

 その後、琉球大学の我部政明教授が米国国立公文書館で30年たって公開された米国務省の公文書の中からこの密約の文書を見つけて、密約の存在が明らかになった。ところが日本政府は、それでも「密約は存在しなかった」と言い続け、先ごろは当時の交渉に当たった外務省高官が「密約はあった」と証言しているにもかかわらず、なおも政府はその存在を否定している。こういう厚顔な姿勢を取り続ける官僚と政治家が存在する国家というのは、本当に民主主義国家と言えるのであろうか。そういう思いがぬぐえないでいる。

 小説は全4巻という大長編小説である。事件の経過を克明に追い、それに同記者の家庭の状況などについてはフィクションを交えて描いている。第4巻は、1審の後記者を辞した主人公は、妻子と別居して九州の実感の家業を継ぎながら、家業の倒産を受けて沖縄へ放浪の旅に出る。そして、そこで日本に裏切られてきた沖縄の歴史や文化を知ることになる。1990年代の米兵による少女暴行事件や、その後の米軍ヘリコプターの墜落炎上事件などで盛り上がる沖縄の反基地闘争を背景に主人公が次第に自己を取り戻していく姿を描いている。

 第4巻はほとんどがフィクションだと思われるが、最近の沖縄の社会的事件が背景になっているだけに臨場感もあってリアルである。沖縄に関心を持つ私としてはぜひ読んでおきたい小説であった。山崎豊子さんとは、もうずいぶん前のことだが、大阪に勤務していた時にNHKの大河ドラマ「二つの祖国」が盗作ではないかと問題になった時に、たしか浜寺公園に近い自宅に訪ねたことがある。山崎さんは、確かにモデルとなった人物の書いた書物があると言った。その著者にそれを小説の題材にしたいので使用許可を求め、承諾の返事の手紙を見せてもらったことがある。この小説を読んでいて、そんな昔のことも思い出した。(文芸春秋刊)


2009/07/01 Thu 浜祥子著『空の記憶』

 著者は私の同郷の友人の細君である。20年近く前のことだが、彼女が『おじいさんのすべり台』という児童文学で第1回小川未明文学大賞を受賞した時にお祝いに駆けつけて、夫妻と一夜楽しく過ごしたことがあった。それからしばらく往来があり、著書をいただいたりしたが、最近は年賀状のやり取りになっていた。先日、久しぶりにこの小さな本が送られてきた。早速、読んでみて、たいへん感銘を受けた。

 『空の記憶』は「アンネの日記」をテーマにした戯曲で、先ごろ札幌の劇団が上演したのだそうだ。15歳のアンネは1945年に北ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所で姉のマルゴーとともに亡くなった。戦後、アンネの残した日記が世界的なベストセラーになり、父親オットーはナチスのホロコーストとアンネの短い生を語り世界中を講演して回った。その父が収容所の跡かたもないベルゲン・ベルゼンを訪ね、アンネの亡霊に出合う。その二人のやり取りを中心にした物語で、そこにやはり訪ねてきた日本人の女性がからむ。今は草原となったベルゲン・ベルゼンの収容所跡地に横たわって見上げた空がアンネの記憶を呼び覚ましてくれるのだ。

 私が「アンネの日記」を読んだのはずいぶん前で、学生時代のことだ。ジョージ・スティーブンスの映画や劇団民藝の舞台も見た。滝沢修や奈良岡朋子は覚えているが、アンネが日色ともゑだったか樫山文枝だったか記憶にない。

 この戯曲は設定が意味深い。この世にいないアンネと生きている父親との対話という設定が、戦後を見直す視点として生きているのである。昔、日記を読んだ時、少々気の強い少女だが子供にしてはすごく冷静な観察眼と人間観をもっているという印象を受けたが、ここに登場するアンネもまさにその印象通りである。そのアンネが強制収容所での死をもって現代に問いかけているものが、強いインパクトで迫ってくる。

 著者から送ってきた本とともに、パンフレットに書いたエッセーが添えられていた。イスラエルのパレスチナ政策を批判するデモの写真の中のプラカードに「ダビデの星」=「ハーケンクロイツ」のマークが描かれているのを見て衝撃を受けたとあった。私はその写真を見てはいないが、今のイスラエルとパレスチナの紛争は、歴史の皮肉というにはあまりにも深刻なものを感じてしまった。

 そこで、礼状に先ごろ話を聞いたイスラエルの若い指揮者ダン・エッティンガーさんの言葉からか感じたことを書き添えた。エッティンガーさんは、ワーグナーの「ラインの黄金」と「ワルキューレ」を新国立劇場で指揮した。これを見た数日後に、彼の話を聴く機会があったのだ。彼は1971年生まれのユダヤ人である。イスラエルではワーグナーはナチスのシンボルだったとして、公の場所では演奏は禁止されているのだが、ワーグナーの音楽にはそういう政治的なものを超えた芸術性があると彼は言い、今のイスラエルのパレスチナ政策にも批判的な姿勢をちらっとだけ語っていた。もちろん彼の血縁にもホロコーストの犠牲者がいる。

 エッティンガーさんの師は、やはりユダヤ人の名指揮者ダニエル・バレンボイムで、バレンボイムはイスラエルでワーグナーを指揮しようとして批判を浴びたが、それに屈することなく今のイスラエルの文化政策、パレスチナ政策にも公然と批判の姿勢を示している。バレンボイムの思想にはナチスの犠牲となったユダヤ人がナチスと通じるような姿勢でパレスチナに対していることへ批判がある。  そんな意味のことを書いた後で、新聞を読んでいたらイスラエルの兵士としてパレスチナ自治区への進攻へ参加した元兵士が「我々はパレスチナ人を虫けらとしか見ていなかった」という意味の発言が書かれていた。(青陶社)


2009/06/11 Thu 備仲臣道・礫川全次著『攘夷と皇国』

 副題に「幕末維新のネジレと明治国家の闇」とある。この本は2人の著者の対談である。備仲さんは古くからの私の友人であり、先に『司馬遼太郎と朝鮮』という著書で国民的作家司馬遼太郎さんの朝鮮館を鋭く批判した。対談相手の礫川という人を私は知らない。在野の歴史研究家で、特に明治維新と日本の近代史に深い関心を抱いている人のようだ。備仲さんから恵贈を受けて読み始めたら、面白くて止まらず読み終えてしまった。

 明治維新は、薩摩、長州、土佐などの下級武士たちによる尊王攘夷を旗印に徳川幕藩体制を崩壊させて明治国家をつくったのだが、攘夷という排外主義あるいは鎖国主義を唱えていたのに、明治維新に成功するとすぐに、攘夷から転向して西洋の政治文化を取り入れて欧米列強の後を追うというネジレ現象を引き起こしてしまった。私も子供のころから、幕府を倒して明治政府をつくった人たちは言うこととすることがどうしてこんなに違ってしまうのか、を理解できなかった記憶がある。礫川氏はまさにその疑問を追究してきた人のようだ。

 備仲さんは司馬さんの『坂の上の雲』の批判でもわかるように、明治維新から明治国家の建設を日本の近代化への道としてある種楽天的に見、日露戦争を祖国自衛戦争として肯定的に評価している。「明治という近代日本の青春」といった見方である。そのシンボルが正岡子規であり秋山兄弟である。だが、日露戦争ではかろうじて勝ったという結果にもかかわらず、日本国民は勝利に驕り高ぶってしまったために、その後は日本が列強のまねをして、朝鮮を植民地化し、戦争への道に突き進んでいった。そして、ついには太平洋戦争での無条件降伏という結果をもたらしたとみる。この司馬史観の批判がこの対談の根底にある。

 明治初年には、政府内で「征韓論」が盛んになる。全国各地で起きた不平士族の反乱を抑制するために、目を外に向けさせようという意図もあったのだろうが、それが征韓論であったり台湾出兵論であったりするのは、これらの地域に対する見かたそのものに帝国主義的な野心が隠されていることは明らかだ。また日露戦争に先立つ日清戦争でも朝鮮を支配しようとする明治政府の意図は明らかだ。日本による閔妃暗殺もあった。司馬さんが書かなかった歴史の事実を検証して司馬史観を批判していくのである。

 読んでいて西郷が赤報隊の相楽総三を騙した話とか、倒幕派は幕府を倒すとは言っても、一揆などの民衆と一体となることを避けるために「ええじゃないか」のようなものに民衆の意識を変質させたと思われるという見方など、随所で興味をそそられた。また倒幕派に明治国家の新体制についての明確な青写真はなく、かなり行き当たりばったりであり、それがさまざまな混乱を生んだことも明らかになる。攘夷が西洋崇拝に代わるのもこのことによるのだろう。そういう意味でも私には興味深い対談だった。(批評社)


2009/05/19 Tue ハンス=ヨアヒム・バウアー著、吉田真ほか訳『ワーグナー王朝』

 先日「あらかわバイロイト」という企画で、日本人歌手によるワーグナーの楽劇『パルジファル』を見に行ったときに会った知人からこの本を教えられ、早速、アマゾンに注文したら翌日に届いた。私はワーグナーに関する本をそれほど多く読んでいるわけではない。この本には「舞台芸術の天才、その一族の権力と秘密」という副題が付いている。ワーグナー家とナチスの関係については、ずいぶん昔に清水多吉著「ヴァーグナー家の人々」(中公新書)があり、出た当時に読んで印象が深かったので、去年、バイロイトへの旅行中にまた読んだ。

 今回の『ワーグナー王朝』は2000年に原著が出ており、清水著からでも30年ほど経つからその後のワーグナー家のバイロイト祝祭総監督を務めるヴォルフガンク・ワーグナーとその子や早世した兄ヴィーラントの子供たちとの、総監督の後継をめぐる葛藤が描かれている。著者はワーグナー研究家としてはドイツでも有名な人だそうで、今まで日本では知られなかったエピソードも含まれていて興味をそそられながら読んだ。 この本を教えてくれたOさんは「これを読むとヴィーラントに対する見方が変わりますよ」と言っていたが、圧巻はヴィーラントのことを書いた章であった。

 その前に彼の父ジークフリートに触れておくと、彼はやはリヒャルト・ワーグナーと妻コジマの間の子であるが、その彼は同性愛者であることを隠さなかったとある。それでも妻ヴィニフレートとの間にヴィーラント、ヴォルフガンクの兄弟とヴェレーヌ、フリーデリントの姉妹の4人の子をつくっている。ヴィニフレートは、ヒトラーと懇意にして、物心両面でさまざまな支援を得ている。ジークフリートは妻と反対でヒトラーに好意を抱くことはなかったようだが、妻の行動をやめさせようとはしていないようだ。彼が忠告してもそれを聞くような妻ではなかっただろう。

 リヒャルト以後のワーグナー家の歴史の重大な転換点には女性が大きな役割を果たしている。リヒャルトが死んだ直後はバイロイト・フェスティヴァルを軌道に乗せるために妻コジマがプロデューサーと演出家を兼ねて祝祭を定着させた。ヒトラーが台頭するとジークフリートの妻ヴィニフレートがヒトラーやナチスと関係を持ってバイロイトの一時的な繁栄を築く。

 そして、敗戦後の混乱の中で再興した祝祭にはヴィーラントが“脱政治”の立場から「新バイロイト様式」と称される簡素な演出方式を確立して戦後の繁栄の基礎を築いたとされてきたが、この本によると、ヴィーラントには実はそれほどの才能はなく、彼の妻ゲルトルートがさまざまなアイデアを出したようである。ナチスと縁を切って戦後のバイロイト祝祭を再出発させるために、実はゲルトルートという陰の存在が大きな役割を果たしたことになる。ヴィーラントはゲルトルートの存在なくしては演出をできなかったらしい。彼女は練習中からいつも夫のそばにつきっきりだったのだ。

 そのヴィーラントが1966年に亡くなると、弟のヴォルフガンクが総監督になる。この人は今も80歳を過ぎて存命中だが、著者は彼が自分の地位に固執し、一族を後継者候補から追い落としていったことを容赦なく暴き立てる。ヴォルフガンクは40年を超える長きにわたって総監督の座に就いていたが、1昨年、妻のグドルンが急逝し、昨年9月、前妻の娘のエーファとグドルンとの間の娘の若いカテリーナの2人を共同の後継者とした。カテリーナが初めて演出した「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を私は2度も見る羽目になったが、私にはこの演出は何ともひどいものに思われた。賛否両論という見方もあるが、私は否の方が圧倒的に多いように思う。

 ハンス・ザックスにタイプライターを打たせるので、音楽を演奏しているときにカチャカシャというタイプを打つ音が何とも耳障りだったし、天井からものすごい数の靴を落とすといったことをする。意表を突く演出のつもりなのだろうが、これもその落下音が音楽をかき消してしまう。音楽を壊してしまって、およそオペラの演出とは言えないのだ。ヴォルフガンクはカテリーナに経歴をつけさせるためにこの演出をさせたようだが、これは芸術の私物化と言っても過言でない。そのカテリーナがバイロイトの総監督になるのだから、今後さまざまなトラブルが起こるのではないかと危惧もされる。

 ちょっと本から離れてしまったので戻るが、ヴィーラントについて女性関係が乱れていたとのかなり詳しい記述もあり、Oさんが言うように、これまでワーグナーファンの間にあったヴィーラント像が大きく変えられたということも付記しておこう。そんな驚きもあって、なかなか興味深い書ではある。(音楽の友社)


2009/04/22 Wed レザー・アスラン著、白須英子訳『変わるイスラーム 源流・進展・未来』

 イスラム世界は多くの日本人にとっては、最も遠いものではないだろうか。私が旅行したことのあるイスラム世界といえば、中国のシルクロード、新疆ウイグル自治区とトルコ、旧ソ連時代のウズベキスタンぐらいである。いずれも1980年代初めまでのことで、観光旅行であった。1974年、野間宏氏が議長をしていた日本アジア・アフリカ作家会議がパレスチナから作家や詩人を招いて日本アラブ文化連帯会議を開いたことがあった。当時、文芸を担当していた私はこの会議を取材し、大阪・広島まで彼らに同行した。第4次中東戦争の直後であった。詩人のダルウィッシュや劇作家のアドニスといった人たちの話を聞き、心情的にパレスティナに同情を覚えたが、今一つ遠い国という印象は免れなかった。

 旅行で訪れた地域では、いずれの地域でもイスラムの人たちに親近感を覚えた。特にウズベキスタンを旅行したのは1979年の夏のことで、タシケントやサマルカンドでの印象は今も深く残っている。この旅行はアジア・アフリカ作家会議のソビエト訪問団としてであった。モスクワ、レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)などにも行った。タシケントでウズベク作家同盟本部を表敬訪問した時のことだ。日本から作家代表団が来るというので、ウズベク人の詩人や作家も会見場にやって来た。しかし、作家同盟の幹部はほとんどがロシア人であった。会見で何か質問をしなければならなくなったので、私は「ソビエトでは失業はないと聞いていたが、タシケントの街を観光していたら浮浪者や乞食を見かけたが…」といった質問をした。すると、作家同盟幹部は「わが国には浮浪者や乞食はいない」と言下に否定したのだ。会見の部屋の周りの壁に沿ってウズベク人の作家たちが私たちを取り囲んで立っていたが、彼らの多くがにやりと笑って「何を言っているか。乞食はいっぱいいるではないか」という表情を見せたのだ。サマルカンドのバザールでは、朝鮮民族が多く、キムチなどを売っていた。話しかけると、スターリンによって沿海州から強制移住させられたのだった。

 ウズベキスタン人はイスラム教である。彼らはロシア人を嫌っているなというのが感じられた。そして現実を見え透いた嘘で否定するロシア人を見て、私はその時「この国は長くないな」と感じた。帰国して会社のソ連専門家に私の印象を話したが、彼らは「あの軍事大国のソ連が民族問題で崩壊することはあり得ない」とこれまた言下に否定した。しかし、それから10年後ソ連は崩壊した。私は20世紀末から21世紀にかけては民族問題が大きな課題となるだろうとあの旅行で予感した。

 長々と体験を書いてきたが、その体験を思い返してもわかりにくいのがイスラムの問題であった。大学時代のサークルの先輩である訳者の白須さんは、イスラム関係の翻訳が多い。そのいくつかを読んできたし、私が出版担当役員をしていたときには翻訳もお願いした。それでもなかなかイスラムについては分からないことが多い。白須さんの訳書で興味深かったのは「皇女セルマの遺言」という本である。オスマントルコの皇女がケマル・アタチュルクのトルコ近代国家建設で、レバノンに亡命し、さらにインドの藩王と結婚するが、その保守的な生活に耐え切れず、パリに居を移して不遇の中で亡くなるという話で、その皇女の娘だったか孫だったかの女性が書いた一代記である。この本でイスラムが他の宗教に対して寛容であることを知った。イスラムでは裕福な人は貧しい人に施しをすることが義務付けられているともいう。少しずつ、イスラムに対する見方が変わってきたが、そういう知識とタリバンや自爆テロを実行するイスラム原理主義とはあまりにかけ離れているとしか思われない。1979年のホメイニによるイラン革命とその後のイランにもわからないことが多い。

 この疑問を解いてくれたのが、この「変わるイスラーム」である。たいへん大部の本で、読み終えるのに2週間もかかってしまった。現在のイスラム原理主義がどうして生まれたのか。彼らの行動は預言者ムハンマドの思いとどうつながっているのか、あるいはつながっていないのか。それらをイスラムの歴史を綿密にたどりながら明かしてくれた。そして、20世紀になってから、イスラムの宗教改革ともいえる動きが出てきていることも明かされる。キリスト教の宗教改革が血みどろの闘争などで数百年かかって近代民主主義を生みだしたが、イスラムはいまその血みどろの闘争の中にいるのかもしれない。そして、そこから抜け出すカギの一つは、女性かもしれないと思った。これまでの私たちのイスラムに対する見方はあまりに一面的であったと感じた。(藤原書店刊)


2009/03/28 Sat 高橋英夫著『疾走するモーツァルト』

 この本は1987年5月20日に初版が出ている。そのころ私は文化部の記者をしていた。著者の高橋さんはドイツ文学者で文芸評論家でもある。1970年代に私は文芸を担当したことがあり、3年ほど高橋さんに新聞の文芸時評を執筆していただいた。その縁でその縁でこの本が出た時に恵贈を受けたのである。戴いた当時一度読んだが、あれから20年以上過ぎて読み直してみた。

 当時このタイトルにまず感心した。モーツァルトの曲には流れるような「疾走感」があるのは、聴けば誰でもわかることだ。しかし、「疾走」という表現はただそれだけではないだろう。あれだけたくさんの作品を書き遺して35歳という若さで亡くなったことも「疾走」という表現がふさわしい。

 といっても、この本はモーツァルトの伝記ではない。その音楽から何が読み取れるかを考察したものだ。その手掛かりとして、小林秀雄の評論「モオツァルト」を取り上げ、日本人のモーツァルト受容をいわば精神史として考察している。小林秀雄といえば、若き放浪時代の冬の夜に大阪・道頓堀を歩いていて、突然、ト短調のシンフォニーのテーマが頭の中で鳴り出したのに衝撃を受けたという話は有名だ。あの頃に比べて、その後の小林がより深くモーツァルトを理解しているだろうかと彼は自問している。その自問が著者にこの本を書かせたともいえるのではないか。

「モーツァルトの音楽の根底はかなしさだ」とスタンダールが言っている。この「かなしさ」はフランス語のtristesseで、小林によれば「涙を流すような悲しさ」ではないという。「モーツァルトとの散歩」で知られるアンリ・ゲオンは"tristesse allante"(疾走するかなしさ)と言った。この言葉に触発されて小林は「(モーツァルトの音楽は)涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に『万葉』の歌人が、その使用法をよく知っていた『かなし』という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家はモーツァルトの後にも先にもない」と書いている。私は若い時に読んだこの言葉が思い出された。

 モーツァルトを考える際、画家を引き合いに出す人が多いが、ゲーテはラファエロを、カール・バルトはボッティチェリを、小林秀雄はピエロ・デラ・フランチェスカを挙げているが、高橋さんはレオナルド・ダ・ヴィンチを挙げている。そして、その考え方には説得力を感じた。歌劇「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・エルヴィーラの意味や終幕で、ドン・ジョヴァンニが猛火の地獄へ落ちた後に置かれているダブル・フィナーレの考察など高橋氏の本には興味深い点が多い。(新潮社)


2009/03/04 Wed 高木凛著『沖縄独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子』

 照屋敏子(1915-1984)のことは沖縄の人から話には聞いていたが、詳しくは知らなかった。1月に援農隊とともに与那国島へ行った帰途、立ち寄った那覇の書店で平積みにされているを見て買った。帰京後バタバタしていて読む暇がなかったが、やっと読むことができた。

 大宅壮一が「沖縄に男あり」としてこの女傑を本土に紹介したことは知っていたが、この本を読んでシャンソン歌手の石井好子が彼女と親交を結び、彼女の言葉をテープに何本も保存していたことを知った。著者は石井好子から提供されたテープをもとに遺族や関係者を取材し、資料を渉猟してこの評伝を書きあげた。初版は2007年12月で、出てから1年以上過ぎている。この作品で著者は第14回小学館ノンフィクション大賞を受賞している。

 「女海賊」とか「女山田長政」とか言われた敏子は、その波乱万丈の生涯を見ていくと、やはり「女傑」としか言いようのないような女丈夫であった。糸満漁師の家に生まれ、幼くして両親と別れ、祖母のもとで育つが、7歳のころから魚を頭に載せて那覇に歩いて売りに行く日々を過ごしている。終戦直後には、福岡で船団を組み、その頭領として活躍している。戦後は一時、マライ(マレーシア)で商売を始めるが、無一文になって沖縄に戻り、クロコデールストアという店を始め、これが成功して、さまざまな事業に手を出す。彼女は常に「沖縄の自立」をめざしていたから、利益をすべて新しい事業につぎ込んだ。口は悪いが、人によって言葉を選ぶということをしない。

 この本を読んでいて、私は総じて沖縄の女性には自分の生まれ島に、敏子ほどではないが熱い情熱を抱く人が多いのに思い当たった。私が知っている与那国島出身の女性や那覇などで知り合った女性の中にも、そういう情熱を感じさせる人が何人かいる。こういう人は本土にもいるかもしれないが、お目にかかることは少ない。

 読んでいてやや引っかかったのは、著者は「沖縄独立を夢見た女傑」としているが、読んでいて彼女に「沖縄の自立」を求める感じはあるものの、「沖縄独立」というはっきりしたものは読み取れなかった。敏子と同じよう波乱に満ちた生涯を生きた「沖縄の女傑」ということでは、以前読んだ奥野修司著「ナツコ 沖縄密貿易の女王」(文春文庫)の方が私には感動が大きかった。これは金城夏子と照屋敏子を比較しているのではなく、ノンフィクションという表現ジャンルにおける描き方、追求の仕方の問題としてのことである。(小学館)


2009/01/04 Sun 再び「早稲田奉仕園百年史」

 足掛け4年編集に携わってきた「早稲田奉仕園百年史」が年末に完成したことは前に書いた。ボランティアでこの編集に参加して発見したことがいくつかあった。私にとって最も印象深かったのは、戦争中の諏訪町友愛学舎の舎監を務めた川口卯吉牧師のことである。川口は和歌山県の貧農の息子で、16歳の時に移民として米国にわたり働きながら苦学する中でキリスト教に出合い、神学を学んで神学博士号を取得、牧師となった人である。1916(大正5)年に帰国して、東京神学校(のちの関東学院大学神学部)の教授となった。

 1908年に友愛学舎を開設したベニンホフは1917年に奉仕園信交協会を創立した。これはキリスト教会であるが、彼は教会の名を嫌い、あえて協会と名づけた。上から教えるのではなく、十字架の下に3つの力を結集するという意味が込められている。光の力とは主なる神、子なるイエス・キリスト、そして聖霊ということであろうか。あるいは人間であるのかもしれない。漢字の「協」の文字をいたくベニンホフは気に入ったようだ。そして、この信交協会の牧師に前年帰国したばかりの川口を招いたのである。

 1940年にこの信交協会が奉仕園宗教部から切り離されて早稲田教会となったときには、川口はやはり牧師となっている。そして、1943年に早稲田奉仕園の敷地と建物が早稲田大学に移管されて、代わりに大学から提供された諏訪町の橋爪邸に友愛学舎が移転した折には、向谷容堂に代わって友愛学舎舎監となっている。向谷の盟友篠崎茂穂は1940年にベニンホフを批判して奉仕園と早稲田教会を離れ、信愛学舎舎監になっていたので、向谷は自分の後任を篠崎に頼むわけにはいかなかったのだ。

 川口は妻と小学生の息子を連れて友愛学舎に学生たちとともに住んだ。当時の舎生であった奈良信氏や中川経治氏らによると、毎朝の聖書研究、日曜日の早稲田教会の礼拝、水曜夜の祈祷会などを、この諏訪町友愛学舎で続けた。そして、友愛学舎の生活はまさにクリスチャンホームそのものであったという。そして、アメリカに詳しい川口は「この戦争は間違いだ。日本は必ずアメリカに負ける」と舎生たちに語り、今はその時に備えて祈りの生活を続けようと語った。1945年4月13日には米軍の空襲で友愛学舎にも焼夷弾の破片が落ち、奈良や駆けつけた植松健一氏らが用意した水で消し止めて友愛学舎を守った話は有名だ。この日、川口は疎開する妻子を送って郷里へ出かけていて留守だった。その後、奈良ら舎生の勧めもあって、6月には川口自身も妻子のもとへ疎開した。

 この諏訪町時代の友愛学舎の生活は、空襲下にあって戦争の間違いを思いながらキリスト教の灯を守る生活だったのだ。これは当時の時代の空気を思うと瞠目すべきことだったと思われる。戦争に異を唱えることは即「非国民」とみなされる危険なことであったからだ。事実、そういう川口の思いを日曜礼拝の説教などではあからさまには言わないまでも、それを感じ取った参会者から批判的な声も聞かれたという。

 聖戦を信じた向谷は終戦後の復興早稲田教会の第1回礼拝で、あの戦争を聖戦と信じ、誤った思いを抱いたことを説教で自ら反省した。私はそんな向谷を批判する気にはなれないが、他方で川口のような人を舎監にもったことは、今となれば奉仕園の歴史に尊敬の念を抱き、誇りでもあったという思いを改めて抱く。だが、戦後の奉仕園はこの川口の存在を正当に評価することはなかったように思う。私は大学時代の友愛学舎での4年間に川口について聞いたことがなかったからだ。諏訪町友愛学舎は戦火の中でキリスト教の灯を守ったことは学生時代に聞いたことがあったが、川口の名を聞くことがなかった。これはどうしたことだろうか。

 ベニンホフは多くの友愛学舎の舎生OBをアメリカに留学させたが、そのほとんどが帰国後、奉仕園から離れている。移民として渡米してキリスト教の信仰を得た川口は、ベニンホフの志を継いで友愛学舎を友愛学舎たらしめたのである。ベニンホフは川口の人格をよく見ていたのだと私は思う。終戦直後、川口は奉仕園に戻りたかったようだが、奉仕園は彼が疎開した時点で関係が切れたとして、復帰を拒否している。「抹殺」とは言わないまでも、奉仕園史からほとんど消えてしまった。彼はその後、大阪のロゴス英語学校の校長、さらには関東学院大学教授などを務め、奉仕園とつながりを持つことはなかった。その川口卯吉を再評価し、光を当てたことは、今回の「百年史」の大きな成果と私は考えている。

 それから先の信交協会の名簿に杉原千畝の名があることについてである。杉原は第2次大戦中にリトアニアの領事館公使として、ナチスから逃れてきたユダヤ人6000人にビザを発給して「日本のシンドラー」として戦後有名になった人である。彼が信交協会に出席していたことは名簿の名から事実であるが、この名を発見したことで、もし早稲田奉仕園側に彼の名声にいくらか擦り寄ろうとしているふしがあるとすれば、これは戒めねばならない。彼はその後間もなく早稲田を中退し、信交協会に参加した期間もほんのわずかで短かったようだ。名簿の名前以外に彼が奉仕園に残したものは今のところない。信交協会が彼にどれほどの影響を及ぼしたかについても推測することさえできない。奉仕園の中で若き日の杉原について過去に語られてきたとも聞いていない。杉原はその後大陸に渡り、ハルビンでロシア正教に改宗したといわれる。杉原についてはこれからの調査が期待される段階であると私は思っている。


2008/12/26 Fri 早稲田奉仕園百年史編集委員会編「早稲田奉仕園百年史」

 足掛け4年がかりで編集に携わってきた「早稲田奉仕園百年史」が完成して、この日、納品されるというので、正午に編集関係者が集まった。868ページの大冊である。私は大学時代の4年間をここのキリスト教の寄宿舎「友愛学舎」で過ごした。赤レンガの洋館2階建て、半地下1階の蔦の絡まる瀟洒な建物だった。「だった」と過去形で書いたのは、今はこの建物がないからである。新宿区西早稲田(旧戸塚2丁目)の奉仕園には、当時の建物としては東京都の歴史的建造物に指定されているスコットホールが残るだけで、あとはすべてコンクリートのビルになってしまった。

 私はこの百年史で郷里の先輩でもあり、戦前から戦後1963年まで総主事を務めた故向谷容堂さんの評伝を書いたほか、編集に当たっては1000枚を超える原稿を4回以上読んで、校正もした。 奉仕園の歴史を簡単に説明すると、1907年に米国バプテストミッションの宣教師と来日し、当時の東京学院(現在の関東学院)の教授として教えていたハリー・バクスター・ベニンホフが創立した。築地に住んでいたある日、ベニンホフが電車を降りると、早稲田の学生が声をかけてきて、英語を勉強したいから、秘書をやらせてほしいと言った。ベニンホフは秘書は必要ないので断ったのだが、学生は自宅に押しかけてきて、英会話を教えてほしいと言い、自宅の小屋を掃除してそこで英語の勉強をすることになった。学生は数人の仲間を集めてきて一緒に学び始めた。英語によるバイブルクラスで、学生たちはこれを3Lクラブと名づけた。3LとはLoyalty、Liberty、Loveの頭文字である。

 当時、早稲田鶴巻町のYMCA学生寮に早稲田をはじめとした大学生が住んでいた。ところが、ある事情でこの寮が閉鎖されることになった。それに反対する学生たちがキリスト者であった安部磯雄教授に訴えた。ベニンホフは早稲田に非常勤講師として出講していた。安倍はベニンホフに相談すると、ベニンホフは寮を自分が引き受けると応えた。ところで、ベニンホフは早稲田の創立者の大隈重信に会った際に、大隈から、早稲田の学生が米国の大学と同じような環境で生活できる環境を作ってほしいと依頼されたという話がある。それが何時のことかはっきりしないが、そのことも関係しているようだ。

 ベニンホフはバプテスト・ミッションに話して、鶴巻町のYMCA寮を譲り受け、1908年11月3日に「友愛学舎」と名づけて寄宿舎経営をスタートさせた。ここにはそれまでの寮生と3Lの学生たちが入舎した。これが友愛学舎の始まりである。この時の舎生に後に児童文学者となる坪田譲治らがいた。鶴巻町の友愛学舎は下宿屋に毛の生えたような建物で、ベニンホフはこれでは米国でのような学生生活を味わうことはできないと考え、再び米国バプテスト・ミッションに交渉して資金援助を受けて、3年後の1911年に、牛込弁天町に木造だが、洋風の友愛学舎と宣教師館を建設して、こちらに移転した。敷地にはテニスコートもあった。その後、ベニンホフは現在の西早稲田の地に土地を買い、シカゴのデパート経営者の未亡人であったスコット夫人らの5万ドルの寄付により、1921年に教会堂と集会室を持つスコットホールを建設、さらにのちの友愛学舎や宣教師館を相次いで建設した。これらの建物は1923年の関東大震災ではわずかの被害しか受けなかった。

 しかし、バプテスト系の東京の教会の多くが被災で建物が壊れたために、弁天町友愛学舎を売却して各教会の復興資金に充てた。そこで友愛学舎は西早稲田に全面的に移り、早稲田奉仕園が誕生したのである。安部磯雄教授はベニンホフに終始協力した。弁天町時代には、のちに早大総長となる阿部賢一や東京経済大学長となる北澤新次郎らがいた。戸塚の友愛にはソニーの創設者の井深大などがいた。ほかにも友愛学舎からは早稲田の教授陣を多数輩出している。

 1941年3月、戦時色が濃くなる中でベニンホフが米国に引き揚げることになり、その後を継いだのが向谷容堂であった。彼は商学部を卒業すると同時に、庶務会計主任として奉仕園に就職した。職員の多くがベニンホフの世話で米国に留学したが、向谷は地味な仕事を誠実にこなした。留学組の多くがベニンホフと衝突したりして奉仕園を去ったなかで、最後に残ったのが向谷だった。

 だが、日米戦争が始まると、奉仕園の土地建物が陸軍に接収されるという噂がたちはじめた。安倍が初代理事長を務めたが、安倍の衆院議員立候補で理事長を辞めた後、大型テレビの開発などで知られる電気工学の権威で理工学部長だった山本忠興が第2代理事長を務め、山本は陸軍に接収されるよりは奉仕園を早大に移管したほうが良いと考えて、早稲田に石油工学科をつくることにし、それを実現した。友愛学舎は早大が用意した諏訪町の日本家屋、橋爪侯爵邸に移転した。この時に友愛学舎の舎監となったのは、弁天町時代にベニンホフが奉仕園信交協会の初代牧師として招いた川口卯吉であった。

 川口は妻子とともに友愛に舎生とともに住み、いわばクリスチャンホームと言ってもよい友愛生活を始めた。だが、舎生は学徒動員や勤労動員に取られていく中で、聖書に基づく祈りの生活を続けた。川口は和歌山県の貧農の息子で、16歳の時に移民として米国にわたり、そこでキリスト教に出合い、神学校に進んで神学博士号を取得している。帰国後は関東学院神学校の教師を務めていたのだが、ベニンホフは川口の人格を買って信交協会の牧師に招いたのだった。川口はその後、早稲田教会の牧師も務めていた。米国をよく知る川口は、友愛学舎の学生たちに「日本が米国に勝つことはできない。この戦争は間違っている」と説き、祈りの生活によってこの時代を生き抜こうと説いた。だが、敗色が濃くなると、1945年6月、舎生らの勧めで川口先に疎開して妻子の下へ川口も疎開するように勧め、彼は大阪府熊取町に疎開した。

 そして、8月15日の敗戦。向谷は友愛以来の友である篠崎茂穂とともに早稲田教会を再興する。そして、48年には早稲田大学と交渉して、戸塚の奉仕園を大学から返還させた。ベニンホフの帰米以来。不在だった宣教師を米国から招き、奉仕園内に友愛学舎だけでなく、学生会を組織してさまざまな活動が始まり、早稲田奉仕園はキリスト教学生センターとしての活動が始まり、発展していく。私は学生会活動の最盛期の最後の頃に友愛学舎で過ごした。卒業後すぐの1965年末に起きたのが第1次早大紛争である。このあと、学園紛争が全国に広がっていく過程で、早稲田奉仕園も影響を受ける。

 日本の高度成長に伴って、米国のバプテスト・ミッションからの資金援助は打ち切られることになり、そのために友愛学舎や宣教師館が建つ敷地の半分を売却して日本キリスト教会館とアバコが建設された。その売却収入をもとに新しい友愛学舎やセミナーハウスを建設、奉仕園の組織も、それまでの「人格なき社団」から「財団法人」に移行した。70年代半ばから学生会活動はは次第に衰退し、財団の事業も外国語講座など収入を目的にしたものに移っていく。一方で海外からの留学生の受け入れを増やす早稲田大学の意向を受け、同時に早大の協力を得て留学生の宿舎を建設して受け入れ態勢を整えていくことになる。こういう時代の流れの中で、奉仕園は百年を迎え、次世紀にどういう方向に進んでいくべきかが問われている。そういう問題提起も百年史には込めたつもりである。(財団法人早稲田奉仕園刊・非売品)


2008/11/26 Wed 最近読んだ本

 しばらく読んだ本のことを書かなかった。この間読んだ本の題名だけを挙げておく。ヨハン・ニコラウス・フォルケル著、柴田治三郎訳「バッハの生涯と芸術」(岩波文庫)礒山雅著「モーツァルト・二つの顔」(講談社)、アッティラ・チャンバイ、ディートマル・ホラント編「ワーグナー『パルジファル』」(音楽の友社)、フィリップ・ゴトフロワ著、三宅幸夫訳「ワーグナー・祝祭の魔術師」(創元社)、フィリップ・ナイトリー著、芳地昌三訳「戦争報道の内幕・隠された真実」(中公文庫)、谷川健一著「魔の系譜」(講談社学術文庫)、荒このみ著「歌姫あるいは闘士・ジョセフィン・ベイカー」(講談社)、鶴見俊輔著「悼詞」(編集グループSURE)、川上和久著「イラク戦争と情報操作」(宝島社新書)、有山輝雄著「『中立』新聞の形成」(世界思想社)。マスコミ関係が多いのは大学の「マスコミ論」の授業の参考のため。ワーグナー関係はこの夏のバイロイト旅行のため。


2008/11/07 Fri 荒このみ著『歌姫あるいは闘士ジョセフィン・ベイカー』

 記者時代の元同僚から紹介されたアメリカ文学者の荒このみさんからいただいた著書「歌姫あるいは闘士ジョセフィン・ベイカー」を読んでいたら、先日の米大統領選挙で当選したオバマ氏が勝利宣言の演説で強調していたのと同じ主旨の言葉が出てきた。初の黒人大統領の誕生という歴史的な結果の直後だったために、こういう時期にこの言葉に出合ったことに、ある種感動さえ覚えた。

 1951年1月、ジョセフィン・ベイカーは米マイアミのナイトクラブ、コパシティ・シアターで公演した。同シアターの公演には黒人が入場することがでいなかった。当時の南部のフロリダ州では黒人差別は禁止されてはいなかった。だが、黒人のジョセフィンは、公演契約の際に差別禁止を絶対条件にしていた。そして、この公演は黒人の観客にも開放されたのだった。この公演で、ジョセフィンは白人と黒人が入り混じっている観客席に語りかけた。

 「今日は私の人生で最も重要な日です。生まれ故郷の国で26年ぶりに初めて……これまで帰ってきても……駄目だったのです。今日はそんなことはすべて過去のことになりました。嬉しさをどう表したらいいでしょう。っこでこの町で私は人々のために歌うことができるのです。皆さんと握手することができるのです。今日は私たちにとって特別な日です。私たち、というのは、すべての人間にとってという意味です」

 荒さんは、この言葉について次のように書いている。「劇場が黒人の観客にも開放されたこの日は、たしかに黒人にとっての喜びの日であるばかりでなく、開放を成し遂げた白人を含む全人類の喜びの日だった。ジョセフィン・ベイカーが偉大なのは、白人と黒人という二項対立的発想をしないことである。あらゆる人間が対象なのであり、あらゆる人間が結びつき合わねばならない。その思いは生涯揺らぐことはなかった」。
 オバマ次期大統領は勝利宣言で、ジョセフィン・ベイカーと同じことを語っていたのが私には印象に深く残った。

 このことと直接、関係はないが、ジョセフィン・ベイカーは、エリザベス・サンダースホームの澤田美喜とパリで知り合い、親しくした。彼女はサンダースホームにいた日本人孤児2人を養子にした。その話もこの本には書かれているが、澤田美喜の夫君の澤田廉三は戦後初代の国連大使を務めたが、彼は私の郷里に近い兵庫県浜坂町の出身である。彼がジョセフィン・ベイカーについて文章を多くの書いていることをこの本で初めて知った。(講談社)


2008/06/24 Tue 内山節著『日本人はなぜキツネにだまされ亡くなったのか』

 大学で「マスコミ論」を講じているので、マスコミ関係の本を読むことが多い。近年、マスコミ企業が巨大化して、それ自体が“一つの権力”とも見られるようになっているので、マスコミ批判の新刊本が毎月のように出版されている。それらのすべてを追いかけている時間もないので、選んで読むことになる。最近では鈴木哲夫著『政党が操る選挙報道』(集英社新書)などを読んだ。また、マスコミ批判ではないが、報道写真を論じた今橋映子著『フォト・リテラシー』(中公新書)が面白かった。マスコミ以外では芥川龍之介の『奉教人の死』(新潮文庫)を読み直したりした。マスコミ以外では内山節著『日本人はなぜキツネにだまされ亡くなったのか』(講談社現代新書)が特に面白かった。

 内山さんの名は知っていたが、彼の著作を読んだことはなかった。信濃毎日新聞にエッセーを長期間連載していて、時々拾い読みをしたぐらいであった。この春、友人の映画監督小栗康平さんの作品が東中野の小劇場ポレポレで連続上映された際、小栗さんと内山さんが会場で対談するというので聴きに行った。時間論というようなちょっと難しい話になってしまったが、興味深くはあった。対談の後、近くの中華料理屋で小栗さんの仲間に内山さんも加わり、私も同席して短い時間飲んだことがあった。

 対談で内山さんはマカロニウエスタンが好きでほぼ全作を見ていると言っていたのが印象に残っている。内山さんは大学を出ていないユニークな哲学者である。1年の半分ずつを東京と群馬県の山村上野村で過ごしている。釣り好きでもあり、ヤマメの毛鉤釣りが好きなのだそうだが、いわゆる釣り好きではないと言う。山里で暮らしながら歴史や文化を思索するのである。この本もそんな暮らしの中での日本文化の考察である。

 日本の各地で昔は「キツネにだまされた」という話をよく聞いたものだ。私も子供のころ但馬の田舎町で育ったが、親の郷里に行った時にそんな話を何度か聞いた覚えがある。このキツネにだまされるという話がいつの頃からか聞かなくなった。内山さんはそれが1965年ごろからのことだと言う。本当にキツネにだまされたかどうかではない。そういうことが語られる日本の山村の暮らしとは何だったのか、そういう話が生まれる日本人の世界観、歴史観、自然観をこの話をきっかけにして考察していくのである。その展開が私には興味深くもあり面白くもあったのである。内山さんはほとんど哲学者にありがちな難解な専門用語を使わない。しかし、語っている内容はかなり高度の歴史哲学であり、日本人の精神の核心に触れるものであった。


2008/05/11 Sun フョードル・ドストエフスキー著、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』(全5巻)

 S様 N様

 亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」は、1月に援農隊と与那国島へ行く前に全5巻を買い求め、10日間の沖縄旅行中に読破しようと、羽田への電車内で読み始め、飛行機の中、島の民宿でも寝る前に読んだものの、ついにかなわず、帰京してからは長い休暇だというのに、何かと気をそがれ、読み終わったのは4月になってからでした。

 大学時代に米川正夫訳で読み、卒業してからは、小沼文彦訳、原卓也訳も買い、ミハイル・バフチンの研究書も買った記憶がありますが、今では倉庫のような我が家のどこに隠れてしまったか分からない状態です。

 原卓也訳はバフチンの研究成果を最初に取り入れたもので、当時大変注目され、内容は忘れましたが、東京外大学長だった原さんに滝野川の学長室でインタビューした記憶があります。今の学長が亀山さんなのも奇遇ですね。もっとも、二葉亭いらいロシア文学者が東外大では活躍しているわけですから、これぞ東外大の本来の姿なのかもしれません。

 亀山訳は、面倒な長ったらしいロシア人の名前が省略されていて読みやすかったです。永島さんは、亀山さんの市民講座を聴講されたとか。亀山さんは先ごろ、NHKテレビ「知るを楽しむ」で「悲劇のロシア」と題して4回シリーズで出ていましたね。今も再放送中です。取り上げているのはドストエフスキーだけではありませんが。

 ちなみに、この「知るを楽しむ」という番組は大変面白いです。先日は天野祐吉さんが生誕百年を迎えた「カラヤン」の時代的意味を、やはり4回連続で話していましたし、瀬戸内寂聴さんは源氏物語千年で「源氏物語の男君たち」を今8回連続でやっている最中です。また夭折した天才ピアニスト「グレン・グールド」(彼のレコードは友愛時代によく聴きました)についても放送中。ほかにも「字統」「字源」などの漢字学者「白川静論」とか、異才の写真家「荒木経惟」とかを取り上げていて、私の大好きな番組です。一回25分というのもいいです。

 私が1月に「カラマーゾフ」を数十年ぶりに読もうと思い立ったのは、亀山さんの新訳が評判だということもありましたが、昨年12月に友愛の先輩の浦川行見さんが亡くなったこともありました。彼は悪魔的な感じさえする天才肌の人で、私は友愛時代に浦川さんをイワン・カラマーゾフに重ねて見ていて、もう一度読むことでその考えが正しかったかどうかを、この年になって確かめてみたいと思ったからでした。結論を言えば、半分正しく、半分間違っていました。浦川さんについては、このホームページの「寥川亭随筆」2007年12月11日に書いています。

 ところで、読書会ですが、時間があれば出たいのですが、月−木は仕事でだめで、金曜日は奉仕園百年史の編集会議やその他の会合がはいることが多く、残念です。盛会を祈ります。(光文社文庫)


2008/01/09 Wed 中川右介著『カラヤンとフルトヴェングラー』

 二人はどちらもクラシック界最高のオーケストラ、ベルリン・フィルの常任指揮者を務めた世界的な指揮者である。しかし、二人はともに反目し合っていた。そう言えば、フルトヴェングラー・ファンからは「それは違う」と言われるかもしれない。フルトヴェングラー派から見れば「カラヤンは到底彼の比ではない」という思いもあるかもしれない。しかし、日本ではカラヤンの方が圧倒的に人気があった。世界的に見ても、「クラシック界の帝王」として君臨したのはカラヤンである。

 二人に共通する点は、どちらもヒトラーのナチスと深いつながりがあったことだ。これもフルトヴェングラー・ファンには異議があるかもしれない。カラヤンはナチス党員だったが、フルトヴェングラーは党員ではなかったからだ。だが、ナチスとの関係を持たずにナチス政権下のドイツで音楽活動をすることはできなかった。フルトヴェングラーはヒトラーが嫌いだったようだ。だが、ヒトラーはクラシック音楽をナチズムによるドイツ統治に利用した。その象徴的な存在がベルリン・フィルであった。ヒトラー政権下で彼はそのベルリン・フィルの常任指揮者だったのだ。

 この本は、この二人の音楽を通しての相克を手紙などの資料をもとに追及したものだ。読んでいてとても興味深い。(幻冬舎新書)


2007/12/25 Tue 佐藤優著『国家の罠−外務省のラスプーチンと呼ばれて』

 2年前に単行本で出たときに話題になったが、文庫化されて読んだ。鈴木宗男と一緒になって北方領土返還の陰で外務省を食い物にしたとして逮捕された外務官僚の手記である。読んでみて、大変よい本だと思った。マスコミで彼のことが報道されたときに、この人が同志社大学神学部を出て、大学院でも神学を学んだと聞いて「そんな人がなぜ」と興味を抱いていたのである。

 この本の中で著者は、鈴木宗男とこの人にかかわる東京地検特捜部の捜査は「国策捜査」だと言っている。「国策捜査」とは、「現下の政官の関係を摘発、断罪し検察官のことばでいうところの『時代のけじめ』をつけるため」に、「初めに事件ありき」ではなく、ターゲットに定めた政治家なり官僚なり、民間人なりの小さな事件を探し出して、“別件逮捕”してその人物を葬ることであると言ってよいだろう。

 そこで、鈴木宗男と佐藤優がターゲットにされた理由を、著者は拘置所の中で考える。そこで彼は「現在の日本では、内政におけるケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜分配路線への転換、外交における地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換という二つの線で『時代のけじめ』をつける必要があり、その線が交錯するところに鈴木宗男氏がいるので、どうも国策捜査の対象になったのではないか」と見る。そして「小泉政権の成立後、日本の国家政策は内政、外交の面で大きく変化した。森政権と小泉政権は、人脈的には清和会という共通の母体から生まれてはいるが、基本政策には大きな断絶がある。内政上の変化は、競争原理を強化し、日本経済を活性化し、国力を強化することである。外交上の変化は、日本人の国家意識、民族意識の強化である。」という。

 「この二つの変化は、日本国家体制の根幹にかかわる構造的変革」を求める。しかも、この二つは相反する方向を求めるものでもあるので、この構造的改革の実行に際しては大きな軋轢を生み出すことになる。「この路線転換を完遂するためにはパラダイム変換が必要とされる」。そして「鈴木宗男氏は、ひとことで言えば『政治権力をカネに替える腐敗政治家』として断罪された」が、「鈴木氏の機能は、構造的に経済的に弱い地域の声を汲み上げ、それを政治に反映させ、公平配分を担保することだった。」という。そこで小泉政権としては「地方を大切にすると経済が弱体化する」とか「公平配分をやめて金持ちを優遇する傾斜配分に転換するのが国益だ」とは言えないから、鈴木宗男型の「腐敗・汚職政治と断絶する」というスローガンを掲げて国民の拍手喝采を受けようとしたと言うのだ。

 実際の鈴木氏そのようなイメージとは程遠く、北方領土返還問題に対してどのように真剣に対応してきたかは、そばにいた佐藤氏がよく知っている。だから、逆に言えば、佐藤氏の“共犯”とされたのだ。鈴木氏も佐藤氏も、小渕、森、橋本政権で2000年までに北方領土返還を決めて日露平和条約を結ぶという、それまでの日本政府の目標に対して真剣で必死の努力をしてきたことを、この本は強調している。そこにあるのはよい意味での愛国者としての姿である。しかし、小泉政権になって北方領土問題は尻つぼみになった。その根底には、日本政府の根本的な方針変換があった。それを国民は理解せず、表面的な宣伝に踊らされ、マスコミもその尻馬に載って、鈴木断罪を煽った。検察庁はそんな国民の期待を受けて、鈴木・佐藤の断罪に踏み切ったのである。

 これは先の姉歯秀次の耐震強度不足による建築基準法違反事件に絡む木村建設やイーホームスなどの事件とも通じるものがある。それは、事実がどうであるかに関係になく、マスコミがつくった事件のストーリーを、検察がなぞって事件をつくる捜査である。それすれば国民が納得すると考えて、ありもしない事件を創作することにもつながりかねない。このことに今のマスコミは非常に鈍感になっていることを痛感する。(新潮文庫)


2007/11/15 Thu 金平茂紀著『テレビニュースは終わらない』

 著者はかつてTBSの「筑紫哲也ニュース23」のデスクを務め、ソ連崩壊時からそのあとにはモスクワ特派員を、イラク戦争開戦前後にはワシントン特派員をして筑紫氏の番組にもよく登場したから、顔を覚えている人もいるだろう。現在は同社の報道局長を務めている。民放テレビの報道畑を歩いてきた人だけに、今の日本の民放テレビの報道については、その内情に通じている。

 1960年代には「報道のTBS」と言われた時代もあったが、その後のTBSは報道面で不祥事も続き、その最大のものはオウム真理教の坂本弁護士一家殺害事件であった。TBSがオウム被害者のための活動を行っていた坂本弁護士にインタビュー取材したのだが、そのVTRをTBSの担当者がオウムの幹部に事前に見せたあと、坂本弁護士一家が行方不明になり、その後、長野県の山中で遺体となって発見された事件である。

 これは、報道者が取材した材料は報道のために以外には使ってはならないという、報道に携わる者として最も基本的な常識を逸脱した行為であった。それをTBSはやってしまったのだ。これは報道がオウム真理教に加担してしまったに等しい行為であった。それからの日本のテレビのニュース報道は、どんどん市民の立場から離れていって、視聴者である国民の信頼を失ってしまっている。

 こういうテレビ報道の潮流の中で、金平氏はなんとかテレビ報道を回復できないかと思い、書いたのが本書である。イラク戦争勃発前後からワシントンに勤務したことで、本書の中心はイラク戦争の報道、それも日米のテレビ報道の実態を通して考察を進めている。耳を傾けるべき興味深い考察や米国テレビと政治との関係などの知見など、日本にいては知りえない情報もあって、なかなか興味深い論になっている。

 ただ彼の結論は特別目新しいものではない。もちろん目新しいことが必要なのではないが、少々観念的でもあり、悲観的な状況に比べて目指すところは楽観的でもある。読者としての私が知りたいのは、巨大化し、商業主義が極度に高じてしまった民放テレビ、なかでもTBSの報道局長であるならTBSをどう、かつての「報道のTBS」にしようとしているのかにも言及してほしかった。(集英社新書)


2007/11/07 Wed 榊原英資著『幼児化する日本社会−拝金主義と反知性主義』

 いったい、近ごろの日本はどうなっているんだろう、と思うことが多い。この社会の何もかもが狂っているのではないか、と嘆く人は多いのではないか。食品会社の産地偽装、賞味期限の改ざん、それも有名な老舗から大手まで広がっている。ガス湯沸かし器の大手企業は、一酸化炭素中毒で何人もの死者が出ているのに何の手も打たない。一級建築士が設計図を耐震偽装し、その検査を見逃す検査会社のずさんさ、国民の安全を使命とする防衛庁の事務次官が軍需商社と癒着してゴルフ三昧。官僚が天下った官庁の外郭団体と業者の癒着も目に余るものがある。親がわが子を殺したり、幼い子どもが凶悪な殺人事件を起こす。子どものいじめもなくなるどころか、陰湿化が進んでいる。振り込め詐欺、偽請求書を起こりつけて金を騙し取る。強盗を捕らえてみれば警察官ということも少なくない。

 若い人に目を向けると、大方の大学生は本を読まなくなっているし、コミュニケーションがとれずに家に引きこもり、ニートとして仕事もせずに親の世話になっている。卑近な例では、電車に乗れば若い女性たちが他の乗客も顧みずに化粧に専念している。とにかく日本はどこかおかしい。狂っている。

 元大蔵省財務官の著者は、早稲田大学教授で学生に接している人だから、この人の今の日本社会に抱いている見方は私にもよく分かる。

 いい大人も若い人も含めて、ものの見方も白か黒かの二分割思考が多い。そこからいじめも生まれる。多くの物事は白か黒かで決め付けることのできない灰色の部分があるのだが、そこまで頭が回らない。またすべてことに必ず答えがあるとは限らない。むしろ正解のないことの方が多いともいえる。だが、そんなことにも正解があるはずだと思いがちでもある。若者や子供がこういった考え方を持つのは、大人自身がそういうふうに考えているからで、大人の精神状況の反映ではある。

 最近の日本社会はパソコンやインターネットといった新しいテクノロジーの登場や米国の自由市場主義経済の急激な流入とグローバル化で、たしかに急激な変動期にある。何でもかでも規制を緩和してあちこちで混乱が起きている。そのために企業や一般社会でモラルハザードが起きてしまっているわけだ。反社会的な行為が蔓延している。そんな日本について、榊原氏は「政治、マスメディア、企業と日本の屋台骨が次第に腐ってきてしまっているのではないだろうか」という。そして、いったいどこで日本社会の歯車が狂ってしまったのかを、幅広い視点で考察している。

 この視点で、著者は、テレビを中心としたマスメディアの軽薄な番組作りと報道に大きな原因があるという。日本ほどひどいテレビ番組の低俗化は外国では見られない。政治家がテレビ番組でお笑いタレント一緒になって馬鹿騒ぎをしているのは日本ぐらいだ。私も大学でマスコミ論を講じており、この人の指摘には同感するところが多い。本書では「子どもの世界は大人の鏡」「家族の変質」「教育の混乱」「企業倫理の崩壊」「マスメディアの堕落」「規制緩和と地方分権の落とし穴」「地方の瓦解」「二分割思考は知的退行」といったテーマに分けて論じている。タイトルを見ただけでこの人がどういう問題意識を持っているかが分かるだろう。(東洋経済新報社)


2007/10/25 Thu 備仲臣道著『司馬遼太郎と朝鮮』

 備仲さんの本は、この欄で数冊を取り上げているが、このほど上記の新著を恵贈いただいて、早速読んだ。サブタイトルに『「坂の上の雲」−もう一つの読み方』とある。はっきり言えば、司馬遼太郎の朝鮮観に対する批判の書である。

 備仲さんが司馬さんと直接の面識があったかどうかは知らない。だが、備仲さんと司馬さんとは直接面識があってもおかしくないつながりがある。それは京都の高麗美術館である。高麗美術館は、京都の在日朝鮮人実業家、故鄭詔文氏が私財を投じてコレクションした朝鮮の文物を寄付することで設立された財団法人の美術館である。1988年秋に開館したが、その3ヵ月後に鄭さんは亡くなった。高麗美術館の玄関の揮毫は司馬さんである。備仲さんは、この高麗美術館の館報にエッセーを連載していたし、その前には『蘇る朝鮮文化』という鄭詔文氏の伝記を出版している。  鄭氏は高麗美術館を設立する前に、1969年、京都に朝鮮文化社を設立し、季刊雑誌『日本のなかの朝鮮文化』を発行していた。この雑誌は、同名の長編紀行を書いていた作家の故金達寿氏らを編集委員にしてスタートした。雑誌の編集人は詔文氏の兄で作家の故鄭貴文さんであった。

 貴文さんは、司馬さんと同じ東大阪市に住んでいて面識があったことから、司馬さんはこの雑誌の支援をすることになった。司馬さんのほかにも京都の文化人が数多くこの雑誌の支援にかかわった。京都の歴史学者では、林屋辰三郎、有光教一、上田正昭、森浩一氏らであり、ほかには岡部伊都子、鶴見俊輔氏らである。私自身は1970年代の初めにこの雑誌を取材した縁で、ボランティアで編集を手伝った。朝鮮文化社は、各地の朝鮮にかかかわる遺跡めぐりツアーを開催し、私はこれに同行して、同行記を同誌に書かせてもらった。司馬さんとは、私自身も記者としての仕事の上はもちろん、朝鮮文化社でのつながりがあった。

 私が備仲さんと最初に会ったのは、この遺跡めぐりツアーで山梨を訪れたときで、鄭さんらとともに会ったのだったと思う。高麗美術館と鄭詔文氏については「交友閑語」の「鄭詔文さんの思い出」に書いたので、そちらをご覧いただきたい。

 さて、備仲さんの司馬遼太郎批判だが、私自身も備仲さんと同じような疑問を抱いていた。司馬さんに名作の誉れ高い『故郷忘じがたく候』という作品がある。鹿児島・苗代川の薩摩焼きの陶芸家沈寿官さんの半生を描いたものだ。代々、沈寿官を名乗ってきたが、この沈氏の祖先は、秀吉の朝鮮侵攻で「拉致」されてきた朝鮮の陶工である。その沈氏が日本を代表する高名な陶芸家として名を成し、400年ぶりに祖国韓国に渡る。朝鮮の陶工の末裔であることを誇りに思い、400年抱き続けた祖国への思いの深さを描いた小説である。

 この作品のなかで、司馬さんは、日本による朝鮮支配を「たかが三十余年」と書いたのである。備仲さんはこの言葉に許せないものを感じたのだ。司馬さんは鄭さん兄弟ら在日朝鮮人と親しくし、その文化活動を支援しながら、一方でこういう言葉を記すのは、歴史に誠実に対しようとする日本人の言うべき言葉ではないというわけだ。

 そして、「坂の上の雲」に描かれた朝鮮観、日露戦争の評価、朝鮮を植民地化していく過程の司馬さんの歴史認識などを厳しく批判していくのである。そこには「朝鮮蔑視・日本優位の国家観」が潜んでいると断じる。司馬さんが、明治という時代に対してある種、憧憬ともいえる見方をし、日露戦争を祖国防衛戦争として肯定的に評価していることはよく知られている。そこまではよかったが、その後、日本が狂い始めて1910年の日韓併合に進み、さらに昭和の敗戦にいたるという日露戦争までとその後の日本とを別のものとする歴史観である。しかし、備仲さんは、この司馬さんの歴史観を厳しく批判する。日露戦争こそが朝鮮を支配下に収める目的の帝国主義戦争であったというわけである。これはやはり備仲さんの指摘にうなずかざるを得ない。

 司馬遼太郎の矛盾をどう捉えるか。これは大事な問題提起である。備仲さんはこの本のなかでロシア革命についてもかなりの紙数を費やして論じている。もちろん司馬さんの歴史観への批判のためであるが、これは民衆というものをどう捉えるかにかかわる議論としての意味を持っている。歴史を見る場合、民衆の視点というのが基本的に持たれなければならない。しかし、書かれた歴史というものは権力の側に立っていることが多い。そこに取り込まれることを厳しく自戒しながらなされるべきなのだが、司馬史観の中にも、権力側の視点が入り込んでいるのではないかと思われる。(批評社)


2007/10/23 Tue 最近読んだ本

 このところ、この欄にあまり書かなくっていた。5月に高杉良氏の『乱気流』のあとは2冊についてしか書いていない。だが、本を読んでいなかったわけではない。読み終わって書斎に雑然と積んである本を挙げてみると、河内孝著『新聞社−破綻したビジネスモデル』(新潮新書)、魚住昭著『国家とメディア』(ちくま文庫)、ジョセフ・ジャフィ著・西脇千賀子ほか訳『テレビCM崩壊』(翔泳社)、斎藤善久著『ひらめきのマジック』(ボイジャー)、篠崎茂穂先生記念文集刊行会編『篠崎茂穂−人と信仰』などである。

 このほかに、全国新聞社出版協議会の「ふるさと自費出版大賞」の選考にかかわっている関係で夏には20冊近い候補作を呼んだ。これらについては感想を記す。
 雪竹靖衛著「はめ殺しの窓」は、精神科医が書いた4編の中・短編小説集。勝俣昇著「砂地獄」は、宝永4年の富士山宝永山噴火による降灰で田畑に甚大な被害を受けた富士山東麓の農民たちの悲惨な姿を描いた長編歴史小説。史実を丹念に調べ、降り積もった火山灰の被害にいかに苦しんだかを農業学者としての知見も活用して長編フィクションにまとめている。

 船戸崇史著「ステップ トゥ ザ ヘブン(天国への階段)」は、岐阜県養老町で在宅末期医療のクリニックを開業している医師のケア体験記だが、がんの末期患者11人の死に至る姿から、人間の生きる意味を考えている。「最後にありがとうと言って死んでいける」を医療のモットーにして医療に当たり、患者、家族が「ありがとう」と言って死を受け入れる姿を感動的に語っている。健康な人にも教えられることが多い。大浦静子著「あなたにあえてよかった」は、胃がんで1年8ヶ月の闘病の末、34歳で亡くなった娘について母が書いた闘病記。自費出版らしい作品だが、娘の友人など限られた人々に読まれることを想定した内容だ。

 大西信吾「ゾウと生きる森」は、ミャンマーの森での木材伐採と搬出には欠かせないゾウの活躍のルポ。チーク材は高級木材だが、ミャンマーの森で産出する。この森でゾウと人間がどうかかわりながら生活しているかを、何度もこの国に足を運んで森の中深くに分け入り、リポートしている。文章は平易でわかり易く、しかも状況や情景が想像できるように書かれているのが印象に残った。また観察は細かく表現も丁寧で、しかも冷静である。ミャンマーの伝統的な森の生活がきわめて自然で、ゾウと人間が一体化している姿には、文明史的な視点を提供してくれる。著者の姿勢には感服したが、これが大賞受賞作となった。

 高濱桂一著「訴える死体」。テレビや小説のミステリーブームで、推理物語に必ず登場するのが殺人事件だが、死亡時刻や死因を特定する検死医だ。法医学をミステリーブームに絡ませてわかり易く説くというテーマは素晴らしいアイデアであり、しかも法医学の権威が筆者だとなると、興味がわくが、こういう本はわかりやすい文章で易しく解説することが必須である。ところが、この本の文章は、いかにも学者のそれで、ミステリーに馴染んだ読者には読みにくいことはなはだしい。検死報告書や学術論文の文体のままなのだ。扱われている個々の例は興味を引かれるのだが、硬い文章が読もうという意欲をそいでしまう。編集者は高齢の斯界の権威に、文章をもっと軟らかくしてもらうのを遠慮したようだ。

 東真人著「哀々たる妻 アルツハイマー病の妻・介護記」は、南日本放送の元専務の著者の介護体験記。最初の頃は癖のある文章に少々戸惑ったが、読み進むうちに静かな感動が伝わってきた。妻の病状の冷静な観察の背後に、著者自身がまた戸惑っていることが読み取れる。仕事一辺倒で家庭や妻を顧みることなく過ごしてきた男は、妻の介護をしなければならなくなって、自分が家庭の中のことについて何一つ知らなかったことに気づく。「男子厨房に入るべからず」の教育を受けた世代である。それでも、やむを得ず買い物から料理、洗濯などの家事をこなさなす。徘徊したり失禁したりする妻に注意を払う毎日に疲れてしまう。しかし、このことが逆に夫婦の関係を噛み締めることにもつながる。この人の介護姿勢は、ちょっと「ええカッコ」も感じるが、同じような状況にある人に共感と慰めが与えられるのではないか。

 宋岳人著「観賞歳時記」。俳句人口は1000万人とも言われて、俳句ブームである。歳時記も数多く出版さているが、この歳時記は、鷹羽狩行氏が主宰する「狩」の栃木県支部の句会で詠まれた作品を、著者が鑑賞したもの。句の作者は21人と少ないが、一句一句を丹念に評している。栃木県、しかも一結社の支部ということからは自費出版でなければ世に出すことのできない仕事で、地域文化にとっては価値があるが、広く読まれるという意味では限界もある。

 高知県児童詩研究会編「うたいつづけて 高知県こども詩集やまもも30年」の子供の詩には、いかにも子供らしい素直な目と言葉にハッとさせられるものがある。言葉の使い方には大人とは異なるものがあって、それが逆に大人には新鮮に映る。そんな詩がここにも溢れていることに感動を誘われる。

 八谷和彦著「新版ガイドブックにない北海道の山々」は、北海道の標高1000m以上の山430座すべてを登頂した著者が、その中から80座を選んで紹介したもの。どんな山か、登頂ルート、登山記録、略図に、コラムで構成している。1000m以上の全山リストが巻末にある。個人の登山記録という性格を超えて貴重な資料としての価値もある。北海道という限られた地域でのものだが、自費出版だからできる本だ。

 山田泰三著「独学 忠臣蔵」は、赤穂事件について独学で歴史的検討を加えたもので、読みやすく、わかりやすい文章で、膨大な史料を読んで過去の学者らの著書を批判しながら再検討している。忠臣蔵は映画や歌舞伎、文楽などで日本の芸能を代表する演目である。多くの学者や作家がさまざまな視点から書いている。この本の細かい歴史考証など丹念な仕事には感嘆する。読者の興味を引く工夫が施されて好感を持った。

 日本シジミ研究所編「宍道湖と中海の魚たち」は、日本の代表的な汽水湖である宍道湖と中海に生息する魚介類についての魚介事典。宍道湖と中海は干拓・淡水化事業が進められていたが、平成12年に中止された。この事業で同湖の生物の生息環境が変わったが、汽水湖状態が維持されたことで残された貴重な魚介類を事典として記録することには大いに意義がある。

 国立療養所菊池恵楓園入所者自治会「壁をこえて」は、熊本のハンセン病患者の療養所、菊池恵楓園の入所者自治会80年史。ハンセン病患者は強制的に収容されて隔離生活を余儀なくなされてきた。療養所内での生活を患者自身が自治会を結成することで改善していった歴史をとだっている。とくに4大差別事件についての詳細な経過の記述はこの病気に対する社会の見方がどのようなもので、どんな問題があったかについての理解を助けてくれる。豊富な写真、詳しい年表などで資料的な価値は高い。

 松岡斉著「豊穣記 茨城県稲敷地方の民俗」は、高知県出身の著者が茨城県南部に住んで、民俗風土の違いに関心を抱き、30年間にわたって茨城県南部地方の民俗行事を写真で記録している。地域の民間信仰や伝統行事は急速な都市化で消えていっている。これを記録することは地方文化にとって非常に大事なことである。民族調査の記録には学問的な方法論があるが、本書は個人の在野の素人としての驚きの視点から発想されており、その視点が全体を貫いているところによさがあり、それ生きている。

 菊池彩著「風のしずく」。書を文字としてだけでなくアートとしてとらえて表現世界を広げようとする傾向が近年盛んだ。前衛芸術的な志向が多いようだが、そこには、書とは異なる、より自由な表現によって新しい美への欲求を実現しようとする思いがあるからだろう。菊池彩さんの書アートはやはり書から出発して、より自由な表現を求めてこの世界に入っいったわけだが、ここには観念的な表現ではなく、仮名書きの書の伝統を踏まえた、この人の内面からにじみ出てくる自然な思いの発露としての表現がある。だからこの人の作品にはだれもが共感できるような優しさが溢れている。そして、流麗な墨の世界には気品が感じられる。


2007/09/02 Sun 井野口慧子著『魂の気配を描く画家 ウジェーヌ・カリエールへの旅』

 著者の井野口さんは広島に住む詩人である。大学時代に共に過ごした早稲田奉仕園学生会のメンバーである。夏前にこの本の恵贈を受けていたのだが、ほかに読まねばならない本が20冊近く溜まっていて、それをこなした後に一気に読ませてもらった。そして、魂の底から静かにこみ上げてくるような感銘を受けた。この本は題名になっているカリエールについての長い書き下ろしエッセーのほかに、彼女が1987年以降に書いてきたエッセーや評論、随想が数多く収められている。彼女が友人と2人で出していた冊子「水声」を何度か送ってもらったことがあるが、これほどまとまって彼女の文章を読むのは初めてである。

 「ウジェーヌ・カリエールへの旅」は、1964年、大学3年の夏休みに友人と訪ねた倉敷の大原美術館で彼の油彩の小品『想い』に出合い、強い印象を受けたことに始まる。この文章はカリエールについて論じるというより、それ以後にさまざまな人との出会いを通じて、そのさまざまなところにカリエールの作品が絡んでくるというもので、カリエールにまつわる彼女の交友遍歴とでも言うべき内容になっている。そして、それらの交友の底に流れているのが「魂の気配」ともいうべきもののようである。この「魂の気配」を共有させる、なにか大きな「意思」のようなものが彼女を覆っていて、そこにある種の感動を感じさせられるのである。

 この感覚は他の文章にも共通しているもので、これは井野口慧子という詩人の本質なのかもしれないと思った。井野口さんは1981年6月に11歳9ヵ月のお嬢さんを亡くしている。長い闘病生活の中で彼女は娘に1000冊を超える絵本を読み聴かせたという。お嬢さんが亡くなった年の9月に自宅を開放して、子供たちに本を読み聴かせる「あすか文庫」の活動を始めた。子供に先立たれる親の苦悩というものを、子供をついに持つことができなかった私には想像を超えるが、彼女の文章の根底には、この体験が大きな意味をもち、そこから生み出されたものでもあるように感じさせられる。

 もうひとつ感じたのは、「シンクロニシティ=共時性」ということだ。これは彼女自身の言葉なのだが、予告夢とか無意識下のテレパシーとか、女性にはそういうことを感じ取る能力のある人が時々いる。私の継母もそんなことが時々ある人だった。井野口さんの実に多彩な人たちとの交友を見ていくと、そのつながりをつくっているのがこの「シンクロニシティ」である。大阪の野崎観音でのコンサートで見知らぬ若い女性から声をかけられる。友人から井野口さんのことを聞いていたので、「この人だろう」と声をかけたのだという。その人は奈良・明日香村の岡本寺のKさんであった。後日、その出会いについて書いた雑誌をKさんに送ったら、それが届いた日は、京都に嫁いでいるKさんの妹さんが明日香と名前をつけることに決めていた7ヵ月の胎児を亡くされた日であったというのだ。

 井野口さんが亡くしたお嬢さんは、病床で自分で絵本の物語をつくっていた。その主人公の名前がやはり明日香だった。だから、Kさんからの報に衝撃を受ける。彼女は書いている。「シンクロニシティーがいつも喜ばしいことばかりではないことを、改めて強烈に味わった」。井野口さんは「ある種の霊的な人」ではないか。その「霊性」が人を結びつけるのだろうと思われた。(メディクス)


2007/08/25 Sat 鴨志田幹男著『写真の時間 カメラと歩けば』

 近年、自費出版が盛んだが、全国の地方新聞社出版部も自費出版を受け入れている。バブル崩壊後、他の業界が景気を回復し始めても出版界はなかなか回復しなかった。私が所属していた共同通信社は全国の地方新聞社に記事を配信していることから、地方新聞とは深いつながりがあった。共同通信が肝いりで地方紙の出版部門が集まって、全国新聞社出版協議会(出版協)を結成していた。事務局は共同通信にあり、共同通信の出版本部長がその事務局長を引き受けていた。

 私がその任にあったころ、いくつかの地方新聞社が自費出版を始めていた。折からの不況の中での苦肉の作という感じもあった。だから、地方新聞社の中には自費出版事業に冷ややかなところもあった。 だが、私はそうは考えなかった。むしろ地方新聞社としては自費出版を積極的に受け入れるべきだと思ったのだ。その頃は、自費出版といえば「自分史」というように思われがちだったが、自費ででも出版したいと思っている人は多いし、その内容も多岐にわたる。出版社に持ち込んでも不況で本が売れないから、刊行につながらない。そういう状態にいる人は全国に多いと思ったのだ。そう考えると、自費出版は地方に埋もれている文化の発掘になるのではないかと思い至ったのである。

 私は出版協の会議でそのことを強調し、大いに自費出版をするように勧めた。自費出版専門の出版社がすでにあったが、それらも事業として実績を上げつつあった。だが、地方新聞社という立場は、自費出版専門会社とは違って、この地方文化の発掘という大義名分が強みなるだろうと思った。こうして地方新聞社の自費出版活動は盛んになり、10年が過ぎた。私が退任した後、出版協でこれら地方紙が請け負って出版した自費出版本を対象に「ふるさと自費出版大賞」がスタートした。私はその選考委員を務めている。この夏は、その候補作を読む仕事に過ごしている。大量の本を一気に読むというのはしんどいことでもあるが、よい本に出合うと喜びもひとしおである。

 そんな読書の日々を過ごしている中で、表題の本が送られてきた。著者は私の同僚だった人である。定年今年1月に癌が見つかり、手術をしたが、3ヵ月後に再発して現在も闘病中である。彼は2月に定年になったのだが、退職金の一部を使ってこの本を出したようだ。

 内容はカメラを持って待ち歩きし、出合った風景を写真にとって、それにエッセイ風の短い文章をつけたものだ。彼が編集委員時代に連載記事として地方紙に配信したものを再編集したものである。これを見て、写真のセンスのよさ、文章の品のよさに感嘆した。近年、赤瀬川原平氏や藤森照信氏らの路上観察が注目されてしばらくになるが、そういう流れを引くものである。出版に当たっては、やはり同僚の現役編集委員T氏が協力して出版にこぎ着けた。T氏にも感謝したい。

 ところで、同僚の本の自費出版といえば、私にも思い出がある。このHPの「交友閑語」に「山の手の趣味人・松井秀三さん」という文章がある。松井さんはやはり会社の同僚だった。8歳上の先輩だったが、彼は定年の直前に肺がんで亡くなった。私は夫人に「遺稿集を作りませんか。私がボランティアで編集作業を引き受けますから」と提案して、3回忌を前に「木陰でちょっとひと休み・松井秀三遺稿集」を出した。松井さんは「小説現代」の短編推理小説賞に入賞したことがあり、その作品など短編推理小説や、編集委員時代に書いたコラムや文化部記者時代の記事などでまとめた。松井さんの教育大付属駒場高校時代に先輩に当たる作家の小林信彦氏が担当していた「週刊文春」の読書コラムでこの本を大きく取り上げていただいたのも忘れがたい。

 何年か後に聞いたことだが、松井さんの遺児が結婚に際して、婚約者の女性にこの本をプレゼントし、女性の両親がそれを読まれて、「こういう人の息子さんなら」ということで結婚が決まったのだそうだ。それを聞いた時、この本を作ってあげてよかったとしみじみ思ったものである。(汎世書房)


2007/05/23 Wed 高杉良著『乱気流−小説・巨大経済新聞』(上下)

 最近、大手マスコミの不祥事が目立つ。NHK、朝日新聞、日経新聞というそれぞれの業界を代表するメディアで、それが著しい。マスメディアは視聴者、読者の信頼が絶対的な基盤だが、マスメディアに内部にいる人間に感覚の麻痺状態が蔓延しているのではないかと思う。日経新聞は、この小説で描かれたのとほぼ同じ不祥事が他のマスコミでかなり詳しく報じられたから、ここに書かれていることのおおよそは事前に知っていたことである。

 その後も、広告局の社員が法律によって掲載する企業の広告内容を事前に知って株を買い、埠頭に利益を得ていたことが明るみ出てインサイダー取引の疑いで逮捕された。こういう事態が続いていることをみると、この小説で描かれたことの影響は大きいと言わざるを得ない。
 この小説は鶴田卓彦元社長が同社を私物化していた事件をテーマにしている。その内容は前にここで取り上げた『新聞の時代錯誤−朽ちる第四権力』をはじめとした大塚将司氏の著書でかなり詳しく書かれ、鶴田氏を糾弾もしている。

 社長の会社私物化も問題だが、それが明るみに出て記者会見を求められたり裁判に訴えられたりした際に、同社が鶴田社長はじめ情報を開示せず、自体をうやむやにして葬り去ろうとしたことである。新聞は官庁や民間企業に情報開示をせよと厳しく論じていながら、自身が当事者になると、日ごろの紙面での主張とまったく相反する態度に終始することだ。
 これでは、紙面で主張していることが説得力を持つはずがない。マスメディアの資格喪失である。これではジャーナリストとして真剣に報道に携わっている社員や記者が浮かばれない。そういうことに警鐘を鳴らす意味でもこの作品の意義は大きい。

 この小説のモデルになった鶴田氏ら旧経営陣2人は、名誉を汚されたとして高杉氏と版元の講談社を相手どって、本の出版差し止めと約1億500万円の損害賠償を求める訴訟を起こし、この4月11日、東京地裁は名誉棄損を認め、約470万円の損害賠償支払いを命じたが、出版差し止め請求は退けられた。菅野雅之裁判長は「小説に登場する大手経済新聞社の亀田社長の経歴は、鶴田氏の経歴にほぼ合致するとして、鶴田氏と面識がある者には、亀田社長が同氏であると特定することは容易だ」と指摘した上で、亀田社長が検察庁で事情聴取を受けたり、愛人の存在に触れたりしたことについては「真実だと証明する客観的証拠は存在しない。これらの記述は、鶴田氏の名誉を棄損する」として賠償請求を認めた。しかし、名誉毀損に当たるとしても、この小説に書かれたことはすでに報道されている内容に比べて、それほど大きく原告側の名誉が傷つけられたものではないとも述べているそうだ。それで損害賠償を大幅に減額し、出版差し止めも命じなかったのだろう。

 鶴田氏側は「勝訴」としているが、実際は必ずしも勝訴とはいえないことになる。裁判費用の一部を被告の高杉氏と版元の講談社にも負担するように言っているが、裁判費用のほとんどを鶴田氏と日経に負担させるという内容でもあるそうだ。
 高杉氏は、日経社員から株を買い受けて、株主代表訴訟も提起していると言う。(講談社)


2007/04/08 Sun 大塚将司著『新聞の時代錯誤−朽ちる第四権力』

 著者は、2003年の日経新聞子会社TCWの不正経理・手形乱発事件を内部告発し、日経を解雇されたが、株主代表訴訟を起こして解雇を撤回させ、当時の鶴田卓彦社長が引責辞任することになった、その当事者である。解雇は撤回されたものの、自発的に退職し、いまは日経を中心にコーポレート・ガバナンスの研究を続けているという。近年、新聞を中心にマスコミの不祥事が目に余る事態となっているが、それがなぜなのか、何処に原因があるのかを主として日経新聞を事例にして考察している。

 新聞の再販価格指定、独禁法特殊指定は新聞業界を挙げて、これを維持する運動を展開しており、これが「言論・報道の自由」を守る砦として業界は説明しているが、それが本当なのかと疑問を呈し、それを歴史的に検証している。それだけではなくまた、日本の新聞社は日刊新聞特例法によって、通常の株式会社とは異なり、社内株制度によって、株式の自由な売買を制限できる特別扱いがされている。これも社外からの介入によって編集権の独立を侵されないためと説明されている。著者はこれも歴史的に検証し、むしろ1940年に当時の軍部が報道統制のために始めた制度であることに起因するとし、これを「1940年体制」としてこれからの脱却を訴えている。

 新聞社は公共的な事業であり、こういう特権的な制度に守られてきた日本の新聞社は、それをよいことにして経営者が会社を私物化しており、そこに数々の不祥事の原因があるとする。だから、むしろ株式も公開し、特権的な立場から脱却して「普通の会社」になることによって再出発すべきだとしている。新聞社をめぐる環境についての歴史の検証は説得力がある。(東洋経済新報社)


2007/04/03 Tue ノーム・チョムスキー、エドワード・S・ハーマン著『マニュファクチャリング・コンセント』

 この本は今年初めに、版元の友人から恵贈を受けていたが、読み終わるのに時間がかかってしまった。A5判で全2巻、膨大な註を含めてだが、Iが401ページ、IIが298ページという大冊である。サブタイトルに「マスメディアの政治経済学」とある。「マニュファクチャリング・コンセント」とは、直訳すれば「捏造された同意」ということになる。初版は1988年に出たが、2002年に改訂版が出た。これは後者の翻訳である。長文の序文が付け加えられている。

 タイトルの意味は、米国の巨大マスメディアが政府の政策にどういう役割を果たしてきたのかを、主として「ニューヨーク・タイムズ」「ワシントン・ポスト」「ニューズ・ウィーク」「CBSニュース」の気の遠くなるほど膨大な報道内容を詳しく検討して批判している。

 政府、国家権力というものは、マスメディアを使ってプロパガンダをするもので、マスメディアはこれを監視して「国民の知る権利」に応えるというのが近代民主主義の基盤とされてきた。しかし、マスメディアの巨大化によって、マスメディアというものは必ずしもその理想をすべてとするものではなくなっている。政府がマスメディアを情報操作によって直接統制することは、国民の批判を招きやすい。だが、巨大化したマスメディア自身が自己の保存本能とも言うべき作用が働いて、自ら政府権力に擦り寄っていくということが出てくる。

 著者は、1960年代以降の米国の巨大マスコミを細かく点検することによって、そのことを焙り出していくのである。そして、そこからある法則が浮かび上がってくる。それを「プロパガンダ・モデル」と命名する。点検された報道テーマは、欧州、中南米、ベトナム戦争などインドシナなどにわたっている。1984年ポーランドの神父イエジ・ポピエウシュコがポーランド警察に殺害された事件と中米における100人の米国人神父殺害事件の比較。米国の傀儡軍事独裁政権のエルサルバドル、グアテマラと、反米政権のニカラグアの1980年代の選挙。1981年のローマ法王ヨハネパウロ2世暗殺未遂事件でのブルガリアン・コネクション。ベトナム戦争とラオス、カンボジアのインドシナ戦争、インドネシアのティモール人虐殺事件などである。

 米国には「反共主義」と「民主主義と人権」尊重が一種の宗教と化していて、そのためにはすべてが許されるというドグマが支配しているようだ。反米政権の国家テロは許されないが、米国政府が支援する軍事独裁政権の国家テロは許され、それを支援すらするというのが米国のエリートの基本姿勢であるという。そして、それに巨大マスメディアも自ら追随しているというのである。

 ベトナム戦争下で発覚した「ペンタゴン・リポート」を「ニューヨーク・タイムズ」と「ワシントン・ポスト」が政府の差し止め要求を蹴って掲載し、裁判で連邦最高裁が「国民の知る権利」を認めてマスメディアが勝訴したことにも言及しており、米国のメディアの意義をも認めながら、なおかつ「プロパガンダ・モデル」は否定し得ないという。そして、それが米国の世論を形成していく。「マニュファクチャリング・コンセント」とはそのことを指している。

 ここで検証されているのは20世紀後半の米国の巨大マスメディアであるが、近年の日本のマスメディアを見ても、同様の現象が起きていることは否定できない。訳者が「あとがき」で指摘しているが、巨大マスメディアは、記事や番組を制作しているが、それを販売しているのではない。それによっていかに多くの読者や視聴者を引きつけているかで、それだけ多くの読者視聴者を持っているという媒体を企業に販売しているのだ。その読者・視聴者は企業の広告を素直に受け入れるようなものでなければならない。政府であれ、巨大企業であれ、巨大権力に従順な大衆を権力は必要としているのである。中野真紀子訳。(トランスビュー)


2007/03/08 Thu 野里洋著『癒しの島、沖縄の真実』

 野里さんは金沢の出身で、大学時代に東京で沖縄文化協会の活動に参加し、1967年、卒業すると琉球新報社に入って記者となった。彼が文化部長をしていた時に、私は共同通信の文化部デスクだった。1989年に昭和天皇が死去し、その時、私は文化思想関係の視点からの記事の責任者として仕事をした。そのことで、彼に助けられたことがある。

 共同通信は加盟紙に記事を配信しているのであるが、加盟紙の報道姿勢はさまざまだ。はっきり言って、右寄りから左寄りまであるわけだ。昭和天皇を通して思想的に昭和という時代をどうとらえるかが大きなテーマだったわけだが、これには微妙な問題が多い。そこで私は加盟紙の立場を考慮して百数十本の記事を準備した。文化人や学者への依頼原稿、インタビュー、座談会などのかたちで、それもさまざまな思想的な立場の人を取り上げた。多くの加盟紙からは、自社の方針に沿った紙面づくりができたと感謝された。

 天皇が死去して数ヵ月後に加盟紙の文化部長に集まってもらって、文化関係の天皇報道について議論してもらった。その席である社の部長が「共同の配信記事は左寄り過ぎる」と発言した。日ごろから右寄りと見られている新聞社からの批判には、あらかじめ想定して私の考えも準備していたが、その新聞社はどちらかと言うと左寄りと見られていただけに、その新聞社からそういう批判を受けるとは予期していなかった。それで私はちょっと返答に詰まってしまった。そこで助け舟を出してくれたのが野里さんだった。

 「共同さんの記事を吟味してみると、いろんな立場をよく考慮している。その配分のバランスから言えば、沖縄からはむしろ右寄りに見えるくらいだ」と野里さんは言ったのである。余談だが、昭和という時代を考える時に、大抵の人は戦前と戦後の二つの時代に分けて分析する。私はあの時、それでは昭和を正確にとらえられないと考えていた。昭和は63年まで続いた。これを私はほぼ20年ずつ3つの時代に区分することを提案した。初めの20年はこれまでの見方と同じであるが、戦後を高度成長の始まる40年前後でもう一度区切るのである。戦後的な時代から、高度成長によって日本人の考え方やものの見方が大きく変わっていると思ったからである。それを推し進めたのが東京オリンピックや大阪万国博であり、大学紛争であり、田中角栄の日本列島改造であった。

 こうして日本は「豊かな社会」になったと言われているが、果たして本当に日本は豊かになったのであろうか。そういう日本を別の視点から照射してくれるのが沖縄である。今、沖縄は注目を浴びている。「癒しの島」としてリゾート開発が進み、本土からの移住者が増えている。沖縄には本土の人を魅せている、そういう面が確かにある。だが、それだけではない。そのことを野里さんのこの本は、きわめてわかりやすい易しい語り口で余すこところなく誠実に活写している。普段着の言葉で、日常生活から沖縄の明るさや基地を抱える沖縄の問題も語っている。本土出身で、しかも40年を記者として沖縄を見続けてきた人だけに、沖縄礼賛に堕すことなく、ときにやんわりとした批判も出てくるが、それらは客観的で説得力もある。沖縄を知る最良の本の一つだと思うが、与那国島に通い続けている私としては、離島についてもう少し語ってほしかったように思う。(ソフトバンク新書)


2007/03/06 Tue レイラ・アーザム・ザンギャネー編・白須英子訳『イラン人は神の国イランをどう考えているか』

 1979年はイランのイスラム革命とソ連軍のアフガニスタン侵攻で私の記憶に残っている。私はこの年の末に取材で南極に行き、乗っていた船が南極海で座礁するという経験をした。それはともかく、ソ連のアフガン侵攻は10年後に撤兵し、ソビエトの崩壊につながったが、イランのイスラム革命は現在も続き、イラン・イスラム共和国の核開発が今、国際的に注視されている。

 イスラム原理主義はアラブ諸国で広がり、21世紀の最も大きな問題の一つになっている。2001年の9・11事件によって、イスラム原理主義はさらに注目を集めることになった。イランのイスラム革命後の状況も、その大きなものの一つである。イランはアラブではないが、私はそれまで、イランはイスラム圏の中で最も近代化(西欧化)が進んでいた国だと思っていた。イスラム革命前は、パフラビー国王(当時はパーレビ国王と言っていた)による王政だった。王政という体制下で、近代化を推し進めていたのだ。王政は前近代的な体制であるが、同時に文化社会的には、西欧を取り入れて、かなり自由度が高かったと思っていた。

 私は1970年代の初め、江上波夫氏がイランで行なっていた考古学発掘調査の報告記事の、日本側の受け手担当として仕事をしたことがあった。その時の印象では、実際にはイランに行ったわけではなかったが、そのように感じたのである。ところが、その陰でさまざまな不合理があったのだろう。それに対する国民の不満もあったのだろう。イランは革命に進んだ。

 イスラム原理主義というのは、なかなか理解が難しいものだ。その後のイランは復古主義なっていった。私たちが考える近代化とは逆方向に進んだのだ。そういうイランについては、関心はあるものの、深くは考えることもなく過ぎてしまった。2001年、勤めていた会社で出版本部長をしていた時にハタミ大統領の『文明の対話』(平野次郎訳)を出版した。サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』が関心を集めていた時に、ハタミ大統領の提言は、イスラム体制下のイランの姿勢に変化が出てくるのではないかと思われたからだった。イスラム革命後の復古的な状況に不満を抱えていたイラン国民は圧倒的にハタミを支持したが、しかし、ハタミ革命は遅々として進まなかったようだ。そして、アフマディメジャド大統領によって元の体制に戻ってしまい、さらに核開発にまで進んでしまった。

 米国は、特にブッシュ政権は今のイランについて特定のイメージを世界に植えつけようとしている。米国はつねに特定の国を「自由と民主主義の敵」としてつくり、それによって国民の結束を図り、外国に対しても米国との関係を強化するという政策を採ってきた。これによってイランについても「特定のイメージ」が世界に蔓延している。しかし、実際はどうなのか。そういう思いが私にはあった。

 この本でも文章を寄せているアーザル・ナフィーシーの『テヘランでロリータを読む』を読んでみたいとは思いながら、まだ果たせていない。このナフィーシーをはじめ、この本に文章を寄せたり、インタビューを受けているイラン人の多くが国外に住んでいる。革命後、イランの知識人らが多く、国外に流出したとは聞いていた。革命前のイランの開明的な面を享受していたり、そういう親の影響を受けている人たちであろう。そういう人たちが今のイランをどう見ているかがよくわかった。その多くが女性であることも興味深い。かつてのイランの近代化によって、女性がかなりの部分で解放され、女性の大学進学率が60%にも上っていたのだそうだ。だから女性の社会参加がアラブでは最も進んでいたといえる。だから、イラン革命でその被害を最も受けたのが女性であったのは当然だ。だが、イランの女性たちはじつに頭がよい。イスラム原理主義を巧みに掻い潜っている人が多いように受けれた。

 また私もいくつかの映画を見たキアロスタミー監督のインタビューも、声高には政治を批判しないが、確固とした姿勢を感じさせた。このこと自体が、声高な原理主義に対するを厳しい批判となっていのである。(草思社)


2007/01/27 Sat  小栗康平著『時間をほどく』ほか

 小栗さんは処女作『泥の河』いらいの友人である。この本は去年の秋にいただいていたのだが、日常に紛れて読む機会がないままに過ぎてしまっていた。今回、沖縄に10日間ほど行くのに、これをリュックに入れていき、時間を見つけて読んだ。沖縄滞在中は、ほかにもデビッド・ハルバースタム「メディアの権力」第2巻、松田良孝「八重山の台湾人」(南山舎)も読んだ。後者は沖縄・八重山諸島に戦前から終戦直後にかけて台湾から移住してきた人たちと、八重山で生まれたその子供たちがこの島々でどのような人生を歩んだかを丹念に取材したものだ。八重山の農業にはパインをはじめ彼らが持ち込んできたものが多い。にもかかわらず、台湾人たちは戦後、差別に遭いながら生活の基盤を築いてきた。その苦闘の歴史がわかる本だ。

 小栗さんの本は、エッセー集というか、この10年ほどの間に新聞や雑誌に書いてきた文章を集めたものだ。自身の生い立ちから少年時代、高校・大学時代の思い出なども書かれていて、今まで知らなかった彼の実像の片鱗を知ることができた。映画の世界に入って助監督をしたりした時の様子や自作について彼自身がどう思っていたかなどもわかって、彼を知る私には興味深いものだった。

 茅ヶ崎に住んでいた作家の島尾敏雄さんを彼と2人で訪ねた時のことが出てきて、当時を思い出すこともできた。夫人のミホさんの手作りの鶏飯をご馳走になったのだが、これは絶品だった。鶏飯はミホさんの出身の奄美大島の料理である。

 小栗さんの映画観にもかなり多く言及されている。昨今の一見隆盛に見える映画に対して、かなり批判的である。彼には「映画は人為的に、人間の感覚を通じて、時間と空間を再構成するもである」という考え方がある。映像は「二次元の平面」であり、「作られたもの」であるが、そこには監督の表現への感情と深く結びついている。それによって時間や空間が変容していき、映されたものは一つに現実であっても、そこに世界の多義的なもの、意味が込められる。ところが、昨今の映画は「出来事」しか描かなくなった。そういう映画では多義的な世界を描くことはできないという信念のようなものが、彼にはある。

 そこから、この本では、この時代、現代文明までにも目を広げ、彼の世界の見方、現実の見方を語ってくれている。その点で教えられるところも多かった。(朝日新聞社)


2007/01/12 Thu  高井有一著『夢か現か』

 昨年末に恵贈を受けた。高井有一さんは、私の会社時代の上司だった。1965年に『北の河』で芥川賞を受賞した時、高井さんは大阪支社で文化関係の記者だった。私は66年に大阪へ転勤したのだが、尼崎の担当で、1、2度酒席を同じくしたが、彼と話すことはほとんどなく、そのうちに彼は本社文化部に移った。私は彼の後を追うようにして、1970年に本社文化部に移ったら、学芸班に配属された。そこに高井さんがいた。この年の11月に三島由紀夫が自決し、私は病床にあった高橋和巳に三島について話を聞いた。やがて高井さんがデスクになり、彼の下でしばらく仕事をした。彼は私に自由に仕事をさせてくれた。私の記者生活の中で最も楽しい時代だった。やがて高井さんは会社を辞めて、作家の仕事に専念した。

 この本は、筑摩書房のPR誌「ちくま」に2004年8月から2006年7月まで3年間連載した随想集である。折々の随想で、文学はもちろん、疎開の思い出、演劇や陶芸、旅、葉山での暮らしの断片など37編から成っている。高井さんの文章は透明感があって、私の好きな文体である。だから、正月休みにその滋味を味わいながらゆっくりと読んだ。高井さんは戦争中に疎開をした世代だから、戦争というものに敏感なのだが、それを声高に言うことはなかった。むしろ自分の想念に深く静かに沈潜していくという感じを私は抱いていた。

 ここに収められている随想もほとんどはそうなのだが、文末にイラク戦争についての控えめな感想が数行だけ記されている。そういう生の動きをこれまで語ることが少なかっただけに、毎回のように書かれているその部分に注目した。そこには今の時代への、彼の精神の深いところで怒りというか絶望感のような鋭いものが感じられたからである。

 ところで、中に「新緑の秋」という一篇があり、2004年10月21日の台風23号で私の郷里の円山川が決壊して市域の90%が浸水した水害や中越地震について触れている。その中に、友人として名前は出てこないが、私のことにも触れられえていた。20数年前の年の暮れに、私は高井さんら4人で山陰旅行をした。その際、私の郷里の実家に立ち寄ってもらったことがあった。その記憶が彼にあったのである。(筑摩書房)


2006/12/28 Thu  アンネット・カズエ・ストゥルナート著『ウィーン わが夢の町』

 NHKの「ラジオ深夜便」をよく聴く。かなり前のことだが、この番組で、この人のインタビューが放送されていて、以来気になっていた。ウィーン国立歌劇場で東洋人初めての団員となった女性歌手である。数奇な人生を生きてきた人のようだった。その自伝がこの本である。一気に読んでしまった。

 兵庫県西宮に生まれたが、3歳で上海に渡り、日本の敗色が濃くなって山海関に移るが、ソ連の参戦で追われ、中国各地を放浪した挙げ句、戦後、祖母、母らと引き揚げて、岡山県の田舎で小・中学時代を過ごした。日本語もうまく話せず、赤い髪と白い肌のためにいじめに遭うが、歌が上手でのど自慢で優勝したりする。父は怪しげな仕事をしていたようで、あまり家には寄り付かなかった。祖母に次いで母も喪い、中学を卒業すると父の知り合いの広島の病院に住み込みで勤める。中卒なので准看護婦にしかなれなかったが、定時制の子供の頃から歌が好きで、歌手になりたくて通信教育で学んだ。東京の親戚の養女となったのも歌手への道を目指したからだ。音楽大学を目指して定時制高校を出たときは24歳になっていた。

 通信教育が縁で坂本博士に歌を学び、東京芸大と武蔵野音大を受験するが、どちらも失敗。しかし、坂本が太鼓判を押すほどの素質の持ち主で、プロの合唱団に入った。ステージの仕事のほかに、歌謡曲のバックコーラスやテレビのCMソングも歌った。しかし、音大を出ていないので日本では目指すクラシック歌手の道は開けない。そんな差別のない、実力の世界で歌える歌手になりたいと、ウィーンを目指す。

 ウィーンで出会った歌の先生が彼女に道を開いてくれた。コントラルト歌手としての彼女の素質を見抜いて、親身に教えてくれたのだ。その甲斐あって、ウィーン音楽アカデミーに入学を許され、さらには国立歌劇場の入団テストにも合格する。だが、国立歌劇場でも東洋人であるためにさまざまな嫌がらせなどの人種差別を受けた。この間、ストゥルナート氏と結婚して、2人の女児をもうけた。人種差別に苦しんでいた時に助けてくれたのは、あのカラヤンだった。彼が主催するザルツブルグ・イースター音楽祭のオペラに出演した時に、カラヤンが声をかけてくれて、団員たちに「遠い日本から1人でオーストリアにやってきて、寂しい思いをしながら頑張っている彼女を助けてやってくれ」とカラヤンが言ったのだ。

 こうして団員歌手としては順調に仕事ができるようになったのだが、仕事に明け暮れている間に、夫とは心が離れ、子供たちも麻薬に手を出すまでになってしまった。さんざん悩んだ末、歌手の道を選んで離婚した。

 ヨーロッパの歌手は徹底的な腹式呼吸を学び、劇場の隅々にまで届く声量で歌うことがプロの歌手の必須条件だという。また、歌うだけではなく、演技を重視する。そこが日本のオペラとは決定的に異なるところだそうだ。これはバイロイトやザルツブルグでオペラを見た私も痛感していることだったので、彼女の指摘はよくわかる。

 彼女はこれまでに何度か自殺未遂をしている。それほどの苦しみを潜ってきたのだ。しかし、同時に「私には守護天使がついている」とも考えている。通信教育が縁で知り合った坂本博士、ウィーンでのドイツ語学校の先生、ストゥルナート氏、レッスンを受けたバブシカ先生、カラヤンなどとの出会いは、すべて偶然で、まさに「守護天使」のなせる業としか思えない。すべてを自分で切り開いてきたこの人の波乱に満ちた生涯からは大きな感動を与えられる。(新潮社)


2006/12/13 Wed  木村剛久著『青き淵から−渋沢栄一とその時代』(下巻)

 去年の秋に本書の中巻について感想を書いた。今年の秋に下巻の恵贈を受けた。本書では栄一の古希から1931年11月、91歳で亡くなるまでの晩年を扱っている。この20年間は晩年といっても活動は精力的で2回のアメリカ旅行をはじめ、孫文や蒋介石に会ったりして、彼の思想と行動がはっきりと見えてくる気がした。経済人としての哲学も論語の精神を中核にして、思想といえるものに結実したのもこの時期であるようだ。

 栄一はアメリカと絶対に戦争をしてはいけないと考えていた。孫文らによる中国革命に期待もしていた。その点で、日本という国家が彼の意に反する方向に雪崩を打ち始めたのは、内心慙愧の思いであったのではないかと想像したりする。彼がアメリカと戦争をするようなことがあってはならないと考えたのは、2度にわたる100日近くにも及ぶ米国旅行で、資源の豊富なアメリカの底力を充分認識していたことが理由の一つである。さらに経済の発展は戦争によって進められるべきではなく、平和のうちに目指すべきものであるとも考えていたようだ。

 アメリカでの排日移民法などで在米日本人の権利に弾圧が加えられようとしたことにも、日米友好の観点から米国人の理解を得ようと努力したことが本書で詳しく書かれている。日本と米国が手を結んでアジアの近代化を進めようとしたのだが、栄一の志とは異なる大陸での日本の所行に米国はしだいに日本批判に傾いていく。

 栄一は経済人としての冷静で現実的な経営者でありながら、同時に強い倫理観の持ち主でもあった。その栄一の倫理観は関東大震災での被災民の救援活動にも表れている。昨今の政治家、官僚、財界人の倫理観の欠如は目に余るものがあるが、それは渋沢栄一という日本資本主義の基礎を確立しながら、倫理を大切にしたこの偉大な経済人の存在を忘れてしまっているからではないかとさえ思われた。(私家版)


2006/11/20 Mon  木下和寛著『メディアは戦争にどうかかわってきたか』ほか

 ある私立大学でマスコミ論を講義しているので、メディア関係の本を読むことが多い。その中で、この本はたいへん要領よく、しかもさまざまな事例を網羅してくれているので、講義に活用させてもらっている。著者は朝日新聞の総合研究本部にいる人だから、こういう仕事を専門的にやっているらしい。ほかにも立教大学の門奈直樹教授の「現代の戦争報道」(岩波新書)もよく利用している。

 マスメディアのありようが最も鋭く表れるのが「戦争」である。ことに近代以降の戦争は、メディアと切っても切れない関係にある。政治権力はメディアをプロパガンダに利用しようとする。ことに現代の戦争では、メディアを制することができるかどうかが戦争そのものの成り行きを左右する。ベトナム戦争では、ジャーナリストたちの前線からの報道が世界の世論に大きな影響を与えて、米国の世論を反戦に導いたし、湾岸戦争では、米国政府はこの反省からマスメディアに前線取材をさせなかった。その結果、「TVゲーム」を見るような報道しかできなかった。これには大きな批判が出た。

 そして、今のイラク戦争では、開戦当初に、多国籍軍という米軍の各部隊にジャーナリストを従軍させて、兵士と同じ場所で取材をさせたのだが、戦争が長期化するに従って状況は変わってきた。開戦理由が権力によって根拠なく作られたものであることもわかってきた。また、メディアはこれまで欧米からの発信が主流だったが、「アルジャジーラ」のようなイスラム側からの発信がなされて、世界には欧米とは異なる見方が存在することを示すことにもなった。  そういう中で、マスメディアのあり方も変わっていかざるを得ない。(朝日新聞社)


2006/09/30 Sat  山田一郎著『寺田寅彦 妻たちの歳月』

 著者の山田さんは私の会社時代の大先輩で、文化部長や常務理事などを歴任された。寅彦と同じ高知の出身で、寅彦研究家でもある。「寺田寅彦覚書」で昭和56年の芸術選奨新人賞を受賞されている。その続編ともいえる、出たばかりの新著である。今年86歳の作品だ。

 読んでいて気づいたのは、寅彦が明治11年11月28日生まれで、私と誕生日が同じだったこと。それから、寅彦が生まれる少し前、軍人であった父の寺田利正一家が東京勤務となり、麹町上二番町に住んだのだが、その家の隣が当時、開成学校長だった加藤弘之邸だった。寅彦の次姉幸は加藤の令嬢と学校友達で仲がよく、よく行き来していたとある。加藤弘之(1836-1916)は私の郷里出石の出の人である。豊岡出身の浜尾新とともに相前後して東大総長になった。

 また、寅彦が大正6年に学士院賞恩賜賞を受賞したとき、高知出身の東大出の人たち10人が集まって、お祝いの会を開いたとあり、その席に山本忠興(1881-1951)が出ている。山本は土佐山田町の生まれで、東大を出た後、早稲田大学に招かれ、理工学部長を務めた。電気工学の権威で、高柳健次郎とともに「テレビの神様」と言われた。東京女子大理事長、ICU国際基督教大学の創立にも尽力した。熱心なクリスチャンで「日曜学校史」の著書もある。

 この山本忠興は、私が早稲田大学在学中の4年間を過ごしたキリスト教学生センター早稲田奉仕園の理事長を務めた。奉仕園は、大隈重信から早稲田の学生にアメリカの大学と同じような環境を体験させたいという要請を受けた宣教師ハリー・B・ベニンホフによって創立された。初代理事長は安部磯雄で、山本は第2代理事長を戦前戦後の24年間にわたって務め、早稲田国際学院を奉仕園内に設立、アジア各国から留学生を受け入れた。私が学生時代を過ごしたのは1908年に設立された奉仕園の中の寄宿舎・友愛学舎で、ここは坪田譲治や井深大などのほか多くの早稲田の教授らを輩出した。

 さらに私との因縁めいた話しが出てきた。寅彦は大正11年に、板橋の志村中台に380坪の土地を購入して、自分で設計し赤い屋根の2階建ての洋館を別荘として建てたそうだ。帆船が上下する荒川を見下ろす丘陵にあったとある。

 私が今住んでいるのはまさに板橋区中台である。私の住んでいるマンションはかつての徳丸が原を見下ろす丘の上にある。今でこそすぐ目の前を首都高速が走り、ビルが林立してじかに荒川を眺めることはできないが、かつては見ることができたのではないかと思うような地形である。この別荘を建てた翌年9月の関東大震災で、寅彦はこの別荘の管理を任せている人に食糧の調達をしてもらっている。

 私はこれまで寺田寅彦については夏目漱石の弟子の作家で科学者というぐらいしか知らず、それほど関心はなかったが、こういう因縁めいたことが出てくると無関心ではいられなくなりそうだ。(岩波書店)


2006/09/18 Mon  木村元彦著『終わらぬ「民族浄化」 セルビア・モンテネグロ』

 この本の前に呼んだ高木徹著『ドキュメント戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』は、ボスニア・ヘルツェゴビナのモスレム人政府に依頼された米国の広告代理店が、旧ユーゴ連邦のセルビア人によって拉致や虐殺がなされているというセルビア人を悪役に仕立てて、「民族浄化」「強制収用所」、そしてボスニアは「多民族国家」をめざすという政治宣伝を展開して、ボスニア紛争を国際世論によって終結に導く内幕を検証したものだった。

 この宣伝によって、セルビアは国際的に、すっかり悪者になってしまった。ミロシェビッチはハーグの戦犯法廷で裁かれている。『戦争広告代理店』が、旧ユーゴ連邦内の紛争の内実を現場に入り込んで報告したものではなかったのに対して、この本は、ボスニアではないが、コソボを中心として現地取材によってコソボのアルバニア人による「民族浄化」の実態に迫っている。もちろん、セルビア人によるものもあるわけだが、アルバニア人の反セルビアの動きに対して、米国に支援されたNATO軍が黙認していることを暴いている。

 コソボを負われたセルビア人は、ベオグラードに難民として収容されているのだが、旧ユーゴ連邦政府は、国際的な支援を得ようとして彼らに対して冷たく扱うということもある。民族間の憎悪の連鎖がなかなか収まらない現実を報告するとともに、NATOの旧ユーゴ空爆をも批判している。「セルビア=悪者」という見方は、米国、欧州はもちろん世界に蔓延している。それがいかに現実と遊離したものであるかを著者は指摘しているのだが、スーザン・ソンタグやグンター・グラス、大江健三郎など多くの進歩的な知識人がその呪縛から逃れられず、NATOのユーゴ空爆を批判したのはノーム・チョムスキーやペーター・ハントケぐらいだそうだ。(集英社新書)


2006/09/15 Fri  高木徹著『ドキュメント戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』

 NHKスペシャル「民族浄化 ユーゴ・情報戦の内幕」というテレビ番組を以前見た記憶がある。2000年に放送されてものだ。これは、この番組を取材制作したディレクターが番組には入らなかった情報などを加えて書き下ろしたノンフィクションである。2002年に単行本が出て、講談社ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞を受賞している。昨年文庫化されたのを今度初めて読んだが、これはじつに面白い、刺激的な本だ。

 東欧の社会主義国家が解体した後、多くの国が民主化されたが、同時にそれまで社会主義思想によって押さえ込まれていた民族的なアイデンティティーに目覚め、連邦国家が解体して独立し始めた。チトー大統領によって連邦を維持していたユーゴも、クロアチア、スロベニア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立した。セルビア、モンテネグロは新たに新ユーゴスラビア連邦となった。

 1992年から95年にかけてのボスニア・ヘルツェゴビナの紛争の当時、私はこの紛争の状況を詳しく知ることはなかった。その後のコソボ紛争についてもそうだった。ユーゴスラビア連峰は元々多民族国家で、新ユーゴ連邦はセルビア人が主体で、これらの民族が独立をしようとする動きに対して、セルビア人がそれを抑えるべく軍事的な圧力をかけていた。

 ボスニアの場合はセルビア人、モスレム人、クロアチア人という民族から成っていた。母シニアはモスレム人主体の政府を樹立したのに対して、セルビア人との争いが高まっていった。だが、当初ボスニア紛争は欧州の裏庭で起きている内戦で、欧州各国や米国の関心を呼ばなかった。石油という先進国のエネルギー資源をめぐる湾岸戦争に比べて、ボスニアには先進国の経済的利害に影響を及ぼすものは何もなかったからだ。モスレム人の政府はボスニア紛争に先進国の関心を引き寄せ、米国に軍事介入させるために、米国のPR企業と契約して国際的なPR活動を始める。そのPR企業がどのように活動して紛争を終結に導いていったかを描いたのが本書である。

 国家や国際社会がどのような構造と力学で成り立っているか、情報というものがその中でどのように機能していくか。そういう現代社会についての現実認識を根底的に改めさせられる。そういう社会のあり方については、これまでの価値観からいえば大いに問題があるかもしれないが、ここに描かれているのが現実であることもたしかだ。日本ではまだその認識が充分なされてはいないことが、昨今の日本政府を見ていると痛感させられた。(講談社文庫)


2006/09/11 Mon  遠藤周作著『深い河』

 山根氏の遠藤周作論を読んだ際に「沈黙」を40年ぶりに読んだが、続けて「深い河」を読んだ。1993年の作品で、遠藤周作晩年の長編小説である。

 現代もので、妻をがんで亡くした平凡なサラリーマン磯辺、結核の手術をした童話作家沼田、ビルマ戦線で死の淵をさまよい、人肉食をした戦友に助けられた木口、それに偶然、病院ボランティアとして入院中の妻の世話をしてくれた女性成瀬といった人たちがインドツアーで一緒になる。

 それぞれにさまざまな人生を引きずって生きてきた人たちだが、それぞれがインドを旅するのには、それなりの理由があるようだ。ベナレスの聖なるガンジス川を訪ねるのだが、そこで行き倒れの死者をだびに付す手伝いをしている日本人がいた。成瀬が学生時代にもてあそんだカトリックの学生大津である。彼は神父をめざしてフランスの神学校に留学するが、西洋のキリスト教になじめずに、インドまで流れてきた。自分なりのキリスト教信仰を抱き続けている。成瀬は彼の愚直さを軽蔑しながら、どこかで彼に惹かれるものを感じている。

 登場人物の何人かには、遠藤自身の人生や思想が反映している。インドという混沌そのものの世界で、それぞれが自分の生の意味を探ろうとしているのだが、こういう旅だけで何かが明らかになるわけでもない。だが、そういうすべてを受け入れながら流れるガンジス川、それが深い河なのだろうか。そういう小説なのだが、どうも私には読んでいて終始、違和感がつきまとって離れなかった。「沈黙」のような読者に迫ってくるものが弱いように思った。(講談社文庫)


2006/09/09 Sat  山根道公著『遠藤周作 その人生と『沈黙』の真実』

 あるところから書評を頼まれて読んだ。著者は私が大学時代を過ごした早稲田奉仕園のキリスト教の寄宿舎「友愛学舎」の16年ぐらい後輩だという。もちろん直接には面識はない。博士論文に手を加えたというもので、大部の本である。

 著者は高校時代に洗礼を受けたプロテスタントだったが、大学時代に井上洋治神父の主宰する「風の会」に出合い、カトリックに改宗したそうだ。井上神父は遠藤周作がフランスに留学する渡航の際に船上で知り合い、以後、2人は信仰上の盟友となった。そういう関係で著者も早くから遠藤文学に関心を抱き、その研究を続けてきたようだ。

 そうだけに、本書にも長年の思いが込められて、大きな感銘を受けるとともに、教えられることも多かった。カソリックは言うまでもなくローマ教皇庁を頂点とした教会であるが、このカソリックの思想は西欧の神観念を象徴するものだ。遠藤も井上も欧州への留学によって、日本の精神風土と欧州の一神教的な思想があまりにかけ離れていて、その絶望的な距離を認識し、どう埋めるかを生涯の信仰上のテーマとして追求した。そのひとつの帰結が遠藤周作の代表作「沈黙」という小説である。

 私は1966年に発表された直後に読んで動かされるものがあったが、その後は忙しさにまぎれて次第に遠ざかっていた。だが、あの小説の細部は覚えていなくとも、遠藤の提示したテーマは私の中にも残り続けていた。私にも自分の弱さに対する絶望の認識はあったし、私にとってのキリスト教も若いころは、精神的な闘いの対象であったからである。

 こんど、この本を読むに当たって、40年ぶりに「沈黙」を読み返した。司祭ロドリゴが踏み絵を踏まされようとしてたその時、キリストが「踏むがよい」と彼にささやく。「お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」 そして、ロドリゴは踏み絵を踏んで転ぶ。

 山根氏は、この小説が執筆当初は「日向の匂い」というタイトルだったことに注目する。西洋の教会からは踏み絵を踏んで転ぶことによって、ロドリゴは背教者となり、教会を追放されるのだが、それでも内心では自分なりの信仰を持ち続けたらしいことに、西欧のキリスト教とは異なる、もうひとつの究極のキリスト教信仰があったのではないか。その信仰のありようを「日向の匂い」という消えてしまったタイトルが暗示していると考える。これこそが信仰者であるゆえにたどり着いた遠藤周作の到達点ではなかったかというのである。(朝文社・6300円)


2006/08/28 Mon  志賀勝著『月的生活』

 志賀さんは「月と太陽の暦制作室」を主宰している。前著「人は月に生かされている」を出して以来、明治の初めに太陽暦が制度化されて以降、日本文化の根底にある月の文化がないがしろにされてきたのを復権しようと努めてきた。この本は、前著を発表して後の志賀さんの活動と月の文化についての考察をまとめたものだ。

 最近、私の知人の中にも、月暦で年賀状を出す人が増えている。私は旧正月の頃に沖縄に行くことがよくあるが、沖縄では今も旧正月が生きている。しかし、本土ではそれもほとんど消えてしまった、私の郷里では、桃の節句や端午の節句、七夕、お盆などが月遅れで今も行われているが、これは月暦とは関係がない。明治の太陽暦の採用で、便宜的に1ヵ月遅らせたものに過ぎない。

 志賀さんは、この本で、本来の月暦にどんな意味があったのかを日本の古典などから明らかにしている。七夕は今では太陽暦の7月7日に行うから、ほとんどの人は夏の行事だと思っているようだが、月暦の7月7日は秋である。秋の行事になのだ。

 また月暦では、何日といえば、その日の月の形が毎月同じである。三日月とか十五夜とかの言葉は今も生きているが、それは月の形としてだけの意味しかない。しかし、月暦だとその日が何日かを表していたわけだ。だから、かつては月の形でその日が何日かわかったのである。

 それともうひとつ、面白いのは、明治5年(1872年)に月暦が廃止されて、太陽暦が採用されたのだが、この年以降は、何月何日がすべて太陽暦で表示されるのだが、それ以前の日付は月暦である。たとえば、空海の誕生日は774年6月15日である。774年は西暦であるが、6月15日は月暦の日付である。つまり空海は十五夜の日に生まれたのだ。この日は西暦(太陽暦)に換算すると、7月31日である。

 志賀さんはこういうようなことを考察して、月暦の意味を探り、文化として普及させる努力を続けている。なかなか興味深い活動である。(新曜社)


2006/08/15 Tue  備仲臣道著『美は乱調にあり、生は無頼にあり−幻の画家・竹中英太郎の生涯』

 竹中労というアナーキスティックな異能のルポライターのことは知っていたが、そのあくの強い異能ぶりに肌が合わなくて、ほとんど読んだことはない。沖縄に入れ込み、沖縄民謡の嘉手苅林昌らと活動した。その竹中の父親が本書の主人公である。10代でアナキズムや左翼運動に関係し、テロリストとして上京したが、果たせず、若くして横溝正史に見い出され、江戸川乱歩など探偵小説の挿絵画家として名を成した。妖美な画風が一部に人気を博した。

 戦争中、甲府に疎開して山梨日日新聞の記者となり、絵筆を折った。戦後は山梨県の労働運動で中心的な役割を果たしたが、晩年は息子の労の著作や企画などの装丁などをして、再び画家として活動し、1988年、81歳で死去した。

 著者は、28歳の時に山梨時事新聞争議で組合活動家として英太郎に出会い、指導を受けた。その後、雑誌「新山梨」を発刊した際には、彼に顧問になってもらっている。英太郎の前半生については息子の労自身が書いているので、本書ではあまり詳しく触れられていない。戦後の山梨での後半生が本書の後半で、著者と英太郎との関係が具体的なだけに、読んでいて後半の方が面白かった。この本を読んでいると、どうして竹中労という人物が出現したのかがわかるようだ。

 この本は今年2月に出版されて、著者から恵贈されていたのだが、読む余裕がなくて、この夏になってしまった。著者に申し訳なく思う。(批評社)


2006/08/03 Wed  渡瀬夏彦著『銀の夢−オグリキャップに賭けた人々』

 著者は高校生の時に私たちが呼びかけた与那国島サトウキビ刈り援農隊に参加してくれた人である。その時、隊員たちが自主的に出した文集に感想を寄せていて、その文章が私には印象深く記憶に残っていた。高校生にしては自分の体験をきちんと捉え、それを素直に文章に表現していると感じたのである。このとき私は彼と話したわけではなかった。後で手に入れた文集の上でしか渡瀬さんを知らなかったが、その文章だけが長く頭から離れなかった。

 この春、その渡瀬さんから20数年ぶりに連絡があって会った。40台のノンフィクション作家になっていた。このときにこの著書をもらったのだが、4月から大学でマスコミ論の講義をするために、こころはマスコミ関係の書物を大量に読んでいる最中だったから、この本を読む余裕が私にはなかった。夏休みに入って最初に読んだ。ただ本書は文庫版で675ページもある大作である。

 平成4年に第14回講談社ノンフィクション賞を受賞している。この賞はノンフィクションの最高の賞である。読んでみて、非常に読み応えのある作品だった。私は競馬にはまったくの興味がなく門外漢だが、そんな私が読んでもオグリキャップがどんな名馬であったのかがよくわかった。著者は自分を素人の競馬ファンという場に置き、そこからの目でオグリキャップを追いかけている。100人以上の関係者に取材し数年をかけて書いたのだそうだ。生産者、岐阜・笠松の地方競馬時代の馬主、騎手、厩務員から中央競馬に移ってからの関係者、ファンなどにまで取材している。そして、彼の取材に応じた関係者はだれもが優しく温かい言葉でオグリキャップへの愛情を語っている。しかし、それらはどれも通り一遍の言葉ではないのだ。

 その膨大な取材をもとに彼は時に日本中央競馬会のありようなどについて批判もするが、著者の目もまたじつに優しい。競走馬として生まれてきたサラブレッドの運命への限りない愛情が底を流れている。「馬と人」という言葉が何度も出てくるが、あくまで馬が先になっているのは、現実では馬は人間によってきびしい運命を背負わされていることへの批判的な目である。競馬はあくまで馬が中心でなければならないと、インタビューした岡部騎手が言っているが、著者も基本的にその考え方を抱いているのだ。

 競馬通というような感じはこの本のどこにもなく、素人の視点でここまで書けるということが、この本の驚異的な意義でもあるだろう。そのことに感動した。(講談社文庫)


2006/05/12 Fri  門奈直樹著『民衆ジャーナリズムの歴史』

 今年になって、ジャーナリズム関係の本を集中的に読んでいる。4月から大学で「マスコミ論」を講義することになったのが直接の理由で、もうかれこれ30冊ぐらい読んだだろうか。それらの中で特に印象に残ったものは、ここにすでに何冊かについて書いたが、ほかにも興味深いものは数多くあった。多くは、現在のジャーナリズムに対する批判である。ジャーナリズム内部からの自己批判といったものも多い。

 それらの本のいくつかをリストにして学生にも紹介した。ジャーナリズム批判が盛んなのは、私はむしろ現代社会の健全さを示すものだと学生には話した。批判を許さない社会の方がはるかに不健全だからである。だからといって、現在のジャーナリズムの状況がそのままで許されるというものではもちろんない。批判は真摯に受け止める必要がある。まして、現在のジャーナリズム、あるいはマスメディアは、歴史上かつてないほど大きな転換期を迎え、それにどう対応するかの方向は必ずしも見えていないし、近い将来の状況も予測できない深刻な状況にある。

 こういう現状への直接的な問題意識ではないが、ジャーナリズムの歴史を振り返ってみる必要も感じていたところに出合ったのが、本書である。明治の民権運動から戦後までの地方や地域での草の根的なジャーナリズム活動を取り上げて分析したものだ。成島柳北や福地源一郎など中央のジャーナリストについては、これまでも多くの研究や論評がなされていたが、地方のそれについては非常に少ない。それでも、桐生悠々とか菊竹六鼓とかについては、これまでもそのジャーナリズム活動は知られてきたが、本書で扱っている多くの地域ジャーナリストについては、私も初めて知る人が多く、教えられるところが多かった。

 西河通徹、島田三郎、碧川企救男、毛利柴庵、小林橘川、高市盛之助、荒岡庄太郎、弘中柳三、住谷天来、太田梶太といった人たちの活動には、初めて知ったものが多かった。彼は時の権力に抵抗し、民衆の立場に立って大新聞が権力に擦り寄っていくのを批判する活動を行ったのだが、そのすべてと言ってよいと思うが、そのためにやはり時の権力に弾圧され、活動は「挫折」していかざるを得なかった。しかし、これらのジャーナリストの行動の軌跡を追っているうちに、「挫折は敗北か」という疑問も起こってきた。「挫折は必ずしも敗北ではない」と思うに至ったのだ。このことを教えられたことは、本書を読んでの最も大きな収穫だった。(講談社学術文庫・1200円)


2006/03/01 Wed  黒薮哲哉著『新聞があぶない 新聞販売黒書』

 前に読んだ『新聞がなくなる日』に続いて、この本を読むと、ますます新聞はなくなるのではないかと思わせられてしまう。日本の大新聞が数百万部というギネスブックの記録並みの大部数を誇っているのは、再販指定商品であることと、専売店による宅配制度があるためだが、この日本独特の新聞販売システムに鋭いメスで切り込んだのがこの本である。

 そして、新聞社と販売店の関係は、じつに奇妙な関係である。新聞社は、販売店が実際に配達する部数をかなり上回る部数を毎日、販売店に配送する。そして、その配送部数分の卸代金を徴収しているのである。これを「押し紙」というが、新聞社は公には、そんなものは存在していないとしている。だが、「押し紙」に苦しむ新聞販売店からはいくつかの訴訟が新聞社を相手取って起こされており、今ではその存在を知らない人はいないほどだ。そのからくりを本書は明らかにしているのだ。

 米国の新聞の経営基盤は、売り上げの80〜90%が広告料で、新聞販売収入は10〜20%に過ぎないのに対して、日本の大新聞は販売収入が60%で、広告収入は40%ぐらいである。再販商品に指定されているから、全国同一定価で販売収入が入ってくる。これを宅配するのである。再販指定は独占禁止法の理念に反する例外規定で、新聞は文化的な意味から再販商品に指定されていると説明するが、その実態は、むしろ再販指定を隠れ蓑にして、専売店に「押し紙」を押し付けているというのである。実際に販売している以上の部数に対する卸代金を徴収するのであるから、販売店の負担は大きい。「押し紙」の率は、多い販売店で40%にも上るという。

 それを補うのが、折り込み広告であるが、それだけでは「押し紙」分を負担しきれない。そこで奨励金などを新聞社が販売店に出しているというのだ。

 そうなると、折り込み広告の依頼主からは疑問が出るだろう。実配部数と押し紙分を足した部数が、いわゆるABC協会の公称部数になる。折り込み料はこの公称部数で請け負っている。となると、押し紙分の折り込み広告は宅配されていないことになる。これは「詐欺」ではないかということになる。

 しかし、新聞業界は再販指定を守ることに必死である。再販指定は市場原理である自由競争に反するものである。政治家も新聞再販制の実態を知っている。昨今の市場原理主義の動きの中で、新聞の再販制は今後さらに問題になるだろう。一般国民がその実態を知れば再販制は崩れていく可能性は十分ある。事実、民営化した郵政公社は新聞の宅配を始めたい意向のようだ。そうなると、専売店制度が崩れ、公称部数が実配部数に上乗せしたものであることも明らかになり、折り込み広告も激減するだろう。新聞社の収入が下がってくる。新聞経営の土台が崩れるわけで、そうなると、歌川令三氏がいう「新聞の消滅」が近づいてくることになる。日本の新聞は韓国や米国のようには、紙の新聞はなくならないという楽観論も怪しくなってくる。

 先日、TBSの「ニュース23」で筑紫哲也キャスターが読売新聞の渡辺恒雄氏にインタビューしていた。渡辺氏は「大臣から市場原理主義者を排除しなければならない」と言っていた。これに対して筑紫氏はその意味を訊くことをしなかった。竹中総務相を指しているのだが、渡辺氏が恐れているのは、市場原理主義者によって再販制が撤廃されることで、新聞が大打撃を受けることなのである。(花伝社)


2006/02/22 Wed  歌川令三著『新聞がなくなる日』

 私も通信社で記者をし、新聞記者とほぼ同じ仕事をしてきたから、こういうタイトルの本には無関心でいられない。著者は大手紙の編集局長を務めた人であるが、今の日本の新聞の状況を冷静に分析して、クォリティー紙を除いて紙の新聞は2030年ごろにはなくなるだろうと予測している。クォリティー紙も今のような大部数が続くとはないだろうという。これを悲観論と見るかどうか、人によって異なるだろう。

 日本の新聞は、世界でも珍しい大部数である。読売新聞は1000万部、朝日新聞は800万部という、この巨大新聞は、日本独自の宅配制度によって築き上げられてきた。だから、そんな巨大新聞が、今後20数年でなくなってしまうとは思えないという人も多いだろう。日本では、だから新聞がなくなるという指摘に、それをにわかには信じられないという気持ちが働くのはやむを得ないかもしれない。だが、そんなのんきな認識でよいのかどうか。

 なぜ新聞がなくなるという発想が出てくるのか。それはインターネットの普及のためである。米国ではCNNが放送を始めてしばらくした1980年、オーナーのテッド・ターナーが「紙の新聞は10年以内になくなるだろう」と予測したが、26年後の現在もそうはなりそうにない。ターナーが発言したころには、インターネットは現在ほど普及していなかった。インターネットがこれほど普及した現在、「CNNはいまタイム・ワーナーという大きな複合企業体―その規模と力ゆえに自己充足の"メディア惑星"と呼ばれる―のなかで、マルチ・チャンネルやウェブサイトといっしょになってひとつの構成要素となっているにすぎない。」(メディアチャンネル・ログ編集長ダニー・ジェクター)。

 いま、新聞を脅かしているのは、24時間ニューステレビではない。インターネットの個人ログである。韓国はインターネットで日本の3年は先を行っている。米国は7、8年先を行っている。これらのネット先進国の新聞の状況を比較して、宅配制度に支えられた日本でも確実に新聞離れが進んでおり、将来、紙の新聞がなくなることを予測している。とかく業界内にいる人は希望的観測に傾きがちであるが、むしろきびしい現実に真剣に対応すべきだろうと思う。それは紙の新聞の生き残りを図るというようなものではなく、今起こっているメディア革命を受け入れることで、新しいメディアのあり方に脱皮していくということだろう。(草思社)


2006/02/13 Mon  沖縄自治研究会編『沖縄自治州 あなたはどう考える?』

 与那国島からの帰途、那覇に寄ったので、琉球大学に島袋純助教授を訪ねた。早稲田大学大学院で政治学の博士号を取得した気鋭の行政学者で、地方自治論を専攻している。与那国島の「自立ビジョン」の作成に尽力されたのを知っていたので、一度ぜひ会ってみたいと思っていたのだ。朝、ホテルから電話して「午前中なら」ということでバスで出かけ、1時間ほど話した。

 そのときの話は与那国の自立ビジョンについてがほとんどだった。難しい離島で、よくあのビジョンをまとめ上げたものだと感服していたからである。だが、彼は「ビジョンをまとめることよりも、これからあのビジョンをどう実行していくかの方がはるかにたいへんですよ」という。さもありなんというところだ。ただ、あのビジョンは、これまでの沖縄の離島の陳情主義から脱して、どう自分たちの足で立って歩くかという視点でつくられている。私が感服したのは、そういう考え方にあるからだった。

 帰り際に拙著「与那国島サトウキビ刈り援農隊」を進呈したら、お返しにこの冊子を贈られた。読んでみて吃驚した。いま、政府などでは道州制の議論が盛んで、先日には、その道州割り案が報じられていた。中央で議論されている道州制がどんなものかは、私はよく知らないが、かねがね、今の政府の中央集権制には疑問を抱いていた。今の地方自治制度では、地方にはほとんど自治の実体がない。ほとんどすべてのことが中央の規制や支持で管理されている。いま議論されている道州制も基本的には、この中央集権の体質を大きく変えるものではなさそうだ。まず官僚たちが自分たちが持っている権力を手放すことはないと思われるからである。

 ところが、この本で提唱されているのは、沖縄の自治州化への提言である。それも今の憲法で可能だと言うのである。沖縄の歴史、地理的状況、文化的状況などを、世界各地の似たような状況にある地域と比較検討して、自治州を提言しているのだ。

 「自治というのは、自分たちの地域のことは自分たちで決めるということだ」と、本書は指摘する。これは私もまったく同感である。拙著でもこのことを指摘した。これと同じ基盤に立っているのだ。

 沖縄には復帰前から独立論があり、今も細い線でつながっているが、これまでの論は情緒的であったり、経済的自立が困難なことから、大きな支持を得ることはできなかった。だが、そういう地域でも世界には自治による自立を達成しているところがある。スコットランドなどもそうだという。そんな地域から講師を招いて研究もしてきた。これはこれからの道州制を考える上で、ぜひ参考にしてほしいものだ。(沖縄自治研究会のHP http://w3.u-ryukyu.ac.jp/jichiken/)


2006/01/27 Fri  保岡裕之著『戦争ニュース 裏の読み方 表の読み方』

 9・11事件後、米国のマスコミは愛国主義的な報道に傾斜し、それがブッシュ政権のイラク戦争を支えたことはよく知られている。ジャーナリズムの実態が最も明確に表れるのが戦争報道だろう。ひとたび戦争が起これば、事実やニュースがいかに歪められるかは、日本人でも先の大戦を顧みれば明らかである。

 戦後、日本のジャーナリズムは民主主義を基盤にして再出発したが、戦後60年が過ぎて、日本のジャーナリズムは大きな問題に直面している。だが、その危機状況がわかっていながら、それが大きく改善される可能性は、目下、きわめて難しそうに見える。

 フランスに事務局を置く「国境なき記者団」の調査によると、「2004年度の各国の報道の自由度ランキング」で、日本は世界167カ国・地域中、42位だそうだ。1位はデンマークなど北欧を中心にした8カ国。最下位は北朝鮮。中国は162位。ロシアは140位。米国は22位だが、イラクでの米国の評価は108位。日本と同じ42位はチリ、ナミビア、ウルグアイである。イスラエルはパレスチナ占領地区では115位と低いが、自国内では32位と日本より評価が高い。イスラエルは自国内では日本より自由で民主的な報道を行い、堂々と政府批判もしているという。日本は自由であるのにマスコミが報じないタブーが多いということのようだ。

 こういうランキングをにわかに額面通り受け取れないにしても、例えば日本のイラク報道は米国経由のニュースに依存しており、自前の自由な報道が欧州各国に比べて少ないという面があるだろう。著者はジャーナリズム研究のかたわら、フリージャーナリストしても活動している人で、日本のマスコミの現状を、韓国や欧米からの東京特派員などにインタビューし、比較しながら分析している。現在のマスコミ状況をよくとらえていると思う。(講談社+α新書)


2006/01/21 Fri  吉見俊哉著『メディア文化論―メディアを学ぶ人のための15話』

 著者は東大社会情報研究所教授。メディア研究の入門書で、大学の授業のテキストの形式で書かれている。扱われているのは、新聞やテレビ、出版だけでなく、電話から映画、携帯電話、インターネットまで幅広い。それらの発生から現代社会までの変化の過程を見ながら、社会の中で果たす意味の変質を考察している。

 方法、歴史、実践という3つの視点からメディアとは何かを論じているのだが、方法というのは、欧米の社会学者やメディア研究者を中心としたメディア論の発展の歴史である。だが、この解説は必ずしもわかりよいものではない。むしろ第2部からのメディアの歴史や第3部の携帯電話やインターネットなどの現代のメディア状況を取り上げた部分は、文章もわかりやすく、生き生きと書かれている。(有斐閣アルマ・2004年刊)


2006/01/08 Sun  許世楷・慮千恵著『台湾は台湾人の国』

 大学時代に所属していた早稲田奉仕園OBのMLで著者の許世楷さんのことを知った。当時、奉仕園主催のインターナショナルセミナーがあり、それに留学中の許さんが参加していたのだそうだ。それでこの本を買い求めて読んでみた。一読、大変感動したし、いままで知らなかった台湾について大変多くのことを教えられた。

 許さんは1934年、台湾彰化市生まれ。台湾大学法学部を卒業後、1959年、早稲田大学大学院の政治学研究科で修士課程を終了後、東大大学院で博士課程を修めた。博士論文の「日本統治下の台湾」は東大出版会から出ているそうだ。

 日本留学中に台湾独立運動に身を投じ、津田塾大学で永く教えていたが、李登輝政権になって民主化が進み、1992年に台湾に戻り、大学で教えながら独立運動の指導者になって行ったようだ。そして昨年7月、陳水扁総統によって、台北駐日経済文化代表処代表(駐日大使)に指名されて、今は日本に駐在している。共著者の慮千恵さんはその夫人である。夫人も児童文学者で台湾の大学などで教えていた。

 本書の冒頭に「日本には、台湾に暮らす人々は『中国人』だと思っている人が数多くいます。これは大変な誤解です。」とある。著者はこの日本人の誤解を解いて、台湾が独立をめざす理由を実にわかりやすく明らかにしていく。そして、夫妻の33年にわたる日本や米国での独立運動の自分史を語る。その文章はじつに易しく、情熱がたぎっている。その文章に私は感動した。1895年から50年間日本の植民地であったにもかかわらず、台湾の人々が親日的な理由も、この本を読んでみるとよく理解できるのである。

 私は台湾に最も近い島、沖縄県の与那国島に30年以上かかわり続けてきて、今、与那国島が台湾の花蓮氏との地域間国際交流をめざして、特区申請の活動を続けているのを支援している。それでいながら、台湾には一度も行ったことがないし、台湾についてそれほど深い知識を持っているわけでもなかった。戦後の国民党政権の進入によって台湾にある種の恐怖政治が行われていたとか、2・28事件とか、日本統治下で八田與一がダム建設して、農業用水を確保して先進的な感慨整備をしたために、台湾の農業が大いに発展し、感謝されていることなどは知っていたが、最初の疑問、「台湾は中国に一部」というような認識から出るものではなかった。それが間違いであることをこの本で正されたように思う。この本を読んで、与那国と花蓮の交流をさらに支援したいと思った。(はまの出版)


2006/01/05 Thu  中島岳志著『中村屋のボース』

 この本が4月末に出たときに買おうと思いながら、買いそびれていたら、年末になって、大仏次郎(論壇)賞とアジア太平洋賞大賞を受賞したので、慌てて買い、正月の間に読んだ。面白かった。

 中村屋とは、新宿の老舗中村屋である。中村屋はインドカリーで有名だ。中村屋ではカレーとは呼ばず、カリーという。なぜ中村屋がインドカリーで有名になったのか、ということを導入部にして、本書はインド独立運動の活動家ラース・ビハーリー・ボースの生涯を縦軸に、日本のアジア主義を考察している。

 R・B・ボースは英国の植民地下のインドで独立運動のためにテロ活動を行い、大正4年に日本に亡命した。頭山満ら日本のアジア主義者らの協力を得て、中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻にかくまわれ、夫妻の娘と結婚、日本に帰化する。インド独立への思いはやみがたく、日本のアジア主義者らと交流したが、しだいに日本の軍部に影響されていく。そして、終戦の直前、母国の独立を見ることなく没した。

 数奇な生涯であるが、彼の思想の軌跡を著者は冷静にたどっていく。英国をはじめとする西欧近代の克服を、インドの独立を核にしたアジア主義によって新しい世界像を築こうとするボースにとって、朝鮮を植民地にし、中国を侵略する日本は西欧近代の帝国主義と同じではないかとの批判を抱きながら、インド独立に日本軍の力を借りる方向に転じていく。彼はそんな自己矛盾に陥っていき、悲劇的な最後を迎える。

 頭山満、犬養毅、大川周明、松井石根など、思想家から政治家、軍人など日本での広い交流人脈をみると、改めて戦前の日本の、今まであまり見えていなかった姿が見えてくる。この本を読んでいると、戦前の日本のアジア主義者への著者の批判は当然であるが、一方で、極東国際軍事裁判(東京裁判)でインド代表のパール判事が日本の無罪を主張した背景も見えてくる気がする。インドと日本の関係を改めて考えさせてくれる。

 ちなみに、東銀座にあった、やはりインドカレーの店ナイル・レストランは、R・B・ボースと一緒に日本でインド独立運動にかかわった在日インド人が開いた店である。かつてこの店には私もよく行ったことがある。(白水社)


2005/12/27 Tue  バーナード・ルイス著『イスラーム世界の二千年』

 英国生まれで中東史学者の著者が1995年に発表した「The Middle East−2000years of History from the Rise of Christianity to the Present Days」の日本語版である。訳者は敬愛する白須英子さん。翻訳が出た2001年に白須さんから恵贈いただいて、読み始めたのだが、途中で挫折したままだったのを、さきごろ、ジョン・エスポジト編、坂井定雄監修『イスラームの歴史 1 新文明の淵源』を読んだことから、また書棚から取り出して読み始めた。

 エスポジトの本の時もそうだったが、中東史の本というのは読んでいて、時間がかかる。それはなぜだろうかと考えながら読んでいくのだが、やはりこの地域への地理的、歴史的な馴染みが薄いからだろう。書かれていることは私にとっては目新しく、目を開かれることが多いのだが、それがネックとなって、理解に時間がかかってしまうのである。今回も500ページの本に1ヵ月もかかってしまった。

 地理的な馴染みが薄いということと、それに関連してアラブ世界独自の国家観、地理観の問題もあるようだ。現代の地図を開くと、アラブ地域には、アフガニスタンからイラン、イラク、サウジアラビアから西は北アフリカ、中央アジア、トルコなどの国家が存在している。これらのイスラーム国家について、私たちは欧米や東アジアなどの各国を見るのと同じような意識で眺めるのだが、アラブ世界にこの見かたをそのまま当てはめて見るのは、どうも間違いではないかという思いがわいてきた。

 アラブ世界の言語を見ても、大きくはアラビア語、ペルシャ語、トルコ語、パキスタンならウルドゥ語とさまざまな言語があるが、これらの国においてもコーランを読むときはアラビア語である。要するにバイリンガルなのである。そのことがこれらの国々における国家観、世界観にも非イスラーム世界とは異なるものを生み出しているように思われる。これは資本主義と社会主義との差よりも、もしかしたらもっと大きなものかもしれない。(草思社)


2005/11/27 Sun  小栗康平著『映画を見る眼』

 小栗康平さんのことは「交友閑語」でかなり詳しく書いた。この本は今年の夏に送ってもらっていたのだが、読み始めてしばらくして、別に必要があって読まねばならないものが出てきて以来、紛れてしまっていた。気になっていて取り出してきて改めて読み直した。

 この本は1昨年、NHK教育テレビで放送した「人間講座」の内容に加筆したものに、新たに第8章「デジタル技術と映画」を書き下ろして追加している。映画評論や映画監督の回想記などの本はたくさんあるが、この本は、それらとはだいぶ趣きを異にしている。文学や文章には、文体や文法というものがあるが、映画でもそういうことを考えてみる必要があるのではないかという発想が最初にあったようである。だが、映画では、日本語の文法や文体が学校で教えられるようなかたちでは存在しないことに気づく。

 まず、こういう認識が映画作家らしい発想のように思える。そして、映画では大雑把な文法のようなものはあっても、それは個々の映画監督で、あるいは映画作品で変わってくることが多く、学校でこうですよと教えられるような形では存在しないことを明らかにする。

 「泥の河」や「伽耶子のために」などの自作を素材に、彼の“映画文法≠竅g文体≠解説していきながら、話は映画という表現手段の置かれた社会的状況や歴史的状況に広がっていき、さらにはデジタル技術の登場によって、今後もさらに変化していくだろうことを語る。

 ただ映画はいまや世界各国の民族の文化的なものを背景に表現されている面がありながら、米国映画が世界を席巻していることに、ある種の危機感を感じている。米国流の表現方法が生まれたについては、それなりの必然性があるが、それでただちに世界を覆うというのは文化の画一化を生み出すわけで、そこに表現の危機があるという問題意識があるからだ。

 こういうことを語るのは、映画の表現について、製作現場の人たちが苦労して築き上げた画面からは見えないさまざまな努力、あるいは芸術表現としての意図を少しでも観客に理解してもらって、そこから映画に対するリテラシーとでも言うべきものを築いていきたいという思いがあるからであろう。

 かつて小栗さんから「泥の河」の虫に火をつけて燃やすシーンの撮影について聞いたことがある。火のついた虫が河舟のへりを動いて行き、それを追っていく信雄が、舟の隣の部屋の中を窓からのぞくことにつながる、物語にとって重要な場面だ。「あの場面を撮るために、どうやって日のついた虫を這わせるかなんてことを、ああでもない、こうでもないと大の大人が苦労して考えているんですよ」というような意味のことを彼は語った。観客は撮影する人たちのそんな苦労や工夫は考えもしないで、物語に浸って見ているわけだ。

 必ずしも、この本でそういうことを言いたいわけではないが、これもその一つであるかもしれないと思った。しかし、映画というものをこの本のように語ることは稀であるだろう。(日本放送協会)


2005/11/22 Tue  森口豁著『だれも沖縄を知らない−27の島の物語』

 雑誌「週刊金曜日」に連載された沖縄の離島のルポである。私はこの雑誌が好きではなかったので買わなかったから、森口さんのルポを知ってはいたが、連載中は読まなかった。ただ、森口さんは古い友人で、この連載のために取材されたこともあった。小浜島の項で取り上げられているサトウキビ刈り援農に関してである。

 この文章ではキビ刈り援農隊については一言触れただけであり、与那国島の項できっちりと取り上げてほしかったという思いもあるが、与那国島の項では防空識別権問題が取り上げられており、これはこれで沖縄返還の際に日本政府と米国政府によってネグレクトされ、今もって解決されていない重要な問題であるから、与那国島で森口さんがこれを扱ったことはよかったと思っている。

 私が「与那国島サトウキビ刈り援農隊」を出版した時に、森口さんは沖縄タイムスの読書欄で書評を書いてくれた。素晴らしい書評だったと感謝している。今回のこの本を通読してみて、私などよりはるかに長い年月をかけて沖縄を見つめ続け、日本テレビを定年前に退職してからは、1年の半分以上を沖縄の島々で過ごしている彼らしい目が随所に光って、多くのことを教えられた。

 解題で宮台真司氏が、森口さんが単なる左翼でないことを強調しているが、私もそう思う。沖縄に深入りする本土人は初めは左翼であっても、この南西諸島の空間や時間、祖先信仰や古代的共同性などに理解を深めるにつれて、左翼的な殻を脱して不合理なものの持つ魅力(アジア主義的なものと言ってよいかもしれない)を肯定的にとらえるようになる。そして、その意味をより深く考えるようになっていく。そういう魅力が沖縄にはある。他方で、沖縄自身の持つ別の問題もあるのだが…。それらをひっくるめて、これは出色の沖縄ルポではある。(筑摩書房)


2005/11/20 Sun  備仲臣道著『レット イット ビー』

 山梨県・市川大門町に住む備仲臣道さんから、夏の『高句麗残照−積石塚古墳の謎』(批評社)に続いて、先ごろこの本を送っていただいた。備仲さんの長男悟さんは大阪大学4年に在学中の1990年7月5日、がんのために亡くなった。その悲しみの手記で2002年、内田百阨カ学賞の優秀賞を受賞している。

 悟さんが大阪大学文学部に入学して間もないころ、豊中キャンパスの藤棚の下に何人かの学生が集うようになった。悟さんもその1人だった。彼は子供のころから優秀で、文章をよくし、父親の備仲さんはその将来を嘱望していたようだ。藤棚に集まってきた同期生たちは、いずれも優秀な学生たちで、家族の期待を担って大学へ入ってきていた。学業のかたわら、藤棚の下で議論をしたり、お互いの下宿を訪ね合ったりして、豊かな青春の真っ只中にいたのだった。藤棚は彼らの青春のシンボルでもあったようだ。

 ところが、1年生の時に和歌山のみかん農家の息子であった前山泰隆さんが急性心不全で亡くなる。藤棚の集いの友らがその葬儀に出かけた。その後は命日にも墓参した。その3年後に悟さんが亡くなった。そして、さらに3年後には、徳島出身で、大学を出て就職もした樋口京子さんが急死する。備仲さんは山梨から徳島まで葬儀に出かける。

 いずれ劣らぬ俊才であった若い3人の相次ぐ死に、父親としての備仲さんの悲しみは深かったであろう。若い死に、彼らの短い生を追悼したい思いも同時に深かった。その無名の若者の生と死を検証したのが本書である。友人たちの追悼文や自作の作文、あるいは卒業論文、手記や手紙をもとに、さらに遺族にも取材して書かれた。短いがゆえに光り輝いた青春群像には、子を失った親の心情が切々と伝わってくる。(皓星社)


2005/11/15 Tue  齋藤たきち著『北の百姓記』

 山形市郊外の農村で農業をしている齋藤さんを初めて訪ねたのは30年近く前のことである。三里塚の空港反対闘争がマスコミで大きく注目されているころだった。齋藤さんは同じ農民として三里塚を訪ねて闘争から農民としていろんなことを学び、考えていた。それ以後は時どき手紙などを交わしたり、たまに齋藤さんが上京した時に会社に顔を出したりするというような、細い糸でつなっがてきたという付き合いだった。

 その齋藤さんからこの著書が送られてきて、懐かしい思いを感じながら読み通した。彼は山形の“野の詩人”真壁仁さんの弟子で、山形で農業に携わりながら”農”について考え、活動を続けてきた人である。この本は、そんな齋藤さんがこの間、1970年代から2005年までの間に、さまざまな雑誌などに書いてきた文章を集めたもので、読んでいくと彼の農にかかわる生き方が浮き彫りになってくる。。

 その思考は土に根ざす根源的なもので、真の意味でのラジカルな農業哲学と言ってもよいように思われた。彼の言葉で言えば、農民でもなく、ましてや農業者でもなく、百姓として生きるということである。

 そんな齋藤さんの生き方に、若いころの私は感動を覚え、当時、安藤昌益などが再評価され始めたころで、これらを出発点にして「農の思想」というようなテーマで新聞の学芸欄の企画を考えたこともあったが、配置転換で断念してしまったことを読みながら思い出した。

 戦後日本の農政は高度成長とともに農の切り捨てに向かってまっしぐらに進んできた。それを農業近代化と称してきたことを、齋藤は現場で見続け、それに対抗する農のあり方を求め続けてきた。近年、有機農業や環境への関心が深まって、新しい農業の形が進んでいる。それらはまだ緒に着いたばかりだが、都市生活者の環境への関心も強まって、21世紀の農業はこの方向に進みつつあるが、それは農政によってもたらされたものではない。

 ここにこれからの農業の可能性が生まれてきていることに齋藤さんも光明を見ているようだ。だが、その一方で農産物の自由化はますます進み、日本の食糧自給率は一向に改善しない現実もある。そのはざまで齋藤さんの思索はまだまだ続くのかもしれない。(東北出版企画)


2005/11/08 Tue  奥野修司著『ナツコ 沖縄密貿易の女王』

 今年の第27回講談社ノンフィクション賞の受賞作品である。
 終戦直後、沖縄に密貿易時代というのがあった。これについては沢木耕太郎氏の与那国島ルポ「幻の共和国」で与那国島での密貿易時代が描かれていたのが本土に紹介された最初ではないかと思う。私も1974年に初めて与那国島を訪れ、島の人に教えられて密貿易時代のことを知った。

 終戦直後の混乱の時代、1945年から1951年ごろにかけて、与那国島の漁港久部良がその中継基地として栄えた。島の人はだれもがあの時代を懐かしがった。当時の与那国島の賑わいはほとんど狂乱のようなものだったようだ。

 そんな中にナツコという糸満生まれの女性がいて、海の男たちを従えて密貿易を采配したということは、この本を読むまで知らなかった。著者は石垣島の飲み屋で偶然、ナツコのことを知り、それから10年以上をかけて取材して、その実像に迫ったのがこの本である。

 そこから浮かんでくるナツコの姿は、沖縄の戦後史だけでなく、古く大航海時代から沖縄の海を股にかけた活躍までがしのばれる。密貿易というと、犯罪めいた隠微な感じがするが、戦後の物資が不足していた時代に、生きるために生活に必要な食糧、衣類、薬品などを戦勝国台湾から運び、物々交換もした。

 ぼろ船で危険を冒して海を渡り、また台湾の国民政府当局や沖縄の米軍の監視をかいくぐって物資を運び、売りさばく密貿易は、沖縄の人たちが生きるためにはやむをえないことだった。そのことが同時に占領軍である米軍への抵抗の意味も持ち、沖縄はある意味で生き生きとした時代だったような面もある。読んでいてナツコに喝采を送りたくなる。そういう沖縄の戦後史を裏から、難しい丹念な取材を重ねることで、このドキュメンタリーは見事に描き出している。(文芸春秋)


2005/11/04 Fri  木村剛久著『青き淵から−渋沢栄一とその時代(中)』

 著者から以前に上巻を贈られて読み感心した。その続きを読みたいと思っていたが、8月末に会う機会があり、そのときに続編はどうなっているのかと訊いたところ、9月になって送ってきた。すぐに読みたかったのだが、読みたい本が溜まっていて、やっと読んだ。

 この中巻は、明治憲法発布のころから日露戦争が終わった後ぐらいまでを扱っている。このころの渋沢栄一は、財界の大物として活躍する最も充実していた時代であろう。井上馨から彼が組閣を命じられ、その条件として栄一に大蔵大臣になってほしいという。だが、官職に就くことを嫌い、民間人として経済活動を展開することで日本の発展をめざしていた栄一は、井上の要請を断る。

 栄一は自分が頭取を務める第一銀行を実質上の韓国の中央銀行にするなど、韓国にも関心を持っていたが、それは必ずしも韓国を植民地として支配することが目的ではなかったようだ。経済的に遅れている韓国経済を発展させ、韓国人の生活を向上させることが、日本と韓国の双方にとって望ましいという考えであった。そういう観点から物資のと人の移動を助ける京釜鉄道の建設にも手をつけていた。だが、朝鮮半島と満州をめぐって日露の対立が深まってきたことで、この鉄道建設は軍事目的のために建設を促進されることになる。

 彼は必ずしも戦争によって経済的に優位に立とうというような考えはなかったようだ。当時の他の経済人とは異なる思想の持ち主ではないかとして、著者は「志士」という言葉で栄一を表現している。

 経済人の伝記というのは城山三郎の作品が知られているが、この著者の渋沢栄一の評伝は時代状況に詳しく触れながら書かれており、しかも読みやすい文章なので好感を持って読んだ。下巻が楽しみだ。(私家版)


2005/10/28 Fri  大浦太郎著『密貿易島−わが再生の回想』

 先日、沖縄に旅行し、西表島への乗り継ぎの合間に石垣島で立ち寄った書店で購入し、旅行中に読んだ。密貿易島とは、終戦直後から昭和25年ごろまで、与那国島が台湾や沖縄本島、本土などとの闇貿易の中継基地として栄えたことがあったことから、著者がこう名づけたものだ。

 私は著者とは面識がないが、与那国島出身の人であることから、興味を引かれて読んだ。「密貿易」とはいうものの、終戦直後の混乱期で、焼け野原の中で本土も沖縄も極端に物資が不足しているのに応えるという役割もあり、むしろ自然発生的な自由貿易が行なわれたということもできる。その後、台湾側からも、本土からも監視が強化されたが、沖縄を占領した米軍政府などは初めのうちは黙認したようなふしもあることが、この著によってうかがわれる。

 著者は終戦で台湾から密航のようなかたちで与那国島に引き揚げてきた。その後、密貿易船に乗って物資の買い付け、運搬に携わる。監視の目をかいくぐるような仕事だが、多くが成功して自分の船を手に入れる。その後は沖縄本島で事業に成功したようである。

 阪神地方との密貿易ではやくざとも手を組んだりしている。その辺りの回想も面白いが、ひとつ興味を引かれたのは、与那国島の仲里義市さんに関する記述である。一時は地下運動の共産党員だった人で、実はこの人は、私が続けている与那国島サトウキビ刈り援農隊の与那国側の発案者の仲里正徹さんの叔父に当たる人である。正徹さんの息子さんの正孝さんから聞いていたので、義市さんのことが出てきた時にはちょっと驚いた。(沖縄タイムス社刊)


2005/10/27 Thu  外間守善著『私の沖縄と沖縄学』

 私が沖縄に関心を持ち始めたのは1969年で、初めての沖縄旅行から帰って、旅行中に買い集めた沖縄関係の本を読んで勉強を始めた。その後、法政大学におられた外間守善さんを訪ねて、いろいろと教えていただいた。その外間さんが80歳になられるのを記念して教え子の人たちが集まって出されたのがこの本である。刊行会から案内が来て、すぐに予約した。菊判、670ページの大著である。

 外間さんの主要な論文(といってもあまり専門的なものは除外されている)、講演、エッセー、対談などで構成され、この本のために書き下ろされた文章もいくつか収められている。 内容的には、子供のころの沖縄の思い出、言語学やおもろ研究、沖縄学に関するもの、伊波普猷や柳田國男、折口信夫などについての文章、沖縄学の後継者育成のために沖縄県立芸術大学や名護市の名桜大学創設に関連した文章、さらに沖縄学国際シンポジウム、そして何より圧巻なのは沖縄戦での克明な戦場体験の書き下ろしである。

 私はそれまで、外間さんは沖縄戦では首里一中の生徒らで結成された鉄血勤皇少年隊の一員として沖縄戦を体験されたと思ってきたが、それは間違いだった。摩文仁の丘にある「健児の塔」の碑文を書かれたことから、そんな間違いが起きたのかもしれない。沖縄の多くの知人も同じように思ってきた人が多いようだが、外間さんは沖縄戦の時には一中から沖縄師範に進んでいて、山形第32歩兵連隊の二等兵として前田高地争奪戦に従軍し、九死に一生を得て収容所に収容されたのだとこの本で知った。妹の静子さんは対馬丸で学童疎開の途中に亡くなっている。

 終戦翌年の昭和21年秋に東京へ出て国学院に入り、金田一京助に学び、金田一氏の勧めで東大の服部四郎教授について言語学を専攻、沖縄研究に進むことになった。

 この本を読んでいると、沖縄の歴史や文化が日本や中国だけでなく、東南アジアや太平洋諸島の文化と共有するものを持っていて、そのユニバーサルな性格が文化の本質としてあることを教えられる。伊波普猷をはじめとした沖縄の知識人の姿も知ることができて教えられることが多かった。

 10月19日から23日まで私は沖縄を旅行したが、出発前から読み始めていたこの本を旅の途上でも読み続けた。静かな感動が私を包んでくれた。(外間守善先生傘寿記念誌刊行会)


2005/10/05 Wed  秋間平安著『消えた遍路』

 ちょうど1年前、同じ著者の『漫才師殺人事件』を読んで、この欄に感想を書いた。それから1年、9月30日にその彼から贈られた第3作がこの『消えた遍路』である。
 大阪の新聞の整理部に勤める事件記者上がりの北川優基記者が主人公の探偵である。第一線から引いた初老の記者のである。その北川が近づいてきた定年を前に、休日を利用して四国八十八個所の遍路に出る。その途次で白骨死体発見のニュースを聞く。徳島と香川の霊場で相次いで発見された白骨死体。偶然に行き会ったやはり遍路の母子連れ。なにか訳がありそうなその遍路の美しい母親の京言葉に北川は魅せられる。

 特養老人ホームの不正事件に絡んで事件が展開するが、背景のテーマは内部告発の保護制度である。これまでの2作は著者が勤務した体験のある地を舞台にしていたが、今回の高松も支局長として勤務した地である。ストーリーも登場人物も今回すっきりしており、読みやすい。(東京図書出版会)


2005/10/04 Tue  青澤唯夫著『名指揮者との対話』

 先日、コンサートの会場で偶然会った青澤さんから贈られた本である。彼は私と同年齢だが、私の会社時代の最後の職場、出版本部で音楽とは関係のない仕事をしていた。かつては「FMfan」などで活躍した音楽ジャーナリストで、クラシックに造詣が深いとは聞いていたが、彼の文章を読んだことはなかった。

 この本で取り上げられているのは、私もレコードやコンサートで聴いたことのある指揮者たちだが、なかには名前すら知らなかった指揮者もある。セルジュ・ボド、ヘルベルト・ケーゲル、ジョン・ホロウェイの3人は、この本ではじめて知った。

 私は通常、コンサートで音楽を聴くとき、その指揮者がその日に演奏する曲について何を考えているかということを知りたいと思うが、具体的な言葉でそれを聞くことはほとんどない。頭を真っ白にして演奏を聴き始め、終わったときにこちらの心に何を感じたかで判断する。私は音楽好きではあるが、素人で理論的なことを勉強したわけではないから、感じたことは大変あいまいな場合が多い。でも、そこで感じ取ったことをできるだけ自分の言葉に翻訳して書きとめておこうと思う。

 そういう私の音楽の聴き方からいえば、この本は大変参考になる。指揮者が音楽について考えていることを青澤さんは指揮者にインタビューして聞いていてくれるからである。ただ冒頭に登場するセル・チェリビダッケのインタビューにはびっくりした。チェリビダッケについては以前、彼が音楽学生を指導する場面を記録した映像を見たことがある。大変厳格な音楽観を持っていて、録音を嫌う人だとは知っていた。先の映像は自分の息子が撮ったものらしかった。それで興味を持ってインタビューを読んだのだが、私には雰囲気がわかるが、まるで禅問答のような対話なのだった。青澤さんもよく食い下がっているのだが、チェイビダッケの頑固さが強烈に伝わってきて、それはそれで面白かったのだが。

 青澤さんは若いときに音楽を専門的に勉強したらしく、譜面の読み方、楽譜校訂の問題など、ときどき専門的、技術的な話が出てくる。その辺になると私にはよく分からないが、全体としては登場する指揮者たちの人柄や性格が読み取れて興味をそそられた。(春秋社)


2005/09/28 Wed  ジョン・エスポジト編、坂井定雄監修『イスラームの歴史 1 新文明の淵源』

 この春、龍谷大学教授を退官した坂井定雄さんと先月に会った。この本を担当した木村剛久さんと3人で飲んだ。
 坂井さんも元共同通信記者で、私は京都支局長時代、彼にはたいそう世話になった。龍谷大学で2年間、非常勤講師をしたのも彼の紹介だった。坂井さんはベイルート支局長時代、イスラエルのレバノン侵攻に遭遇し、ベイルート陥落の際は、日本人記者としては最後までとどまって脱出した。この取材の体験がもとになって彼は中東問題にかかわってきた。

 京都支局長時代に龍谷大学の法学部開設にかかわり、本社に戻ってまもなく定年を前に同大学に教授として迎えられた。大学では中東問題を中心とした国際関係論を研究したようだ。彼が主催する講演会やシンポジウムに何度か脚を運んだことがある。彼は同大学には12年間しか在籍しなかったにもかかわらず、定年退官に当たっては名誉教授の称号を与えられている。彼が大学に対して果たした貢献の大きさの証明といってもよいだろう。

 私はイスラムについては全くの門外漢であるが、この3巻本を贈られたので、とりあえず第1巻を読んでみた。これを読んでみると、イスラムという宗教は、預言者ムハンマドの時代から政治と密接なかかわりを持ってきたことがわかる。それゆえに、実は先行のユダヤ教、キリスト教、ゾロアスター教などを完全に否定するのではなく、ある種の融和的関係を持ってきた。そして、学問というものに特別の価値を認めてきたように思われる。といっても学問の範囲は限られているが、コーラン(クルアーン)の解釈も政治との関係が中心になっているように思われる。その辺が私には面白かった。(共同通信社)


2005/09/01 Thu  向谷容堂先生記念文集刊行発起人会編「追想 向谷容堂」

 向谷さんは同郷の大先輩である。兵庫県美方郡村岡町の医者の息子として生まれ、旧制豊岡中学を16期生として卒業した。私はこの中学が戦後、県立豊岡高校となり、その12期卒業である。

 向谷さんは中学卒業後、神戸のラシャの輸入卸会社に就職したが、思うところあって早稲田大学商学部に入った。早稲田大学在学中に米国バプテストミッションの宣教師ベニンホフ博士と出会い、彼が早稲田の学生のために設立した寄宿舎・早稲田奉仕園友愛学舎に入り、キリスト教に入信し、早くから博士の片腕として手伝った。卒業後もベニンホフ博士を助けた。昭和16年、日米関係が悪化して、博士が帰米すると、友愛学舎舎監、奉仕園総主事として事業を現場で担って、その生涯を早稲田奉仕園にささげた。1968年11月11日死去。享年71歳。

 本書は、死の翌年、早稲田奉仕員、早稲田大学関係者によって編纂された。大部の書で発刊時に一部拾い読みした程度だったが、それから30年以上過ぎて改めて全編を通読した。向谷さんの人間性が改めて目の前に浮き上がってきた。そして、私には彼がいかにも出身の但馬人らしいと思えてきた。但馬人というのがどういうものかをひと口に言うことは難しいが、私にはそう思えたのである。

 私は姉が通っていた関係で、高校時代に郷里豊岡のキリスト教会に出入りしていた。近くの海岸で行なわれる教会学校の夏季学校や周辺の山村のクリスマス会などを手伝うようになっていた。高校を出て、1966年早稲田に入ることが決まると、教会の牧師の紹介で新宿戸塚2丁目の早稲田奉仕園に向谷さんを訪ね、友愛学舎に入った。ここで大学4年間を過ごした。この4年間の思い出は尽きない。(向谷容堂先生記念文集刊行発起人会)


2005/08/28 Sun  塩野七生著『ローマ人の物語1-2 ローマは1日にしてならず』

 8月前半に出かけたドイツ旅行の往復の飛行機の中で読んだ。この著者のものはルネサンス期をテーマにした作品はいくつか読んだことがあり、私のルネサンスについての知識のもとになっている。「ローマ人の物語」の文庫版が完結と聞いて、手軽になったから読もうと思っていた。

 いろいろと面白いエピソードがたくさん紹介されているが、印象に残ったのはギリシャ人とローマ人の市民権あるいは奴隷に対する考え方が決定的に異なっているという指摘だ。ローマ人は自国の市民権を他国人に与えるのにたいへん鷹揚であったという。それはローマの軍団がローマの市民権所有者のみで構成されていたことが理由であるそうだ。アテネやスパルタの軍隊がせいぜい万単位だったのに比べて、ローマの軍隊は10万単位の大軍団を編成することができ、版図をどんどん広げていった。そして負けた敵国の人民にローマ市民権を与え、自国軍に取り込んでいったのだ。またアテネやスパルタでは、両親ともが市民権を持っていなければ子供は市民権を取得できない制度だったが、ローマではしばらくの間ローマに住むだけで市民権を取得できたのである。

 また、ギリシャでは奴隷は死ぬまで奴隷の身分から抜け出ることはできなかったが、ローマの奴隷には、これを脱する道が開かれていた。長年の献身的な奉仕に主人が報いるとか、お金を溜め込んで自由を買い取ることができた。こうした元奴隷は解放奴隷と呼ばれて、その子の代になると市民権を取得できたのである。これがローマの隆盛につながっていった一つの理由でもあるというのだ。(新潮文庫)


2005/07/10 Sun  備仲臣道著『高句麗残照−積石塚古墳の謎』

 6月に山梨を訪ねて会った著者から先日恵贈されたものである。2000年から2年間、在日朝鮮人によって刊行されている雑誌「アプロ21」に連載された際に部分的に読んでいたが、それに手を入れて1冊にまとまったものである。

 先日聞いたところによると、備仲さんはもともと大阪だったが、祖父の代に山梨に移住したのだそうだ。父君は昭和21年に創刊された山梨時事新聞の幹部で、息子の臣道さんも同社の記者となったが、1970年に対抗紙の山梨日日新聞に吸収されて廃刊となった。臣道さんは山梨時事労組の書記次長として企業閉鎖と全員解雇に反対して立ち上がった仲間とともに闘争した。このとき、闘争を支援した人の中には、評論家竹中労氏の父英太郎氏がいたという。その後、雑誌「月刊新山梨」を創刊し、編集の傍ら、記者時代に県内各地をめぐったことから、山梨の歴史などに関心が広がったようである。

 私は30代のころ、京都で刊行されていた雑誌「日本のなかの朝鮮文化」の編集をボランティアで手伝っていたことがある。作家の金達寿さんが雑誌に連載していた同名の歴史紀行を愛読していた。この紀行が契機となって京都の鄭詔文さんが発行人となって1969年からこの雑誌が出されたのである。この雑誌には、司馬遼太郎さん、岡部伊都子さん、上田正昭さん、森浩一さんらが支援していた。この辺りのことについては「交友閑語」の「鄭詔文さんの思い出」に書いた。

 1970年代の末であったか、雑誌を出していた「朝鮮文化社」が山梨県の遺跡めぐりをした時、鄭さん、金さん、上田さんらに私も同行したことがあった。地元側の案内人に備仲さんがいて、彼との出会いは、それが最初であった。

 本書のテーマである積石塚は、長野、山梨地方に多い古墳の形式で、これは高句麗の様式であることが、森浩一さんらによって指摘されていた。だが、日本の考古学界は戦後になっても皇国史観の影響から抜けきれず、それを認めるには時間がかかった。備仲さんはこの考え方に早くから注目し、山梨に研究会をつくって調査をしてきた。

 古代の高句麗からの渡来人は、リマン海流から対馬海流に乗って能登や越後に直接やって来たと考えられている。朝鮮半島から九州、山陰、あるいは瀬戸内海を渡ってきたルートとは別のルートである。能登や越後だけでなく、出羽あたりにも来ただろう。越後から信州、さらには甲斐にまで到達した高句麗渡来人の文化が山梨に色濃く残っている、その痕をたどっている。本書は、そんな積石塚をめぐる彼の精神史といってもよいかもしれない。山梨の古代についてはもとより、登場する地元のさまざまな人物についての記述が著者の交友を象徴していて興味を誘ってくれる。(批評社)


2005/07/02 Sat  丸山真男著『自由について−七つの問答』

 久しぶりに知的刺激を受ける面白い本だった。私は政治学を学んだことはないし、思想史についても深く勉強したことはない。丸山真男については、若いときに岩波新書「日本の思想」を読み、名著「現代政治の思想と行動」についても、やはり若いときにその一部を拾い読みした程度である。丸山は音楽好きで、フルトヴェングラーのファンであり、音楽についての対話を読んだことがある。

 この「自由について」は、京都で鶴見俊輔氏を中心に結成された「文体研究会」が丸山真男の著作を読んで、その締めくくりに丸山を招いて1984年と翌年、東京と京都で2回にわたって話を聞いた。その座談の報告である。

 思想の正統と異端、仏教が日本思想史にもたらした影響、服従と不服従、丸山におけるマルクス主義の影響、政治家の政治責任と政治思想家の政治責任、ファシズムのレジティメーション現代国際社会における日本の「国民的統合」の意味−などについて論じている。

 マルクス主義には倫理学が欠けているとか、すべてを革命に短絡させてしまう一種の思考放棄などに対する批判などから、丸山がマルクス主義に行かなかったことも明かされており、これには同感するところが多かった。(編集工房SHURE)


2005/06/26 Sun  フィリップ・グドフロア著『ワーグナー・祝祭の魔術師』

 ワーグナー入門書としては簡便な本だ。伝記と主要作品の解説、ルートヴィヒ2世、ニーチェやナチスとの関係、簡単な上演史などワーグナーの楽劇に関することが的確に描かれている。写真や図版が豊富で、これがよい。(創元社)


2005/06/24 Fri  高橋克彦著『ゴッホ殺人事件』

 推理小説は最近はほとんど読まないが、この人の作品は「写楽殺人事件」や「広重殺人事件」など浮世絵を扱ったものを以前読んで感心したことがある。これもよくできている。
 ゴッホはその生涯も描かれた作品もあまりに有名で、研究もし尽くされているように思われ、そのためにゴッホをテーマにした推理小説を書くなどということは無理だろうと考えがちである。死角がないように思われるからだ。ところが、著者はそのゴッホについての死角を見つけ出した。

 ゴッホは1890年7月27日オーヴェールで拳銃自殺を図り2日後に死んだ。腹部を撃っており、使った拳銃はいまだに発見されていない。ここからゴッホ他殺説を打ち出して、これが事件の鍵になって展開する。弟テオとの間の手紙も巧みに使っている。読んでいると、ゴッホの手紙を読み返してみたくなってくる。
 ナチスの名画収奪やモサド、日本との絡みなども出てきて、設定はサスペンス小説風でもある。(講談社文庫・上下2巻)


2005/06/02 Thu  プルースト事典編纂室著「『失われた時を求めて』登場人物事典」

 フランスの作家マルセル・プルーストの長編小説「失われた時を求めて」は、1913年に第1編「スワン家のほうへ」が発表されたが、プルーストの生前に出版されたのは第4編「ソドムとゴモラ」までだという。その後、遺族により続編が出版され、最終の第7編「見出された時」が出たのは1927年だった。私は若い時に、「花咲く乙女たち」を読み始めたことがあるが、途中で断念してしまった。それから一度は全編を読み通してみたいと思ってきたが、いまだ手につかないでいる。

 日本語訳は部分的には、さまざまな仏文学者が翻訳しているが、1988年に井上究一郎の個人全訳が出ている。私もこれを持ってはいるのだが。

 多摩読書会というグループが井上訳のこの小説を取り上げたのは1977年。まだ全訳が完成する前だった。読み始めると、登場人物が膨大な数にのぼり、しかもそれらが錯綜している。そこで登場人物の整理を始めたのである。この本は、そのうちの主要な100人の登場人物について整理をした事典である。完成までに25年がかかっている。男性1人、女性5人のグループである。

 たいへんな労作である。この事典は本編を読みながら参照するという形式ではなく、それぞれの人物について、小説の中の記述をもとに、人物像が分かるように工夫されている。だからこの事典を読むだけで、かなり小説について理解できる面もある。

 だが、ここの記述については、用字用語が統一されていないという問題もあるが、「失われた時を求めて」という読者層もかなり限られる作品についての事典であることを思うと、これだけのものを完成した多摩読書会に深い敬意を表したい。(東京新聞出版局)


2005/05/30 Mon  前田和茂著『じぞうボタル』

 12編の童話集である。小学校高学年から中学生あたりを想定した児童文学だが、大人が読んでも味わい深い。著者は75歳で、佐賀県伊万里市の小学校長や教育長を歴任された人だが、子供への視線が教えるという上からの目ではなく、視線が子供と同じ高さにあることがまず印象に残る。そして、描かれているテーマの多くが孤独である。孤独の悲しみ、やるせなさ、それを背景に沈めて、他者への優しさを描いているのが静かに読者の胸を打つ。素晴らしい童話集である。(佐賀新聞社)


2005/05/24 Tue  岩根承成著『群馬事件の構造−上毛の自由民権運動』

 群馬事件とは、1884(明治17)年5月、妙義山麓の貧困農民が、上毛自由党員と連合して、重税、負債からの解放をめざして武装蜂起し、金貸しの生産会社を襲撃焼き討ちした事件である。松方正義大蔵卿のデフレ政策で貧困が増大し、一方で議会開設を求める自由民権運動が拡大した時期で、この両者の関係を学術的に調査研究してきた地元学者の論文集である。1882年の三島通庸県令の圧政に抗して立ち上がった福島事件、1884年11月の秩父事件との関係についても考察し、事件が発生した歴史背景、社会基盤、農村の状態などを丹念に調べた労作である。優れた研究ではあるが、学術論文であるために一般書としては難しいと言えるかもしれない。(上毛新聞社)


2005/05/18 Wed  玉置半兵衛著『あんなぁ よおぅききや−京の言の葉 老舗の遺心伝心』

 元禄時代創業の京都の老舗、半兵衛麩十一代目主人が、親から教えられた老舗の商売の心、人間の生き方を戦前から戦後にかけての時代の移り変わりに絡ませて説いた随筆集。先祖を大事にし、その教えを親から子へ語り継いでいった京都人かたぎともいえるものが髣髴とする。その中心にあるのは、先祖の顔に泥を塗るようなことをしてはいけないという哲学である。このことは「先義後利」という言葉で表される。正しいこと、お客さんに喜んでもらうことを第一とし、利益はその結果としてもたらされるものだという考え方である。代々続いた京の老舗の商人の心を伝えている。
 著者は昭和9年生まれ。戦前から戦後にかけての戦争をはさんだ時代に五条橋に近い問屋町で少年時代を過ごした。懐かしい京の風物も書き込まれて味わいもある。(京都新聞社)


2005/05/15 Sun  並木鏡太郎著『京都花園天授ケ丘−マキノ撮影所ものがたり』

 著者はマキノ省三が創立した無声映画の撮影所に脚本家として入り、助監督を経て監督になった人である。嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」シリーズなど生涯に約80本の映画を監督したという。大正末年から昭和4年まで在籍したマキノ撮影所で、坂東妻三郎、月形龍之介、市川右太衛門、片岡千恵蔵ら大スターの活躍の陰で勃興期の映画を支えた無名の俳優やスタッフたちの日常の哀歓を大長編小説に仕立てている。

 映画人らしく、映画のカット割りやモンタージュ技法を髣髴とさせる文体で、そんな世界を生き生きと描き出している。2001年、99歳で亡くなる直前まで書き続けたそうだ。資料も豊富に引用し、当時の映画界とそれを取り巻く社会の状況を客観的に肉付けしながら、書かれているのは体験に基づいたものではあるが、あくまで小説の形をとっている。(愛媛新聞社)


2005/05/08 Sun  財団法人石川県教育文化財団編『8月27日−旧満州国白山郷開拓団』

 白山郷開拓団は旧満州チチハル市から東北に約60キロの大平原に入植した。昭和14年、16人の先遣隊に続いて約400人が相次いで石川県などから入植したが、昭和20年に敗戦で、中国人の報復襲撃に遭い、多くの開拓民が集団自決という悲惨に結末を迎えた。生存して脱出した人たちもチチハル、奉天での難民生活の間に相次いで死亡し、日本へ帰り着いたのはわずかに過ぎなかった。

 満蒙開拓団の実情についてはこれまでもいくつかの報告があるが、事件後60年近くになってまとめられた本書の意義は大きい。調査も生存者が酸くなっている状況の中で、聞き書き、現地調査なども加えて丹念になされている。当時の国策に従って開拓団に参加した人たちの悲惨な運命を再現するとともに、生き残った人たちの戦後にも触れて、あの戦争とは何だったのかを現代に突きつけている。貴重な報告である。(同財団発行、北國新聞社)


2005/05/06 Fri  進上芳雄著『藤岡町20世紀に活躍した人』

 栃木県藤岡町の20世紀を生きた人物列伝。一読して、藤岡町はこれほど多くの人物を輩出していたのかと驚く。こういう出版は地域の文化を発掘するという点で地方新聞社として大いに勧められるべき仕事である。

 だが、この本に限って言えば問題点もある。ひとつは文章である。読みやすい文章と読みにくい文章が混在している。藤岡町の人なら当然だれでも知っていることでも、他の地域の人にはわからないことがある。何をした人なのかを各人物の表題なりに明示すべきだが、そうされている人といない人がある。そういう読む人の立場になって書かれていないことが残念だ。写真や図解が豊富なのはよいが、関連地図などが内容に沿って付けられていればよいのだが、それがランダムに付けられているために、これも読者にとってはわかりにくい。テーマ、発想はよいが、本としての完成度が今ひとつなのは惜しい。(上下、下野新聞社)


2005/05/04 Wed  若松みき江著『「約束の夏−約言」』

 満州からの引き揚げ体験を描いた自伝的な小説である。素直な文章で当時8歳だった自分と母親、弟たちの満州での暮らしや引き揚げの過程を丹念に描いている。戦争体験の風化が言われるときに、こういう小説の持つ意味は大きい。(北海道新聞社)


2005/05/03 Tue  与並岳生著『思五郎が行く−小説琉球劇聖°ハ城朝薫』

 おそらく2000枚を超える大作である。沖縄の伝統芸能である組踊を創始した17世紀から18世紀の琉球に生きた玉城朝薫(1684-1734)の生涯を描いている。調査も丹念で、重量感もあるたいへんな労作だ。読後の充実感もある。朝薫の生涯だけでなく、17世紀から18世紀にかけての琉球王朝の状況も見えてくる。これまで平敷屋朝敏の作とされてきた組踊「手巾の縁」を朝薫の作とする新説なども提起するなど、沖縄芸能史にも一石を投じる作品になっている。

 だが、先島に課せられた人頭税に触れていないのはなぜだろうか。人頭税は1637年制度化されたというが…。また残念なことに、誤植、脱落などがあまりに多いことだ。その点が惜しまれる。(上下・琉球新報社)


2005/04/20 Wed  松方三郎著『エッセー集 山で会った人』

 松方三郎さんは、私が37年間勤めた共同通信社の初代常務理事兼編集局長で、のちに専務理事になった人である。明治の元勲、初代伊藤博文内閣の大蔵大臣を務めた鹿児島藩士、松方正義の13男として生まれたが、正義の3男、松方幸次郎の養子として届けられた。幸次郎は川崎造船社長で松方コレクションで知られる。しかし、三郎さんは、実際には正義の長男巌の家で育てられた。巌が亡くなると、三郎さんは巌の家督相続人となっている。松方家は公爵であったが、巌は頭取を務めた十五銀行倒産の責任を負って爵位を返上したので、三郎さんが爵位を継ぐことはなかった。いずれにしても、すごい家柄であったわけだ。

 学習院に進み、高等科卒業のときは恩賜の銀時計を受ける秀才で、乃木希典学習院長や鈴木大拙教授を尊敬していたという。京都帝大経済学部へ進み、河上肇に傾倒したそうだ。京大を出たあと、東大大学院に進むが、登山に熱中し、穂高の岩壁で遭難したこともあった。近衛歩兵第一連隊に志願兵として入営したが、肋膜炎で除隊、その後欧州へ留学する。ロンドンを中心に3年を過ごすが、夏と冬はスイスで過ごし、アルプスには30回以上登ったそうだ。

 戦後は共同通信の専務理事を務めるかたわら、日本山岳会会長など要職を歴任した松方さんは昭和48年に亡くなった。私は昭和40年に入社したが、すでに引退していて直接会ったことはないが、先輩から人柄や彼の専務理事としての仕事などについて聞いてはいた。
 この本は、1929年から72年までに「日本山岳会報」などに書いたエッセーを集めたものである。1975年10月20日発行であるから死後2年後に出たものだ。日本アルプスの命名者ウェストンや小島烏水、槙有恒などとの交友が、ゆったりとしたおおらかな文章で語られているのが印象的だ。松方さんは富士山が好きで、毎年のように登ったとある。いろんなコースがあって多様な登山ができるからだと富士山のよさを挙げている。(築地書館)


2005/04/09 Sat  有本倶子編『山田風太郎 疾風迅雷 書簡集』

 昨年末に編者の有本さんから贈っていただいたのを、やっと読むことができた。有本さんは私の郷里に近い兵庫県養父市関宮在住の歌人で作家。同郷の人気作家、故山田風太郎さんを研究し、関宮に「風の会」という風太郎研究の会を結成、3年後の1昨年、郷里に山田風太郎記念館の設立を実現した。

 山田風太郎は「くの一忍法」など伝奇的な大衆小説のベストセラー作家と見られているが、そんなイメージに納まる作家ではない。もっと大きな作家であると気づいて、彼女は風太郎記念館設立運動をするかたわら、風太郎を研究してきた。山田風太郎は小説以外では、「戦中派虫けら日記」や「戦中派不戦日記」が昭和史の一断面を伝える資料として高く評価されている。

 この書簡集は、山田風太郎が旧制豊岡中学40期の同級生3人に宛てた42通の手紙を採録したものである。中学卒業直前から、松山高校、松本高校などを受験して失敗し、郷里を出奔して上京、沖電機に勤め、さらに東京医専(のちの東京医科大学)に入学したあと、昭和14年から破線直後の昭和20年12月までの手紙である。17歳から23歳までの人生において最も多感な時代の手紙である。一読して、その文才に驚いた。手紙のあて先は、江田島の海軍兵学校に入った小西哲夫氏と陸軍予備士官学校に入った吉田靖彦氏。

 中学時代に豊田町の書店ひさや(私も高校時代にこの書店をよく利用した)で本を万引きして停学処分を受けた経緯や、受験の状況、東京へ出てからは医専での勉学や戦況への感想、東京空襲の状況などが伝えられている。医学の勉強のかたわら、文学や思想への思いを持ち続けた様子もわかる。終戦をはさんだ時期には、捨てきれない戦中の思いに屈折した心境もつづられている。  敗戦と米軍の進駐に簡単に思想を切り替えられない心境に、当時の学徒の、ある意味で誠実な精神状況を見ることができる。(神戸新聞総合出版センター)

2005/04/08 Fri  前田速夫著『余多歩き−菊池山哉の人と学問』

 雑誌「新潮」の編集長を務めた前田さんは、芥川賞作家吉田知子さんや直木賞作家車谷長吉さんを世に出したことで業界では知られる。私の古くからの友人であるが、その前田さんが民俗学をひそかに研究していたことは、前著『異界歴程』を恵贈されるまで知らなかった。その前著を読んだとき、白山信仰について調べていた前田さんが、やはり同じ関心を持っていた民間学者の菊池山哉について触れた文章があり、私は山哉についてそれまで知らなかったが、前田さんがこの人物に並々ならぬ関心を抱いていることは、その文章からうかがわれた。

 そして、山哉について書いたこの評伝は、今年の読売文学賞(評論・伝記部門)を受賞したのである。長年の付き合いもあり、授賞式に出かけてお祝いを言うことができた。読んでみて、なかなかの労作であると知った。東京の府中に生まれ、旧東京市の土木技師であった山哉は、東京の内陸にまで貝塚が多いことなどから考古学に関心を抱く。それが三多摩の地域史にまで関心が広がり、被差別部落の起源に関心が拡大していく。被差別部落に白山信仰が多いことから、白山信仰について独力で東北から関西、西日本まで 各地を踏査する。雑誌「多麻史談」を起こし、これを拠点に旺盛な論文を発表する。そこから日本民族の機嫌などにまで論を進める。

 当時のアカデミズムに積極的な批判を展開し、在野の民間学を推し進めた。なにしろ全くの独学であるから、論理の精密さにおいては粗雑な面もあるが、アカデミズムにはない大胆な仮説を次々に提出していった。その仕事には柳田國男など注目する学者も多かった。
 前田さんは、その山哉の学問と足跡を丹念にたどり、忘れられてきたこの民間学者の現代的意味を再評価した。(晶文社)

2005/03/04 Fri  萩谷由喜子著『田中希代子−夜明けのピアニスト』

 私は素人のクラシックファンで、田中希代子の名は知っていたが、その演奏を聴いたことはなく、戦後国際的に活躍したことを知っているぐらいで、実際にはほとんど何も知らないできた。友人の萩谷さんがその伝記を書いたというので、著者から直接買って読んだ。

 音楽的環境に恵まれた両親の元で幼児期からピアノを習い、しかも師事した師がレオニード・クロイツァー、安川加寿子だったのが、彼女のピアニストとしての素質を開花させた。18歳でフランスに留学し、そこでの師がまた安川の師であったラザール・レヴィということも幸運だった。この幸運というのには意味がある。私は音楽に素人だから専門的なことはわからないが、当時のピアノ演奏には大きく2つの流れがあり、それはハイフィンガー奏法と重力奏法というのだそうだ。

 あえて簡単に言えば、前者は指を鍵盤に対して直角に打ち下ろすが、後者は鍵盤に対して指の腹を添わせるようにして弾く。前者では奏者は体力的に大きな力を必要とするが、後者は自然の体の重力を活用するので無理が少ない。クロイツァー、安川、レヴィはその後者の奏者であったという。当時の日本では前者が主流で東京芸大の指導は前者が中心であった。ピアノ指導においては単純に後者がよいとは言えないらしいが、希代子は芸大に入る前に留学してしまったので、前者の影響を受けることがなかった。それが彼女がヨーロッパで高い評価を受けることにつながった面もある。

 戦後の国際的な活躍の絶頂期であった35歳のときに膠原病にかかり、コンサート活動から引退、以後はピアノ教師として若い才能を世に出したが、1996年脳内出血で逝った。64歳だった。彼女のレコードはほとんどなく、晩年に三善晃、安川加寿子、遠山一行ら友人たちが集まって「田中希代子のレコードをつくる会」が結成され、内外の関係先からオリジナルテープを集めて7枚のCDが出されたそうだ。この本を読んで、これを聴いてみたいと思った。
 余談だが、この「レコードをつくる会」に青澤唯夫氏が参加したとある。彼は私の共同通信出版本部長時代に私の部下として仕事をしてくれていた人である。(ショパン)

2005/03/04 Fri  木村聖哉著「『むすびの家』物語」

 ご恵贈いただきありがとうございます。感銘深く読ませていただきました。
本に登場する貴兄の盟友、故那須正尚さんとは、小生らが呼びかけてスタートした沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊に参加いただいて知り合ったのですが、お互いに自分の引きずっているものについては詳しく話し合うことはなく、私が仕事にかまけている間に逝ってしまわれたようなことで、後で援農隊の渡辺和夫さん聞いて最期を知ったような次第です。

 彼が同志社で鶴見俊輔さんの教え子だったこと、その関係で「思想の科学」に入り、編集長をされたこと、その後、奥多摩の檜原村にこもって樵や炭焼きをしたこと、さらにNHKの大河ドラマなどの編集をされたが、その後それも辞められたことぐらいしか知らなかったのですが、それでも私にとっては援農隊の活動で助けてもらったことなど、忘れることのできない人です。

 那須さんとは別に、この本で今村忠生さんのことが出てきたのには吃驚しました。今村さんとは、十八年前に私の友人の映画監督小栗康平さんがつくった映画「伽耶子のために」を大阪で上映した際、詩人の金時鐘氏らと上映実行委員会をつくることになり、そのときに時鐘氏から「同じ吹田に住んでいる友人」として紹介され、上映に協力してもらったのです。
 相当風変わりな人だなあという印象でしたが、先日亡くなった叔父に当たられる京都の有名な小児科医師、松田道雄さんの話などうかがったことがあります。松田さんの著書「ロシア革命」は若い日に読んで印象が強かっただけに、今村さんの話は興味を惹かれました。時たま、忘れたようなころに、変な朝鮮語で突然電話してきて吃驚させられたことも再三です。

 また、私の文化部長時代に現場の記者がやはり医師の徳永進むさんのコラムを連載していただいたことがあり、これまた、そうだったのかという思いをいたしました。木村さんについても「話の特集」時代に知ったぐらいで、那須さんとの関係を知ったのは相当後になってからですね。

 ところで、私も大学時代を早稲田奉仕園の友愛学舎というキリスト教の学生寮で過ごし、FIWCと似たワークキャンプに参加していました。早稲田奉仕園の学生会活動で精神障害者の施設や売春婦の更生施設などでの労働奉仕でしたが、ハンセン病にまで意識は届いていませんでした。与那国島のサトウキビ刈り援農隊も、言ってみればこの学生時代のワークキャンプの延長線上のものかもしれません。援農隊自体はいまも続いており、今年で22年になりました。援農隊といっても、島の経済活動に対する労働提供なわけで、日当と旅費を一定程度もらい、滞在中は農家や民宿に分宿して、農家の畑や製糖工場で働くわけです。いまは主に冬場に仕事がなくなる北海道の農家の若者や、屋外作業に従事している人たちが、ちょっと変わった出稼ぎといった感覚で参加してくれます。

 それにしても、この本でいろいろ古いことを思い出させられましたし、なにかどこかで底流として貴兄らのやっていたこととつながっていたのかな、という感懐を抱かされ、懐かしい思いになりました。いずれそんなことをゆっくり話せる機会があればとも思っております。ありがとうございました。(岩波書店・1998/9)

2005/02/25 Fri  松田博公著『鍼灸の挑戦 自然治癒力を生かす』

 著者は共同通信文化部で私より3年下の同僚だった。この1月に定年退職した。退職と同時に本を出すというのは見事な引き方である。これは編集委員として勤務する中でライフワークとして取材を続け、地方紙に連載して爆発的な読者を得てきた人気企画であった。

 私も出版本部長をしていたときにこの連載記事に注目していたので、本にするようにアドバイスした記憶がある。そのときはもちろん共同通信から出版しようと私は考えていたのだが、私が退任したので、そのままになっていた。それが岩波新書になったのだから、著者にとってはこの方がよかったのはいうまでもない。

 さて読んでみると、全国各地の鍼灸医療に従事している人たちの話が満載されていて、西洋医学に飽き足らず、鍼灸に望みを託す患者にとっては、情報が多く体の悩みに苦しむ人には格好のガイドブックにもなっている。ただこの本は各地の鍼灸師の臨床経験を紹介するだけでなく、日本の鍼灸医療の現状やその目指すものなど文化的、社会的あるいは思想的な意味でも優れた啓蒙の書になっている。(岩波新書)

2005/02/21 Mon  渡辺裕著『マーラーと世紀末ウィーン』

 15年前に筑摩書房から出た「文化史のなかのマーラー」を改題して文庫化したものである。筆者は音楽学者であるが、これまでの音楽学者の研究が作曲家の伝記的なものか、純粋な作品研究、あるいは音楽史的研究が主流だったのを、この本ではマーラーが生きた世紀末のウィーンの文化思想状況を音楽に限らず、クリムトなどの絵画、オットー・ワーグナーなどの建築、フロイトの心理学、ショーペンハウアーの哲学などとの関係から、マーラーの音楽を分析しているところに興味をひかれた。

 トーマス・マンの短編「ヴェニスに死す」を映画化したヴィスコンティの作品のエピソードなどのほか、マーラーのポストモダン性を論じたり、またマーラー作品の演奏史を分析することでマーラーの現代的演奏を論じたりする。それはかなり知的な興奮を覚えるものだが、その語り口はやわらかく、読み物としても楽しかった。(岩波現代文庫)

2005/02/08 Tue  斎藤美奈子著『文章読本さん江』

 「文章読本」あるいは「文章の書き方」といった本はほとんど星の数ほどありそうな感じがするほどである。谷崎、川端、三島、丸谷才一から、中村真一郎、井上ひさしなど作家の書いたものだけではなく、新聞記者、学者、評論家から最近ではインターネットホームページの流行を反映したネット関係者まで、枚挙にいとまがない。

 この本は、そんな文章指南書を取り上げて、女性の筆者の目からこれらを書いているのがすべて男性であることに注目して、ちょっと冷やかしのような視点、それでいて鋭い批評の目で斬っていく。その手法はなかなか面白く読ませる点でもあり、この本が先年の読売文学賞を受賞したと聞くと、こういう本が受賞するような時代になったのかと驚くとともに、これまでのまじめ一方の文学賞が相対化されてきたのだな、と妙な納得もすることになる。

 しかし、読んでみると、この筆者は案外まじめで、「赤い鳥」や綴り方運動などの歴史を詳細に検討していて、その分析には相当な力が込められていることがわかる。(筑摩書房)

2005/01/25 Tue  鶴見俊輔・岡部伊都子著『まごころ−哲学者と随筆家の対話』

 京都の岡部伊都子さんから送っていただいた。2003年11月19日、京都市北区出雲路の岡部さん宅で行われた対談をまとめたものである。岡部さん宅には私も何度か訪れたことがある。鶴見さんとの対談が行われたのは、写真から見ると2階の和室らしい。私もこの部屋で、1986年の夏に大阪から本社へ転勤する際に、岡部さん、鄭詔文さん、上田正昭さん、金時鐘さんらに貴船で送別会をしていただき、その後の2次会をこの部屋でやっていただいた。懐かしい部屋である。

 この本は、二人が非常に大事なことを語り合っているが、それは難しくはなく読みやすい。2時間ほどで読み終えることができた。子供のころから病弱だった岡部さんは「私には学歴はなくて病歴がある」と書いている。この言葉の意味について鶴見さんは「病歴は学歴に勝る力を持つ」という。病気で寝ていると、自分の中の自分と対話することになる。この自己内対話によって岡部さんの精神が形成されているというのである。

 岡部さんは1954年、大阪のラジオで400字の随筆「おむすびの味」を書くことから随筆家として出発した。ラジオで聞いてわからないような難しい言葉は使えない。やさしい言葉で書くということがここで訓練されて、それが岡部さんの文体をかたちづくっている。やさしい言葉で書くということは、普通の人の視点で書くということである。これはやさしいようで難しい作業である。それを続けているところに岡部さんの強さがあるように思われる。

 この本では金達寿や金時鐘などの在日朝鮮人文学が、日本の近代文学とはまた異なる日本語文学の最高のものを生み出しているという指摘を鶴見さんはしている。これも興味深い見方である。私も同感である。ほかにも画家須田剋太の人柄の意味も面白い。米国人学者ハルミ・ベフ、詩人竹内てるよ、西田幾多郎と柳宗悦のエピソード、良寛、富永仲基、韓国の詩人高銀などの挿話も興味を引かれた。(藤原書店)

2005/01/04 Tue  山内甲子著『父への讃歌』

 与那国町農協の組合長だった故仲里正徹さんのご遺族から年末に贈っていただいた『父への賛歌』を正月に読んだ。三女の方が書かれたもので、正徹さん自身の「私の子供の頃」とご長男の文章も収められている。ご遺族の間で記憶にとどめようとされたらしい私家版の書である。

 正徹さんが生まれ育った与那国島をいかに愛し、島のためにいかに尽力されたかをお子さんたちの目から描いている。もっとも感銘を受けたのは、正徹さんが農協組合長として島のためにすべてを投げ打っておられるのを見て、7人の子供たちはそれを理解し、父に負担をかけまいと、進学するに際して、すべて自分たちの力でやってきた。そうすることによって父の仕事を側面から助けているつもりだったというのである。与那国島の人は自立心、独立心が強いことに私はかねがね感銘を受けてきたが、ここにはそんな与那国人の生き方の真髄が表れているように思った。

 だが正徹さんは農協の導入預金・不正融資事件によって農協法違反、背任で逮捕される。この悲劇に直面したご家族の当惑とそれからの苦悩は察するに余りある。しかし、この本に描かれている正徹さんの誠実な人柄は、私が援農隊の活動の中で見てきた正徹さんと寸分違わないものだった。私もまた仲里正徹さんに限りない好意を抱いていた。

 与那国島で何度か、組合長職を降りた仲里さん宅を訪ねたことがある。一度は、そこで島の人数人といっしょになった。島の人たちは、私たちが金儲けのために援農隊の労働力を斡旋していると見ていた。それに対して、正徹さんは「そうではない。藤野さんたちはボランティアでやっており、農協は一銭も払っていない」と言ってくれたのだった。また一番下の息子さんがUターンして島に帰ってきたときには、うれしそうな表情で喜びを表した。援農隊を続けようと私が考えた背景にはこの仲里さんへの思いがあったからといってもよい。

 正徹さんがクモ膜下出血で倒れてから死に至るまでは、この本で初めて詳しく知った。そして、親子の情愛というものがこれほど純粋なものであることをこの本で改めて教えられ、心を撃たれた。(私家版)

2005/01/03 Mon  岩本順子著『ドイツワイン 偉大なる造り手たちの肖像』

 ハンブルグとサンパウロを行き来しながら、ドイツワインの世界を追っている姪のワインに関する2冊目の著書。前作はラインヘッセンの名醸造所ケラーでの体験記『おいしいワインが出来た!』(講談社文庫)だったが、今度の本は、ドイツワインの3人の名醸造家(ケラーマイスター)を取り上げている。

 プファルツ地方のミュラー=カトワール醸造所の前醸造責任者ハンス=ギュンター・シュヴァルツ、ルーヴァー地方のカートホイザーホーフ醸造所の現醸造責任者ルードヴィヒ・ブライリング、そしてザール地方のエゴン・ミュラー醸造所のオーナー、エゴン・ミュラー4世と前醸造責任者のホルスト・フランク。

 ヨーロッパ・ワインには、歴史に残る偉大なワインが生まれた年というのがある。ことにドイツでは1959年、64年、65年、69年、71年、73年、75年、76年、80年代の後半、90年、94年、97年、99年などが挙げられるようだ。天候に助けられることもあるが、醸造家たちのさまざまな知恵と工夫がそれらを実現したのである。

 この本は、そういうドイツを代表する醸造家にインタビューするだけでなく、時にはいっしょにブドウ畑の手入れにも参加して、それぞれの地方の風土や歴史、文化、自然環境にも目を配り、どのような工夫がなされてきたかに迫っている。そして、世界で最も美味いとされるドイツの銘醸ワインがすべて、これらの偉大な醸造家による手仕事から生み出されているのを知ることができる。

 1本のヴィンテージワインの背景にどんな世界が広がっているかを読み取ることができて、ワインの香りと味わいをいっそう深くしてくれることになる。(新宿書房)

2004/12/29 Wed  三島由紀夫著『文章読本』、丸谷才一著『文章読本

 この2冊も何十年ぶりかで再読した。
 三島氏はこの本の目的を「読む側からの文章読本」に限定している。そして、「誰にでも書けるように見えるごく平易な文章、誰の耳目にも入りやすい文章、そういう文章にも特殊な職業的洗練がこらされていることは、見逃されがちです」と書き、どの文章にどんな工夫がこらされているかを例を挙げて紹介している。
 よい文章には「格調と気品」がなければらないとも言う。その通りだと私も思う。ただ「格調と気品」には逆説的なそれもあるから、何が格調で、どこから気品が生まれるかは簡単には言えないところがある。

 その点、丸谷氏の方は、文章を書くにあたっての実際に則して文章を説いている。「ちょっと気取って書け」という彼の勧めは有名だが、本書はそれだけにとどまらず、実際的なアドバイスが多い。大学で文章の書き方を教えるには、こちらの方が有効だろう。(ともに中公文庫)

2004/12/12 Sun  谷崎潤一郎著『文章讀本』

 来春から東京のある大学で「日本語表現」という科目を頼まれたので、日本語表現に関する本を読み直してみようと思い立った。教えるのは要するに「文章の書き方」である。大学からの依頼によると、最近の学生は文章を書く力が非常に衰えているという。それでこの大学は文章指導に力を入れているのだそうだ。

 頼まれたのは、実用文の書き方だと思う。社会に出ると、企画書、報告書、依頼文などいろんな文章を書く機会が多い。大学でも文章を書く機会がある。レポートや卒業論文である。これらの文章はどうなっているのだろう。

 われわれの学生時代には、文章の書き方などという科目はなかった。むかしの大学生は今の学生に比べるとよく本を読んだから、それによって自然に文章の書き方を身に着けたということかもしれない。今の学生はほとんど本を読まないといわれる。とすれば、そこが問題なのではないか。よい文章をたくさん読み、自分でも文章を書く努力をしてみること以外に、文章が上達する方法はないと思う。

 一方、文章の書き方については古今、多くの本が書かれている。谷崎のそれは、古典的な名著で、学生時代に清水幾太郎「論文の書き方」などとともに読んだことがあるが、すっかり忘れてしまっていたので再読してみた。これは昭和8年に書かれたものだから、読んでみると、今の時代とは状況が大きく変わり、時代の大きな変化に改めて驚くことになった。しかし、そこで言われていることは今の時代に合わなくなっていることも多いが、今でも傾聴すべきことも多くある。

 谷崎がいちばん言いたいのは、日本語はストレートにものを言わない、遠まわしの言い方に日本語の独特の美があるということだ。これは、日本の伝統な美意識や文化を考える場合にはたしかに大切なことであるが、現代の実用文に当てはまるかといえば、必ずしもそうではないように思う。今の日本社会は、とくに企業や官庁、その他の場所でそういう美意識でものごとが進むということはほとんどなくなっているからである。企業社会、組織社会では、西洋的な論理の方が支配的になってしまっているからだろう。
 これから来春までに意識的にこの種の本を読んで考えてみようと思っている。(中公文庫)

2004/12/05 Sun  菅原洸人著『四角い太陽』

 神戸在住の義兄の洋画家、菅原洸人から送られてきた自伝である。今年82歳になる。
 彼の前半生はじつに波乱に富んでいる。山形県の、現在の東根市の出身で、12歳のときに北海道の網走に近い小清水の叔父宅に養子になるということで引き取られた。叔父は材木を扱い、建築関係の仕事もしていたようだが、小学校の高等科を出ると、大工の見習いのような仕事をさせられ、叔父宅を飛び出して放浪を始める。

 釧路に出て、自転車屋に勤めたあと船員にあこがれて、さまざまな船に乗る。大阪や東京で町工場にも勤めたりするが、子どものころから好きだった絵を独学する。戦争中は横須賀の海軍工廠でも働くものの、体を壊して福島県須賀川の療養所で過ごす。戦後、山形の実家に戻るが、放浪癖と絵を描きたいという思いがやみがたく、小田原、静岡、和歌山と絵を描いて売りながら放浪の旅を続けた。そして、神戸に定住して絵の勉強をする。神戸で定住したのが山本通りのバプテスト教会で、そこの敷地内で暮らした。その教会の敷地は、小磯良平画伯の邸宅跡だった。やがてこの教会の活動にかかわるようになり、1960年に姉と結婚した。

 家庭を持つと神戸で絵に専念するようになった。日本表現派展で文部大臣奨励賞を受けたが、表現派は分裂、丸木位里・俊夫妻らと創作画人協会を設立する。しかし、これとも別れ、その後は団体に属さず、独りで創作活動を続けている。1972年に初めてヨーロッパへ行って大きな刺激を受けて創作意欲も高まった。それからは毎年数ヵ月、パリに出かけ、グラン・ショミエールでデッサンなどを学び、パリの風景や下町の人々の暮らしを描き続けてきた。サロン・ドートンヌに毎年出品し、会員にもなり、ドーヴィル・ビエンナーレではグランプリを受賞した。1980年から81年にかけての年末年始の2週間を私も家人と彼の滞在するパリのアパルトマンで過ごしたことがあった。

 幼少時代から気が弱く、劣等感の塊だったというが、10代の半ばで船員をしたり、独りで放浪の旅を続けるなど常人からみると無鉄砲とも思える行動力もある。そんな人間が50年間、絵を描くことだけで生きてきたのもすごいことだと思う。

 文章を書くことについては素人だけにお世辞にも巧いとはいえないが、人柄を反映してなかなか味わいがある。自分のそういう生涯を衒いもなく率直に書いているのが好ましいと、身内の身びいきかもしれないが、そう思った。(神戸・海文堂ギャラリー刊)

2004/12/02 Thu  小栗康平著『見ること、在ること』

 先日、「埋もれ木」のラッシュ試写を見た際、小栗さんからもらった本である。1996年11月に出た本で、そのころ私は京都にいて、出版されたことを知らなかった。小栗さんも出版の際に送ったものと思い込んでいたらしい。「埋もれ木」のホームページの小栗さんのプロフィールにこの本のことが書かれていて、試写の数日前に会ったときに、そんな本があるとは知らなかったと言ったので、持って来てくれたのである。

 1986年から10年間にわたって新聞や雑誌などに書いてきた文章を集めたエッセー集である。映画「死の棘」の準備に入るころから「眠る男」が上映されているころまでの期間に当たる。その間の映画監督としての思索の軌跡をたどることができる。

 今度通して読んでみて、やはり映画に携わる人だという思いを新たにした。私たちが生きているこの世界(内面も含めて)について思索するのに、小栗さんは自然の風景に目を注ぎ、自然の音に耳を澄ませてそこから浮かんでくるものを凝視するなかで、思索を深めているようなところがある。

 小栗さんの映画観は、ヨーロッパ近代が生み出した映画の発想とは異なるところにある。映画を撮影するレンズは、人間の背丈と見合っており、人間を表現するためにはちょうどよいかもしれないが、そのために人間が中心になって、その他のものが背景になってしまうと彼は考える。ヨーロッパ近代が生んだ映画は、その人間とせりふという言葉の要素に収斂されてしまっているというのだ。

 これに対して、小栗さんは自然の風景と人間とを等価に撮りたいと考えているようだ。だが、それは非常に困難な作業である。困難と分かっていながら、小栗さんはそれをやろうとしている。「眠る男」はその試みのひとつであった。今度の「埋もれ木」もそうであるといえよう。

 小栗さんがそういう挑戦をあえてしようというのは理由がある。近代というもののひとつの行き詰まりを彼が実感しているからだろう。近代が高度に機能的な都市をつくり、私たちの生活を変えてしまった。その過程で見過ごし、忘れ、世の中から消えてしまったものを見つめなおしたいという思いがある。それを見つめることは決して人間として閉ざした、後ろ向きのものではない。むしろ人間を現実や未来へ向かって開いていくものであるという思いがあるからだろう。

 小栗さんの思索をたどっていくと、人間を解放するはずであった近代の方がむしろ、人間を閉ざしてきつつあるように思えてくる。鋭い視点である。だが、その小栗さんの作品が日本ではそれほど評価されず、逆に欧米で評価が高いのは皮肉である。(平凡社)


2004/11/20 Sat  萩谷由喜子著『幸田姉妹』

 幸田露伴の妹、幸田延と安藤幸の二人の音楽家には以前から関心があった。もう10数年ほど前に、郷里の友人有本倶子さんが「明星」の天才歌人、翠渓前田純孝の評伝の草稿を私のところに持ち込んできた。これを数年がかりで調査を深め、書き直してもらって完成すると、私は河出書房の飯田貴司さんに頼んで出版してもらった。「つひに北を指す針−前田純孝の世界」である。

 純孝は1880年、但馬諸寄の生まれで、御影師範から東京高師に進み、与謝野鉄幹・晶子の「明星」で活躍した。鉄幹は「東の啄木、西の翠渓」と呼んで二人を愛した。純孝は晶子と合作の詩もつくり、高師に入ると音楽の才能を示し、大塚音楽会の第1回演奏会ではバイオリンを演奏している。

 彼がどのようにしてバイオリン演奏を学んだのかが、これまでわからなかった。純孝は多くの唱歌も作詞している。「広瀬中佐の歌」はもともとは彼の作詞である。高師を出て大阪・夕陽丘高女の教頭として赴任し、結核で郷里に帰って療養するにあたり、葛原滋の世話で多くの唱歌の作詞を病の床で続け、それで薬代を得ていたが、1911年貧窮の中で31歳の短い生涯を終えた。

 有本さんは純孝のバイオリン演奏技術の習得には幸田姉妹と交友があってのことではないかと推測していたが、その確証がない。幸田姉妹が奉職していた東京音楽学校が一時、東京高師の付属となったこともあり、そのあたりが鍵になるかと思っていたが、私も有本さんもその後、調べる機会も時間もなく過ぎてしまっていたのだった。

 純孝は与謝野晶子にも非常に可愛がられたようである。端正な顔立ちと歌の才能に晶子がほれ込んだのも不思議はない。幸田姉妹からも愛されたのではないかと想像される。

 萩谷由喜子さんが「幸田姉妹」を上梓したとは聞いていたが、読む機会がなかった。最近、贈っていただいてやっと読むことができた。萩谷さんは音楽評論家の故志鳥栄八郎さんに師事して、音楽ジャーナリストの道に進んだ人で、私は晩年の志鳥さんと付き合いがあったことから、志鳥さんが草の根の音楽活動を顕彰する「クラシック音楽興隆会」の設立に協力したことで知り合うようになった。

 萩谷さんの著書「幸田姉妹」は日本の洋楽黎明期に活躍した二人の足跡を丹念な調査によってまとめたもので、もしかしたら純孝に関するヒントが隠されているかもしれないと思った。評伝の性格から直接のヒントがあるはずもないが、本書は黎明期の日本の洋楽の姿を知るには格好の書である。(ショパン)


2004/11/19 Fri  マシュー・バトルズ著 白須英子訳『図書館の興亡』

 副題は「古代アレクサンドリアから現代まで」。
 今年5月、ポーランドとエジプトの合同発掘調査団によって、「世界最古の学府」と称されるアレクサンドリア図書館が発掘された。アレクサンドリア図書館は紀元前300年頃、プトレマイオス一世によって世界各地の文献の収集を目的として建設された世界最高の図書館だとされ、多くの思想家や作家の作品を収蔵し、その数は約70万巻にのぼったといわれる。しかしその後、火災により蔵書のほとんどが焼失し、さらに後世の略奪や侵略によりやがて建物自体も歴史の闇の中に埋もれてしまった。

70万巻あったというパピルス紙や羊皮紙の高価で貴重な蔵書も、壮大な建物も、全部壊滅してしまったのである。その時期については、紀元前48年のアレクサンドリア戦役の折という説から、391年のセパレウム破壊、あるいは642年のアラブによるエジプト征服という説まであって確定できない。原因についても、火災説あり、地震説ありで、よくわからない。結局、世界最古の古代アレクサンドリア図書館の最期にまつわる物語は謎のまま、今日に至っている。

 2001年8月、古代図書館の跡地と推定されるアレクサンドリア北部に、ユネスコとエジプト政府が共同で建設した新アレクサンドリア図書館がオープンした。アルキメデスやユークリッドらも学んだといわれる古代図書館が再建、復興されたのである。エジプトやアラブから地中海諸国の文化・文物に関する文献や古代の希少本を収蔵する大図書館である。11階建て、総面積8万5千平方メートル、総工費約218億円という。

 本書は、この古代のアレクサンドリアから現代までの歴史の中で、図書館がどんな役割を果たし、歴史の中でどう扱われてきたか、そして司書という存在がどんな役割を務めてきたかを、歴史読物として描き出している。

 本といえば、人類史の中で数々にわたって行なわれてきた焚書を忘れることはできない。この本は、その焚書についても多くのページを割いている。そして焚書がかつての専制政治の時代のことだけではなく、現代、20世紀にも各所で行なわれたことを指摘している。ナチスによる焚書は有名だが、20世紀末のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争でも、貴重は蔵書を収蔵していた図書館が砲撃で破壊された。こういう図書館の受難の事実を通して見ると、現代の世界も別の様相を見せてくることを知らさされる。(草思社)


2004/10/04 Mon  吉田豊明著『伝説の地方紙 石見タイムズ』

 著者は私の大学時代の学外活動の場であったキリスト教の早稲田奉仕園での先輩である。彼は大学卒業後、日本経済新聞の記者となり、経済畑を取材した。私が大学に入ったときには彼はすでに卒業しており、在学中直接知ることはなかったが、その後、早稲田奉仕園OB会で知ることになった。
 東京出身だが、小学校から高校までを島根県浜田市で過ごしたとは聞いていたから、やはり山陰出身(とはいっても私は山陰の東端の兵庫県豊岡市)ということで近しい感情を抱き続けてきた。

 今度の本は、その山陰の浜田市で戦後すぐに発刊されたローカル紙「石見タイムズ」とその発行者・小島清友・清文父子の人物を描いている。
 清文は太平洋戦争に学徒兵として出征、ルソン島で部下3人を率いて米軍に「白旗投降」した。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が叩き込まれていた日本兵でありながら、米軍に投降するという、当時であれば軍人にあるまじき非国民として非難されるような行動をとったのである。ハワイの捕虜収容所へ送られた清文はここで、後にGHQの戦後改革の要員となり、その後同志社大学教授となったオーティス・ケーリと出会う。そのときすでに米国がつくっていた戦後改革の計画案をケーリから見せられ、終戦直前の東京空襲で日本の降伏を求めるビラ作りにも進んで協力する。彼はケーリとの交流から米国の民主主義の理想を学んだのである。

 戦後、浜田市に帰還した清文は戦前新聞記者であった父と「石見タイムズ」を創刊する。この新聞は、地方から戦後日本を真の民主主義の確立をめざして再建しようという理想を掲げた。オーティス・ケーリもこれに積極的に協力した。石見タイムズは昭和33年、清友の死とともに人手に移り、昭和47年まで続いた。清文は父清友が亡くなる前の32年、父の説得で東京に移り、タイムズ編集から離れている。

 この石見タイムズの時代を吉田さんは、自身の幼少年時代と重ねてたどっていく。そのあたりの様子は、年代が少し下がるが、私自身が山陰の豊岡で体験した時代とそっくりである。私も懐かしい思いで読み進んでしまった。
 だが、この本の意義はこれだけではない。清文がその後、自身の「白旗投降」体験を自ら朝日新聞に投稿し、それがもとになって「不戦兵士の会」がつくられ、老いた身で全国を語り歩いたことである。そういう清文に対する著者の心が伝わって、読んだあとに重いものを残してくれる。「山陰の小都市浜田のもうひとつの戦後史」との副題。(明石書店)


2004/10/02 Sta  渋谷美枝子著『京極マリア』

 この本は昭和58年に郷里豊岡の「船田企画」という小さな出版社が出したものである。当時、この出版社をやっていた船田猛志さんを知っていたのでいただいたのだが、その後、書棚を探しても見つからない。たまたまインターネットで古書店の書籍リストを見ていたら、この題名が出てきた。早速、静岡のあべの書店に問い合わせたら、あるというので買い求めた。

 著者は郷里の医者の奥さんで、自身カトリック信者である。京極マリアは、宇多天皇につながる近江佐々木源氏の京極家の、戦国時代の当主、京極高吉の室で、浅井久政の娘である。織田信長の妹お市の方を妻とした長政の姉である。京極マリアは信長の安土城下でキリシタンとなる。彼女は2人の男子、高次、高知と3人の女子をもうける。

 京極家は足利幕府の三管四職うちの四職を赤松氏・一色氏・山名氏とともに任じられ、隆盛を迎えたが、応仁の乱以降衰退した。「ばさら大名」で有名な佐々木道誉はこの京極氏である。マリアは近江坂田郡清滝に逼塞していた高吉に嫁した。高吉の夢は京極家の再興であった。夫の夢をわが夢として、5人の子をもうけたマリアだが、いずれもが信長、秀吉、家康の時代に激動の波にさらされて生きることになる。

 この小説は、その姿を丹念な調査によって再構成したもので、戦国の世の壮絶な波にもまれる人生を描き出している。長女竜子は一度は武田元明に嫁したが、元明が本能寺の変で信長を討った明智光秀に加担したとして秀吉に攻められ死ぬと秀吉の側室にさせられる。竜子はこれによって兄高次による京極家再興を願って、側室になることを受け入れたのだった。だがもうひとりの側室、従妹でお市の娘、茶々が秀吉の子を生むと竜子の立場は一段下げられることになる。そういう激動の世にマリアは熱心なキリシタンとして生涯を生きる。

 細川忠興の妻ガラシァはその悲劇的な最後もあって、大名の妻のキリシタンとしてはよく知られるが、京極マリアについてはあまり知られていない。私が再度この本を読もうと思ったのは、豊岡藩主だった京極家がこのマリアの二男高知の系譜につらなるからで、小学校以来の同級生で、最近いっしょに山歩きすることが多い友人がその末裔にいるからである。その友人はなかなかに人格者で、日ごろから尊敬の思いを抱いているのであるが、彼のそういう人格がどこからくるのだろうと考えてきた。この本を読んでも、現代に生きているひとりの人間についての直接の答えが出てくるわけもないが、彼の背後にある歴史の重みというものを考えさせられたのだった。(船田企画刊)


2004/10/17 Sun  秋間平安著『漫才師殺人事件』

 私の記者時代に大津支局でいっしょに1年間を過ごした同僚記者が書いた2作目の推理小説。定年退職したあと推理小説を書き始めた。前作は2001年に発表した「破れた消幕」(三一書房)で、彼が松江支局長をしていたときの体験をもとに、宍道湖の干拓を舞台にしたものだった。この第1作はテレビドラマ化された。

 主人公の探偵は「まんねんさん」という大阪の新聞社の整理部デスク。取材の現場からは引退しているが、根っからの事件好き。事件担当でもないのに事件取材に首を突っ込み、取材費も自弁で調べまわる。しかもどこへ行っても大阪弁で、愛嬌もある人柄がにくめない。記者出身だけに、新聞社の事件取材の現場が活写されているのも楽しい。

 今回の作は、大阪・十三の淀川で人気漫才師が水死体で上がるのを発端に、推理は展開する。この漫才師が大阪生まれの沖縄2世で、これがかぎとなって意外な展開に発展していく。

 著者は那覇支局に勤務したこともあり、沖縄には詳しい。私も那覇の彼の家に泊めてもらったことがある。沖縄の人は祖先崇拝に熱心で、これは信仰でもある。取材は那覇へと広がり、事件の真相解明につながっていく。著者の沖縄への優しい目が感じられる。(東京図書出版会)


2004/10/13 Wed  重廣恒夫著『エベレストから百名山へ』

 副題「ヒマラヤから教わったこと」。著者については全く知らなかった。タラスブルバなどの登山用品ブランドで知られるアシックスに勤務するかたわら、1973年のエベレスト南壁、76年のインドの最高峰ナンダデヴィ縦走(7816m)、77年のK2南東稜(8611m)、79年のラトックT峰(7145m)、80年チョモランマ北壁、84年のカンチェンジュンガ縦走(8586m)、85年マッシャブルム北面(7821m)とブロードピーク(8051m)、88年チョモランマ交差縦走、95年マカルー(8463m)と22年間に14回ものヒマラヤ登山を続けてきたベテラン登山家である。

 著者によれば、従来のヒマラヤ登山は極地法(ポーラーメソッド)が中心だったが、最近はアルパインスタイルが主流になったという。前者はベースキャンプから始まって徐々に高度を上げるごとにキャンプを設営し、酸素や食料、用具を荷揚げして、最終キャンプから数人のアタック隊員が頂上を狙う。これは多くのサポート隊員やポーターに加えて膨大な物資の運搬が必要になる。これに対して後者は、大がかりな人員や物資を使わず、最小限の装備と短時日で登頂をめざす方法である。ヨーロッパアルプスで培われてきたもので、豊富な経験と体力、技術、気力が必要になる。

 著者は豊富な経験から、ヒマラヤ登山はタクティクスが最も重要であるという。「戦略」とか「策略」とかの意味であるが、登山の運行表である。これに基づいて、装備、食料、酸素などの物資計画を立て、輸送計画、ポーターの配置計画を立てる。そして、高山であれば、予期しない事故やトラブルが発生する。その場合の対策もタクティクスとの関係で対応しなければならないというわけだ。本書は、その体験をリアルに語ってくれる。  ヒマラヤの7、8000m級の山では登頂に成功しても、頂上での滞在時間は20分が限度という。空気の濃度が低いために注意力や思考力が鈍ってくるのだそうだ。

 本書の最後は、日本百名山を123日間で踏破した記録だが、ヒマラヤの体験を読む感動とは全く別の感慨を覚えた。私には付いていけないなと思った。(光文社新書)


2004/09/30 Thu  水上勉著『虚竹の笛−尺八私考』

 水上勉氏が小説「虚竹の笛」を書くに当たって、きっかけとなったのは日中混血の放浪僧で詩人の蘇曼殊が関係していると以前書いた。蘇曼殊の詩「春雨」がそれだと、水上氏は「虚竹の笛」で書いている。

 春雨楼頭尺八簫
 何時帰着浙江潮
 芒蛙破鉢無人識
 踏過桜花第幾橋

 これを水上氏は次のように訳している。「春雨にけぶる西湖の、どこかの楼から尺八の音が聞こえてくる。私はまたいつの日にここへ帰ってこれるだろうか。人に識られないままに、衣も破け鉢も割れた虚無僧の自分は、さて、これから桜の橋をいくつ越すだろう。」

 私は作家中薗英助さんの蘇曼殊についての伝記小説「桜の橋」を読んで、この清末の憂国の放浪詩人を知った。もう20年以上も前のことである。それで彼の唯一の小説「断鴻零雁記」を読んだりして、この詩人については記憶の片隅に残り続けていた。生前の水上氏は中薗英助さんの「桜の橋」をご存じなかったので、あるときお教えし、その本を送ったことがあった。
 その後、これが縁となって、雑誌「すばる」に「虚竹の笛」が連載されたとき拾い読みをしたが、こんど一冊を通して読んだ。相当長い長編で、体も弱っていた晩年の作なので繰り返しも多いが、晩年の水上氏の心境がよく表れていると思った。

 水上氏は若狭大飯町の貧乏宮大工の子で、11歳で京都の禅刹相国寺に小僧に出された。大工の父が近くの竹薮に入って竹を伐り、尺八を手慰みによく作っていたそうだ。その尺八がどのようにして中国から日本に伝えられたか、それを史料で考察し、中国を訪れてゆかりの地を訪ね、さらに虚竹と称した中国帰りの尺八の名手と一休宗純のかかわりなどを小説体で描き出している。水上氏特有の自在な文章が尺八にまつわる不思議な世界を現出するのである。尺八の音は故郷の音を伝えるという。一所不住の放浪の僧たちは故郷を想いながら尺八一本を友として流浪する。そういう望郷の思いが静かに伝わってくる作品である。(集英社)


2004/09/05 Sun  池澤夏樹著『ハワイイ紀行(完全版)』

 池澤夏樹著「ハワイイ紀行(完全版)」はたいへん面白い紀行で、ハワイの過去から現座までの姿を教えてくれる。私はハワイには昨年2月に初めて行き、10日間ほどをすごした。オアフ島とハワイ島だけだったが、気候的には過ごしよい土地だと思われた。

 ところで「ハワイイ紀行」(ハワイイと彼が表記するのは本来のハワイ人の呼び方であるから。英語でもHAWAIIと書く)だが、この中で、ハワイの言語の問題を考える章がある。元々のハワイ人の血を引く人々の間でハワイ語を復活させようという動きがあり、この章でそれをルポしている。ハワイに行ってそういうことに関心を持つ池澤氏の姿勢に共感を覚えるのだが、その文章の中で次のような話が出てきた。

 ハワイでも戦争中、ルーズベルト大統領がハワイ語を学校で使うことを禁止する告示を出したという。「ハワイでも」と書いたのは、日本でも沖縄で方言を禁止したことがあるからである。これに関連して、池澤氏は「戦前の沖縄の学校では沖縄語の使用が禁じられた。子供たちは家と学校で二重の言語生活を強いられた。教室には方言札というものが用意され、うっかり方言を使った生徒はそれを首からぶら下げられ、別の誰かがまたうっかり方言を使う場面をみつけて摘発するまでそのままでいなければならなかった。言語の強制と密告の奨励という二つの面で忌まわしい制度であると思う。」と書いている。

 彼の主旨には同感なのだが、「方言札」は軍国主義日本が沖縄に強制した戦前だけのことではない。沖縄では戦後になっても場所によっては昭和30年代までこの「方言札」があったと山原出身の体験者から聞いた。奄美諸島でもあったし、鹿児島でもあったと鹿児島出身の人からも聞いたことがあるし、東北地方にもあったそうだ。

 こういうことをするのは日本ぐらいかと思ったら、フランスでもあったという。フランスとスペインの国境地帯にはバスク人が暮らしているが、バスク人にも「方言札」を下げさせたし、ブルターニュ人にも強制されたとは、むかし民族文化映像研究所の姫田忠義さんに聞いた。姫田さんはフランス側のバスク民族の文化について記録映画を撮ったことがある。アメリカでもこれに似たものがあったと何かの本で読んだ記憶がある。征服者というものはどこの国でも似たことを考え出すものだ。

 今でこそ、方言をその地方の文化として大事にしようという考え方が定着してきつつあるが、沖縄の方言札は戦前だけのものでなく、日本の施政権が及ばなくなった戦後も続けていたところに、この問題のもう一つの本質があり、難しさがあるように思う。(新潮文庫)


2004/09/03 Fri  豊岡市老人連合会編『豊岡民話 耳ぶくろ』

 田中嘉津明さんが「豊岡民話 耳ぶくろ」という昭和50年に出た豊岡市老人連合会の文集を持ってきた。立派な布装の本である。その中で三坂の友田信一さんが「宝谷と宝さがし」という文章を寄せていて、「そこに登場する中学生は君のことではないか」という。短い文章なので再録しよう。

 宝谷と宝さがし

 妙楽寺を中心に、東方に京極家の墓所のある山を宝林谷といい、それから更に延びて通称「大門山」と呼ばれている小山を宝谷と言う。此の一帯の山に残っているのが、金の鶏の話。何時の世にも多いい宝さがしの話題です。
 古い人からの言い伝えで、
「朝日輝き夕日照る南向の白つつじの元に金の鶏が埋めてある」と言う事で、時折宝さがしをする人々が現われる。あたかもこの辺の山にはつつじの木が多く、花の頃には訪れる人も多いい。
 この伝説が熱をもつと宝さがしに熱中する人もあるらしい。先年中学校の生徒が、山頂の白山権現の附近から、古い壺を掘り出したが、中には経筒があったのみで、金の鶏も如意宝珠もなかったらしい。土地の大字または字名というものは、たいがいその地の伝説等がもとでつけられておる例が多いい。「宝谷」といい「宝林谷」等の字名はこんな事が関連しておるのかと思われる。
三坂 友田信一

 以上である。私が中学生のときだったから、昭和30年か31年だと思うが、妙楽寺の山の中で遊んでいて、林の中の広場の土のくぼみを何気なく彫ってみたら緑青の吹いた銅の筒が出てきた。中を開けると炭化した竹の箸状のものが何本も入っていた。「こんなものを見つけた」と中学の教師に届けると、県教育委員会が調査に来て、妙楽寺経塚遺跡ということになった。これは兵庫県史にも載っている。これが機となって、北中学に担任の植村先生と歴史研究部を立ち上げたりした。
 私は宝さがしで妙楽寺に出かけて行った覚えはないが、もしかしたら友田さんの書く通りだったのかもしれないという気もしてきた。

 この本は郷里、豊岡の民話や伝承が消え行くのを惜しんで、老人たちが書き記したもので、18歳で郷里を離れた私などの知らない話が満載されていて興味深く、つい読み継いでしまった。豊岡の郊外に「田鶴野」という地名がある。子供のころから美しい地名だと思い続けてきたが、この名は田結庄、鶴井庄、野田庄が明治の初めに合併した際に、それぞれの頭の文字を取って付けたのだそうで、もともとあった地名ではないという。(非売品)


2004/08/03 Tue  魚住昭著『野中広務 差別と権力』

 野中広務は2003年9月9日、小泉再選を前にして政界引退を表明した。京都の被差別部落に生まれ、園部町長を皮切りに京都府副知事から57歳にして自民党代議士として中央政界に転じ、55年体制が崩れた後の政党の離合集散の激動の中で、頭角を現し、実力において自民党のナンバー2の実権を得るまでに上りつめた。その野中広務の出生から政界引退までを、実に粘り強い取材によって構成した評伝である。

 この評伝の筆者、魚住昭さんは、私が共同通信京都支局長時代に支局デスクとして本社社会部から赴任してきたが、3ヶ月余りで退職してしまった。リクルート事件では東京地検特捜部を担当し、数々の特ダネをものした敏腕記者で、その勇名は聞いていたが、本人は直接には知らなかった。ただ、在職中に彼が中心となって連載した「沈黙のファイル−“瀬島龍三”とは何だったのか」(新潮文庫)で講談社ノンフィクション賞を受賞するなど、戦後史の闇に切り込んだ企画記事は読んでいた。退職後は「特捜検察」(岩波新書)、「特捜検察の闇」(文芸春秋)、「渡邊恒雄 メディアと権力」(講談社)などを次々に書き、しかも対象である巨大な闇に筆一本で切り込んでいくその筆力には、ちょっと他のノンフィクションライターの追々を許さないものがあることに感心してきた。

 今回の「野中広務」も、その期待を裏切らない力作である。野中広務が被差別部落出身であることから、彼の政治的生涯を書くことに一抹の不安もあったが、作品を読むと、そんな疑義も吹っ飛んでしまうほどに引きずり込まれた。野中広務は自身、自分が被差別部落出身であることを隠していない。そんな彼が権力の階段を登りつめていく姿を、見事なほど丹念に描いていく。その熱意と取材力には驚くほかない。

 政界の実力者たちが権謀術数を凝らしながら、駆け引きを闘わせる姿も豊富な証言で再構成される。読んでいて本を置く暇もないほどにその臨場感に引き込まれてしまうのである。ノンフィクションが小説よりも面白いのもむべなるかなといった思いになる。

 本書には野中広務の政治手法を暴くという側面は確かにあるが、だからといって野中広務という政治家を批判はしても、否定はしていない。あとがきで「私の心の中には、野中広務という政治家を生んだ戦後社会に対する愛着と嫌悪が混じり合った気持ちがある」と書いている。一人の人間の内奥深くに肉薄していったときに感じる真実の感情であろう。(講談社)


2004/07/18 Sun  山田風太郎著『室町お伽草紙』

 山田風太郎さんはわが郷里の出身で、高校の、いや旧制中学の先輩である。彼の作品はいくつか読んできたが、これは晩年の一種の伝奇エンターテインメント小説と言ってよいだろう。少年時代の秀吉、すなわち日吉丸を狂言回しに、織田信長、上杉謙信、武田信玄、千利休らが登場する天衣無縫、荒唐無稽な物語なのだが、読んでいて肩もこらず、エンターテインメントとして大いに楽しめた。  お馴染みの歴史上の人物を登場させながら、歴史を換骨奪胎し、そこから自由自在に物語をつむぎだす著者の手腕は、読んでいてばかばかしい話だとは思いながら、それなりに楽しませてしまうという点で見事と言うしかない。  そのあたりの著者の技量については、上野昂士氏の解説で余すところなく分析されている。(新潮文庫)


2004/06/23 Wed  岡部伊都子著『朝鮮母像』

 著者の岡部伊都子さんから贈られた「朝鮮母像」を読んでいたら、その中に私の名前が出てきた。「白磁の骨壷」という随筆の中でのことである。

 この随筆は、神戸在住の在日朝鮮人陶芸家、金正郁さんが岡部さんに白磁の骨壷をプレゼントした話である。正郁さんは私もよく知っていて、1985年に小栗康平監督「伽耶子のために」の大阪上映の際に献身的に協力してくれた人である。彼女の作品は何点か持っているし、大阪から本社に転勤した際は、記念に白磁の小さな陶印を作っていただいたこともある。

 ところで、岡部さんは正郁さんから贈られた骨壷がたいそう気に入り、来客があると披露していた。ある日、正郁さん、詩人の金時鐘さん、上田正昭京大名誉教授と私が京都・出雲路の岡部さん宅に集まったことがあった。私が京都在勤中の1996年1月のことである。岡部さんはこの白磁の骨壷をみんなに披露した。上田先生が「これは骨壷にするのは惜しい。これだけの作品はあまりありませんよ」と褒めたのである。

 岡部さんはこれがよほどうれしかったと思う。骨壷の蓋のつまみに染め付けで魚の絵が描かれていた。その意味がわからず、あとで岡部さんが正郁さんに訊くと「それはあなたが魚座だからよ」と答え、その心遣いを知って、岡部さんは思わず泣いてしまったという。
 そういえば、私が作っていただいた陶印の背には、やはりさり気なく「藤」の花房が染め付けで描かれていた。もちろんこの陶印は今も大切に使っている。(藤原書店)


2004/06/21 Mon  松尾文夫著『銃を持つ民主主義』

 著者の松尾氏は、共同通信社での先輩記者だった。氏が共同通信マーケッツという子会社の社長を引退した後、ジャーナリストに復帰し、アメリカ論を書いていると聞いていたが、これがその成果である。

 彼は外信部記者から営業関係の仕事についたが、私が文化部長当時、文化部からニューヨークに特派員として出した私の部下が、彼の部下の女性社員とニューヨーク支局で知り合い、結婚することになったとき、優秀なその女性社員が社を辞めるのを危惧した彼が、なんとか辞めさせないようにと私のところに訴えてきたことがあった。しかし、私には二人の意思を変えさせることなどできるはずもなく、松尾氏の訴えに対応することはできなかった、というエピソードがある。

 本書はイラク戦争に突き進んでしまった「ブッシュのアメリカ」について論じたものだが、そもそもアメリカは銃を自由に持つという歴史があり、武力によって政治的問題を解決しようとするのは、独立戦争以来の伝統であり、それはDNAとなっているという考え方だである。米国の民主主義はこの銃(武力)によって支えられているである。それを米国の歴史をさかのぼって考察している。3・10東京大空襲の体験から始まって、自分の米国体験を省みながら、考察するその文章はなかなか説得的だ。(小学館)


2004/05/31 Mon  木村剛久著『青き淵より』

 前に「夢の城へ 山片蟠桃の世界」を私家版で出した共同通信出版本部の木村氏が、今度は渋沢栄一の評伝「青き淵より」の上巻を送ってくれたので読んだ。上巻とあり、幕末から渋沢栄一の明治末までの前半生を描いている。ちょうど司馬遼太郎「峠」を読んだ直後であり、また映画「壬生義士伝」を見たりしたので、これらと扱っているのが同時代ということもあって興味深かった。渋沢栄一の評伝ではあるが、幕末明治史の解りやすい歴史ともなっており、その点で木村氏の労作を評価したい。

 「青き淵より」との題は栄一が青淵と号したことから付けたもの。埼玉の富裕な農民階級出身の栄一は、当時の尊皇攘夷の時代に江戸に出てくるが、ふとしたことから一橋慶喜の下で仕事をすることになり、佐幕派ではあったが、幕末の激動の中で生きることになる。明治になっても新政府で働くが、自身は官庁よりは経済界で活動したいと望んで、明治の富国強兵政策を財界から支えることになる。この経済界の大立者の前半生を綿密に再構成している。私は城山三郎の栄一伝を読んでいないが、木村氏のこの書を呼んで幕末から明治という波乱の時代を生きた栄一の姿が手がけた事業の内容にまで入り込んで書かれているのに感銘さえ覚えた。

 経済が絡むとなかなか素人にわかりやすい形で描くのは難しいものだが、この書はある程度それに成功していると思った。(私家版)


2004/05/19 Tue  司馬遼太郎著『王城の護衛者』

 「峠」を読んだので、書店でこの文庫を見つけた。本書で扱われているのは幕末に歴史に登場した松平容保、玉松操、大村益次郎、河井継之助、岡田以蔵の5人である。いずれも昭和39年から40年にかけて書かれた短編で、このうち大村益次郎は「花神」に、河井継之助は「峠」にと、それぞれ大長編にしてその人間像をさらに深めている。
 ここで興味深いのは松平容保の悲劇を描いた表題作、岩倉具視の陰の指南役となった玉松操を扱った「加茂の水」、足軽出身のテロリストの運命を描いた「人斬り以蔵」である。司馬さんの歴史を見る目、変革期の人間を見る目の基本がこれらの作品でよくわかる。(講談社文庫)


2004/05/15 Sat  司馬遼太郎著『峠』(全3巻)

 20年ぶりぐらいになるだろうか、「峠」を読み直した。
 長岡藩家老の河井継之助は坂本竜馬とともに、司馬さんによって新しく人物像が造形され再評価された維新史の人物である。竜馬もいいが、私には自分に近い生き方を継之助に感じるところがって、こちらの方が近しい気分を抱いている。

 それは何かといえば、歴史の行く末を展望すると大きな方向が見えているのにもかかわらず、自分の置かれた環境のために、その大きな流れに自分を持っていくのではなく、自分が置かれている環境の中に自己を限定させて生きざるを得ないというような生の選び方である。

 継之助は三河いらいの徳川家の家臣である譜代大名長岡藩の百石取りの武士に生まれた。30歳過ぎまで江戸の塾や各地を放浪して学び、牧野家の家老に抜擢される。だが、時代は薩長による幕末の激動の中にあった。主君は徳川家への忠義を棄てることはできない。時代が大きく維新に向かっていることはわかっているが、主君の意向を遂げさせたいとして官軍に願えることができない。かといって滅亡するのがわかりきっている徳川幕藩体制の維持に奔走することもできない。そういうアンビバレントな立場を継之助は選ぶのである。

 横浜や長崎で彼は世界の情勢についても目を開き、攘夷に走ることもしない。彼はスイスが国民皆武装による永世中立を国是としていることを知っていたようだ。長岡藩も西洋の武器で武装し、軍艦を買い入れてそれで海外と貿易をして自主独立の長岡公国を発展させようと夢見る。長岡藩を官軍、佐幕のどちらからも中立な長岡公国を築くことをめざすが、時代はそれを許さない。そして北越戦争で死んでいく悲劇の人である。(新潮文庫)


2004/05/04 Tue  志鳥栄八郎自伝『嵐が奏でる』

 音楽評論家・志鳥栄八郎さんと知り合ったのは彼の晩年に近い。彼が共同通信社発行の雑誌「FMfan」にかつては常連筆者として連載し、単行本もいくつか出していることは知っていたが、私が知り合ったのはそれとは関係がなかった。
 1980年代末に、文化部のデスクだった私は中国からの留学生叢小榕さんと知り合い、彼の生活費稼ぎに協力する意味で、中国の文化ニュースについての記事を匿名で書く仕事を依頼していた。北京師範大学で日本語・日本近代文学を学んだ叢さんは立松和平さんの短編小説を中国語訳して、中国の文芸雑誌に掲載したりしていた。その叢さんがクラシック音楽ファンで志鳥さんを世田谷・千歳船橋の自宅に訪ねて私淑していたのである。

 私も音楽好きなのを知ると叢さんはある日、志鳥さんを訪ねるときに誘ってくれたのである。叢さんは改革開放後の中国に志鳥さんを連れて行き、中国でレコードコンサートをしたり講演をしたりしてもらった。それでその後何度か、志鳥さんにご馳走になったりする付き合いが始まった。

 私が文化部長になったころ、志鳥さんはクラシック音楽興隆会を発足させ、地方で草の根のクラシック普及活動をしている人や団体を顕彰する「志鳥音楽賞」を始めたいのだが、協力してもらえないかと言ってきた。私は地方の音楽状況に詳しい共同通信加盟の地方紙の文化部長や音楽担当記者をリストアップして彼らに推薦委員になってもらえばよいのではないかと助言し、リストを作った。その甲斐があって1992年の第1回志鳥音楽賞は青森県の弘前オペラに決まった。

 最初志鳥さんは共同通信の当時専務をしていたK氏に興隆会の評議員委嘱を依頼した。K氏の奥さんの妹が志鳥さんが仲人をして結婚したことから、2人の間にも付き合いがあったからであった。だが、K氏は音楽好きではなく、またマスコミの専務という立場を考えて委嘱を辞退した。そこで音楽好きの私が代わって評議員を引き受けることになった。

 志鳥さんは2001年9月5日、75歳で死去した。その後、興隆会は中断したが、実弟の良平さんの兄の遺志を生かしたいという要望を受けて昨年、NPO法人として再出発した。私は再び評議員を続けることになった。

 本書は志鳥さんの生前の口述をもとに弟子の萩谷由喜子さんが加筆してまとまった志鳥さんの波乱万丈の人生の記録である。(クラシック音楽興隆会発行、芸術現代社発売)


2004/04/28 Wed  岩本順子著『ぼくは兵役に行かない!』

 ドイツでは十八歳になると兵役がある。今では良心的兵役拒否が認められているが、本書の主人公がその年齢に達した時には、この制度がなかった。一九六一年、ベルリンの壁ができた年に生まれた平凡なドイツ人青年が兵役を拒否したことで裁判になった。これはその青年が語った体験記である。代替役務として重度障害者施設で働くことになるのだが、普通のドイツ青年が兵役をめぐって、何を考え、どういう青春を送っているのか、その実像が見えてくる。
 著者の岩本順子は私の姪である。大学を出た後、月刊「神戸っ子」の編集者をしていたが、ドイツに留学、ハンブルク大学で美術を学ぶかたわら、日本語を個人教授したドイツ人と結婚した。居合道を学び、一時日本学をめざして日本に留学もしたが、日本の漫画に関心を持ち、2人で多くの漫画作品をドイツ語訳して出版した。順子は欧州の漫画家の作品を日本に紹介するような仕事のかたわら、ドイツワインに関心を持ち、ラインヘッセンのケラー醸造所に押しかけ研修した。その体験記を「おいしいワインができた」(講談社文庫)にまとめている。この本はその後、ドイツ語版が出た。
 1990年に2人が日本に留学していた時に、私が彼らを誘って沖縄に旅行した。これを契機に2人も沖縄フリークになってしまい、私よりも多くの沖縄の離島を旅しているし、那覇に1ヵ月以上滞在もしている。それでボーダーインク社新城和博さんと知り合ったらしい。2人は今は離婚し、順子はドイツとブラジルを往復しながら、文章を書いている。本書の副題は「かつて<徴兵>を拒否したドイツの青年が今だから語る軍隊と平和」。(ボーダーインク社)


2004/04/27 Tue  ノーム・チョムスキー著『メディア・コントロール』

 副題に「正義なき民主主義と国際社会」とある。ブッシュ現大統領が就任直後からイラクを攻撃する計画をひそかに練っていた、という元米政府高官の証言が最近話題になっている。これは米国の民主主義がいかに自国の都合のよいように使われてきたか、そして、それに対して米国のメディアが協力してきたかを論じている。日本人のアメリカ観をくつがえすような迫力がある。チョムスキーは言語学者。(集英社新書)


2004/04/26 Mon  大山定一著『ドイツをあるく』

 京都の裏千家の出版社・淡交社の川口寿夫さんから大山定一著「ドイツをあるく」を送っていただいた。  川口さんは郷里の豊岡高校の後輩である。神戸在住の姉上が小学校から高校まで私と同期だった。1995年に私が京都に赴任した時、以前から京都で行きつけだった大和大路のスナック「真理」で寿夫さんと偶然出会った。この店は桑原武夫さんはじめ京都大学の人文研究所の学者らがかつてよく通った。それで学者のほかに文化関係の新聞記者や編集者もよく顔を見せる。私の会社の後輩、遠藤雅之君は大阪文化部に在勤時、この店で知り合った女性と橋本峰雄神戸大学教授の媒酌で結婚したといういわくもある。  ここで寿夫さんに友人の立松和平さんのことを話したら、その後、寿夫さんが裏千家の中国での茶会か何かで訪中した際、これまた偶然、滞在先で立松さんに会い、私から聞いた話を持ち出して、雑誌「淡交」に原稿を依頼したら快く引き受けてくれたとは後で寿夫さんから聞いた。  ところで、ゲーテの翻訳などで知られる京都大学教授だったドイツ文学者大山定一氏は今年生誕100年になるという。それを記念して未発表のドイツ紀行を遺族がまとめて記念出版したのだ。寿夫さんの夫人が大山氏の息女で、送ってきてくれたのだ。今から50年近く前に書かれた紀行文なので、時代の差を感じさせられるのが面白い。  と、ここまで書いて、共同通信社の文化部の後輩で読書欄のデスクをしている細田正和君に電話して、この本の話をしたら出版話題の記事にできそうだから、一冊送ってほしいという。版元の知道出版に電話したら加藤さんという人が出て先日、川口夫妻と会った時に私のことが話題になったという。加藤さんも豊岡高校20期で、川口寿夫さんと同期だそうだ。共同通信に一冊送っていただくようお願いした。 (知道出版)


2004/03/20 Tue  ケネス・ルオフ著『国民の天皇』

 この本は、私が共同通信社で出版本部に勤務していた時に、同僚の同期生、高橋紘氏が持ち込んできた企画である。高橋氏は社会部で宮内庁担当記者を長く続け、皇室記者として知られていた。著者のルオフ氏は現在は米ポートランド州立大助教授であるが、北海道大学に勤務したことがあり、天皇制についての研究に高橋氏は助言したりしたようだ。それで彼が監修し、共同通信社の木村剛久、福島睦男の二人が翻訳に当たった。
 この本は戦後の天皇と天皇制に焦点を合わせており、それを論じる必要から戦前の天皇のあり方に論及している。象徴天皇というGHQによって創造された戦後の天皇制を、政治家や学者、そして社会がどのように受け止めたかを基本的な柱にして、現在も続く大臣の「内奏」、天皇の戦争責任と謝罪、建国記念日と元号法の成立過程における右派の運動を分析し、最後に松下圭一氏によって提起された「大衆天皇制」の論及にまで至っている。
 論文なので内容は硬いけれど、訳文もこなれていて読みやすい。 (共同通信社)


2004/03/02 Tue  宮城谷昌光著『子産』(上下)

 子産は中国・春秋時代の小国・鄭の執政で紀元前522年に亡くなった。
 子産と同時代人だった孔子(BC551?-479?)は子産の死を知って涙を流し「子産は古(いにしえ)の遺愛なり」と哀惜したという。孔子がまさに「三十にして立った」時であった。孔子は周公旦(周の武王の弟)と子産を生涯尊敬したそうだ。著者によれば周公旦は革命家であり、子産は改革者だった。

 子産は人を活かす礼とは何かを実際政治の中で追求した。この小説はその子産の生涯を11歳からその死まで丹念に追っている。
 春秋時代半ばの小国鄭は北に晋、南に楚という大国にはさまれ、その間で向背を繰り返していた。民は疲弊し、国は誇りを失おうとしていた。武将子国の子として生まれた子産は、そういう祖国の信義のなさに失望感を抱いていた。そして世界を政治を正しく見る目をひとり養っていた。

 子産が大切にした礼とは、天の経(規範)、地の義(法)、民の行(道)であった。そして子産がその理想とする礼を政治の場でどのように生かしていったかを描いたのが本書である。
 子産の政治の特徴は民衆を重視したことと、政治における言葉のもつ意義を縦横に活用したことである。言葉の正しい意味でのレトリックの重視といってもよい。

 井上ひさし氏はそれを「それまでの政治言語である雅語や遠回しの諷意を排して、政治の弁論にはじめて修辞を持ち込んだ。自分のコトバを、できるだけ遠く(外交がそう)、そして深く(相手は民衆)届けようと心がけたのである。…近来奇妙に閉じられた永田町隠語で一国を経営して恥じないわが政治家諸公こそ、もっともこの本を読むべきであろう」と評している。(講談社文庫)


2004/01/25 Sun  西川恵著『エリゼ宮の食卓』

 世界の三大料理というのがある。フランス料理、中華料理はわかるが、さて三つ目となるとよくは知らない。日本料理だという人がいれば、イタリア料理だという人もいる。タイ料理だというのも聞いた。
 20数年前だが、トルコに旅行したとき、トルコ人のガイドはトルコ料理だと言った。トルコ料理はスルタンの時代には豪華な羊の料理などが多かった。イスタンブールのレストランに入ったら、羊の頭蓋骨を丸のまま煮込んだのが出てきた。脳みそを食べるのだが、これにはギョッとした。

 ところで、世界一、二を競うフランス料理も大統領官邸エリゼ宮での国賓クラスを迎えての晩餐会となると、そこにはさまざまな仕掛けがあって、時の最高権力者大統領の料理やワインへの薀蓄だけではなく、時の大統領が餐に招く賓客への評価もおのずと表現されることにもなる。そういうことをこの書は、綿密な取材で明らかにしていくのである。エリゼ宮の料理を通じたフランス外交論とでもいえばよいだろうか。

 サントリー学芸賞を受賞しただけに、なかなか面白い。著者は毎日新聞社の元パリ特派員で、その立場を活用してエリゼ宮の料理担当に食い込み、調理場にまで入って取材している。エリゼ宮が最も重視するのはエリザベス英女王、日本の天皇もそれに次ぐくらいに重視されていることが、晩餐会や午餐会で出された料理やワイン、シャンパンの銘柄などを検証することで明らかにする。料理やワインが国際政治とかかわりを持つことを興味深く教えてくれる。(新潮文庫)


2004/01/12 Mon  太宰治著『津軽』

 太宰治を最初に知ったのは中学3年生のころだった。同級生の吉岡輝雄君が太宰や坂口安吾を読んでいて、彼に教えられたのである。それから高校時代にかけて「斜陽」や「人間失格」を読んだ。「津軽」を初めて読んだのは大学に入ってからだった。その時はあまり面白いとは思わなかった。小説のような厭世的な感じはなく、郷里の津軽に対する屈折した思いも深くは理解できなかった。こんど数十年ぶりに読んでみて、これは太宰の最高の作品だと思った。
 彼が名を成してからの津軽半島の紀行なのだが、郷里への個人的な思いを含めた文章が、ある種の普遍性を獲得しているように思われた。

 金木町の旧家に生まれながら、彼は兄などの血縁よりも子守や手代のような使用人に愛着を持ち続け、それらの人を訪ね、一緒に旅をしたり、会いに行ったりする。ここには太宰の屈折した心理がのぞかれる。また郷土自慢の気持ちもあるにはあるのだが、それをストレートには出さず、やはり屈折させて表現している。それが自然な郷土意識とみえるような文章なのである。郷土への愛着はだれにでもあるが、それが言葉で表現されると過剰な郷土自慢か、過剰な郷土嫌悪になって表れることが多いのだが、そのバランスが適度だともいえる。

 最後に自分が幼いときに子守をしてくれ、本を読むことを教えてくれた「たけ」を小泊に訪ねて行く。その時の状況の描写は文中の圧巻で、これを書くために「津軽」は書かれたのだと思われた。(新潮文庫)


2003/12/25 Thu  植村直己著『植村直己 妻への手紙』

 植村直己氏がアラスカ・マッキンリー登頂の後、下山途中で行方不明になって18年になる。このところ植村さんの著書を読んできたが、これは彼が冒険旅行の先から公子夫人に送った手紙を集めたものである。

 公子夫人は「本来なら私の棺桶に入れて墓場まで持ってゆくべきものだったのですが」と書いている。しかし、やはり読者にとっては公開してもらってよかったと思う。
 「青春を山に賭けて」「極北に駆ける」「エベレストを超えて」「グリーンランド縦断」など、彼の著書も飾らない人柄がよく出ているが、ここにあるのは私信だけに、もっと彼のナマの姿が感じられる。公子夫人に「風邪をひくな」とか「寝るときは戸締りをして」とかを末尾に必ず繰り返すところや、誰々さんに礼状を君から出してくれとか、人に誘われても夜中まで外で飲んだりするなとか言ったりする夫婦の会話が、より親しみを感じさせて身近な人のような気がしてくる。

 結婚して10年、一緒に暮らしたのはその半分。結婚して間もなく新婚生活もほとんどすることなく海外へ出かけていく夫を夫人はどう見送ったのだろうか。
 多くは3年にも及ぶ北極圏での犬そり旅行の先々からの手紙だが、英語研修に行ったシアトルからの手紙では、語学学校で知り合ったベトナム難民の学生の話を聞いて、彼の苦労を思えば、エベレストに登頂したとか、北極点に単独到達したとかいう自分の足跡など何ほどのものかと考えるに至る精神、アラブ人や黒人、ベトナム人に比べて自分の英語が上達しないことに焦ったりする心の動きに、こちらも納得したりするのである。
 かと思うと、エベレストからの手紙では、自ら隊長としてエベレストを目ざしながら、竹中隊員の死で登頂を断念するのだが、その死に自責する彼の苦しみの深さが率直に書かれていて、こちらも深く胸を打たれることになる。

 また公子夫人は「厳冬期のエベレスト、南極のビンソンマシフと失敗が二度続いて彼の中に穴が開いたように感じました。(中略)時折その穴に入り込んでいる彼を見るのは辛いものがあり、失敗は自分自身どうしても許せなかったのでしょう。その果てが厳冬のマッキンリーになり自爆してしまったと哀しく思うのです。」と書いている。この本は夫人にとっても辛い後悔であったと思われてならない。(文春新書)


2003/12/11 Thu  宮城谷昌光著『クラシック千夜一曲−音楽という真実』

 中国の古代を材にとった歴史小説で人気の作家のクラシック音楽論である。音楽論といっても少年時代から聴いてきたCDを中心にした聴き比べを軸に自身の音楽観を語っている。私は従来、音楽評論家の音楽論や映画評論家の映画論より、門外漢の人が書いた論のほうが面白いのではないかと思ってきたところがある。
 映画で言えば、埴谷雄高の「闇のなかの思想」、花田清輝の「新編映画的思考」を大学生時代に愛読したものだ。これは映画評論家の映画論よりはるかに面白かった。それと同じで、宮城谷氏のこの本も知的な態度は異なるが、新鮮な感じで読むことができた。
 扱っているのは10曲しかない。メンデルスゾーン「バイオリン協奏曲」、ベートーベン「交響曲第6番・田園」、チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第2番」、ビゼー「アルルの女」、グリーグ「ペール・ギュント」、プロコフィエフ「三つのオレンジへの恋」、ムソルグスキー「展覧会の絵」、フォーレ「エレジー」、ブラームス「交響曲第3番」、ミヨー「プロバンス組曲」。どれも私が最近聴かなくなった曲ばかりである。しかし、これを選んだ著者の思いは私の今の音楽への思考をある意味で批判してくれたように思えたのも面白いところだ。
 ところで私は記者時代、宮城谷氏の文壇デビューに偶然かかわってしまった。1990年、名古屋の海越出版社という小出版社から宮城谷氏は「天空の舟−小説・伊尹伝」を出版した。版元から書評用に送られてきたその小説を偶然読んで、私は「これは行ける」と思ったのである。すぐに版元に電話して「この小説は面白いから書評で取り上げるので、著者の略歴と顔写真を送ってほしい」と頼んだ。そうしたら小野寺尚さんという担当編集者が「この小説を書評で取り上げてもらうのは初めてです」といった。私は司馬遼太郎さんと陳舜臣さんに送ったらよいとアドバイスした。そして「この小説は直木賞をとってもおかしくない」と褒めた。
 しばらくして小野寺さんから電話があって「司馬さんから宮城谷さんに励ましの手紙が来ました」とうれしそうに言ってきた。そして「じつはこの作品が新田次郎賞の候補になったのですが、受賞すれば直木賞はとれないのでしょうか。直木賞をほしいので、なんなら辞退しようかと話しているのですが」という。
 そこで私は「新田次郎賞をとったからといって直木賞がだめになるわけではない。仮にだめになっても、これと同じくらいのレベルの作品が書ければ、それで直木賞はとれるでしょう」と伝えた。「天空の舟」は新田次郎賞を受賞し、直木賞は候補となったが受賞は逸した。翌年、宮城谷さんは「夏姫春秋」をやはり海越出版社から出し、これで直木賞を受賞した。それからの宮城谷さんの活躍は目を見張るばかりである。(集英社新書)


2003/12/10 Wed  立松和平著『砂糖キビ畑のまれびと』

 作家の立松和平さんは1981年から数年間、私が呼びかけている与那国島サトウキビ刈り援農隊に参加してくれた。これはその体験から生まれたエッセー集である。刊行は1984年。
 私の立松さんとの付き合いは30年になる。だから、彼との付き合いについては別の機会に書くこともあるだろう。
 彼が最初に与那国島に行ったのは1980年のことで、私が製糖の途中で与那国島に行くのを話すと、ぜひいっしょに連れて行ってくれといったのである。それでふたりで島を訪れた。そのときは彼にとっては観光のようなもので、島をひとわたり見てまわり、那覇では詩人の新川明さんらに紹介した。
 翌年、彼はぜひ与那国島でサトウキビ刈りをやりたいといってきたが、彼は作家として忙しかったから、援農隊の渡航の日程と彼の日程が合わない。いっしょに行けないので、独自に行くことにした。農協に頼んで、サトウキビ農家の大嵩長岩さんを紹介してもらい、そこへ住み込んで働くことになったのである。大嵩さんとはすっかり意気投合したようで、それから数年間、彼は島へ通った。息子さんが成長すると、大嵩さんの畑に息子を送り込んだりもした。
 最初の1年の体験をもとに立松さんは「太陽の王」という長編小説を書いた。これは雑誌「新潮」の81年11月号に発表され、単行本にもなっている。これを書くに当たって、私は与那国島に関する資料を提供した。力作だが、まだ熟していない感じがした。そのことを彼に話すと「そうだなあ」といっていたのを思い出す。
 そして当時彼が出演していたテレビの「ニュースステーション」などで彼の援農体験を放送したりした。彼はキビ刈りばかりでなく、島の小学校で子どもたちにノーギャラで講演したりもした。(晩声社)


2003/12/01 Mon  沢木耕太郎著『人の砂漠』

 この本が最初に出たのは1977年だから26年前である。その時は、この本の中に書かれている与那国島のルポ「視えない共和国」を読んだだけだった。沢木氏が与那国島へ行ったのは、文章の感じからみて、私が初めて行った1973年夏とほぼ同じ頃のようだ。今回、与那国島サトウキビ刈り援農隊の歴史をまとめたいと思ってホームページに書き始めているが、その関係でこの本を思い出して再読してみた。
 「視えない共和国」に登場する与那国島の人たちのなかには、私もよく知っている人が何人か登場する。初代町長だった浦崎栄昇さん、ルポ当時の町長の仲本裕さんとあるのは、援農隊実現に尽力された仲本宗裕さんの間違いである。奥さんが民宿「のれん」をしている教師の田頭政睦さん、私もこの民宿には世話になった。久部良の漁師糸数繁さんはその後「老人と海」という映画のモデルになったし、漁協の仲嵩組合長など懐かしい名前である。町役場の経済課長で浜盛さんという人が出てくるが、これは前盛さんの間違いではないか。
 そんな間違いもあるが、沢木さんが島をルポしたのは20代半ば。与那国という国を幻のような共和国と見立てる視点をこのときに抱いたのは、今から見てもこの島のひとつの核心を言い当てているように感じた。
 この本には与那国島ルポのほかに7編のルポがある。それらは今回初めて読んだ。なかでも「捨てられた女たちのユートピア」は売春婦の更生施設「かにた婦人の村」を扱っている。これの前身である「いずみ寮」には私も学生時代に奉仕に行ったことがある。登場する山川宗計さんは早稲田奉仕園の先輩でもある。
 今回読んだのは文庫版であり、駒田信二氏が解説で「『人の砂漠』の漂流者の姿をあざやかにとらえることができたのは(中略)、その砂漠の漂流者にやさしくあたたかい、あるいはかなしい目をそそぐ自らに対して、冷たいといってよいほどのきびしさを課しているからにほかならない」と書いているのは納得できる。これらの文章はすべて沢木氏の20代の仕事であるが、それから30年もたつ今読んでも生き生きとしている。その若さでこれだけの説得力のあるルポを書けたことは驚嘆に値する。(新潮文庫)


2003/11/16 Thu  植村直己著『エベレストを超えて』

 今年2003年はヒラリーとテンジンがエベレストに初登頂して50年である。
 植村さんはエベレストに5回アタックしているが、登頂に成功したのは1回だけだった。登山家の加藤保男氏は1973年10月にポストモンスーンの初登頂、80年5月に北東稜から単独登頂、82年12月には厳冬期初登頂を果たしたが、ビバーク中に行方不明になった。これだけを見れば植村さんより加藤氏の方が業績は上だと思われる。
 植村さんの5回のアタックは69年春と秋の試登を含めてで、実際に登頂を試みたのは3回である。その最初が70年5月で、このとき日本山岳会隊(松方三郎隊長)のメンバーだった彼は日本人で初めて登頂に成功したのである。先の2回の試登はその予備調査だった。
 その後、71年5月には南壁登攀をめざした国際隊に隊員として参加するが、各国の寄せ集めでチームワークがとれず断念を余儀なくされた。81年2月には自ら隊長となって厳冬期登頂をめざしたが、竹中昇隊員が彼の腕のなかで死亡するという事故に見舞われ、登頂を諦めている。
 植村さんのエベレスト体験のすべてを振り返ったのが本書で、エベレストがプロの登山家にとって何かを知ることができた。予備調査と本隊受け入れの準備のためにひとりヒマラヤで越冬する体験、国際隊の実態、竹中隊員を死なせた状況の克明な報告、そして「山で死んではならない」という信念を抱きながらそれを防げなかった自己に対する厳しい態度などには、読んでいて感動させられる。なによりも率直な態度が人を引きつけるのだと思った。(文春文庫)


2003/11/06 Thu  木村剛久著『夢の城へ 山片蟠桃の世界』

 共同通信社出版本部の編集者、木村剛久さんから突然大部の冊子が届いた。開けてみると、B5判の200ページ、2段組みのホチキスで綴じた私家版の本であった。江戸時代の大阪の学者、山片蟠桃の伝記である。
 山片蟠桃は富永仲基とともに江戸期大阪を代表する学者であることは知っていたが、詳しくは知らない。生前の司馬遼太郎さんから蟠桃や仲基については聴いたことはあったが、正直、いったいどんな人物かよくわからなかった。生来の不勉強と怠け者で読んでみようとしなかったからだ。司馬さんは蟠桃と仲基を大阪の生んだ近代的、合理主義的な人物として高く評価し、山片蟠桃賞までつくった。木村さんの労作を読んで、その理由がはじめてわかった。

 木村さんがなぜ山片蟠桃なのか、それは読み始めてすぐにわかった。彼は兵庫県高砂市の出身で、蟠桃は同郷の偉人なのであった。会社時代に何を思ったか、高砂の名物焼き穴子を送ってくれたことがあった。関西ではよく穴子を食べるが、それは飛び切りに旨い穴子だった。それで木村さんが高砂出身と知ったのである。
 木村さんは郷土の偉人によほど思い入れがあったとみえ、時間をかけて調べ、膨大な史料も渉猟していることがよくわかる。彼は私の会社時代、ほとんど毎月、単行本を編集し刊行していた。それも手軽に出せるようなものではない。ポール・ジョンソンの「キリスト教の2000年」2巻、「アメリカの歴史」3巻、ノーマン・デービスの「ヨーロッパ」4巻といった大部の本も多く、じっくり時間をかける必要のある知的なものが多かった。翻訳書の場合は、訳者の翻訳の仕事そのものを手伝ったりしていた。単行本作りではピカ一の編集者だった。
 だから大部の「山片蟠桃伝」などを執筆する時間の余裕などあるとは思いもしなかった。あとがきによると、10年前に個人通信に連載したものをもとに一度私家版を出し、さらに手を入れて1300枚もの原稿にまとめて出版社に渡したが、この枚数では難しいといわれ、今度は600枚に圧縮した。しかし出版不況のご時世で日の目は見ず、送られてきたのだ。
 地元だけに土地勘もあるだろうが、彼の調べはそれにとどまらない行き届いたものである。私などは、記者時代に多くの作家や評論家、学者などに接してきて、眼高手低を絵に描いたようなものだから、とてもこうは調べる根気も気力もない。文章にしてもつれづれに手遊びをしているようなものだが、木村さんの文章はときに難はあっても水準のはるか上を行っている。蟠桃に少しは興味もあったので、読んでいて楽しいのである。こういう仕事をし、成果を送ってきてくれた木村君に感謝をしたい。(私家版)


2003/10/30 Thu  植村直己著『極北に駆ける』

 「青春を山に賭けて」に続いて読んだ。植村さんは、五大陸最高峰の制覇の間に、アマゾンをいかだで河下りした。そのころから南極大陸横断の夢を抱き、そのため準備訓練としてグリーンランドの北端のエスキモー(イヌイット)の村で生活体験する。その1年近くにわたる体験記が「極北に駆ける」である。エスキモーの生活をはじめて日本に紹介したとして、注目を集めた本でもある。

 グリーンランドはデンマーク領だそうだが、それは今回この本ではじめて知った。アザラシ、セイウチ、オヒョウ、白熊などを狩猟して暮らすエスキモーの暮らしは、現代文明とはかけ離れた原始の生活に近い。日本の縄文時代のように思える。性の倫理観など文明人とはまったく異なる開放性を持っている。エスキモーは一夜の客に妻を貸すという俗説があるが、そうではなく、性の開放性からくるもので、俗説は必ずしも正しくはない。

 冬になると半年近くも真っ暗な闇のなかで暮らすことになる。戸外に出ると氷点下30-40度という寒さがどんなものか想像もつかない。しかし、エスキモーの性格は明るく、人懐っこく、人情に厚い。
 犬そりを曳いて狩や旅に欠かせないエスキモー犬も食料がなくなると、殺して食べてしまう。植村さんも3000キロの犬そり旅行で何度か、食糧不足になって殺して食べようと思うが、いままでそりを曳いてくれた犬を見ると、どうしても殺せない。
 原始の生活をしていたエスキモーには飲酒の習慣はなかったが、文明が入ってきて飲酒がひろまり、彼らの生活を大きく変え、酒に惑溺するようになったために、デンマーク政府は、エスキモーに対しては酒の購買量を1ヶ月にビール30本と制限しているという。(文春文庫)


2003/10/22 Wed  植村直己著『青春を山に賭けて』

 植村直己さんが豊岡高校の1学年先輩であることは前にも書いた。生前、彼に1度だけ会ったことがある。グリーランド犬そり縦断の後のことで、板橋区のお宅を訪ねた。木造の都営住宅のような長屋で、6畳と4畳半、それに3畳の玄関兼台所という住まいだった。4畳半には小さなちゃぶ台と電話があるだけだった。台所には洗濯機があったと思う。それ以外には何もない。じつにあっけらかんとした住まいで、私はそのたたずまいに感動した。この日本での暮らし方を見て、この人は本物だと思ったのである。

 この春、板橋区の植村直己冒険館の企画で、冬の北八ヶ岳スノートレッキングに参加したが、植村さんの本を読み直してみようという風には思わなかった。もっとも植村さんの本は会いに行ったときに「北極点グリーンランド縦断」を読んだくらいで、ほとんど読んではいなかった。書店でこの「青春を山に賭けて」を見つけて、ほかにも2冊文庫本があったので買って読んだ。
 同世代だから、読みながら、あのとき植村さんはこうしていたのか、という思いを感じながら読んだ。私は大学時代から山にはまったく関心がなかったが、彼は大学に入ってすぐ山を選んでいる。新入生の白馬での訓練に音を上げ、これでいかんと自己訓練をし始める。大学4年間で500日以上山に入っていたというからすごい。

 卒業すると、ヨーロッパ・アルプスに登りたいと夢を抱き、まず米国に渡って労働許可ビザもないのにカリフォルニアの畑で働く。無許可労働が発覚したが、登山のための資金稼ぎを理解してくれた管理官の温情で、強制退去にはならず、フランスに渡る。アルプスのスキー場では臨時雇いのパトロール員をし、酒もタバコもコーヒーさえも飲まずに資金を貯め、その間、モンブランなどを単独登山し、アフリカに渡てケニア山やキリマンジャロを単独登山する。この間、ヒマラヤのゴジュンバ・カン峰の隊員となって登頂に成功。その後は南米に渡り、アコンカグアなどにも登る。そして手製のいかだでアマゾンの川下り。さらにエベレスト南壁登山隊でも登頂に成功、最後はアラスカのマッキンリーと5大陸の最高峰を踏破するのだ。
 この本をだれかが「永遠の青春小説」と評していたが、まさにその通りだ。私は彼が山を追いかけて青春を燃焼している同じころ、文化関係の新聞記者として、映画や文学、評論などの分野を対象に、私なりに充実した青春を過ごしていた。青春にもさまざまなかたちがある。植村さんの並外れた冒険心と実行力には感嘆するほかない。(文春文庫)

2003/10/01 Wed  松本健一著『評伝・斎藤隆夫−孤高のパトリオット』

 草柳大蔵「斎藤隆夫かく戦えり」は物足らかったが、これは、日本近代政治史の中で、斎藤隆夫の意味を深く検証し、近代政治思想史の中に欠くことのできない意義を初めて評価したものとして大きな感銘を受けた。

 兵庫県出石の貧農に生まれ、苦学して早稲田を出、弁護士を経て米国に留学したあと政治家となる。同郷の大先輩、加藤弘之が啓蒙思想家として立憲政治を説いていたのが、のちに日本の天皇制は外国の君主制と異なるとして天皇機関説問題で変節すると、斎藤はこれを厳しく批判した。斎藤自身は立憲君主制における天皇制を支持し、そこでの政党政治をめざしていたから、天皇機関説は当然の結論であった。
 米国留学体験から政党政治の確立が日本のために不可欠と考え、徹頭徹尾、その姿勢を貫いた。2・26事件直後の「粛軍演説」も、日華事変処理に関する「反軍演説」も、軍部の政治進出に反対して政党政治を実現する立場からの当然の行動であった。

 斎藤の歴史観は、人類の歴史は弱肉強食の歴史で、帝国主義により東洋が西洋の植民地と成り下がったのは、西洋が強く、東洋が弱かったからだと考え、それに対抗するには強くならなければならないというものだった。リアリスティックなパワーポリティックスの信奉者といえる。軍部が「大東亜共栄圏」のような情緒的な没論理で欧米の非を指摘し、アジアの解放を唱える「聖戦」の思想にも反対することになる。そんな思想では欧米には通用しないというのだ。

 犬養毅、鳩山一郎、近衛文麿ら、今ではリベラルのイメージで見られがちな政治家をも徹底的に批判している。犬養や鳩山は軍部独裁への道を開いたとし、近衛には政治家としても資質を欠いた無責任を批判した。
 斎藤の歴史観には毒があり、それがこれまで斎藤が正当に政治思想史の中で位置づけられなかった理由ではないかと著者はいう。だが、斎藤は厳しい現実認識、世界認識の裏打ちがあって、政党政治をめざし、それが国民国家を実現すると道と考えていた。
 終戦の日に早くも、斎藤は米国は日本の国体を変えないし、天皇制を維持するだろうと発言している。この正確な見通しは彼の米国認識と論理から当然の結論だった。

 これまで斎藤隆夫といえば「粛軍演説」「反軍演説」の孤高の政治家というだけで、それ以上に踏み込んだ斎藤論はなかった。本書はそれを打ち破るもので高く評価したい。(東洋経済新報社、1900円)

2003/09/26 Fri  白須英子著『イスラーム世界の女性たち』

 以前何度か紹介した翻訳家の白須さんの著書。中東、アラブなどに関係する翻訳書が多く、私も在職中に、ジェーン・フレッチャー・ジェニス著「情熱のノマド−女性探検家フレイア・スターク」(共同通信社)の翻訳をお願いし刊行した。最近はケニーゼ・ムラト著「皇女セルマの遺言」(清流出版)を翻訳されている。どちらもわくわくしながら読んだが、「イスラーム世界の女性たち」(文春新書)は、中東ものの翻訳の仕事の中で渉猟した資料や書物、それにご自身で中東各地を旅行された体験から、中東の女性についての歴史や現状を肩のこらない文章で書いたものだ。

 中東の女性といえば、チャドルやベールを被って人前に顔や容姿を見せないスタイルがまず浮かぶ。男性は4人まで妻を持つことができるということもある。イスラームの女性は男性社会の中で虐げられているのではないかという思いがまず浮かぶ。たしかにそういう面もあるのだが、それは同時にわれわれが考えてきたように、単に虐げられているだけとはいえない面もあることをこの本は教えてくれる。

 私たちのイスラーム女性観は、最近ではアフガニスタンのタリバンによる極端な女性差別からでき上がっているところが多いように思うが、イスラーム圏でも国によってその差はたいへん大きいものがあるようだ。女性の社会進出度や国会議員数など日本よりはるかに進んでいる国もあるという。

 他方で、女性が車の運転はおろか、一人で外出することさえ許されない国もある。そういう古いままの社会に対して、女性の人間的な尊厳を確立しようと運動を起こしても、逆に封じ込められてしまう体質なども具体的に書かれている。へえーっと思うようなエピソードもいっぱいあっていつのまにか読み進んでしまった。(文春新書、700円)

2003/09/21 Sun  菊地俊朗著『山の社会学』

 初版が平成13年6月なので2年前の本だ。菊地さんは信濃毎日新聞の記者から常務になった人。私は信毎にも友人は多いが、なぜだか菊地さんを直接知らない。
 先日、剱岳に同行した先輩が菊地さんと知り合いで、彼からこの本のことを聞いていたので、書店で見かけて買ったのだ。

 元新聞記者が書いた山の本で、タイトルを「山の社会学」と付けると、内容も大体想像されるが、そして実際読んでみて、その想像が大きく外れるということはなかったが、それでもこれはこれで結構面白かった。山歩きを始めて1年余の駆け出しには、山について知らないことがたくさんある。ことに低山歩きが主体だから、日本アルプスや北海道から九州などの高山については知らないことが多い。

 菊地さんは登山歴40年余というベテランで、長野県山岳連盟のヒマラヤ遠征にも参加されたような人だから、読んでいて各地の山の状況が豊富に出てくる。高山だけでなく、低山も、渓谷も、温泉もといった具合で、体験の豊富さが読む者を引きつける。

 考えてみれば、山をめぐる状況というのは、この20年ぐらいで大きく様変わりしているということは、初心者の私にもわかるのだが、それがどう変わってきたのかというと、正確にはいえない。その点で菊地さんはよく調べて答えてくれる。
 例えば、山小屋でいえば、昔は米を持参で行ったが、今は缶ビールや缶ジュースもあるし、1畳に2人といわれた空間も、今では個室さえある山小屋もある。トイレも清潔になったり、風呂のあるところも増えた。山小屋のトイレの考察などはなかなか力がこもっている。

 そのほか、ヘリコプターの活用、ボランティア医療体制、ツアー登山、高齢化、登山道、林道、山の環境保全など考察は多岐にわたっている。初心者で最も感じる変化は装備なのだが、これには触れていない。だが、山好きには一読を進めたい。
(文春新書、710円)

2003/09/15 Mon  中野雄著『ウィーン・フィル 音と響きの秘密』

 8月にバイロイト・ワーグナー音楽祭とザルツブルク音楽祭に行って、ザルツブルクでウィーン・フィルを5回聴いた。ゲルギエフ指揮の「ドン・カルロ」、アルノンクール指揮の「ドン・ジョヴァンニ」と「皇帝ティトの慈悲」、ティーレマン指揮の新作オペラ「ルプパ」、それにムーティ指揮のコンサートで、曲目はベートーベン「献堂式序曲」、ケルビーニ「交響曲ニ長調」、ブラームス「交響曲第2番」だった。聴いたホールは祝祭大劇場、同小劇場、フェルゼンライツシューレの3箇所。
 聞いて吃驚したのは、日本で聴いたのと音がまったく違って、透明感を強く感じた。弦楽器のつややかさが澄んだ空気を通じてこちらに届いてくるのだった。これはどうしてだろうかと考え続けた。日本は湿度が高く、楽器や弦にそれが影響しないわけはないということで、この点、あちらは空気が乾燥していて澄んでいる。そういうことがあるのかもしれないと思ったのである。
 そんなことを考えていて、書店で偶然、この本を見つけて買った。中野氏の著書では「丸山真男 音楽の対話」を前に読んで、感銘を受けていたから、これにも期待が湧いた。先の私の疑問は解けなかったが、これはこれで非常に面白い本だった。
 丸山真男から、フルトベングラーのベートーベン第九第1楽章の第2バイオリンの出だしの6連音符についての問題や、5番運命の最初の動機でフルトベングラーは他の指揮者と違ってコントラバスとチェロの低音弦楽器をわずかに早く弾きださせる有名な話から説き起こしている。これをウィーン・フィルのコンサートマスターや各パートの首席奏者など知人に尋ねたりして、ウィーン・フィルの音の秘密に迫る。決して専門的な語り口でなく、むしろ裏話や逸話を交えてわかりやすく、かつ知的な刺激を与えてくれるのである。ひさしぶりに面白い本であった。(文春新書、710円)

2003/09/13 Sat  井上靖著『氷壁』

 山歩きを始めて1年ちょっとになるが、最近は山に関係した本や小説を読むことが増えた。これもその1冊。
 昭和31年に朝日新聞に連載された。当時私は中学3年生で、登山にはまったく関心はなかったが、冬の前穂高岳東壁で登山中にナイロンザイルが切れて死亡事故が起きたとの設定で、折からの登山ブームで「なぜナイロンザイルは切れたか」が、一種社会的な話題となったことも記憶している。連載した朝日新聞は登山にロマンティックな思い入れのある報道をする新聞で、私はこういう報道の態度には共感できなかった。だからこれは新聞社の宣伝ではないかと思ったのだった。
 今回、改めて読んでいて気づいたのは、2人の登山家をつないでいたザイルが切れ、その切り口が問題になるのに、切れた片方のザイルは生き残った魚津の体に結ばれていたはずだから、残っているはずであるということだ。そのことに小説が触れていないのは、この作品としての破綻ではないか。
 もう一つはそんな事件よりも、また2人の若い登山家と八代美奈子をめぐる恋愛よりも、主人公の上司として登場する常盤大作という人物像だった。一見豪放磊落なようでいて、神経が細やかで冷静な判断力をもつ常盤大作は部下思いの人物でもある。彼のような性格の人物は、企業にはどこかに必ずいるものだという思いも読んでいてしてきた。そういうリアリティを持った人間像である。
 こういう人間の見方は、中学生のときには当然理解できなかった。
(新潮文庫、633ページ、781円)

2003/09/12 Fri  木村聖哉・麻生芳伸著『往復書簡「冷蔵庫」7』

 8月に木村聖哉さんから恵贈いただいた。お2人の思索と活動を往復書簡のかたちで展開したもの。以前の巻から恵贈いただいているが、2人の文化や社会への関心のありように私は共感している。
 麻生さんについては「落語百選」など落語に詳しい人としか知らないが、木村さんとは、与那国島援農隊で大きな役割を果たしていただいた故那須正尚さんの盟友ということで、一緒に桧原山中の那須さんの墓まいりをしたことがある。
 那須・木村両氏は同志社大学で鶴見俊輔氏に学び、学生時代は関西でワークキャンプ運動をしていた。奈良にハンセン病患者の宿泊施設を建設した体験をまとめた「むすびの家物語」という著書もある。そのころ、私は早稲田奉仕園で知的障害児や売春婦の更生施設などへワークキャンプに出かけていたから、関西の運動を耳にしてはいたが、この本で詳しく知った。
 タイトルの「冷蔵庫」は、「中国の内幕」「アリランの歌」などで知られる米国の女流作家ニム・ウェールズに、作家の李恢成さんが1987年にコネチカット州マジソンの自宅に訪ねたとき、彼女の家の冷蔵庫の中に43冊分の原稿が保管されていたということから名づけたそうだ。
(紅ファクトリー刊、1700円、304ページ)

2003/07/09 Wed  ケニーゼ・ムラト著、白須英子訳『皇女セルマの遺言』

 上下2巻、各450ページ余という大冊で、読むのに時間がかかったが、たいへん面白くもあった。近代の歴史に翻弄されたトルコの皇女の数奇な生涯が感動を誘う。トルコ版の現代貴種流離譚といえようか。

 オスマン帝国のスルタン・ムラト5世の孫娘セルマの29年の生涯を、彼女の娘が丹念に調べて書いた歴史小説である。第1次大戦によって、500年間続いたオスマン帝国は、英仏など列強に占領され、それへの抵抗運動からケマル・パシャのトルコ共和国となる。

 スルタンの側から見れば、ケマル・パシャはスルタンを裏切って権力の座についたのだ。そのために、セルマと母はベイルートに亡命する。イスタンブールの宮殿で生まれ育ったセルマと母は、宦官と女官ら数人とともに亡命したのだが、オスマン帝国の皇女という肩書きは、ここでの社交界で尊重され、以前のように豊かではないまでも、キリスト教の女学校に通い、友にも恵まれて育つ。

 セルマは自由主義的な自立心を持った女性として成長するが、母の強い勧めで、英領インドのバダルプルのラージャ(藩王)に嫁ぐ。オスマン帝国の皇女という肩書きだけを頼りにした、見たこともない相手との縁組だった。藩王は英国の大学を出ており、西欧的な教養の持ち主という期待もあった。

 だが、インドでの生活は、英国からの独立運動、ムスリムとヒンドゥーとの対立抗争、根深い因習にがんじがらめになった生活…。夫の藩王は、セルマの考えに理解はしても、伝統と妥協せざるを得ず、セルマはそんな生活に耐えられなくなっていく。次第に二人の絆は崩壊していく。  妊娠を機にセルマはパリへ出る。パリの社交界でも注目を受け、米国人医師との恋もする。だが、第2次大戦が迫り、夫からの送金も途絶え、ドイツ軍に占領されたパリで、長女を産むが、次第に困窮し、貧窮のうちに亡くなる。看取ったのは母に仕え、母の死後はセルマに仕えてきた老いた宦官ゼイネルだけだった。

 かつて、ロシア革命で処刑されたニコライ皇帝の娘のアナスタシアが、貧窮生活しながら生きているといううわさが流れたことがあった。それをもとにハリウッドはイングリッド・バーグマンとユル・ブリナー主演で映画もつくった。そんなことも思い出した。そういえば、美貌のセルマはベイルート亡命中にハリウッドから誘われ、大いに心を動かしたのだった。(清流出版)

2003/06/24 Tue  村松友視著『ヤスケンの海』

 安原顕さんのことは、この1月26日の日記に葬儀に参列したことを書き、2月20日に「安原顕さんのこと、島尾ミホさんのこと」で書いた。安原さんとは、彼の早稲田の仏文科時代に、私が当時住んでいた早稲田奉仕園の友愛学舎に遊びに来て、文学論などを話したのだ。仏文科には郷里の同級生の千葉裕さんがいて、彼と私は同じ友愛学舎にいた。安原さんと千葉さんが同じ仏文科での学友だったのである。私は法学部だった。正確に言えば、千葉さんのところへ安原さんが遊びに来て、私もいっしょになって文学の話をしたのである。それが最初の出会いだった。

 安原さんは、いろんな文学書を読んでいるなという印象で、よくしゃべった。そして大江健三郎を高く評価していた。大江のまだ初期のころであったが、将来の日本文学を担う存在と位置づけていたようだった。それほど大江に入れ込んでいた。
 それから安原さんに会ったのがいつだったか思い出せない。早稲田公論を経て竹内書店に入り、「パイデイア」という雑誌を担当していると聞いた。親しく会うようになったのは「海」に移ってからだ。そして、村松さんの本にも書かれているように大江健三郎事件である。

 私も文芸記者をした時期があり、文化人類学者の山口昌男氏のグループの端に私もいて、一緒に酒を飲んだり、コンサートに行ったり、アングラ劇を見に行ったり、また映画の試写会などでも一緒になった。このグループには、浅田彰(当時京大助手)、栗本慎一郎(当時慶応大教授)、三浦雅士(当時「現代思想」編集長、のち文芸評論家)、川喜多和子(フランス映画社)、安原顕、田野倉稔(演劇学者)、大塚信一(のちの岩波書店社長)などの人たちもいた。新宿西口のスナック「火の子」が溜まり場だった。「火の子の30年」とかいう本を三浦さんが編集してつくったことがあるが、私もそこへ沖縄のことを書いた覚えがある。1970年代だが、当時の火の子は、辻邦生さんはじめ作家が多く姿を見せた。ママの内城郁子さんと高井有一さん、立松和平さんらと那須に旅行したこともあった。

 「ヤスケンの海」を読んでいると、昔のさまざまなことがとりとめもなく思い出された。村松さんとは、作家の栗田勇さんの麹町のマンションで、ときどき飲み会をし、そこで一緒になった。彼は栗田さんの連載小説「漂民」を担当していた。これにはNHK「女性手帳」の細谷邦興さんらもいた。村松さんには、私が住んでいるマンションで管理組合が文化講演会を開きたいというので講師に来てもらったこともある。(幻燈舎・1600円)



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