交遊閑語

スタンレー・マニーア宣教師の訃報に




 スタンレー・マニーア元宣教師がボストン郊外で亡くなったとの記事が「Japan Baptist」紙に出ていると教えられた。88歳だった。私は高校2年生の時に、マニーア宣教師からキリスト教の洗礼を受けた。

 その頃、兵庫県の地方都市の教会に姉が通っており、私は日曜日の朝になると、教会の日曜礼拝に出席する姉を自転車の後ろに乗せて送り迎えしていた。礼拝の間、私も教会堂の後ろに坐って賛美歌や牧師の説教を聴いていた。当時兵庫県を担当していたマニーア宣教師が毎月、この教会に伝道に来られた。礼拝が終わると、近郊の村々を伝道集会を開くために彼は教会の牧師らとともに出かけていた。そのうちに私は彼の山村伝道を手伝うようになっていた。村々の誰かの家を借りて、子供たちや大人たちにキリスト教の話をするのである。私はその手伝いに過ぎない。クリスマス会の時には、聖書にあるイエス・キリストの誕生物語を幻灯機で映写し、その物語を朗読したりした。そんなことを続けるうちに、マニーア宣教師から勧められて通っていた教会で洗礼を受けた。一緒に数人が受洗した。

 私は高校卒業時の大学受験に失敗し、東京で予備校に通った。当時はかなり大学入試の競争率が高く、予備校に通っていても隣の受験生を競争相手として意識してしまい、あせる気持ちがつのった。これではいけないと思ったのだが、どうにもならず、夏休みの夏期講習を終えると、郷里に戻って独りで勉強を続けた。愛知県岡崎市にあった増進会という大学入試専門の通信教育を受け、月に1回、京都の予備校に模擬試験を受けに行くという生活に切り替えた。そうすると、一方で孤独な不安もあったが、受験勉強は順調に進んだ。ある時、予備校での体験をマニーア宣教師に話したら、彼はいたく感じ入ったようだった。それからは私は彼から親身に精神的な援助をしてもらうようになった。

 マニーア宣教師は当時、40歳ぐらいだったように思う。風貌は、西部劇映画のスターとして人気のあったグレン・フォードにそっくりだった。彼は太平洋戦争で米国空軍の爆撃機のパイロットを務め、日本空襲に参加したが、撃墜されて捕虜となったそうだ。その捕虜生活の中で、宣教師となって日本へ伝道することを決意したと聞いた。そして、戦後、それを実行したのである。

 私が早稲田大学に入学が決まると、郷里の教会の人から「早稲田には早稲田奉仕園というキリスト教の学生センターがあり、そこに友愛学舎というキリスト教の寄宿舎がある。これは早稲田の学生だけが入れるもので、そこの総主事兼友愛学舎舎監の向谷容堂さんは、但馬の出身で旧制豊岡中学の先輩でもある。向谷さんを訪ねて行ったらどうか」と紹介状を書いてもらった。こうして、私は友愛学舎に入り、大学を出ると新聞記者になった。

 そんなある日、1970年代の初めだったが、久しぶりに早稲田奉仕園を訪ね、敷地内にあった日本キリスト教会館のNCCの事務所を訪ねた。マニーアさんがそこに勤務していたからである。私は30歳になっていた。マニーアさんは私の顔を見ると懐かしそうに握手してきた。そして、あの予備校の体験談を彼の方が思い出して語りかけてきたのである。その時に他にどんな話をしたのかはもう覚えていないが、それがマニーアさんと会った最後であった。その後、彼が引退してボストン郊外に隠棲しているとは聞いていたが、手紙を出すことはなかった。

 今年創立100年を迎えた早稲田奉仕園の百年史の編纂に3年ほど前から私は携わってきた。その作業の中で、資料を読んでいると、友愛学舎の先輩で早稲田大学YMCAや早稲田奉仕園、早稲田教会の活動に尽力されたNさんのインタビュー記録に、マニーアさんのことが出てきた。私はあまりの奇遇に驚いた。そうしてマニーアさんのことが思い出されて、それからは、しだいに私の中で彼の存在が大きくなっていった。そんな矢先に彼が亡くなったと聞いたのである。亡くなったのは11月10日だったそうだ。百年史の編集も最盛期を迎え、作業に追われている中でのことだった。 (2008/11/22)

 感想などをメールでいただければうれしいです。メールはこちらまで。

Last Update:2008/11/22
©2003 Masayuki Fujino. All rights reserved.