交遊閑語

有光教一先生白寿の祝い




 京都は紅葉にはまだ早かったが、ほんのりと色づき始めた心地よい季節であった。宝ヶ池プリンスホテルで考古学者有光教一先生の白寿のお祝いの会があり、出席した。  出席者は、角田文衛、上田正昭、直木孝次郎さんら関西の歴史学界の重鎮や教え子の皆さんら学者がほとんどで、韓国からも5人の学者が来日して出席するという会だった。私は考古学を勉強したわけではないので、門外漢なのだが、この会の準備の中心になった高麗美術館から案内をいただいたのである。

 有光先生は、この高麗美術館の研究所長を創設以来務められている。私はこの美術館の創設者故鄭詔文さんと生前、親交をいただいていた。それで有光先生を存じているのだった。1998年夏、3年間在勤した京都から東京へ転勤する際、高麗美術館の人たちに送別会を開いていただいた。普段はそれほど親しくいただいていたとは思っていなかったのに、このときには有光先生も来てくださり、感激の思いを抱いたのだった。それで案内をもらったときにはぜひ出席したいと思ったのである。

 あの席で、有光先生は産経新聞の黒田勝弘氏が書いた有光先生についての長い新聞記事のコピーをお持ちになり、私に見せられた。私は黒田氏とは彼の共同通信時代から親しかったが、そのことを有光先生がご存知のはずはない。私はこの偶然にびっくりした。そして何かふしぎな因縁を感じたのだった。

 有光先生のことを高麗美術館からいただいた資料で紹介する。有光さんは1907(明治40)年、山口県に生まれ、旧制福岡高校から1928年、京都帝大文学部史学科に入学した。史学科で考古学を専攻したのは有光さん1人だけだったそうだ。濱田耕作、梅原末治の指導を受けて1931(昭和6)年卒業、大学院に進むが、9月に朝鮮古蹟研究会慶州研究所に勤めるために朝鮮に渡り、発掘・調査に従事した。

 戦前の朝鮮の遺跡発掘調査は、大正時代から京大史学科の学者が中心になって行なわれ、慶州の金冠塚、金鈴塚古墳などの発掘で金冠や首飾り、ローマングラスや土器などが発見されていた。古蹟研究会慶州研究所での専門家は24歳の有光さん1人。言葉も通じない地元の作業員を使っての発掘調査だった。慶州邑南古墳群や忠孝里石室墳などを発掘した。三国時代新羅の慶州邑南古墳群82号墳からは金の耳飾りや銀の帯金具などが出土し、83号墳からは環頭太刀が出土した。慶州市西岳洞の武烈王陵のそばを通りかかった時に地元の人たちが墓碑を囲んでいたのを目にし、調査してみると、武烈王の第2子、金仁問の墓誌とわかったのが思い出深いという。

 慶州からは1年で帰国する予定だったが、それが延び、1933(昭和8)に朝鮮総督府博物館に転勤を命じられた。朝鮮の古蹟や天然記念物の保存の仕事に従事する。高句麗式の山城・鳳山山城の保存に努めた。戦争末期、セメント採掘のために山城を削る話が浮上したのに反対して採掘をやめさせたのである。この山城は戦後、完全保存されることになる。1941(昭和16)年には、京城帝大講師を兼務して考古学を教えた。1945(昭和20)年はじめに総督府博物館主任となったが、半年後に終戦を迎えた。当時、博物館には館長がいず、主任が実質的な館長だった。東京大空襲の報を聞いて、総督府博物館の館蔵品を守るために、20人の館員だけで重要なもの1千点を慶州と扶余の博物館分館に疎開させた。それでも全体の2%ほどにしか過ぎなかった。

 こうして8月15日に終戦を迎えた。総督府の日本人はほとんどが罷免された。だが、有光さんは残留を命じられた。夫人と子供4人は先に帰国させた。残った有光さんはのちに韓国国立中央博物館長となる美術史家の金載元氏とともに、疎開品を回収する作業に従事した。回収した遺物に英語とハングルで説明札を作り、整理して展示し、12月3日に博物館は開館した。これで妻子の待つ日本へ帰れると12月19日の引き上げ船に乗る手続きをしたところ、出発の前日になって米軍政府から「博物館の顧問として採用するから、さらに残留せよ」との命令を受けた。博物館員のほとんどが考古学には未経験者で、館員としての指導をすることと発掘調査の指導が理由で、勤務期間も「できるだけ長く」というものだった。考古学者としての有光さんの誠実な姿勢が買われたのだった。

 博物館の指導を終えると、46年5月、慶州邑南古墳群140号墳の発掘調査に当たった。この発掘で、高句麗好大王の銘が刻まれた銅盒が出土した。新羅と高句麗の交流を裏付ける大発見に足がガクガクと震えたという。調査を終えた3日後の5月28日、金載元館長らの見送りで釜山から帰国船に乗った。帰国に当たって、許される持ち物は手荷物だけだった。朝鮮で集めた貴重な学術書などは持ち帰ることができず、金館長に買い上げてもらった。

 帰国すると夫人が身を寄せていた福岡に行った。ここでGHQ九州地区軍政司令部の顧問に採用された。九州の文化財について仕事だった。50年3月、京大講師になったが、9月から2年間、UCLAの講師としてロサンゼルスに渡る。梅原末治先生の推薦だった。UCLAに着いた日の午後から講義を始めたそうだ。この米国滞在中のある日、釜山から大きな小包が2個届いた。開けてみると、帰国に当たって金載元氏に買い上げてもらったかつて蔵書50冊だった。金氏が朝鮮戦争の中、蔵書がないので、私が研究に不自由をしていると考えて、在韓米国公館を通じて送ってくれたのだった。このときほど金氏の温かい友情を感じたことはないという。
 米国から帰ると、京大に復帰し、1971年に京大教授を退官。その後は橿原考古学研究所長などを務め、1989年から高麗美術館研究所長を続けられている。

 白寿のお祝いの会で、記念論文集が先生に寄贈された。また有光さんは蔵書1万冊を高麗美術館に寄贈され、有光文庫として研究に活用されている。その中には、金載元氏から送られた50冊も含まれている。
 有光さんは戦前から戦後の15年間、朝鮮に在留し、韓国の考古学の基礎を築いた。記念論文集の中に、高麗美術館創設者の鄭詔文さんの息子さん鄭喜斗さんが「歴史の真実に正面からとらえる真摯な姿勢」を有光先生から学んだと、その熱い思いを書いている。(2006/11/05)

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Last Update:2006/11/05
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