旧友原康人氏の思い出
旧友原康人氏の思い出
私は大学時代を早稲田大学の近くにある早稲田奉仕園で4年間を過ごした。そのときの同期生である原康人さんが18日午前、香港で亡くなった。63歳だった。
私は早稲田奉仕園にある友愛学舎というキリスト教の寄宿舎で生活したのだが、早稲田奉仕園にはキリスト教学生会というのがあり、そこにはいろんな大学から学生が集まって活動をしていた。そこでの同期生で中央大学から原康人さんが来ていた。早稲田奉仕園の活動の中に3Lクラブという英語で聖書を勉強する会があった。私は3Lクラブには参加しなかったが、米国人宣教師が講師になって集まるこのクラブは早稲田奉仕園で最も古い歴史をもつ活動だった。原さんはこの3Lクラブに参加していた。3Lとは、Love、Liberty、Loyaltyを意味している。
学生会の活動は、このほかにもたくさんあり、私は普段の活動にはほとんど参加しなかったが、夏のワークキャンプや春秋のリトリートと呼ばれる合宿セミナーなどが印象に残っている。3年の時に学生会の機関紙「葡萄の樹」の編集長をしたぐらいだった。ワークキャンプやリトリートには個別の活動の横断的というか学生会全体が一緒になって行なう企画で、普段は別々の会に参加している人たちが一緒になるわけである。
早稲田奉仕園にはスコットホールという米国のスコット夫人によって寄贈された赤レンガ建ての瀟洒な建物があり、これは現在、東京都指定の文化財となっている。3Lや聖書研究会など普段の集まりは、スコットホールの部屋で行なわれ、1階には広いロビーがあって、各会活動の合間や授業の合間に学生たちがやって来て、談論風発という雰囲気であった。
原さんとはそういう中で知り合ったのだが、1965年に卒業してからの40年間会うことがなかった。うろ覚えの記憶だが、原さんは大学卒業後、一度は会社に就職したと思うが、その後、香港に定住し、事業を始めて成功をしているという話を聞くようになった。どういう事業なのかは知らないが、そんなうわさを聞いてはいた。私は文学や思想、映画などを担当する新聞記者だったので、事業というものに全く関心がなかった。会社に入ってしばらくは転々と地方勤務をし、1970年に念願の本社文化部に移ってからは、作家や評論家などとの付き合いが生活のすべてのような状態だったから、奉仕園はもちろん、同期生たちと会うこともなく過ぎていった。たまにOBによる観桜会や読書会に参加する程度だった。
昨年秋に私は、仕事のかたわら30年沖縄で続けてきた「与那国島サトウキビ刈り援農隊」の思い出を書いて出版し、今年2月に当時の同期生たちが呼びかけて、スコットホールで出版祝いの会を開いてくれた。その会に原さんが香港からわざわざやって来てくれたのである。事業には成功したものの、体を壊し、後で知ったことが、腎臓の人工透析を受けているという状態だった。そんな体で会に出席してくれたことに、私には言葉に表せない感謝の気持ちを抱いたのであった。だが、会では挨拶の言葉を交わした程度で、ゆっくりと原さんと話すことができなかった。
彼がわざわざあの会に来てくれたのは、同期生の集まりがあったからだった。私はその藍の会という集まりの存在は3年ほど前に初めて知った。それまでにこの会に誘われたのかもしれないが、そんな記憶もないほどに仕事にのめり込んでいたのである。藍の会のメンバーは香港に原さんを訪ねたりしていたようだったし、3Lクラブの宣教師で米国に帰国しているホムグレン氏を香港招待したりしたことあったという。原さんはそれほどに3Lクラブや早稲田奉仕園で過ごした学生時代を大事にしていたとは、やはり同期のK氏の言である。その通りなのだろうと私も思う。(2005/11/19)
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Last Update:2004/10/17
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