飯田貴司追想
飯田さんとの最後の小さな旅
飯田貴司さんは河出書房の名物編集者であった。飯田さんに初めて会ったのは、一九七〇年だった。
新宿御苑前のスナック「おかだ」は河出書房をはじめとした編集者の溜まり場だった。ママの岡田久子さんを「お母さん」とよび、酔うほどにマッチ箱をマイクに見立てて歌いだす飯田さんは、人懐っこいというのが第一印象だった。
しばらくして私は文芸担当になり、飯田さんが担当した「新鋭作家叢書」とほとんど重なる作家のインタビューシリーズを企画したことから親しくなった。
「おかだ」のほか番衆町の英、風紋、火の子などで飲む付き合いが始まり、いつのまにか、新潮社の徳田義昭、筑摩書房の持田鋼一郎、辰巳四郎の三人、そして飯田さん、私というグループができていた。といってもなにも特別なことをするわけではない。文学賞のパーティーの流れだったり、担当した本が出た時だったり、私が転勤になったりという時に集まって、ただ飲むだけの気の合う飲み仲間だった。
特別になにかをしたといえば、早くに亡くなった徳田氏をしのんで集まったことぐらいだった。それも今は当の飯田さんがいなくなったのだからかなわず、残った三人で飲むしかない。
私が京都に勤務していたとき、飯田さんは甥や姪を七、八人引き連れて京都に現れた。姪の一人が米国に移り住むことになったので、それを機にみんなで東山の大谷霊廟にある飯田家の墓にお参りに来たのだという。飯田家は丸紅飯田や高島屋につながる旧家だった。連れてきたのは、いずれも美人の姪御さんたちで、三条木屋町のおばんざい屋「めなみ」の二階で食事したあと、京都一汚いので有名なスナック「八文字屋」に案内したら、写真が本業のマスター甲斐扶佐義さんが姪御さんたちに向けてしきりにシャッターを切るのを、パイプをくゆらしながら楽しそうに眺めて“叔父さん”をやっていた。その姿が忘れられない。
飯田さんが定年退職してまもなく、古井由吉さんや寺田博さんから「英の温泉ツアーをまたやりたいね」という話が持ち上がり、英さんともども、私が手配した共同通信社の谷川保養所へ小さな一泊旅行をすることになった。敬老の日だった。
英さんが飯田さんに声をかけたら珍しく「行く」という。新幹線の車中で私が買ってきた京都の鯖寿司を出したら、「旨い。旨い」と言ってくれ、タクシーで一の倉沢やロープウェーで天神平に登ってお花畑をを歩いて回った。
飯田さんは元気で、宿の料理も旨いと喜んでくれた。翌日は上毛高原駅前の蕎麦屋で久保田の千寿をかなり飲み、東京駅に着いたらまた地下街で一杯というありさまだったが、飯田さんは最後まで付き合った。
この旅のなかで、彼は「僕は癌だ。帰ったら検査する」と漏らしていたが、これがそのまま最後の旅になるとは、その時は思いもしなかった。その後、彼は入院して辰巳氏とともに病院に彼を見舞ったが、三月はじめに身を寄せていた親戚の家で亡くなった。六十一歳だった。
飯田さんにはただ一度無理をお願いした。郷里の後輩が書いた「明星」の歌人・前田純孝の評伝「つひに北を指す針」を出版してもらったのである。そんなに売れたとは思えないから、本当に彼には世話になった。 (2001/12/08・飯田貴司追悼文集)
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Last Update:2004/04/17
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