交遊閑語
萱野茂さんと思い出の人
先ごろ亡くなったアイヌ民族として初めて国会議員になった萱野茂さんに私は会ったことはないが、この人に関連して思い出がある。萱野さんの名を知ったのは、民族映画研究所のドキュメンタリー作家姫田忠義さんからである。姫田さんと知り合ったのは、民俗学者宮本常一さんの武蔵野美術大学の研究室でのことだった。1970年代のことである。
姫田さんは宮本さんに私淑して、その後、本土や沖縄の民俗、北海道のアイヌ民族、さらにはフランスやスペインのバスク民族をテーマにドキュメンタリー映画を精力的に取材した人である。その姫田さんが萱野さんの協力を得て、アイヌ民族が家を建てる過程を記録した「チ・セ・アカラ」や熊送りの祭り「イオマンテ」などの作品を制作した。私はそれを見て目を開かれる思いがした。映像を見ていると「あそこはどうなのかな」と思うことがよくあるのだが、そうすると、その次のシーンでは、私が疑問に思ったことが映像で登場し、「なるほど」と思うのである。そういうドキュメンタリー映画のつくり方を姫田さんはしていて、私は対象に対する彼の姿勢に大いに共感を覚えたのだった。
姫田さんは、萱野さんがアイヌの英雄叙事詩ユーカラをまとめた大作「ウェペケレ集大成」をまとめるのを側面から協力し、私も姫田さんから教えられて買ったのだった。「ウェペケレ集大成」は1975年に菊池寛賞を受賞した。萱野さんは北海道沙流郡平取町二風谷でアイヌ資料館を開設している。私はまだここを訪れたことはないが、前々から一度は訪ねてみたいと思い続けているのだが、萱野さんの二風谷での盟友に貝沢さんというアイヌの人がいた。貝沢さんにも私は会ったことがない。
ところが、不思議なことに、貝沢さんの息子さんが初期の与那国島援農隊に参加してくれたのである。姫田さんから、私が与那国島援農隊を呼びかけていることを聞いたらしい。当時、その青年は写真に関心を持ってアイヌの民俗などを記録しようとしていたと覚えている。
彼は与那国島ではキビの生産量の多いTさん宅に住み込み、畑仕事に精を出した。アイヌ民族らしく色白で、眉がくっきりとした美青年であった。私もTさん宅を訪ねて、彼といろいろ話したことがあった。その後、北海道に戻った彼は二風谷を離れて結婚し、子供にも恵まれ、しばらくは文通が続いたが、いつの間にか途絶えてしまった。だが、彼の表情は今も私の脳裏に鮮やかに残っている。
その後、与那国島で彼のことを聞いた。Tさんたちがそのアイヌ青年を訪ねて北海道へ旅をしたというのである。アイヌ民族と沖縄には、日本という国とのかかわりで歴史的に共通するものがあるように私は思っているのだが、そういう共通性があって、貝沢青年と与那国島の人たちの間にも共感があったのではないかと思っている。いつか貝沢青年にも会いたいものだ。 (2006/05/14)
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Last Update:2006/05/14
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