金石範さんの出版記念会

金石範さんの出版記念会




 上野の池之端文化センターで作家金石範さんの出版記念会があり、出席した。石範さんは明日10月2日で80歳になるそうだ。この出版記念会は、大作「火山島」を除く「鴉の死」いらいの主要作品を収録した「金石範作品集」全2巻(平凡社)が出たのを機に開かれたものである。

 石範さんに最初に会ったのがいつだったか、今では思い出せない。出版記念会で買った作品集第2巻の詳細な自筆年譜によると、「万徳幽霊奇譚」が雑誌「人間として」に発表されたのが1970年12月で、私はこの年の6月に大阪社会部から本社文化部に転勤した。そして翌年の第65回芥川賞の候補になっているから、おそらくこの前後に会ったのではないかと思う。

 このころ、私は金達寿氏の「日本のなかの朝鮮文化」や「砧をうつ女」で第66回芥川賞を受賞した李恢成氏ら在日朝鮮人文学に関心を持ち始めたころである。1975年はじめに雑誌「季刊三千里」が金達寿、金石範氏らによって創刊されたときは、石範さんから事前に計画を教えられて、創刊の記事を書いた記憶がある。その記事の中に他の編集委員のコメントは書いたのに、肝心の石範さんのコメントを書き込まなかったので、彼から不満を言われたことがあった。私にすれば、記事の内容のほとんどは石範さんから聞いた話だったので、てっきり書いたつもりだったのだ。

 このころ、石範さんは新橋の登志という女将1人がやっている居酒屋でよくひとりで飲んでいた。日本酒が大好きで、浴びるように飲む姿に最初は衝撃を受けたものだった。「鴉の死」の作家の姿だと思った。私の会社は虎ノ門だったので、ときどき、夕方「登志にいるから来ないか」と電話がかかってきて、私はよく駆けつけた。そして、終電車がなくなっても飲み続けた。石範さんは埼玉県蕨市に住んでおり、私は荒川を挟んだ板橋区高島平に住んでいたので、タクシーに相乗りして帰宅することになったものだった。

 光州事件の翌年の1981年3月、金達寿、姜在彦、李進煕氏らが韓国を訪問したとき、私は第3世界演劇祭の取材でソウルに滞在していた。韓国のマスコミは大々的に報道し、全斗煥政権下は彼らの訪韓を政治的に利用した。私はソウルの景福宮の国立中央博物館で彼らに会った。日本でもこの訪韓は大きく報道され、金達寿氏らへの批判が高まった。私が金達寿氏にソウルで会ったのは1回だけだったが、私もこれには疑問を抱いた。

 日本では彼らは当時投獄されていた金芝河や徐兄弟の減刑釈放嘆願を目的にしたいたが、そういう目的など吹っ飛んでしまったような韓国での報道ぶりだった。
 帰国して、私は金達寿氏に会ったが、もう話は通じなかった。私は在日朝鮮人が韓国を訪問することには理解できる面もあった。ただ、政治的に利用されることは明らかだった。一文学者として訪問してほしかった。

 この事件を機に石範さんは金達寿氏らと袂を分かち「季刊三千里」の編集員も離れた。それからは済州島の4・3事件にかかわる集会などで会うことが多くなった。

 石範さんは出世作「鴉の死」いらい、1948年に起こった済州島の武装蜂起4・3事件を書き続けてきた。大作「火山島」はその集大成である。1999年12月、「済州4・3真相究明および犠牲者名誉回復に関する特別法」が韓国議会を通過して翌年施行された。
 出版記念会の挨拶で「語ることも難しかった4・3事件の犠牲者の名誉が回復されるのを生きているうちに見ることに深い感懐を覚える。韓国はこれで戦争に区切りをつけることができた」と語ったのが印象に強い。
(2005/10/01)

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Last Update:2004/04/17
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