蔵原惟繕監督のこと

蔵原惟繕監督のこと




蔵原惟繕
  蔵原惟繕監督
執炎
  映画「執炎」から浅丘ルリ子と伊丹一三

 赤坂プリンスホテルで、昨年12月28日に75歳で死去した映画監督・蔵原惟繕さんの「お別れの会」が2月19日にあって出席した。私は新聞記者としては蔵原監督に一度も会ったことはない。だが、大学生時代の1964年夏から秋にかけて3ヵ月ほど、蔵原監督の下で働いたことがある。浅丘ルリ子主演の「執炎」という映画でのことだ。
 この映画の原作が私の中学時代の先輩、加茂菖子さんの芥川賞候補作で、郷里の兵庫県・但馬海岸の平家落人伝説の村が舞台になっており、方言指導を頼まれたのである。
 もともと私は映画が好きで、映画監督を夢見たこともあったので、喜んでこの仕事を引き受け、あげくは大学の授業はそっちのけで4人の助監督の、さらにその下働きのような感じでのめり込んでしまった。
 夏休みに越中五箇山から能登、越前海岸への長期ロケ撮影に付いて行き、秋になって大学の授業が始まっても、調布の日活撮影所でのスタジオ撮影に毎日のように通った。

 蔵原さんは1957年に石原裕次郎主演の「俺は待ってるぜ」で監督になり、その後は日活アクション映画だけでなく、「栄光への5000キロ」「キタキツネ物語」「南極物語」などの大作で有名だが、大江健三郎「われらの時代」、三島由紀夫「愛の渇き」、立原正秋「春の鐘」などの文芸作品の映画化もしている。私が蔵原さんに会ったころは、裕次郎らのアクション映画の監督として知られていたが、単なるアクションを売り物にするのでなく、映像面や演出面で実験的な試みも随所にしていて、「赤い殺意」の今村昌平、「狂った果実」の中平康と並んで日活3羽カラス≠ニ呼ばれて人気監督のひとりであった。
 だが、このころが日本映画界の隆盛期の最後で、蔵原さんもその中でどう生き残っていくかの転換期にさしかかっていた。「執炎」は浅丘ルリ子さんの出演100本記念作品と銘打っていたが、そういう状況での蔵原さんの新しい試みとなる作品だった。プロデューサーは日活の大御所・大塚和、脚本はベテランの山田信夫、音楽は黛敏郎で、日活はこの年の芸術祭参加作品として重視していた。

 浅丘さんの相手役は伊丹一三さん、それに芦川いづみさん、松尾嘉代さん、さらに新劇界の大御所、宇野重吉さん、信欣三さん、細川ちか子さんなど錚々たる人が脇役で出演していた。そんな人たちに大学生の私が郷里の方言を教えるのである。
 宇野さんは福井県の出身なので方言は似ており、教えるなんて大それたことはしなくてすんだが、細川さんは大女優であるのに熱心に私の方言を聞いてくださった。
 能登の時国家でロケしたとき、宿の細川さんの部屋を訪ねると、持参された本がうずたかく積まれていて、炬燵に入ってミカンを食べながら話をうかがったのが忘れられない。話の内容は忘れてしまったが。またどうした訳か、夏なのに炬燵にミカンなのである。芦川さんも熱心に但馬弁を勉強してくれた。

 伊丹さんは「北京の55日」「ロード・ジム」などハリウッドの大作に出演して帰国したばかりの新進スターだった。伊丹さんの父は「国士無双」や「赤西蠣太」などの名作で知られる映画監督伊丹万作である。伊丹さんはその後、「十三」と名前を変え、自身も映画監督になったことはよく知られている。
 伊丹さんの思い出はいろいろある。私が朝、新宿駅南口で待っていると、ジャガーのクラシックカーでやって来て私を拾い、調布の撮影所までよく一緒に通った。帰りもジャガーに乗せてもらって当時住んでいた麹町の家にうかがい、当時の新婚の奥さん、川喜多和子さんの手作りの料理をごちそうになった。若いころの伊丹さんが作った「ゴムデッポウ」という短編映画の習作を私は新宿アートシアターで見たことがあるといったら恥ずかしそうにしていた。
 伊丹さんとはその後何度か会った。私が大阪支社に勤務していたとき、伊丹さんがNHK大阪製作のテレビドラマに出演し、久しぶりに会って話したりもした。彼の映画監督としての出世作「お葬式」が1984年の秋だから、大阪で会ったのはその少し前だった。そのころ、伊丹さんは和子さんとは離婚しており、女優の宮本信子さんと再婚して、湯河原に住んでいた。1997年12月20日、伊丹さんは週刊誌の心ないスキャンダル記事が原因で東京・麻布台のマンションから投身自殺した。64歳だった。彼の自殺はそのナイーブな心性を表しているようで、いまも哀れな思いを禁じえない。

 川喜多和子さんとは、映画記者時代によく会った。東和映画の川喜多長政・かしこ夫妻の一人娘で、黒澤明監督の「悪い奴ほどよく眠る」の助監督をしたこともあった。彼女が柴田駿氏と創設したフランス映画社はフランスやイタリアの秀作を輸入配給する会社で、私は彼女の仕事に注目していた。ルキノ・ビスコンティ監督「家族の肖像」、フォルカー・シュレンドルフ監督「ブリキの太鼓」、テオ・アンゲロプロス監督「旅芸人の記録」、ホウ・シャオシェン監督「非情城市」など、映画史上に残る名作を輸入配給した。大島渚、小栗康平などの優れた日本の映画を海外に紹介してもいた。1994年、53歳のときに職場でくも膜下出血で倒れ、亡くなった。築地本願寺で営まれた葬儀にも参列した。

 松尾嘉代さんとは京王線で一緒に撮影所に通った。当時、彼女は「執炎」と並行してTBSの人気ドラマ「ただいま11人」に司法試験をめざす女子大生役で出演していた。私が法学部の学生だと知ると、彼女は、せりふに法律用語が多いのだけれど意味がわからないから教えてほしいといった。やはり新宿駅で待ち合わせて電車の中で、私も台本を読み、それぞれの法律用語をどういう意味で使っているかを彼女に教えたりしたのである。

 蔵原監督は私をかわいがってくれた。ロケの移動の途次、金沢駅前のホテルのレストランで、浅丘さんや伊丹さん、撮影の間宮義雄さん、助監督さんなど主だったスタッフ、俳優さんらと昼食することになった時、「藤野君、君もいらっしゃい」と言ってくれたのである。それで生まれて初めてビーフステーキのフルコースを口にしたのだった。貧乏学生にとっては忘れられない思い出である。
 撮影が終わりごろになって、撮影所でいっしょに食事をしたときには「どうだい、日活に来ないか」とも誘われた。そのとき私は既に共同通信社に就職が内定していたが、もともと映画が好きだっただけにかなり心が動いたことは確かだ。

 蔵原監督から「これだけは見ておきなさい」と教えられた映画がある。ロバート・フラハティ監督(1884−1951)のドキュメンタリー「アラン島」(1934年)である。英国北部の荒涼とした海辺の寒村。作物もほとんど獲れない村の漁民がものすごい荒波に、まるで木の葉のように揉まれて小舟で漁に出る苛酷な日々を描いた作品である。
 当時、なかなかこの映画を見る機会はなかったが、その後、牛山純一さんの映像記録センターができて、そこでフラハティ監督の記録映画はほぼすべてを見ることができた。私は「アラン島」もすごいと思ったが、タヒチの島民の日常生活を描いた「モアナ」(1926年)が好きだ。常夏の島の悠久の自然と時間をこれほど見事に描写した作品はない。
 フラハティ監督のドキュメンタリーはすべて「やらせ」であるといわれる。「モアナ」はこの島にキリスト教が入って間もなくに撮影されたのだが、キリスト教以前の暮らしを古老の話を聞いて再現したものである。当時も、フラハティ監督の「やらせ」に批判があったが、歴史に残ったのはその「やらせ」を手法としたフラハティ監督の作品であったというのも皮肉である。昨今のドキュメンタリーにおける「やらせ」論議を考えるときに、フラハティ監督の残したものは一考に値するのではないかと私は思っている。

 「執炎」は蔵原監督の作品の中では珍しい叙情的でありながら、しかも正統的な社会性をもった反戦映画だった。その後の蔵原作品は「キタキツネ物語」などのドキュメンタリーや「栄光への5000キロ」「南極物語」など海外での過酷なテーマを扱った作品が多いのは、「アラン島」を見なさいと彼が言ったことと深いところでつながっているように思える。
 お別れの会で映画プロデューサーの岡田裕さんに会った。「執炎」の助監督のひとりだった人で、その後、プロデューサーに転進していた。1979年末に角川映画「復活の日」(深作欣二監督)の南極ロケに映画記者時代の私が取材で同行し、ロケ隊が乗っていたリンドブラッド・エクスプローラー号が遭難したときのコーディネーターを務めていた。岡田さんから「蔵原さんは沖縄でヘミングウェーの『老人と海』を撮りたかったんですよ」と教えられた。沖縄が好きな私は、それをもっと早く知っていたら、という思いにとらわれた。また晩年の蔵原さんは高橋治の小説「風の盆恋歌」の映画化にも執念を燃やしていたという。蔵原さんの生涯の思いは「執炎」と「アラン島」の間を行き来していたのだろうかと思われた。(2003/2/19)

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Last Update:2003/10/07
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