車谷長吉さんの直木賞

車谷長吉さんの直木賞




 大学の授業が終わって、神田に出て、悠久堂古書店のギャラリーで開かれている作家、車谷長吉さんの俳句墨書展を覗いた。百句が百枚の色紙に墨書されている。書がうまいとはお世辞にも言えないが、彼らしい味がある。句は言葉の組み合わせから、どこか凄愴な感じがうかがえるのだが、彼の書がそれをやわらげているようにも感じられる。

 車谷さんとの付き合いは、彼の編集者時代からだから、もう30年以上になる。「なんまんだあ絵」という作品で昭和47年の「新潮」新人賞の次席になったころである。その後、「萬蔵の場合」で芥川賞候補になったりした。そのころ、詩人の清水昶さんと兵庫県加東郡滝野町の光明寺を訪ねたことがあった。ここは文芸評論家の森川達也さんが住職をしていた真言宗の古刹で、夫人の作家、三枝和子さんに遊びに来ないかと誘われたのである。

 そこで、当時、郷里の姫路に帰っていた車谷さんを呼び出し、寺の本堂で酒盛りをしたことがあった。新緑の季節でさわやかな風に吹かれて、うまい酒が彼の話の妙に興を添えた。その後、車谷さんは東京に戻り、新宿西口の火の子というスナックなどで時々会った。だが、小説の方はなかなか認められず、ある日、都落ちして京都へ行った。京都の柿傳という料亭の下働きをしていたときに、大阪にいた私は彼に会ったことがあった。鴨川の河原で一晩中話した。何を話したかは忘れたが、小説でがんばれというようなことを言ったのだった。朝になって、始発の京阪電車で私は大阪に帰った。その後のことは、彼の直木賞受賞作「赤目四十八瀧心中未遂」に書かれている通りである。

 「鹽壺の匙」が三島由紀夫賞を受賞したとき、私は東京本社に戻っていた。受賞発表は会社の隣のホテルオークラだった。記者会見の後、お祝いにどこかで一杯やろうということになった。新潮社の坂本忠雄さん、前田速夫さんらもいた。「それなら」と隣りのわが社の地下の飲み屋を予約してお祝いとなった。高井有一さんもいたと思う。

 しばらくして、車谷さんの受賞祝いの会を近い人たちだけでやろうということになり、会場は新宿の火の子になった。ここには辻井喬さんも顔を見せた。車谷さんは、糊口をしのぐ当てのなかった車谷さんは、辻井さんの世話で西武百貨店の社史編纂室に勤めることになり、上京していたのだ。ここに勤めながら、彼は「鹽壺の匙」や「赤目四十八瀧心中未遂」を書いたのである。  彼が直木賞を受賞してからは、ほとんど会うことはなくなった。毎年交わしている年賀状に、独特の俳句が一句添えられているのを楽しんできただけである。 (2005/07/05)

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Last Update:2004/04/17
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