吉野の歌人・前登志夫さん
吉野の歌人・前登志夫さん
短歌の結社「山繭の会」から短歌誌「ヤママユ」が送られてきた。この会は、奈良県吉野の奥深い山の中に棲む歌人・前登志夫さんが主宰している。
20年前の1980年代半ば大阪に勤務していたころ、冬の吉野山中へ大阪の地酒「呉春」を提げて前さん宅を訪ねたことがある。
何を話したのかは忘れたが、新宮出身の中上健次や田辺の南方熊楠、吉野の土蜘蛛などの話をしたように思う。障子の向こうがしんしんと冷え込んでいく夜の気を感じながら、炬燵に入って、夫人の手料理をご馳走になった。
当時、前さんは大阪・千里丘陵にある金蘭女子大で教鞭も執っておられ、これを機に、出講日に大阪・梅田などで飲んだりした。
そんな付き合いの勢いから、その翌年の夏に吉野山の中千本だったかの桜花壇という旅館で開かれた「山繭」の結社の大会というか年に一度の歌会に参加することになった。
歌会に参加するには、事前に短歌一首を送らなければならない。その年の春に安芸の宮島を訪ねたときにつくった歌をはがきに書いて送った。
当日は大阪から近鉄で吉野まで行き、そこからケーブルには乗らずに歩いて山を登った。蔵王堂を過ぎてまもなく桜花壇があり、ここは昭和天皇が泊まった宿だと聞いた。大広間から谷側を望むと、一面の桜の美林で、春はさぞ見事な眺めであろうと想像された。
大広間での歌会では、出席者から事前に出された短歌は作者名が伏せられ、それぞれ番号だけが振られて紙に並べて印刷されていた。私の歌もその中にあった。全員が集まった大広間で、それらの歌を前さんが講評していった。私の歌は飛ばされて、一顧だにされなかった。
夕食が終わって、前さんを含む何人かと旅館に近い飲み屋へ繰り出すことになった。私にも声がかかり同行した。それぞれ短歌論議をしたりしていたが、だんだん酔いがまわってきたとき、前さんのそばにいた事務局の人が「藤野さんの歌も悪くなかったですよ」と私を慰めるように言った。
前さんは相当酔っていたようだが、その時突然、私の歌を暗誦したのである。
これには私は吃驚してしまった。同時に感激もした。歌会の席では一顧だにされなかったので、ちょっと読んで批評に値しないと判断されたのだと私は思い込んでいた。
だが、今になって考えてみれば、それは違っていたのかもしれない。私はこの会には個人として参加したつもりだったが、彼からみればマスコミの取材者でもある。拙い歌であっても一応、目を通していたのであろう。歌会で一顧だにされなかったというのは、じつはそうではなく、取材者でもあるからあえて触れなかったのだとわかった。しかし、歌の出来はほんとに恥ずかしいものであった。
それから20年近くが経ち、前さんとはほとんど会うことはなくなったが、「ヤママユ」だけはずっと送っていただいている。私は仕事にかまけて、あまり熱心な読者ではなかったし、歌もその後はほとんどつくることがなかった。送られてきた第14号の巻頭に掲載されている前さんの歌に感じ入るものがあった。
しづかなる四月の雪を降らさばや道行の尾根に雪降らさばや
山棲みの前さんが吉野の山を毎日歩くのとは、状況はかなり異なるが、退職して私も60の手習いよろしく、奥多摩や奥武蔵の山を歩くようになった。そんなとき、ふと短歌が浮かんできたり、山道を歩きながら頭の中で短歌を推敲していることがしばしばあるようになった。前さんの歌には、そんな私の心のうちと通うものがあるように思われたのである。(2003/5/15)
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Last Update:2004/10/20
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