松井秀三さん
山の手の趣味人・松井秀三さん
遺稿集「木陰でちょっとひと休み」の編集を終えて
新聞記者の文章は、基本的に世の中の状況に合わせて取材したその時々に書いていくものである。だから、多くの場合、それが後にまとめられて一冊の書物になるということを初めから前提にするということはない。それが日々の報道活動である場合はなおさらであるが、コラムなどの場合でもある程度、こういうことは言えるだろう。だが、そうした文章であっても、あらためてまとめて読むと、書いた記者の日ごろの考えや、おおげさにいえば思想といったものが見えてきて、その人となりを見直したりすることになる。
松井秀三さんの文章は、その点で、いわゆる世間でイメージされている新聞記者像とはかなり異なる姿を見せてくれるところに特徴があるように思われる。彼はいわゆる世間でイメージを抱いている新聞記者の概念で見れば成功しなかったように思われるが、その文章をまとめて読み直してみると、彼が三十数年におよぶ記者生活の中で何を考えていたかが見えてくる。それは平凡ではあるが、市民の落ち着いた豊かな生活とは何か、ということであったように私には思われる。
彼は東京・山の手の知的な階層の家庭に生まれた。祖父は松井簡治。東京文理大学教授の国語学者で、作家の円地文子の父、上田万年とともに『大日本国語辞典』を編纂したことで知られる。中学、高校時代にフランス映画に触れ、以来フランスが憧れとなってフランス語を独学で勉強した。
『僕はフランス映画を見て、フランス語を覚えたんですよ。学校で習ったんじゃない』とは松井さんの生前に聞いた言葉である。一橋大学では『一橋文芸』に属し、小説を書きたいと思ったようだ。この学内誌には石原慎太郎も所属していた。石原が『太陽の季節』で芥川賞を受賞した後、同人の集まりで『選考委員を驚かすようなことを書かなきゃ賞は取れない。驚かすようなこととは、やっぱりセックスだな』と言うのを聞いて『僕には無理かな』と思ったとも松井さんは言った。その一方で、彼はフランスの艶笑小咄などにも詳しく、酒席などでポロッと漏らしたりすることもあった。料理も好きで、家庭欄のデスク時代には、料理記事が出てくると、家で自分で作って試してみたりもしたという。
要するに、育ちのよさというか。何事にも極端なことを避け、程を心得た生き方を、ある意味では頑固なまでに守るという面もあったように思う。そして、自分の育った昭和十年代の東京・山の手の市民生活を懐かしむという気持ちを終生持ち続けた。それは、晩年のコラムや「オール讀物」の推理小説の懸賞で最終選考に残った短編『にげたらくだ』によく表れている。彼の推理小説の短編はほかに未完の作品を含めて未発表のものが二編あり、これらも基本的には戦前の小石川で育った幼少年時代がテーマになっている。うち一編は本書に収録した『別れて年月へぬるとも』である。
話は前後するが、彼の記者生活で大きな意味を持ったのは、やはり一年半のフランス留学であろう。当時はまだフランスは遠かった。フランス政府の給費によるジャーナリスト研修留学に応募、見事に合格したのである。結婚したばかりの道子夫人とともにフランスに渡った。この留学は記者仲間の憧れでもあった。ところが、一年の予定を半年延ばして帰国した後、外信部でもその後の活躍が期待されていたと思われるのに、松井さんは映画を担当したいと文化部に移籍する。だが、文化部で映画を担当したのはたった一年間。その後、学芸欄に移り、文芸を二年間担当し、大阪文化部に転勤した。大阪では結構楽しかったようだ。京大人文研の多田道太郎氏らと連載企画をやったり、好きな料理の文化論を企画したりした。
その後は本社に戻り、文化部家庭欄のデスクを務め、また希望して大阪へ。さらに大阪文化部長としての三度目の大阪勤務では、児童文学者の奥田継夫氏らと句会を楽しんだりした。この句会は奥田氏が出している大阪・キタの酒房みーるの常連客たちで時折開いているもので、松井さんは本社に転勤してからも、この会に新幹線で駆け付けたりしている。
この後また本社に戻り、整理部で特信整理を担当した後、編集委員室に移った。ここで担当したのは世相漫画だが、彼が好んだのはコラム『時言』の執筆である。多くの論説委員や編集委員がニュースに即した文章を書くのに、彼の書くものはそれからやや離れて、自分の趣味を中心にした話題が多い。それだけにこのコラムを楽しんで書いていたことがよく見える。このコラムは癌で入院する直前まで書いた。
こうみてくると、松井さんは記者生活を通して、ほとんど趣味的な仕事をしてきたようにもみえる。事実、その通りだろう。そして、こんな生き方は普通の新聞記者にはちょっとできないものでもある。こういう形で新聞記者をやってみようなどと思う記者はあまりいないと思われるからだ。新聞記者には自己主張の強い人が多いが、松井さんはそうではなかった。映画をやりたくて文化部に移ってきたのに、たった一年で担当を変われと言われて、それを受け入れてしまう。当時の私が『そんな移動は断るべきだ』と言っても『いいんですよ』と悠然とたばこをくゆらす姿に松井さんの本領があったのだと今になって気づくのである。(1995年11月7日三回忌の日に)(松井秀三遺稿集「木陰でちょっとひと休み」掲載)
(注)松井さんは昭和8年生まれで、文化部での先輩であった。本社文化部でも長くいっしょに仕事をしたが、彼の3度目の大阪勤務のときに私も大阪文化部にいて1年足らずだがいっしょに仕事をした。定年の年の2月に肺癌にかかり、定年退職の直前に亡くなった。退職金を使わないで亡くなったので、夫人に遺稿集の発行を提案し、私が編集して遺稿集「木陰でちょっとひと休み」が自費出版された。
感想などをメールでいただければうれしいです。メールは
こちら
まで。
Last Update:2004/04/17
©2003 Masayuki Fujino. All rights reserved.