水上勉さんの思い出

水上勉さんの思い出




 9月8日朝、作家の水上勉さんが亡くなった。この日は早朝暗いうちに東京を車で出発して、奥穂高岳登山に出かけたので新聞を読んでいない。10日に帰宅して、今朝留守中の新聞を読み返していて知った。

 死去の3日ほど前に、水上さんが郷里の福井県大飯町に生前設立した「若州一滴文庫」の事務局長、西村さんと電話で水上さんのことを話したばかりだったので、驚きはひとしおだった。西村さんは開店休業状態だった「一滴文庫」の再興に自分の職業をやめてまで力を入れ、最近NPO法人化してがんばっている人である。若狭の地域活性化に取り組んできた農水省の友人の紹介で、西村さんは電話してきたのだった。地域でこういう活動をしている人には、私にできることがあれば協力したいと常々思ってきたので、農水省の友人が西村さんにそれを伝えたのだった。

 ところで、私と水上さんの付き合いだが、それほど深いものではなかったが、いくつか思い出がある。大阪社会部から文化部に移ってすぐに、神通川イタイイタイ病の裁判の判決があった。それに対する水上さんの感想を原稿でいただくために電話したら、断られてしまった。水俣病をテーマにした「海の牙」などの作品があったから依頼したのだが、とっさに「それではほかの誰かよい人を紹介願えませんか」と言ってしまった。すると水上さんは「君は不勉強だな。そんなことは自分で調べるんだよ」と叱られてしまったのである。これが水上さんと話した最初だった。このとき私は28歳だった。

 その後しばらくして、「流れ公方記」が出たときにインタビューした。この小説は足利幕府最後の十五代将軍義昭が主人公だが、侍女ぬゐという女性の口伝史料が発見されたとして、その口伝の形で書かれたものだ。私はこれをてっきり、本当にそんな史料が発見されたと思い込んでしまった。もちろんそんな口伝史料が現実にあるわけがない。水上さんの創作なのである。読者だましの手法なのであった。水上さんは私がそう思い込んでいることを正そうとはしない。ちょっと意地悪なところもあるが、そういうことの読み解きができない私の方が馬鹿なだけだ。水上さんはそんな私を見てひそかに喜んだのだろう。  この手法は名作長編「一休」でも行なわれている。一休の破戒の相手、森女の目を通して一休の真実が描かれていた。この「一休」でもインタビューした。もちろん、このときはこの手法を理解していた。

 だから、水上さんに騙されてばかりいたわけではない。江戸期西三河の禅僧に鈴木正三(しょうさん)がいる。家康や秀忠に仕えた旗本だったが、出家したのである。何かのエッセーで読んだかで、私は水上さんがひそかに正三に注目していることを知った。それで、ある時、鈴木正三について書いてほしいと頼んだのである。すると水上さんは「君は正三を知っているのかね」と驚いたふうで、それがうれしかったらしく、原稿は書いていただけた。

 北九州の画家で文楽の登場人物をテーマに描き続けている小田次男さんとふとした縁で知り合った。小田さんの絵は大阪文楽劇場や大阪・松竹座などのロビーに掲げられており、文楽公演のパンフレットの表紙を毎回飾っている画家である。その小田さんが近松の影響を受けている水上さんに個展の推薦文を書いてほしいので紹介してもらえないかと言ってきた。私は早速水上さんに手紙を書いて出すと、一度小田さんに家に来てほしいと返事が来た。私は小田さんにお礼にする自作の絵を持参するように伝えた。水上さんは推薦文を書いてくれて、小田さんはたいへん喜んだのであった。

 水上さんに「虚竹の笛 尺八私考」という作品がある。これは日中混血の放浪の僧で作家の蘇曼殊の「春雨」の一節「春雨楼頭 尺八の簫」にみちびかれて書かれたものだ。水上さんの「ブンナよ、木からおりてこい」の舞台が再演された初日の劇場でのことだったと思うが、水上さんも劇場に来ていた。そこで、何がきっかけだったか忘れたが、水上さんが蘇曼殊に関心を持っていることを知った。水上さんは中国の西湖だったか洞庭湖だったかの湖畔にある蘇曼殊の墓に詣でたとも言った。

 私も蘇曼殊には関心があり、「断鴻零雁記」を平凡社の東洋文庫で読んでいたし、それに知り合いの作家中薗英助さんが彼を主人公にして書いた「桜の橋」という長編伝記小説を読んでいた。中薗さんの「桜の橋」のことを水上さんに話したら、「それは知らなかった。ぜひ読みたいので送ってくれないか」と頼まれて、送ったことがある。それが「虚竹の笛 尺八私考」につながったのだった。

 中上健次さんの葬儀が千日谷会堂で行なわれたのは1992年8月末の暑い土曜日だった。その日、水上さんも葬儀に参列していた。終わったのは土曜日の昼過ぎなので、軽井沢から出てきた水上さんは手持ち無沙汰のようだった。中上さんがよく通っていた四谷3丁目の酒房「英」の女将も葬儀で一緒だった。私もこの店の常連で、葬儀にはほかに寺田博さんら文壇関係者が何人かいた。いずれも英の常連で、休業のこの日に頼んでわざわざ店を開けてもらい、精進落としをしようということになった。これに水上さんも加わって土曜日の真っ昼間から酒盛りとなったのだった。

 1989年6月4日の天安門事件の当日、日本の作家代表団の団長として北京に滞在中、水上さんは事件に遭遇した。帰国後まもなく心臓発作で倒れた。入院したのは京都の武田病院だったと思う。水上さんが京都で行きつけのバー八文字屋の甲斐扶佐義さんに電話して、水上さんの容態を教えてもらったこともあった。水上さんはその後、軽井沢に引っ込むようになった。  水上さんの思い出はまだほかにもあるが、以上のようなことを思い出した。(2004/09/11)

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Last Update:2004/09/19
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