交遊閑語

早稲田奉仕園に生涯を捧げた人 向谷容堂




 早稲田奉仕園の一〇〇年の歴史のなかで、学生時代にベニンホフ博士に親しく接したことから、その精神を受け継ぎ、生涯を奉仕園の活動に捧げた人は向谷容堂ただ一人である。それゆえ、奉仕園の歴史を考えるとき、向谷の生涯の軌跡に改めて目を向けることは意義のあることではないだろうか。

 一九六八年一一月二四日、奉仕園スコットホールで執り行われた向谷名誉総主事の早稲田奉仕園葬の式次第には「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから多くのものを管理させよう、主人と一緒に喜んでくれ」というマタイ伝二五章の聖句が記されていた。この聖句ほど彼の生涯を的確に表している言葉はないと列席者のだれもが思ったのではないだろうか。向谷はまさに「牧師や教師としてではなく、専らこれらの人たちの働きを助ける蔭の人として、(早稲田奉仕園の)キリスト教教育事業の経営にその生涯を捧げることになった」と神沢惣一郎は追悼文に書いている。

 ベニンホフ博士に出会うまで

 向谷容堂は一八九七(明治三〇)年八月二八日、医師向谷求馬、艶夫妻の二男として、山陰の山村、兵庫県美方(みかた)郡射添(いそう)村(現・美方郡香美町射添)に生まれた。射添村和田尋常小学校に入るが、同校が廃校になり、射添尋常小学校六年を卒業、さらに高等科一年を終えた一九一二(大正元)年、兵庫県立豊岡中学に進んだ。私事になるが、筆者は豊岡中学の後身である兵庫県立豊岡高校卒業で、向谷の後輩に当たる。向谷は中学時代、教師に誘われて一度だけ豊岡バプテスト教会を訪れたことがあった。筆者もやはり高校時代にこの教会の後身である日本基督教団豊岡教会に通い、スタンレー・マニーア宣教師の山村伝道を手伝ったことから、マニーア師によって洗礼を受けた。六一年、早稲田大学に進学したことで、当時総主事で学生寮・友愛学舎舎監でもあった向谷を訪ね、友愛学舎で四年間を過ごした。

 向谷は一九一六(大正五)年、豊岡中学を卒業したが、親の勧める医学には気が進まず医専受験にも失敗した。京都の立命館予科に籍を置き、一年後、郷里に近い温泉村小学校の代用教員となった。しかし、生徒の成績の優劣が家庭の貧富の差と密接にかかわっていることを痛感したものの、代用教員の身ではいかんともし難く、在職四〇日あまりで辞表を出してしまった。徴兵検査では近視のために第二乙種となり、事実上の兵役免除となった。そこで、大阪に出て共同火災保険会社で保険証券の裏書きの仕事を一年ほど続けたが、神戸の外国人居留地にあった貿易会社エッチメレキ商会に移った。共同火災の年末ボーナス支給を目前しての転職であった。この時のことについて向谷自身、後に次のように書いている。「どうも私には見栄坊なのか自分の利益を勘定に入れることは本意でないという心がいつも支配的であった。無欲、自己の利益をどこまでも追究するという精神に欠けているようである。これは確かに親父の利他精神の結果であろうと思っている。」(「わたしの一代記」)

 エッチメレキ商会は高級洋服地と香水の輸入販売をしていた。支店長はフランス人だが、普段はおらず、日本人の支配人がすべてを取り仕切っていた。その支配人は先輩をさし措いて、入ったばかりの向谷に東京出張を命じた。新橋の高級旅館に投宿して、持参した神戸の焼きかまぼこを歳暮に得意先を挨拶回りした。年が明けると、再び東京へ出張した。今度は得意先に新年の挨拶を兼ねて注文取りである。一軒ずつ回るのではなく、定宿に滞在していることを告げると、向こうからやってくる。そこで見本を見せて注文伝票に書き込んでもらうという何とも暢気なやり方であった。そんな合間に時には自分から得意先を回った。早稲田の得意先に足を運んだときに街に角帽の大学生が多いことに衝撃を受けた。そして、自分も勉強しなければならないとの思いがふつふつと沸き上がってきた。

 ちょうどその頃、上海で開業していた医者の叔父から「学費一切は面倒をみるから上海の同文書院か他の大学を受験してはどうか」という手紙をもらった。貿易の仕事をしているにもかかわらず、フランス語はおろか英会話さえ満足にできないことから、さらなる勉学の必要性を痛感していたので、叔父の申し出を受けることにしたが、エッチメレキ商会に勤めて二ヵ月にしかならず、なかなか退職を切り出せない。だが、思い切って支配人に相談すると、あっさりと認めてくれた。そこで、同文書院ではなく、早稲田大学に進むことに決めた。一高に進んだ友人を頼って改めて上京し、本郷森川町の学生下宿、森川館に居を定めて、一人で受験勉強を始めた。形ばかりの試験で高等予科第四部(商科)に入学した。一九一九(大正八)年のことで、豊岡中学を卒業して三年目の春であった。

 弁天町時代の向谷

 大学一年の二学期になって英語の教師が英会話の先生としてベニンホフ博士を紹介する名詞をくれた。これを持って向谷は牛込弁天町の友愛学舎を訪ねた。
 一九〇八年、鶴巻町に開設された友愛学舎は三年後の一九一一年、弁天町に新築された建物に移っていた。牛込柳町と榎町の間にある高台の住宅街、約四〇〇〇平方メートルの敷地に、友愛学舎と宣教師館があった。友愛学舎は木造洋館三階建て、個室二一室のほかに集会室、読書室、遊戯室、食堂があり、庭にはテニスコートもあった。この年、早稲田奉仕園は理事会を設置し、初代理事長に安部磯雄が就任した。

 ところが、早稲田奉仕園がこの年に理事会を設け、安部を初代理事長にすることを決めたかどうかについては、確かな証拠はない。『追想 向谷容堂』所収の向谷自身の筆になる「早稲田奉仕園五〇年史」によると、「一九二三(大正一二)年九月関東大震災のため市内バプテスト諸教会は大半消失したので、弁天町の土地建物を売り払ってその復興に寄附し、以後一切の活動を早稲田に移して新しく奉仕園を創設、理事会を組織して初代理事長に安部磯雄、総主事にはベニンホフがなり、早稲田大学学生のために広く基督教運動を展開して今日までに至った。」とある。ベニンホフが弁天町の土地建物を売却してバプテスト東部組合に所属する教会に寄附したのは一九二四年三月のことで、この年の四月に向谷は奉仕園に就職しているから、その直前の奉仕園の動きを見ていたと思われ、一九一一年の段階では、向谷はまだ小学生でだから、五〇年史の記述の方が信頼できるのではあるまいか。

 余談になるが、戦前の奉仕園の歴史については、正確に記述された資料が乏しいという問題がある。奉仕園は一九〇八年の鶴巻町友愛学舎設立いらい七二年四月の財団法人認可まで法人格を持たない「人格なき社団」とも言うべき任意団体であったことにその遠因があると思われる。理事会という形式は備えていても、理事会議事録などの書類はきちんと作られ保存されてはいなかったのではないかと思われる。奉仕園史の記録の主なものは向谷の日記や私稿、あるいは関係者の文章に頼るほかなかったのである。

 ところで、一九一七(大正六)年に制定された「早稲田奉仕園信交協会憲法」という資料があり、これにもとづく入会者名簿が『追悼 向谷容堂』に掲載されているが、向谷の入会は一九一九年六月八日となっている。この年の春に向谷は早稲田大学に入学しており、二学期になって弁天町の友愛学舎を初めて訪れたと自身が書いている。これがベニンホフ博士との最初の出会いだったとすれば、六月に信交協会に入会したとあるのは時間的に矛盾することを指摘しておこう。

 この頃は友愛学舎の活動がたいへん活発になった時期であった。毎朝、食事の前に祈祷会があり、これには舎監のベニンホフも出席した。読書室で3Lクラブや聖書研究会が行われていた。友愛学舎の運営は鶴巻町時代いらい、舎生の自治によって進められていた。月に一回舎生会があり、管理運営について話し合うとともに暴食会≠ネるものもあった。だが、向谷はこの時には友愛学舎に入舎したわけではなかった。岡田益吉「偉大なる平凡人」(『追悼 向谷容堂』所収)によると、先に書いた信交協会の会員として奉仕園の活動に参加したのである。信交協会はのちの早稲田教会である。

 岡田ら舎生はこの年の一月に友愛学舎で日曜学校を始めている。この計画はベニンホフの帰米中に始めたのだが、帰任したベニンホフはこの活動を喜び、温かく見守った。前年の暮れにチラシを作って近所の小学校や町内の子供のいる家庭に配布していた。日曜学校は友愛学舎地下の講堂で賛美歌を歌い、年齢ごとにクラス分けして、各舎生の部屋でクラスごとに舎生が聖書の話をした。カードに聖句を書いて配り、その聖句について話すのである。生徒は一〇〇人にもなったという。

 向谷は信交協会の礼拝に出席するだけでなく、日曜学校に自らも教師として参加した。信交協会の礼拝では川口卯吉牧師が説教をした。こうして一年後の一九二〇(大正九)年一一月二二日、向谷は多摩川でベニンホフから洗礼を受け、翌二一年には日曜学校校長に就任している。これは向谷が信交協会での活動に熱心であったことの表れでもあった。二二年になって、向谷は友愛学舎に入舎した。前年に商学部に再入学した篠崎茂穂が入舎していた。二人はこの後、終生の友として奉仕園と早稲田教会で活動することになる。

 弁天町の友愛学舎がスタートすると、ベニンホフは早稲田奉仕園の事業を寄宿舎だけに限定するのではなく、学生への伝道を含めてさらに発展させていった。そのために、休暇で米国に戻ると、アメリカンバプテスト本部をはじめ各地で、早稲田奉仕園の事業の意義を熱く説いて回った。これに応えてスコット夫人やエドマンズ夫人らから多額の寄付を集めることができた。これにより豊多摩郡下戸塚五五〇番地(現在地)に約八〇〇〇平方メートルの土地を購入、そこにスコットホールと早稲田高等学院生のためのアルバ・ホビー・メモリアル・ホステル(協愛学舎)が建設された。これを機に3Lクラブ(英語のバイブルクラス)などの学生会活動、信交協会、日曜学校など弁天町での活動はスコットホールでも始まり、奉仕園の活動拠点は戸塚に移っていった。

 ところが、一九二三(大正一二)年九月一日、関東大震災が発生した。スコットホール、協愛学舎は一部損壊したものの大きな被害はなかった。弁天町友愛学舎と宣教師館はまったく被害はなかった。だが、バプテスト系の教会などには壊滅的な被害を受けたところも多く、それらを支援する資金をつくるために弁天町友愛学舎と宣教師館を売却することになった。こうして戸塚の現在地にすべてが移ることになった。協愛学舎はこれを機に友愛学舎と名前を変え、新しく宣教師館が建てられた。

 奉仕園の庶務会計主任に

 翌一九二四年、向谷は早稲田大学を卒業すると、そのまま奉仕園の庶務部会計主任となった。当時の奉仕園の組織は、園長(総主事)の下に教育部、宗教部、庶務部があり、ベニンホフが総主事で教育部主事を兼ねていた。宗教部主事は米国留学から帰国した金森芳和だったが、翌二四年、藤井蔵之助がやはり米国留学から帰国して宗教部主事となり、金森は教育部主事に替わった。協愛学舎舎監にはやはり米国留学から帰った出井盛之が就任していた。そこに向谷が加わりスタッフ体制が整った。この年の六月、向谷は浅田花と結婚した。

 庶務部会計主任という仕事は、他の主事に比べて地味な目立たない仕事である。宗教部にしろ教育部にしろ、それぞれ米国留学をした人たちが就いて、学生たちを直接指導したり世話したりする、ある意味では目立つ華やかな仕事であった。そういう人たちに比べて、地味な会計主任の仕事をしている向谷を冷ややかな目で見る人たちもいた。学生たちに接する主事は、学生たちと議論したりするのだが、向谷はむしろ口数の少ない性格もあって、彼らの議論に参加することはほとんどなく、そういう場に居合わせてもにこやかな表情で黙って聞いていることが多かったようだ。

 ベニンホフについて言えば、シカゴ大学で教育学を学び、東洋伝道を志しただけに、奉仕園の理念や活動のあり方については熱い思いがあり、伝道者、教育者として情熱的ではあっても、実務的なことになると苦手だったようだ。それゆえにベニンホフは地味な実務家としての向谷をむしろ信頼して頼りにしていたと思われる。

 ところで、篠崎は一九二四(大正一三)年、商学部を卒業すると、四月に志願兵として小倉歩兵第四七連隊に入営、一年後にベニンホフの紹介で神戸の英国系のライジングサン石油会社に就職するが、二六年一月にベニンホフ博士の招きにより奉仕園に就職、友愛学舎副舎監になった。

 篠崎茂穂は一八九九(明治三二)年、福岡県嘉穂郡庄内村の神官の家に生まれた。福岡県立嘉穂中学から一九一七年、早稲田大学高等予科文科に入学したが、父の反対で商科に転科、当時小石川台町にあった嘉穂学舎に入った。父親から「耶蘇にだけはなるな」という厳しい戒めがあったものの、ミス・モークという女性宣教師に英語を学んだことから父との約束を破ってしまう。小石川福音協会に通い、一九年、二〇歳で洗礼を受けた。そのころから内村鑑三の聖書研究会に出席した。大学一年のときに朝日新聞フレンド平和奨学金を受け、五年間の予定で米国留学することになった。そしてハワイのハイスクールで語学研修を受けているところへ徴兵検査のための帰国命令がきた。帰国して受けた徴兵検査は甲種合格。だが、大学に入れば兵役は卒業まで免除されると知り、商学部に再入学したのである。

 篠崎が奉仕園に就職するについては、向谷の存在が大きな意味を持った。もともとライジングサンには長く勤める気はなかった。キリスト教関係か社会事業関係の仕事をしたいとの希望を抱いていたからだ。篠崎の転職希望を知ったベニンホフは、奉仕園で働くことを勧めた。しかし、彼は返事を留保した。金森主事や出井舎監がベニンホフの下で働くことにある種の難しさを感じて去っていったことを思うと、いまひとつ気が進まなかったのである。ベニンホフには学生の立場から見える教育者、伝道者としての人格とはまた異なる難しさがあったようだ。だが、そのベニンホフの下で愚痴ひとつこぼすことなく黙々と働いている親友の向谷のことを思うと、「向谷と一緒に奉仕園で働こうという決心が忽然と涌いて出た」と後年語っている(奈良信「若き日の篠崎茂穂」『篠崎茂穂 人と信仰』所収)。

 篠崎の決心をベニンホフはたいへん喜び、当面は副舎監を務めながら、将来は主事として働いてもらうことを構想し、それに備えて年末には米国に留学させた。ところで、この年の夏、篠崎は日曜学校の夏季学校で、これを手伝う小林冨喜と出会っている。冨喜はのちの篠崎夫人である。一二月に日本を発った篠崎はペンシルベニア州のクローザー神学校に入り、宗教教育を中心にした神学を学び、翌年にはペンシルベニア大学大学院で社会福祉学を学んでいる。そして一九二九年に神学校を卒業、翌年には大学院を修了してMAを取得した。一九三〇年六月に帰国すると、宗教部主事の藤井蔵之助が奉仕園を辞めて大阪に移ったのを受けて、宗教部主事となり、一二月には小林冨喜と結婚した。宗教部主事は奉仕園の中心である礼拝で説教をする事実上の牧師である。

 篠崎が留学中の二八年七月に、向谷はロサンゼルスで開かれた世界日曜学校大会に日本代表の一人として参加した。この渡米には小林冨喜が同行していた。篠崎と婚約していた冨喜が篠崎に会いに行くのをエスコートすることで向谷の渡航費用を冨喜の父が負担したのだった。米国滞在中、冨喜は篠崎に会い、向谷はロサンゼルス郊外パサデナで老後を過ごしていたスコット夫人に会っている。しかし、このとき友愛学舎は閉舎中であり、奉仕園の活動も困難な状況にあったことは皮肉というしかない。向谷の心中には複雑なものがあったであろう。しかし、帰国後まもなく友愛学舎が再開したのは幸いであった。そして、翌年八月には前年の友愛学舎関西舎友会に加えて、東京でも奉仕園後援会が発足している。

 このころ、友愛学舎では、ルター研究が盛んになっていた。大正期のキリスト教が個人の信仰にとどまりがちになっていったのに対し、昭和に入ると、唯物論の台頭とともに社会の矛盾にキリスト者としてどう立ち向かうかが、大きな課題となっていた。そんななかで賀川豊彦の貧民窟での活動が注目されたりした。当時の日本社会の矛盾が次第に明らかになってくる社会状況の中で、キリスト者が社会の現実から離れて、自らの救いだけに関心を向けるだけでよいのだろうか、という疑問が若い人たちに急激に広がっていったのだ。一九二七(昭和二)年、日本基督教連盟が福音の社会化を唱える「社会信条」を採択したのは、このような状況を反映したものだった。奉仕園理事長の安部磯雄が一九二八年、社会民衆党から衆院選に立候補して当選したのも、こういった社会状況の反映だったといえよう。安部は代議士となったことで、奉仕園理事長を辞任し、山本忠興がその後を継いで理事長となった。

 ベニンホフは奉仕園ではむしろリベラルなキリスト教を基盤にして学生たちにキリスト教を普及させるという、どちらかというと柔軟な活動を続けていたが、これに飽き足らない考え方が一部主事や舎生の間に台頭してきたのだった。ルター研究熱はこのような状況を反映していた。主事の藤井は早くからルターに傾倒していた。彼はルター研究家として有名な佐藤繁彦を招いて舎生らとルター研究会を続けていた。友愛学舎のルター研究会の舎生らは、次第に奉仕園と奉仕園教会のあり方に批判を強めていった。奉仕園は微温的な文化志向にとどまっており、徹頭徹尾、聖書に基づいた福音伝道に徹していないという批判である。

 篠崎が編集して発刊された月刊誌「早稲田奉仕園」第一号(一九三一年九月一五日)で、篠崎は「パウロが福音の外何も語るまいと決心せし如く、小生はイエスに就いてと、その教えの外、何も語るまいと決心したのである」と記しているのは、ルター研究会の考え方とも共通するもので、当時のキリスト教と奉仕園の状況に対する彼なりの態度表明でもあった。

 しかし、奉仕園そのものに対する批判を強めていく学生たちに悩まされながらも、篠崎と向谷は協力してルター派学生に対応した。だが、ルター研究会の舎生らはその年の末に友愛を退舎して、佐藤牧師を中心にした早稲田学生教会を設立した。その後も友愛舎生の退舎が相次ぎ、舎監の篠崎は「友愛学舎解散宣言」をして、三二年三月から半年間一時閉舎している。この時期に関西をはじめ、後に東京でも友愛学舎OBによる舎友会が設立されたのは、このような状態に対する危機感の表れでもあっただろう。
 こうして奉仕園は、事業のあり方と信仰の内実をめぐって、初めて大きな危機に直面した。藤井が大阪に去り、篠崎が宗教部主事になって、奉仕園はベニンホフ総主事の下に向谷・篠崎の二人で実質的に支えることになった。

 満州事変とベニンホフ

 一九三一年九月に起きた満州事変は、諸外国から日本に対する強い非難を招いた。三二年三月に国際連盟はリットン調査団を派遣し、これとは別に日本YMCAは独自に上海・満蒙調査団を編成して大陸へ派遣した。ベニンホフはこれに参加し、その調査結果を踏まえて、六月には米国に渡り、各地で日本について講演をして回った。
 満州事変、満州国建国、五・一五事件、日本の国際連盟脱退と時局は急激に展開していき、暗雲が垂れ込めていく中で、逆に日本の知識人の間にはキリスト教への関心が深まっていった。一九三三年になると、山本理事長の発案で奉仕園において「神学講習会」が開かれた。大学・専門学校の在学生・卒業生を対象にした年間二八回の連続講座である。向谷もその準備で裏方を勤めた。

 三四年になると、篠崎は奉仕園宗教部主事に加えて信愛学舎舎監を兼務し、信愛学舎内に移り住んだ。ベニンホフは国際的に孤立を深める日本の状況に心を痛め、米国での日本文化理解の講演活動に傾斜していった。そんな中で、聖書研究を重視して聖書以外には語らないという篠崎の立場は、ベニンホフや理事のアキスリング宣教師らと少しずつ乖離していった。篠崎は次第に奉仕園のあり方に疑問を呈するようになっていったのである。

 この篠崎の活動を向谷は「我等の主事篠崎は今学期初頭より一層の確信を以て日曜礼拝の教壇を守り、殊に聖書研究の態度には、愈々真剣味を加へ、丁度諸刃の剣を以て迫る慨がうかがわれた。一歩も人間生活に妥協を許さない。多くの世の子らが、偏狭であり頑迷であると云ふも、聖旗を押し立てて進む王道に代るべき正道はあり得なかつた。」(月刊「早稲田奉仕園」一九三五年一二月二〇日号)と書いて、篠崎の信念を擁護している。自己の信念に忠実であるとともに気質的に激しいところのある篠崎の態度は、向谷の擁護にもかかわらず、奉仕園職員らから次第に孤立を深め、それに伴って篠崎のベニンホフへの批判も厳しくなっていった。そして、篠崎はついに奉仕園と決別する決意を固めていく。

 篠崎を一貫して擁護してきた向谷はベニンホフとともに彼に翻意を促したが、一九三五年の年末も押し詰まった一二月二九日の説教を最後に、彼は「信仰の根本的な差異」を理由に奉仕園と教会を去った。篠崎の主張は「奉仕園はキリスト教的な雰囲気を作って、一般学生の需要に応ずる事業に『教会』なる名前を付けて平気でいる。」「真の教会はキリストの血に贖われ、キリストを首とし、キリストを体とするものである」「奉仕園教会は全くそうではないから、その存在は一日も許さるべきではない」とまで断罪したのだった。

 向谷は、ベニンホフと篠崎との間にあってアンビバレントな思いに苦しんだであろうことは容易に想像できる。「奉仕園には奉仕園の目的があり、使命がある。奉仕園のやうに一切を教育的に考へる行き方に、彼の信仰が許さなかつた。奉仕園内にあつては、彼の考ふる使命を遂行することは出来ないと考へた。今は只、神の聖旨にお任せするより他にない」(月刊「早稲田奉仕園」一九三六年二月一二日号)と書いている。

 篠崎は信愛学舎で聖書研究会を始め、月刊個人誌「聖書之研究」を発刊して、自分の信念を貫いていった。彼が去ったことで、奉仕園の通常活動はベニンホフが宗教部、教育部、友愛舎監のすべての責任を持つことになった。ベニンホフを支えるのはやはり留学帰りの名取順一と向谷だけになった。月刊「早稲田奉仕園」の編集は向谷が引き継いだ。名取は前年に開校した早稲田国際学院の副院長として実質的な責任を引き受けていたので、すべてのことが向谷にかかってきた。理事会は向谷を総主事代理にしてベニンホフを補佐することにした。ところで、ベニンホフと篠崎の教会観の相違が目立ってきたころ、ベニンホフに思わぬ事件が起きた。いわゆる「レコード万引事件」である。ベニンホフの粗忽な性格から起きた事件だったが、これが新聞で報道されて、彼は早大講師を辞任している。

 篠崎の辞任によって実質的に牧師が不在となった空白を埋めるため、向谷は海老名弾正、帆足理一郎、山本忠興、斎藤惣一らを訪ねて礼拝説教の依頼に奔走した。二月にはかつての信交協会発足から二四年まで説教を担当した川口牧師に応援を求めることになった。これらが実現するまではベニンホフ自身が説教をしている。

 ベニンホフの帰米と向谷総主事の時代

 奉仕園のこのような状況の一方で、時局はさらに戦時色を深めていった。一九三六(昭和一一)年には二・二六事件、翌年七月には盧溝橋事件(日支事変)、一二月には南京占領、さらに三八年四月には国家総動員法が施行された。そして三九年四月には、宗教上の行事が社会の安寧秩序を妨げ、臣民の義務に背くときはこれを制限もしくは禁止し、宗教団体の認可を取り消すことができるという宗教団体法が施行されている。

 こんな情勢のなか、三八年五月七日、奉仕園宗教部として活動を続けてきた教会が、奉仕園から独立して早稲田教会となった。初代牧師は川口に委嘱した。教会の構成は、川口牧師、ベニンホフ名誉牧師、執事は向谷ら六人、教会員は川口牧師のほか、ベニンホフ夫妻、向谷夫妻、名取夫妻ら一八人であった。この構成をみると、向谷が早稲田教会においても大きな役割を果たし、教会を支えていたことがわかる。

 四〇年になると、戦雲はさらに深くなって大政翼賛会が発足した。キリスト教界では救世軍がスパイ容疑で捜査を受け、賀川豊彦が反戦論の疑いで憲兵隊に留置されたりした。この情勢悪化を受けて一一月にはベニンホフ夫人が一足先に米国に引き揚げた。そして四一年三月にはベニンホフ本人も帰米することになり、三月四日に新橋第一ホテルで壮行晩餐会が開かれた。これには当時、駐日米国大使館の二等書記官を勤めていたベニンホフの長男メローも出席し、来賓には永井柳太郎、安部磯雄らに加え、奉仕園側から山本忠興理事長はじめ向谷らが出席した。

 帰米するベニンホフには名誉総主事の肩書きを贈り、向谷が友愛舎監となったが、奉仕園のすべてが向谷の肩にかかることになった。向谷は当時、北区十条仲原町に住まいを持っていたが、毎週一回は友愛学舎に泊まり、朝の聖書研究にも出席した。ベニンホフ同様、朝の聖研での舎生の報告に多くは発言せず、舎生の自主性を尊重した。

 六月には日本基督教団が発足、これに伴って日本バプテスト東部組合が解散して教団に参加したのだが、バプテストに属していた早稲田教会もこれに参加して日本基督教団早稲田伝道所となった。一二月八日、日本軍のハワイ真珠湾奇襲により、ついに日米が開戦した。翌四二年五月、理事会は、空白だった総主事の職に向谷を指名した。

 諏訪町時代の友愛学舎

 このころから、奉仕園の土地建物が軍に接収されるのではないかという噂が流れ始めた。一〇月、早稲田大学理工学部応用化学科に石油分科が設けられ、そのための校舎として早稲田奉仕園の買収が理事会の議題にのぼっている。そして四三年一月には、奉仕園の土地建物と引き換えに諏訪町の旧橋爪邸、約四〇〇〇平方メートルの土地と建物を大学が購入して奉仕園に提供することを決定した。軍に取られるより早稲田大学に譲渡した方が、早稲田の学生に奉仕するという奉仕園の理念に近いという思いが向谷や友愛舎生の間にはあった。ベニンホフの下で向谷は奉仕園の事業に誠心誠意取り組んできた結果が、情勢のためとはいえ、奉仕園のシンボルともいえるスコットホールや友愛学舎を手放すことになったのである。これは舎生はもとより、向谷にとっても身を切られるような辛いことだった。

 そのうえ諏訪町移転が決まっても、さらに向谷には悩ましい問題があった。二〇人の友愛舎生全員が手狭な新しい学舎に入ることはできない。当時は肺結核に苦しむ若い人が多く、これについては健康診断の結果で判断することにした。もうひとつは、キリスト教に無関心な舎生を外さざるを得なかったことである。その結果、新学舎に入れたのは神澤惣一郎、小林豊、中川国夫、奈良信、下垣篤雄の五人だけだった。学生の目には、地味な事務の仕事をしてきた向谷の姿しか目に映っていず、選考から外れた舎生の中には、総主事としての向谷を無能呼ばわりする者もいた。多くの舎生が新学舎に入れなかったことに責任を感じて向谷は友愛舎監を辞任した。

 代わって早稲田教会の川口牧師が舎監となった。こうして川口は家族ともども諏訪町友愛学舎に住んだ。諏訪町へ移転したのは友愛学舎だけでなく、早稲田教会も日曜学校も同時にここに移った。諏訪町移転を前にしたある日、舎生の奈良と小林豊が十条の向谷宅を訪ねた。たいそう粗末な平屋だったのが意外だったという。二人に対して向谷は「一切は僕の責任だ。君たちに迷惑をかけて本当に済まないが、僕は君たちに期待している、何とか思い直して新しい友愛学舎で、川口先生をもり立ててしっかりやってください」と悲しそうな顔で語った。「向谷容堂はこの時ほど、孤独と無力が悔しかったことはなかったと、かなり後年になってから静かに語ったことがある」と奈良は私家版「早稲田教会史」に書いている。舎監を辞めても総主事にはとどまったが、それも名のみで、報酬もほとんど受け取らなかったと言われる。

 向谷は戦時下には奉仕園の仕事の一方で、住まいのあった十条仲原町の町会長も務めている。戦時下の町内会長の仕事は結構大変だった。食料や日用品の配給など隣組の活動の指導、出征者の見送り、戦局が難しくなると防火訓練や避難訓練などをリードしなければならない。そんな向谷家の生活を支えたのは花夫人だった。彼女は生活力の旺盛な人で、早くから助産婦の仕事をして、薄給の向谷を支え、三男一女を育て上げた。また「向谷新星堂」という小さな文具店を開いたこともあったが、戦争中には「めぐみ液」という養毛剤を開発し、これを主婦之友社が後援して宣伝したために、かなりの営業成果を上げたこともあった。このように花夫人が労をいとわず向谷を支えたことを忘れることはできない。向谷が花夫人に「奉仕園を退職せざるを得なくなって、おでん屋でも始めたら、車の後押しぐらいしてくれるだろうね」と漏らしたのはこのころのことであったと思われる。

 諏訪町友愛学舎に住んだのは、川口牧師夫妻と小学生の子息、奈良、神沢ら友愛舎生、賄いの郡司夏子だった。これらの人たちによって、日曜礼拝のほかに、祈祷会、日曜学校、聖書研究会などが続けられた。引っ越しでは退舎した元舎生も手伝った。諏訪町での生活は、川口牧師を中心にした、まさにクリスチャンホームそのものであった。奈良はこれを後に「家の教会」と呼んでいる。しかし、戦争も次第に敗色が濃くなると、四三年秋には学徒出陣が始まり、神沢が入隊して行った。四四年には学童疎開や勤労動員が始まる。友愛舎生や教会員も勤労動員され、友愛学舎も次第に閑散としてきた。それでも、四四年には三人の新入舎生が加わった。勤労動員のために大学の授業もなくなっていたから、大学に入ったというより、友愛学舎すなわち早稲田教会に入ったとも言ってもよい状況であった。この時代の人たちが友愛学舎にその後の世代には見られない懐かしさを感じるのは、そんな時代状況が反映していると言えるだろう。

 和歌山県の貧しい農家に生まれた川口卯吉は一六歳で移民として米国に渡り、苦学するなかでキリスト教に出合い、ロチェスター神学校からシカゴ大学に進んで神学博士号を取得した。三二歳で帰国して日本バプテスト神学校教授となり、早稲田奉仕園信交協会の発足とともにベニンホフに招かれて牧師として協力したが、二四年からは仙台尚絅女学校校長、関東学院教授を務めていた。三九年には発足したばかりの早稲田教会の初代牧師になっていた。米軍による東京空襲は四四年一一月に始まった。連日の空襲のなかで友愛学舎・早稲田教会は祈りを続けた。川口牧師は早くから日本の敗戦を見通し、これに備えるキリスト者の心構えを聖書に則して説教で語り続けた。米国を深く知る川口牧師にはこの戦争の行く末がはっきりと見えていたのである。それだけに祈ることの大切さを舎生に語り続けたのだった。

 一九四五(昭和二〇)年三月九日夜半から十日未明にかけての東京大空襲では友愛学舎は被害を受けることはなかったが、四月一日は聖日礼拝が始まった途端に空襲警報が発令された。友愛のそばにも焼夷弾が落ちて、防空壕にいた近所の人が即死した。四月一三日の空襲では、焼夷弾が友愛学舎の敷地内に落ちて、火の粉が飛び散り、建物の板壁が燃え始めた。川口牧師は病弱の夫人と小学生の子息を大阪府熊取村に疎開させるために送って行って留守だった。舎生も全員勤労動員で不在。いたのは奈良と賄いの郡司だけだった。そこへ植松健一が避難してきた。防火用の水は普段から溜めていたので、三人で必死に消し止めた。やがて教会員が相次いで駆けつけて無事を喜び合った。

 舎生も少なくなり、奈良の勧めで川口牧師が家族のもとへの疎開したのは六月九日だった。その直後、陸軍航空本部から友愛学舎を借用したいとの申し入れがあった。奈良は向谷に伝えた。向谷には珍しく「こういうことが起きるから川口先生にはいてもらわないと困るのだ」と言いつつも、あちこちに奔走して日本砂鉄という会社の事務所に建物の一部を貸すことにしてさっそく備品などを運んできた。その既成事実で航空本部の申し入れは立ち消えになった。
 終戦直前、信愛学舎は強制疎開命令を受けて、取り壊されることになった。信愛舎生のうち布施濤雄ら数人が友愛に移ってきた。

 戦後の再出発 再び戸塚へ

 広島、長崎の原爆投下に続いて八月一五日、ついに終戦を迎えた。二日後の一七日、奈良が十条の向谷宅を訪ねた。戦後の奉仕園と教会の活動を向谷とともに担いたいとの熱い決意を抱いての訪問だった。ところが、そこに篠崎がすでに来ていた。篠崎は、独立した早稲田教会の聖書研究会で四〇年に「詩篇」の連続講義をし、四一年に早稲田教会に転入会したものの、信愛学舎で日曜朝の聖書研究会を続けたために、早稲田教会を実質的に離れていた。その篠崎が向谷と手を取り合って、今度こそ一緒に早稲田教会を再建していこうと話し合っている。奈良の頭には疎開している川口牧師のことが浮かんだが、言葉には出さず、奈良もまた早稲田教会の再建に参加する意思を固めた。

 五月二〇日いらい途絶えていた聖日礼拝は、九月一六日の復興第一回礼拝で再開された。この礼拝では向谷が説教を担当した。彼はそれまで聖日礼拝の説教をしたことはなかった。一信徒としてむしろすべきないと考えていたと思われる。その向谷が説教壇に立つのは、彼の教会復興への志の篤さを思わせた。「不滅の力」と題した説教で、向谷は、大東亜戦争が神意に基づく聖戦であるとされたことに、キリスト者として、また日本人として苦しみながらも「聖戦」を受け入れてしまったこと、そのために終戦の詔勅に茫然自失したことを語り、これからは口先の信仰ではなく「真の純粋無垢の神の言葉を語ろう」と呼びかけた。出席者は向谷夫妻のほか、篠崎、奈良、渡部三郎、野口光子ら八人であった。
 やがて戻ってきた植松も加わり、篠崎、向谷、植松、奈良の四人で話し合った結果、すでに信愛舎監を辞し、日本女子大教授を務めていた篠崎が教会責任者となった。舎監不在だった友愛学舎は一〇月に向谷が再び舎監となった。

 ところが、そこへ川口が上京して向谷を訪ねた。向谷は六月の疎開によって川口は友愛舎監と早稲田教会牧師を辞めた形になっていると伝えたが、川口は納得できなかった。向谷と篠崎が早稲田教会の復興を決めた時、川口に連絡をとらず進めたことにも問題があったが、川口からも疎開いらい連絡は途絶えていたのだった。向谷は六月の疎開をもって川口が自然退職したとみなすことを、すでに復興第一回礼拝で教会員に告げていた。戦時下での川口の働きを考えると、罷免を伝える向谷の心中には忸怩たるものがあって心苦しかったことだろう。だが、すでに教会復興の作業は歩み始めていた。後戻りするわけにはいかなかった。友愛舎監については山本理事長が奉仕園理事会で処理することで決着せざるを得なかった。教会は奉仕園からは自立しているとはいえ、事実上一体であり、川口としても不本意ながら受け入れざるを得なかった。その後まもなく、川口は大阪YMCA英語学校校長に招聘され、四九年には関東学院大学教授に招かれた。

 こうして早稲田教会と友愛学舎が戦後の歩みを進み始めると、向谷は早稲田奉仕園の再建を模索し始めた。そのためには活動を担う人材が必要である。そこで、戦中戦後に友愛と教会を守ることに大きな役割を果たした奈良と植松に主事になることを要請した。二人は協力することに異存はなかったが、ともに主事就任は固辞した。

 戦争中、奉仕園としての活動は友愛学舎だけになっていたのだが、友愛舎監に復帰した時点で、向谷が奉仕園再建にどのような具体的な展望を抱いていたかはよくわからない。むしろ展望を抱きあぐねていたと言った方が実態に近いのかもしれない。そこへ奈良が、戸塚の土地建物を早稲田大学から返還してもらう構想を提案した。これは向谷にとってこの上ない案であったと思われる。だが、その見通しとなるといかにも難しいものに思われた。向谷は最初の名誉都民として知られ、奉仕園の理事も務めたウィリアム・アキスリング元関東学院理事長に相談して、山本理事長を通じて大学当局との交渉を始めた。山本忠興は四四年に早稲田大学を退職していたが、奉仕園理事長は続けていた。このことも返還に幸いしたであろう。

 向谷との交渉を大学側で担当したのは、村井資長であった。村井は四三年の奉仕園の土地建物を大学が譲り受けて石油工学科の校舎とする際の責任者でもあった。そして、のちに第六代奉仕園理事長に就任することになる。

 村井は書いている。「大学側からすれば、あまりに虫のよい奉仕園の原価買戻し申出である。しかもGHQをバックにちらつかせながらの話である。(大学側の)関係者が大いなる反発を示したのも当然である。手続き上戻さねばならない理由はなかったにも拘わらず関係者の心を動揺させたのは、早稲田奉仕園が過去四十年に亘って大学に対して果した貢献である。ベニンホフ先生の働きも、これを実質的に推進育成された向谷先生が自信を以て当時の島田総長(中略)への強い働きが功を奏し、私も歯が立たなかったわけである。」(「向谷先生の生涯とその信念」『追想 向谷容堂』所収)

 戦後の次第にマスプロ化していく大学にあって、奉仕園のような場が学生の人間形成に資することの大きさを大学として認識したのであった。そのことが当時の島田総長を動かした。こうした大学側の認識と奉仕園への好意で、戸塚の地が返還されることになった。

 一九四八年秋に奉仕園、友愛学舎、早稲田教会は懐かしい戸塚へ戻ることができた。大学に譲渡していらい五年半ぶりの帰還で、自分の手で手放したスコットホールを、再び自分の手で取り戻した向谷の喜びは想像に余るものだったろう。奉仕園返還が決まると、フリデール夫妻が、ベニンホフいらいの宣教師として着任し、奉仕園活動も再建が始まった。

 四六年以降、友愛学舎、信愛学舎の舎生たちが東大YMCAと協力して「東京キリスト教学生会」の活動を始め、諏訪町友愛学舎はそれらの活動の拠点になっていた。若い学生たちは新しい時代に、新しいキリスト教伝道の活動をいち早くスタートさせていた。これらの動きも奉仕園再建に大きな力を与えることになった。そして向谷の大学との交渉を後押しした。

 返還交渉が進んでいる段階で向谷は米国のベニンホフ博士に手紙で知らせている。ベニンホフはたいへん喜び、「私にできることがあれば知らせてほしい」と返事をしている。しかし、その後まもなくベニンホフは心臓病と診断され、一九四八年四月二四日に亡くなったとの手紙がベニンホフ夫人からもたらされた。ベニンホフは病床で向谷、篠崎、早稲田、奉仕園をたびたび口にしていたという。奉仕園では五月二九日にベニンホフ博士追悼会を開いた。これに先立って、一月には初代理事長安部磯雄が死去している。また三年後の五一年四月には、二代理事長山本忠興が死去した。

 この年、五一(昭和二六)年初めに布施が主事となった。そして七月には早稲田奉仕園キリスト教学生会が正式に発足した。この間、米国バプテストミッションから二回にわたって奉仕園施設の改修のための資金が送られてきた。これでスコットホールや友愛学舎の改修を行い、五二年には友愛学舎内に舎監室が整備され、向谷一家が移り住むことになった。

 改修にはバプテストミッションからの経済的支援があったが、日常の管理運営の費用をどう捻出するかとなると難しい問題だった。幼稚園や予備校の開設などの案が出たが、結局スコットホールを予備校に貸し、早稲田のグリークラブなどのサークル活動に有料で貸すことにした。

 布施主事の指導のもとに学生会の活動は自主的に企画され、伝統ある3Lクラブ、聖書研究会のほかにワークキャンプ、講演会、国内セミナー、国際セミナー、春秋のリトリートなど多彩なプログラムが継続的に展開された。これらは学生たちの自発的な企画で、布施主事の助言のもとで自主的に運営され、総主事としての向谷が直接かかわることはなかった。

 また、友愛学舎の生活もかつてと同じように舎生の自主的な運営に任され、向谷は舎監として朝食前の聖書研究に出席しても、舎生の報告には言葉少なに感想を述べるだけであった。そして、時には、舎生たちを自室に招いて信仰について、あるいは奉仕園の歴史などを、お茶を飲みながら語るという日々が続いた。

 一九五八年、奉仕園は創立五〇周年を迎えた。これを記念して和風建築の五〇周年記念館を建設、旧ベニンホフ邸の宣教師館を早稲田高等学院生のための高校生寮とし、正門わきにあらたに宣教師館を建設し、軟式テンスコートを設置した。そして翌年には布施主事を一年半の米国留学に送り出した。

 一九六三年には創立五五周年を前にした二月に畏友篠崎を第五代理事長に迎えた。一一月の五五周年記念式では、OB有志の拠金によって制作したベニンホフ博士の胸像がスコットホール前に立てられ、その除幕式を行なった。これにはベニンホフ博士の長男メロー、ライシャワー駐日大使夫妻、大浜信泉早大総長も列席した。向谷はその前の八月に総主事を退任し、名誉総主事となっていたが、篠崎理事長就任と胸像除幕式は彼の奉仕園での仕事の総仕上げだったと言ってよいだろう。

 退任にあたり、奉仕園内に向谷夫妻のために住居が有志の寄付金によって建設され贈られた。向谷はこれを「恵の家」と名づけて老後を過ごした。翌年春、布施が総主事となって後継者を得た。
 晩年は、戦後ずっと続けてきた東京家裁調停委員の仕事の一方、東京YMCA評議員なども務めたが、毎朝、スコットホール前のベニンホフ像の前にたたずみ、天国のベニンホフと語り、名誉執事でもある早稲田教会の礼拝に出席することを喜びとして過ごした。息子か孫のような年齢の若い牧師の説教に、一番前の席でメモを取りながら耳を傾ける姿が古い教会員の目に残っているという。

 一九六八年六月、かねて問題を抱えていた心臓が悪化して入院した。一時は快方に向かったものの、一一月一一日夕、容態が急変、午後一一時四〇分、心臓弁膜症による脳血栓で神に召された。この日、久しぶりに小康状態に戻ったのを見て、花夫人は料理教室の講師の仕事に出かけた。その留守の間に急変したのだった。急いで戻った花夫人は「お父さん、私がそばにいなくて本当にごめんなさい」と呼びかけ続けた。享年七一歳。一一月二四日の奉仕園葬に続いて、翌年四月のイースターの日に小平霊園で篠崎の司式で埋葬式が行なわれた。

 向谷舎監は舎生が卒業すると、友愛学舎の舎章である「人がその友のために、自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ伝一五章一三節)の聖句を色紙に書いて贈った。向谷は書をよくし、それは穏やかな中に気品のあるものだった。書はその人を表わすというが、まさに向谷についてもそう言えるのではないだろうか。

参考資料 「追想 向谷容堂」
     「篠崎茂穂 人と信仰」
     「早稲田教会五〇年史」
     「月刊『早稲田奉仕園』」
     奈良信著「早稲田教会史」(私家版)
     岩波哲男編「インタビューによる早稲田大学基督教青年会百年側面史」
     奈良信、中川経治、布施濤雄らへのインタビュー
(注)本稿は2008年11月3日に刊行された「早稲田奉仕園百年史」に寄稿した文章に若干の手を入れたものです。(2008/11/03)

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Last Update:2009/05/15
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