中上健次の思い出

中上健次の思い出




中上健次
  生前の中上健次氏

 作家の中上健次さんは1992年8月12日にがんのために亡くなった。46歳だった。
 その日の朝、私は会社への出勤途上にあった。その時間帯に四谷3丁目の文壇酒場、英の女将、西部英子さんから自宅へ電話があって、妻に中上健次さんが亡くなったことを伝えたが、西部英子さんは私が出勤途上であることを知ると、妻に会社へ電話して中上さんが亡くなったことを知らせるように助言してくれた。午前9時前のことである。
 妻はすぐに会社へ電話したが、交換手に文化部といっても、まだだれも出勤していないと言われ、電話を社会部へ回してもらった。社会部の記者に中上さんが亡くなったと伝えると、その記者は
「どこからの情報ですか」
 といった。
「四谷の飲み屋さんの女将さんからの知らせです」
 と答えると、その記者は
「ガセじゃあないですか。よくありますからね」
 とまじめに取り合おうとしなかったという。そこで
「私は文化部長の妻です。主人が出勤途上なので、夕刊に間に合わせねばと電話したのです」
 というと、その記者はやっと本気になったようだったが、それでも妻は疑われているような気がしたという。
 社会部の隣りには整理部があって、文化部から整理部へデスク研修に行っていた鴨志田記者が、宿直の明け番で整理部にいて、このやりとりを聞きつけた。鴨志田記者も四谷の英には行ったことがあるから、
「おい、それは確かな情報だよ」
といって、取材が始まった。
 その夜、英に行くと、
「中上の秘書の落合君から電話があって、どこに電話してよいかわからなかったので、まず寺田(博)さん(元河出書房「文芸」編集長)と私に電話してきたんだ。それで最初にあんたに電話したら、家を出たというから奥さんに会社へ知らせるようにいったんだよ」
 と教えてくれた。落合君は晩年の中上さんの秘書で、がんに倒れてからはずっと付き添い、中上さんが紀州に帰ってからも病床で彼の世話をしていたという。亡くなった後も原稿などを整理したそうだ。

最後に会った日

 中上さんが亡くなる前年の暮れも押し詰まった12月下旬が、私が中上さんに会った最後だった。その数日前、中上さんから電話があって、会いたいといってきた。それで英で待ち合わせたのである。
 英に行くと、彼はカウンターで一人でお茶を飲んでいた。中上健次が時間が早いとはいえ、飲み屋でお茶を飲んでいる姿を見たのはその時が初めてだった。私はちょっと吃驚したが、そのことには触れなかった。
「なにか話があるっていってたけど、なに」
と訊くと
「藤野さんも知っていると思うけど、おれが新宮でやっている熊野大学のことでね。来年夏に沖縄をテーマにセミナーをやりたい。それであんたに協力してもらえないかと思って」
 私は沖縄が好きで、何度も沖縄を旅し、あげく、与那国島サトウキビ刈り援農隊を呼びかけるほどに沖縄にのめり込んでいた。沖縄には友人もいた。
「僕にできることなら何でも協力するよ」
 と私は答えた。そして、新川明さんや川満信一さんのことを話した。そして、中上さんは
「できたら春にでも沖縄へ行きたいな」
 とつぶやいた。
 それからは、熊野大学や新宮の話になり、
「来年2月に熊野の火祭りがあるけれど、藤野さんは見たことがないだろう。湯の峰温泉に友達がやっている旅館をとっておくから、いっしょに行かないか」
 と誘われた。私は1977年秋に、紀伊田辺で中上さんと落ち合い、彼の運転する車で枯木灘海岸を走って新宮まで行き、彼に路地を案内してもらったことがあった。
 ゴロタ石の多い新宮の海岸で写真を撮ったあと、彼のいう路地をいっしょに歩いたのだが、そのせせこましい入り組んだ町筋からはオリュウのおばばがいまにも姿をあらわしそうな雰囲気だった。そんな路地を歩きながら話す彼の言葉は、それが事実なのか、彼の想像の産物なのかわからないおもむきで、私は中上さんの言葉の世界をさまっているような不思議な感覚を味わったのが思い出される。
 新宮からは彼の甥の運転で中上さんもいっしょに、熊野川沿いに本宮をへて十津川村、五條市を通って大阪まで行った。熊野は後にも先にもその時しか行っていない。熊野の火祭りも見たかったし、湯の峰温泉にも行ってみたかったので、即座に行くことに決めた。
 そうして中上さんと別れたのだが、年が明けて1月10日過ぎに彼は慶応病院に入院し、そのまま、6月だったかに紀州の友人の医者が開業している病院に転院した。そして8月に亡くなった。だから、このときの約束が実現することはなかった。

島尾敏雄さんとの対談

 私が沖縄好きなのを、中上さんがなぜ知っていたかといえば、飲んだ席で話したのかもしれないが、やはり1977年にさかのぼる。この年にきっかけがあったと思われる。この年に島尾敏雄さんが「日の移ろい」で谷崎潤一郎賞を受賞した。中上健次の長編小説「枯木灘」も候補に挙がっていたが、中上さんは受賞を逸した。
 「枯木灘」はその時すでに芸術選奨新人賞と毎日出版文化賞を受賞していた。「谷崎賞をとれば3冠だ」などといって受賞に自信がありそうだった。彼は担当編集者らと残念会を開いた席で、島尾さんについて口を極めて悪態をついたという話をある編集者から聞いていた。
 そのとき私は、新年企画で島尾さんと中上さんの対談をひそかに企画していた。親しい編集者にそのことを話すと
「それは絶対に実現しない」
 と編集者らは異句同音にいった。だが、根拠はないのだが、私には妙に自信があった。そこでまず、中上さんにこの企画について話したら、二つ返事で「いいよ」という。そこで茅ヶ崎に住んでいた島尾さんを訪ね、
「中上さんはOKしているんですが、対談してもらえませんか」
というと、こちらも
「中上さんがよいと言われるならいいですよ」
ととんとん拍子で対談は成立したのである。私は島尾さんの作品が好きで、また彼の「ヤポネシア論」にも興味を持っていた。沖縄から紀伊半島は黒潮暖流でつながっている。そのあたりの風土論と文化論をふたりに展開してもらおうと思ったのである。そういう発想は私が沖縄好きだったことから生まれたもので、中上さんもそれを理解してくれていたのだった。

初めて会った日

 私が初めて中上健次に会ったのは1974年の夏に近いころだった。そのころ中上さんはすでに何度か芥川賞候補になっていた。文壇では戦後生まれの作家第1号として注目されてもいた。ある日、河出書房新社の寺田博氏から
「中上が初めての作品集を出すので、読書欄でインタビューしてくれませんか」
 といってきた。中上健次には一度会ってみたいと思っていたので、よい機会だとインタビューすることにした。当時の河出書房の社屋に近い神田の明治大学裏の喫茶店で中上さん、寺田氏と3人で会い、2時間ほど話を聞いた。細かいことは忘れたが、彼が
「自分の境遇は小説を書くためには最高の環境だ。小説を書くために生まれてきたように思っている」
 とか
「自分にとっての熊野はフォークナーのヨクナパトーパだと思う」
 とかいった言葉が今も印象に残っている。
 このときのインタビュー記事は新聞の行数で150行ほどあり、今の拡大活字では1ページ分に近い分量だった。これが中上健次が新聞に写真付きで大きく紹介された最初だった。私は彼を新聞で大きく取り上げたのがこれが最初だったとはその時は知らず、あとで中上さんから聞かされて知ったのだった。
 それからときどきいっしょに酒を飲んだりするようになった。私は彼より5歳年上だが、他の作家や評論家、編集者がいると、彼は年上の私を呼び捨てにする。だが、ふたりだけになると、きちんと「さん」付けで呼んだ。そんな稚戯めいたところにいつか私は好感を持っていた。

ソウルの日々

 1981年3月、ソウルで開かれた「第3世界演劇祭」に参加する在日韓国人演劇グループに同行して、私は韓国へ初めて行った。このとき、中上さんはソウルに滞在中で、アパートを借りて長編小説「地の果て 至上の時」を書いていると聞いていた。ホテルに落ち着くとすぐ私は「韓国文芸」の事務所に電話して
「中上さんに会いたいのですが」
 といったら、相手はいったん電話を切った後、折り返し電話してきた。
「中上さんがすぐに会いたいといってるので、事務所に来ていただけますか」
といった。私は「韓国文芸」の事務所へ出向いた。全玉淑という女性が同席し、彼女は「韓国文芸」の編集長だと名乗った。私は彼女に見覚えがあった。四谷の英がまだ新宿の番衆町で店を開いていたときに、そこで一度見かけたことがあった。
 中上さんは彼女の世話でソウルに滞在しているのだった。それから数日間は全女史、中上さんといっしょに過ごすことになった。汝矣島の全女史の豪華マンションに泊まり、夕方からは料亭やナイトクラブに案内されたりした。
 当時のソウルには夜間外出禁止令が出ていて、夜11時になると、先を争ってタクシーの奪い合いになる。ある夜、韓国の作家でレストランなども経営しているH氏らと明洞で飲んだ後、H氏がやっとタクシーをつかまえ、3人で中上さんのアパートの近くまできたところで、若い警官に呼び止められてしまった。H氏が
「この2人は外国人でお客さんだ。その人の住まいが数百メートル先なので、2人をそこまで送り届けたい」
 と頼むと、警官はオートバイで付き添ってきた。中上さんと私はタクシーを降りて、H氏の車と警官を見送った。その夜は中上さんのアパートに泊まった。
 ソウルの中上さんのアパートは机と布団があるだけのだだっ広い部屋だった。岩波書店「日本古典文学大系」の「今昔物語」が本棚にあったのが印象に残っている。翌日、ここに韓国の作家、韓勝源氏が訪ねてきて、テーブルを挟んで日本語と英語、韓国語まじりの筆談も加えた話をした。
 数日後に再びH氏に会った。中上さんが
「あのあとどうした」
 と訊ねると
「豚箱に2泊3日入れられましたよ」
 とH氏は照れたように笑った。
「奥さんには何といったんだい」
「警察から電話して、急に3日ほど釜山に出張になったといってごまかしましたよ」
 とH氏は涼しい顔で話す。私たちのために2泊3日留置場に入ったと聞いて、そこまでしてくれたH氏の好意に私たちはすっかり感激し、恐縮してしまった。

金達寿氏の訪韓

 中上さんとは直接関係のない余談だが、ソウル滞在中のある日、新聞に「在日僑胞の左翼文士来韓」という大見出しの記事が一面に報じられた。在日朝鮮人作家の金達寿氏らが韓国を訪問したのである。記事には滞在中の日程まで詳しく掲載されていた。
 金達寿氏とは「季刊三千里」に寄稿したり、京都で発行されていた雑誌「日本のなかの朝鮮文化」の編集に私はボランティアで協力していたから、その編集委員である金達寿氏とは懇意であった。だが、金氏らは当時の全斗煥の軍事独裁政権には反対の立場で、彼らが韓国を訪問することはそれまでは考えられなかった。
 しかし、出自が金海金氏である金達寿氏が故郷の韓国を訪ねたいという思いを抱いていることは「対馬まで」という彼の短編小説からもよく理解できた。それにしても現状の軍事独裁体制の韓国を訪れるとは思ってもみなかった。なにか裏に理由があるに違いないと思った。
 私は滞在日程にある時間を見計らって景福宮の国立中央博物館に行き、玄関の前で彼らの到着を待った。やがて文化弘報省の車で金氏らはやってきた。私が玄関前に立っているのをみつけると、金氏らはギョッとして驚いたようだった。なぜ私がそこにいるのか理解できなかったのだろう。同行の考古学者L氏が私をわきに連れ出して、説明をし始めた。それが私には言い訳に聞こえた。そこで私は
「詳しいことは日本に戻ってから聞きましょう。来てしまったのですから、博物館をゆっくり見学されてはどうですか。もしできれば私もいっしょに見せてもらいたい」
 といって、いっしょに見学した。広い部屋に通され、長いテーブルにひろげられた、展示はしていない巨大な「朝鮮通信使絵巻」を見せてもらった。
 博物館の前で金達寿氏ら一行と別れた。金氏らは滞在中テレビにも出演し、彼らの訪問は韓国内で大きなニュースになっていた。
 彼らは韓国で獄中にある在日朝鮮人や韓国人の政治犯の釈放を嘆願するのが目的だといったが、韓国での報道にはそのような目的は報じられてはいなかった。
 東京に戻ってから金達寿氏に新宿で会った。彼は韓国が近代化を遂げ、経済が発展していることに驚嘆したようで、手放しで韓国を礼賛した。軍事独裁政権と政治犯釈放については何もいわなかった。戦後初めて祖国を訪問し、発展した祖国の姿を目の当たりにした感激が私などの想像をはるかに超えるものであることだけは理解できたが、政治犯の釈放という当初の目的がどこへいってしまったのかという私の疑念は結局は晴れなかった。
 私は金氏らが祖国韓国を訪問すべきでないと思ってはいなかった。金氏はライフワークの大作小説「太白山脈」を書き遂げたいとの思いを前からもっていることを何度も話に聞いていた。そのためには一度韓国へ行って取材したいともいっていた。私はそのために金氏が韓国訪問するなら、それはそれでよいのではないかと考えていた。
 全斗煥政権が軍事独裁によって韓国を支配していることの正当性に疑問があるにしても、現実に権力を掌握している公権力である。軍事独裁体制に批判があるといえ、一民間人の小説家がその祖国を自分の小説の取材のために訪問するのをだれが批判できようか。
 だが、ことはそう単純ではなかった。金氏らはその前に、作家の李恢成氏が韓国を訪問したときにはこれを厳しく批判していたのである。訪韓した李氏が転向したわけではなかったのだが、自分たちが韓国へ行くとなると、そうした李氏に対する批判との整合性が必要だったのだろう。要するに理由が必要になったのである。それが政治犯の釈放嘆願であった。だが、韓国で嘆願をしたのかどうかは帰国後もあいまいにされた。私も金氏に
「向こうは権力、こちらは一市民なのだから、政治的な理由などまとわずに一個人として行けばよかったのではないですか」
 といった。だが、彼からの反応はなかった。彼らの韓国訪問は日本でも大きく報道されて、在日韓国人や朝鮮人の中から厳しい批判の声があがっていた。金達寿氏は日本社会で活躍する在日朝鮮人作家の重鎮として在日の人たちの指導的立場に立ってきた。戦後長く韓国のありかたを批判する存在として大きな影響力も及ぼしていた。その金氏がこういうかたちで韓国を訪問したことに在日社会で批判の声が高まったのである。長年、金氏といっしょに文化活動をし、京都で金氏らを編集委員にして季刊雑誌「日本のなかの朝鮮文化」を発行していた鄭詔文氏は、金氏を批判してたもとを分かった。
 私はそういう金達寿氏をそば近くで見ていて、怒りというより、ある「悲惨」な思いに包まれてしまった。そしてその後、私も金氏と会うことはなくなった。

全玉淑女史宅で

 在日韓国人演劇グループに同行し、私とホテルで同室だった神戸女学院大学助教授のK氏も交えて全女史がナイトクラブに案内してくれた。中上さんもいっしょだった。この席でK氏が韓国人を差別するような態度をちらっとみせた。K氏自身はそのとき差別意識はなかったのだろうが、すばやくそれを見て取った全女史が、K氏のグラスにウイスキーをなみなみと注いで一気飲みをさせ、ホステスに彼とダンスをするように命じた。自分の態度に気づかない、のん気なK氏はそれを好意と受け取って調子に乗ってダンスを始めたが、リズムがしだいに激しくなり、彼は完全に酩酊状態になって正体を失ってしまった。
 その夜は正体不明のK氏も含めてみんなで汝矣島の全女史宅へ泊まった。翌朝、起きると二日酔いのK氏は財布がないといって騒ぎ始めた。所持金の全財産数十万円が入っていたらしい。昨夜のナイトクラブで無くしたのではないかと電話で問い合わせたが、みつからなかった。全女史がその場にいたみんなに1万円ずつカンパを求め、K氏に渡したが、それでも足りない。ホテル代も払えないというので、今度は全女史が漢陽大学総長に電話した。総長は私たちが宿泊していた隣りのホテルの経営者でもあった。
「私にツイン1部屋を無料で提供してほしい」
 と全女史が頼み、私とK氏はそのホテルに移った。
 やがて私のソウル滞在は終わり、帰国する日に中上さんから雑誌「群像」に連載中の小説の原稿を預かり、帰国して辻章編集長に渡した。ソウルで書いているはずだった「地の果て 至上の時」はあまりはかどっているようではなかった。それからしばらくして中上さんは痔を患い、ソウル滞在を打ち切って帰ってきた。

昭和天皇死去のエッセー

 中上さんに「もっとも気になる作家はだれか」と訊いたことがある。そうしたら、しばらく考えて
「宮本輝だな」
 と私には意外な答えが返ってきた。その理由を彼はくわしくは語らなかったが、考えてみると納得できるような気もする。ストーリーテリングに絶妙の才を持つ宮本輝は一見、中上健次の文学とは対極にあるように思われるが、その根底にあるものは共通すると思われたのである。「物語」という言葉を中上さんはよく口にしたが、宮本輝は物語にかけては完璧に自分のものを構築している。それが中上さんにライバル意識を培わせたのかもしれない。

 中上健次は身体も大きく、腕力は相当に強そうな見るからに偉丈夫であった。新宿の飲み屋でだれだれを殴ったなどという話はしょっちゅうのことで、そんな話を聞いても驚かなくなっていた。

 ある日の午後、会社で仕事中の私に電話がかかってきた。送受機をとるといきなり「藤野! お前はなんだ! 殺してやる!」と耳をつんざくほどの怒鳴り声が耳をついた。そのとき、私はその電話の主がだれかわからず、いきなりだったもので、殺されるなどということは身に覚えもなかったが、怯えてしまった。すると、それを電話機を通じて感じ取ったその男は
「オレだ。オレだよ」
 と声音を変えて言い、それでもまだわからないでいる私に
「中上だよ」
 と告げて
「いま、会社の前にいるから出てこられないか」
といった。出て行った私は、会社の前のビルの地下にある「ざくろ」という料理屋に彼を誘い、そのまま夜まで飲むことになったのだった。

 1989年1月7日に昭和天皇が死去した。このとき、私は学芸欄のデスクをしていた。前年秋からの下血で、天皇死去の場合の文化関係の編集を一手に担当していた。部下のK記者が年末近くになって、天皇の容態がいよいよ危なくなったころ、昭和天皇に絡めた中上さんのエッセー原稿をもらってきた。
 読んで吃驚した。中上さんの父親が戦争中、中国へ出征して覚えてきた餃子を、戦後復員してからよくつくってくれたという話の中で、自分が被差別部落の出身であることをはっきりと書いていたのである。その文章に私は胸を打たれた。

 中上さんの晩年、紙名は忘れたが、フランスの新聞が中上健次特集を組んだ。そこで彼の文学を「さながらギリシャ悲劇のようだ」と評価したという。そのとき、私は日本で川端康成に次いでもっともノーベル文学賞に近いのは中上さんだと思った。彼自身もそう思っていたようで、あちこちで「オレはノーベル賞をとるぞ」などと冗談まがいにいっていたが、案外本心であったかもしれない。だが、ノーベル文学賞をとる前に、彼はがんに倒れ、1993年8月12日に亡くなってしまった。そして、翌年、大江健三郎氏がノーベル賞を受賞した。

 中上さんが亡くなってしばらくした秋になって、四谷の英で落合君と偶然いっしょになった。
 私は落合君とは数回顔を合わせたことがあるだけだったが、そのとき彼が言ったことが深く印象に残っている。
「中上さんの病床ノートに藤野さんのことが何度も出てくるんです」
 死の前年の暮れに中上さんが私に話した熊野大学での沖縄セミナーのことを、中上さんは病床でずっと思い続けていたらしい。
 落合君によると、病床ノートには私といっしょに沖縄を旅行する計画が、かなり具体的なスケジュールも含めて記されているというのである。中上さんが入院直前に私との間で交わした約束を胸に温め続け、病気が回復したらいっしょに沖縄を旅することを思い続けていたと思うと、私はなんともいえない気持ちに襲われ、落合君のこの話に深く感動した。
 私はその病床ノートをいまだに見てはいないので、その記述を自分で確かめたわけではない。いつか機会があればそのノートを見てみたいと思っている。(2003/11/10)

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Last Update:2003/11/10
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