中村勝哉氏とのこと

中村勝哉氏とのこと




 出版社、晶文社の中村勝哉社長が亡くなった。73歳だった。中村さんには思い出がある。文化部記者時代に評論家の故植草甚一さんに「海外読書散歩」という読書コラムを連載してもらっていた時のことである。

 その頃、植草さんは小田急線経堂の駅に近い木造の都営住宅に住んでいた。毎週、経堂の自宅に原稿をもらいに通ったのだが、植草さんが「ワンダーランド」という大判の雑誌を彼の責任編集ということで、晶文社から出すことになった。1970年代半ばのことだと思う。晶文社は青山に「ワンダーランド」編集室を構えて、植草さんもそこに通うことになって、私はこの編集室でコラム原稿をもらうことになり、ここへよく通った。

 「ワンダーランド」はその後、版元を変え、判型も変わって、さらにタイトルも「宝島」と変わったが、最初のときは、津野海太郎さんや無名時代の高平哲郎さんらが編集の現場にいた。彼らと私は直接関係はなかった。

 植草さんは電話嫌いである。電話嫌いの植草さんが、ときどき自分の方から会社に電話してくるのだが、私が送受器を取らないとご機嫌が悪くなるのである。電話が鳴っても、それだけではだれからだれへの電話かはわからなわけで、当然別の人が送受器を取ることはありえる。それなのに私が取らないとご機嫌が悪くなるというのは理不尽な感情なのだが、そんなことは一向にお構いないのである。

 そんな人であるのだが、オイル・ショックでトイレットペーパーや洗剤がスーパーから消えた時などは「藤野君、これを持って行きたまえ」とトイレットペーパーやポリエチレンの袋に入れた洗剤をくれたりするのだ。また、Yシャツ店に連れて行かれて、派手なYシャツをプレゼントされたこともあった。付き合うのはかなりシンドイ人だったが、どこか憎めない可愛げのある人だった。

 それから植草さんは原稿料も銀行振り込みが嫌いだった。現金を手渡ししなければならないのである。あるとき「ワンダーランド」編集室にコラムの原稿を受け取りに行った。そのとき、前週の原稿料を渡すのだが、私はそれを経理部から預かるのを忘れてしまった。そうしたら、植草さんが顔を真っ赤にして怒り出したのである。「そんなことだと原稿を書くのが嫌になってくるんだ」などと言われたのである。私としてはひたすら謝るしかないのだが、なかなか彼の怒りは収まらない。周りには津野さんや高平さんらがいて、私は満座の中でののしられたのである。  しばらくして植草さんの怒りは収まり、私は原稿料を取りに社に戻るために、編集室を後にした。すると、中村社長が後を追いかけてきたのである。そして
「いやあ、私らもときどきあれをやられるんですよ」と慰めてくれたのである。何と優しい人だろうと思った。それから時々、文壇のパーティなどで中村さんと会うと、親しく話すようになった。たしか2、3度は飲んだこともあった。

 晶文社は、そのころ津野海太郎さんのほかに長田弘さん(詩人)がいて、面白い企画が多かった。翻訳ものが主なのだが、中村さん自身は「私個人としては梅崎春生なんかが好きなんです」と言っていた。長谷川四郎作品集や島尾敏雄作品集なども出ていて、私が「島尾さんが好きなんです」と言うと、全5巻だったかの作品集を送っていただいたことがあった。
 文芸担当から外れると、会うこともなくなったが、中村勝哉さんのことは植草さんの思い出とともに今も忘れることはない。(2005/11/15)

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Last Update:2004/04/17
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