中野孝次さんのこと

中野孝次さんのこと




 共同通信社は政治・経済・社会・国際・運動などのニュースのほかに、文化欄の企画記事も全国の地方紙に配信している。私は記者として、この文化欄用のニュースや企画記事の取材や企画に約25年携わってきた。文化欄の記事の中に「文芸時評」がある。毎月文芸雑誌などに発表される小説や文芸評論などについて論じるもので、これは学者や文芸評論家に執筆を依頼していた。1972年に私が文芸担当になったとき、この時評を執筆していたのは、東京都立大学教授で独文学者、文芸評論家の川村二郎さんと文芸評論家の森川達也さんの2人だった。

 時評を2人が執筆するのには理由がある。共同通信は全国の地方紙に記事を配信するのだが、たとえば、河北新報と岩手日報、山形新聞、福島民報などのように、販売エリアが競合することがある。これらの競合紙に同じ企画記事が掲載されたのではお互いに困ることになる。そこで、こういう事情を考慮して、全国の地方紙を甲乙2系列に分け、異なる記事を配信していたのである。これはその後、事実上名目だけになり、同じ記事を配信する方向になっていったのだが、1980年代までは、かなり厳密に2系列に分けて配信していた。

 川村さんは今では文芸評論界の大御所だが、当時は新進の評論家で、前任者から担当を引き継いだ私は横浜市日吉の川村邸に毎月通い、原稿をもらうと目を通して、自分も読んだ作品については、私の意見もぶつけたりして大いに勉強になったものだった。

 また森川達也さんは兵庫県加東郡滝野町の光明寺の住職で、作家で先年死去した三枝和子さんのご主人である。光明寺は「太平記」にも登場する古刹で、詩人の清水昶さんらと新緑の季節にここを訪ね、郷里の姫路に帰っていた、今は直木賞作家の車谷長吉さんを呼び出して、本堂で楽しい酒盛りをしたことがあった。

 その川村さんと森川さんの執筆が終わって、新しい人に依頼することになった。大体、3、4年で新しい人に交代するのだが、このあと、私が依頼したのが、独文学者の高橋英夫、歌人で文芸評論家・作家の上田三四二、独文学者で作家の中野孝次、思想史家で文芸評論家の桶谷秀昭、東大教授の仏文学者で文芸評論家の菅野昭正の各氏らであった。私が文芸担当になるはるか以前には、江藤淳、花田清輝、野間宏、荒正人、久保田正文などといった錚々たる作家・評論家が執筆していた。私は担当になったとき、そういう文化部の輝かしい執筆陣の伝統にふさわしい筆者を起用しようと心を砕いた。その中の1人が中野孝次さんなのだった。

 中野さんは独文学者として知られていたが、評論「実朝考」に次いで発表した「ブリューゲルへの旅」で1976年エッセイストクラブ賞を受賞して高い評価を受けた。その後、時評をお願いし、その間に発表した自伝小説「麦熟るる日」で芥川賞は落ちたが、79年の平林たい子賞を受けた。この年の平林たい子賞は上田三四二さんも小説「うつしみ」で受賞し、桶谷秀昭さんも長編評論「ドストエフスキイ」で受賞している。この年の春、上田さんは文芸時評を降板したばかりで、中野さんと桶谷さんは執筆中だった。私が起用した時評筆者3人がこぞって同じ賞を受賞するなどということは滅多にあることではない。私はうれしくなって、3人を神田の料理屋に招待してお祝いの会を開いた。3人にはたいそう喜んでもらったのだった。もちろん経費は会社で出してもらったが。

 中野さんはそのころ、横浜の磯子台に家を建て、よく自宅に通った。子供のない中野さんは犬を可愛がっていて、毎朝の犬との散歩が楽しそうだった。国学院大学教授を退職したあとは、神奈川県立近代文学館館長となり、桜の季節には文学館の庭での花見に招待されたりした。文学者の反核運動をやったり、ベストセラー「清貧の思想」を発表したころから付き合うことはあまりなくなった。

 中野さんのことでよく思い出すのは、若き日の川村二郎さんとのエピソードである。川村さんは東大独文科で彼の後輩なのだが、川村さんの秀才ぶりはつとに有名で、ある日、彼は豊島区東長崎だったかの川村二郎さんのアパートを訪ねたことがあったそうだ。そうしたら、早婚の川村さんがアパートの部屋で子供のオムツを換えていたというのである。あの秀才が毎日そんなことをしているのかと思うと忘れられないね、と笑いながら話したのだった。

 もうひとつ。小説「麦熟るる日」は、千葉県市川の大工の子だった貧しい主人公が苦学して旧制五高に進み、あるとき仙台に「三太郎の日記」で有名な哲学者阿部次郎を訪ね、本から想像していた人物とは違うのにがっかりする場面がある。これも記憶に強く残っている。私も高校時代に「三太郎の日記」を読んでいたからだ。

 実は私は中野さんを時評筆者に起用するのに最初は乗り気でなかった。どこか上昇志向の強い人のように思えたからだ。自身が貧しい大工の子であることが、逆に上昇志向を強くしていたのだろう。それを乗り越えて上昇志向から脱することができれば、物の見方も自由になり、そういう人に時評を執筆してもらいたいと思っていた。「ブリューゲルへの旅」や「麦熟るる日」になって、自己の出自を公開し、上昇志向の呪縛から脱することができたように思い、私は彼を時評に起用したのである。(2004年7月27日)

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Last Update:2004/09/11
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