小栗康平さんとの20年  その2

小栗康平さんとの20年  その2



「伽耶子のために」−李恢成さんと
 「劇団ひまわり」という映画やテレビドラマの子役の仕出しをしている会社がある。そこの砂岡藤三郎社長はかつて黒澤明や橋本忍、菊島隆三らとともに脚本を書いていたが、その後、「劇団ひまわり」をつくった。この種の会社では最大手といってもよいだろう。俳優養成所やいくつかの舞台のプロデュース活動などを展開していたが、映画への夢を持ち続けていたその砂岡社長が、小栗さんに制作費を提供するから映画をつくってほしいと言ってきた。テーマや内容は小栗さんに任せるともいう。小栗さんにとっては願ってもない話である。

 ある日、小栗さんから電話があって「伽耶子のために」を映画化したいので、李恢成さんを紹介してほしいと言ってきた。小栗さんは岩波ホールの高野悦子さんとも付き合いがあり、完成したら岩波ホールで上映することまで話が進んでいるらしい。
 新宿駅ビルの上の喫茶店プチモンドで二人を会わせる手配をして、当日、私が行くと、そこに「月山」で芥川賞を受賞した森敦さんも来ていた。森さんと李さんは同じ芥川賞作家であるから顔見知りである。森さんの小説「月山」は村野鉄太郎監督によって映画化され、岩波ホールで公開されていた。そういう関係からなのだろうとは想像できたが、私は変な気がした。
 ともかく4人で会い、小栗さんが「伽耶子のために」を映画化させてほしいと言うと、李さんは一も二もなく了解した。
そして、小栗さんは
「こういう場合の映画化権料というのは、いくら出せばよいのかわからないのですが」
 とはにかみながら、私が思っているのよりやや少ないが、まあ、それならいいだろうと思う額を提示した。
 李さんの方は自分の小説が日本人監督の手によって映画になるなどとは考えもしなかったようで、小栗さんが提示した額に不満のあろうはずはなかった。万事、ことは順調にすすんだ。

 さて脚本を書くことになって、小栗さんはアングラ演劇の旗手の1人、太田省吾さんと共同で書くことにした。太田さんの細君は在日朝鮮人女性である。小栗さんが太田さんと組んだのはそのことと関係があるように思えた。それに太田さんの舞台作品に「水の駅」があり、その作者であるということも大きな理由だったと推量される。
 「水の駅」は私も見ていた。とある駅の水飲み場の水道を核にして劇が進行する。通りがかりの人が水を飲んだり、手や足を洗ったりして用を済ませて去っていくということが繰り返される。せりふはまったくなく、エリック・サティのピアノ曲「ジムノペディ」の印象的で静かな旋律が流れるばかりだ。それでいて観客をその静謐な舞台に引きつける手腕は見事なものだった。この舞台によってフランスの作曲家エリック・サティが日本でもよく弾かれるようになったと記憶する。
小栗さんがこれを見たことも彼を選んだ理由の一つだろうと私には思えたのだった。

 二人は伊豆の温泉旅館にこもって脚本を書き始めたのだが、これがなかなか進まない。
 ある日、小栗さんは私の自宅に電話してきて、苦しそうに泣き言のようなことを言い始めた。挙句に私に「藤野さんがやれというから」などと言い出したので、
「それは違うよ。映画化したいと言ったのは君だ。君が苦しんでも、やっぱり君が本を書くよりないだろう」
 と冷たいようだが、私にはそう返事するしかなかった。結局、太田さんは脚本を書くに当たって助けにはならなかったようだ。それでも、やっと書き上がった脚本を私は読んで、これはいいと思った。

 小栗さんの父親は戦争中、朝鮮で警察官をしていたという。植民地の警察官であれば、朝鮮人差別や弾圧などに手を貸すこともあっただろうと彼は思っている。終戦で朝鮮から引き揚げるとき、小栗さんの母親は彼を身ごもっていた。だから小栗さんにとっては「伽耶子のために」の映画化には、ある内的必然性が伴っていると私は推察した。オーディションで主演することになった新人女優の南果歩が偶然、在日朝鮮人だと後でわかったのも目に見えない因縁を感じさせた。

 撮影に入って3分の1ほど撮り終えたところで、小栗さんは撮影済みのフィルムを廃棄し一から撮り直した。観念が空回りして「違うぞ、違うぞ」と思いながら撮っていったのだが、そういうふうに撮影をしているうちに、自分の中である日、「あ、実はこうだったのだ」と思い至ったものがあったのだろう。

 撮影に入るに当たって、小栗さんはスタッフにグルジアの映画「ピロスマニ」を見せた。「ピロスマニ」はグルジアの放浪の画家ニコ・ピロスマニの後半生を描いた作品で、私も好きな映画である。ニコ・ピロスマニはプリミティフ派といわれる非常に素朴な画風の絵を描いたが、映画もその絵のような雰囲気で、それでいてロシア帝政時代のグルジアの風土や文化、民族の運命への人々の思いを見事に描き出していたのである。
 その話を聞いたとき、私は小栗さんが「伽耶子のために」でどういう映画をつくりたいのかがわかったような気がした。太田省吾さんの「水の駅」にもそれに通じるものがあると私には思われた。だが、小栗さんが捨てた3分の1のフィルムを見ていないので、どう違うのかは私にはわからない。

閑話休題

 余談になるが、私にも映画「ピロスマニ」に関連して思い出がある。
 監督はゲオルギウ・シェンゲラーヤという。彼の父親ニコライ・シェンゲラーヤは1920年代から30年代にかけてのソビエト映画史では特筆すべき業績を残していたが、日本では「戦艦ポチョムキン」や「イワン雷帝」のエイゼンシュテインや「母」のプドフキンにしかスポットライトは当てられてこなかった。だが、私はニコライ・シェンゲラーヤ監督の無声映画「エリソー」(1928年)と「26人のコミッサール」(1932年)が初めて日本に紹介されたときに見て、とくに「エリソー」には深い感銘を受けた。コザック兵によって村を追われたグルジアの民がカフカズから中央アジアへ放浪する姿を深い民族愛を持って描いていた。
 ニコライの2人の息子、兄のエリダールと弟のゲオルギウが父の映画が日本に紹介されるのを機に来日し、私は2人にインタビューした。インタビューの初めは通り一遍の受け答えしかしなかった天才肌のゲオルギウは、「エリソー」についての先ほどの私の感想を話すと、態度を一変し、熱心に父について語りだした。
 ソビエト映画界では「『エリソー』以前」「『エリソー』以後」という言葉があって、それほどニコライの「エリソー」はソビエト映画史で大きな意味を持っており、ロシア民族以外の民族共和国では民族性を自覚させる役割をいまも果たしているのだと教えてくれた。そしてインタビューが終わると、故国から持参したグルジアワインとグルジアの民族音楽を収めたLPをプレゼントしてくれたのである。
 その後、グルジアで、学校でロシア語以外にグルジア語を教えるよう求める運動が湧き起こり、首都トビリシでは激しいデモも行われて、ソビエト軍が鎮圧に乗り出したというニュースが入ってきた。おそらくゲオルギウはそのデモに参加しているに違いない。彼の身に危険が及ぶのではないかと私はおおいに心配したのだった。

「伽耶子のために」上映実行委員会

 約1年をかけて映画「伽耶子のために」が完成したのは、1984年夏、私が大阪に転勤した直後だった。上京して東京・新橋のヤクルトホールで試写を見た。在日朝鮮人の若者の恋の破局を描いたこの映画は、当時の日本では素直に受け入れられるのは難しいだろうと思った。そこで、在日朝鮮人の最も多い大阪をはじめとした関西でこの映画が受け入れられるかどうかが、大きな鍵だった。
そのことで私は小栗さんから相談を受けた。
 東京では岩波ホールで上映し、大阪では高麗橋・三越劇場で上映することがすでに決まっていた。私は大阪の在日朝鮮人詩人の金時鐘さんや京都の随筆家・岡部伊都子さん、京大教授の歴史学者上田正昭さんらに相談して協力を求めようと考えていた。そして、在日朝鮮人の若い人や朝鮮人問題に関心のある人たちで上映実行委員会をつくれないかと考えた。

 「伽耶子のために」の東京での試写を見て、大阪に戻った私は、金時鐘さん、天王寺で青丘文化ホールを主宰し記録映画「朝鮮通信使」を作った辛基秀さん、上田正昭さん、岡部伊都子さん、朝鮮文化社の鄭詔文さんらを訪ね、協力を求めた。大阪の高麗橋三越ホールの支配人と相談して関西試写会を行うことにし、終了後、サンドイッチ・パーティーを開いた。
 このパーティーで金時鐘さんがどんな感想を話すかが、私のひそかな期待だった。私は在日朝鮮人の作家や詩人などの文化人と付き合ってきたが、金時鐘さんは最も敬愛する人の1人だった。そして、彼なら「伽耶子のために」をきっと理解してくれるだろうと思ってはいたが、多少の不安がなかったわけではなかった。

 関西試写会の後のパーティーで、司会をしていた私は金時鐘さんにスピーチを求めた。彼はちょっと考えてから
「この映画は在日の世界を日本人が描いたものだが、在日の私が見ていて違和感を感じなかった」
 と言った。
 小栗さんの師匠である浦山桐郎監督の「キューポラのある町」など日本の映画で在日朝鮮人が登場する映画はいくつかあるが、金時鐘さんはいつも違和感を感じてきたと言い、初めて違和感なく見た映画だというのである。私はこれほどの賛辞はないと思った。その場にいた小栗さんも同様だったろう。

 この金時鐘さんの発言が大きな力になって、神戸の陶芸家・金正郁さん、大阪の若い写真家・朴東満さん、金哲夫さん、京都の金文徳さんらが協力してくれることになって「伽耶子のために」関西上映実行委員会が生まれることになった。在日社会には韓国系の大韓民国居留民団と北朝鮮系の朝鮮総連があるが、そういう系列を超えた上映運動が始まった。労組や教育団体も協力してくれた。
 だが、なかには協力してくれない人たちもいた。それは在日朝鮮人にかかわる運動を古くから担ってきた日本人の一部の人たちであった。
 この、ある意味では素人上映運動が、新聞やテレビなど関西のマスコミからも注目されたので、一種のやっかみがあったのかもしれない。また、長年、在日朝鮮人運動に携わってきた人たちの中には、突然、この映画を引っさげて得体の知れないグループが運動のなかに分け入ってきて引っ掻き回しているという迷惑な思いもあったのかもしれない。

 しかし、上映実行委員会には、そういう運動団体の人だけでなく、関西の映画好きの人たち、小栗ファンともいうべき人たちも加わった。京都や神戸でも試写会を開き、小栗さんや上田教授、岡部さん、李恢成さんらの講演会やシンポジウムも行った。京都では京大楽友会館で、神戸ではシアターポシェットで集会を開いた。小栗さんはテレビ出演で引っ張りだこだった。
 実行委員会は金時鐘さんが副校長をしている大阪・谷町の大阪文学学校で、手作りの旗揚げ集会を開いた。広い教室が満員になった。
 金正郁さんたちは労組や学校などを一つずつ丹念に回り、チケット販売の協力を求め、逆に交換条件を求められると、それらにもこまめに対応した。その労力たるや、私はそばで見ていて頭が下がる思いがした。

 「この映画に描かれていることは他人事ではないのです。今まで祖国が分断され、日本社会ではさまざまな差別を受け、自分自身を根無し草のどうしようもない存在だと思ってきた自分たち、在日朝鮮人が映画の主人公になるなどということは、これまで考えられないことだった。この映画が在日の若者たちに自信と生きる勇気を与えてくれたのです。この映画に描かれている人たちは私たち自身なのです」
 というのを聞いたとき、私はこの映画にかかわれたことをうれしく思った。

 400人収容の三越ホールでの上映は40日というロングランで観客動員数は3万人を超えた。これは半年以上のロングランだった岩波ホールの動員数を実質的に上回るものだった。大阪の映画興行界では「伽耶子のために」がこれほどの動員を記録するとは予想もしていなかったようで、素人集団の上映実行委員会がプロの興行師の常識を超える実績を上げたことは語り草になった。

 「伽耶子のために」はベルリン映画祭へ出品された。ドイツは朝鮮人在住者が多い国である。
 韓国を代表する世界的な現代音楽作曲家として有名な尹伊桑氏もドイツ在住で、金大中氏と同じように軍事独裁体制下のKCIAに捕まり、韓国に連行されたことがあった。当時の西ドイツ政府は、日本政府と異なり、韓国政府に抗議して尹氏は釈放されたのだった。
 ベルリンで「伽耶子のために」が上映され、小栗監督の記者会見が行われたが、小栗監督の行く先々で、後ろを在独韓国人たちがぞろぞろと付いて回るほど歓迎を受けたという。
 ベルリンでは賞こそ取らなかったが、フランスを代表する映画評論家で「世界映画史」の著者として有名なジョルジュ・サドゥールの未亡人が創立したジョルジュ・サドゥール賞を受賞した。世界の新人映画監督の1作目か2作目であることが条件であった。(続きへ)


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Last Update:2003/10/01
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