随筆家・岡部伊都子さんのこと
随筆家・岡部伊都子さんのこと
京都の随筆家、岡部伊都子さんとお付き合いをいただいて30年以上になる。洛北に「高麗美術館」があり、1973年に、のちにこの美術館を創立することになる京都の実業家、鄭詔文さん(1989年2月死去)を取材したのがきっかけだった。当時、私は共同通信社文化部の記者をしていた。
鄭詔文さんは兄の鄭貴文さんと朝鮮文化社を設立、季刊誌「日本のなかの朝鮮文化」を発行していた。在日朝鮮人作家の金達寿氏が別の雑誌に同名の紀行文を連載しており、一部から注目されていた。日本の歴史を朝鮮渡来文化とのかかわりで見直す試みが新鮮に感じられて、私も愛読していた。その発想を鄭さんは自分の雑誌で追究しようと金達寿さんらを編集委員に迎えて発行していたのである。それを私は洛北の、後に高麗美術館になる鄭詔文さんのお宅を訪れて取材し、記事で紹介したのであった。
この雑誌には京大教授の林屋辰三郎さん、有光教一さん、上田正昭さん、同志社大教授の考古学者森浩一さん、大阪市立大学の直木孝次郎さん、作家の司馬遼太郎さん、随筆家の岡部さん、哲学者の鶴見俊輔さんら錚々たる関西の文化人が支援していた。1976年にはこの朝鮮文化社と但馬史研究会が共催して、私の郷里の豊岡市民会館でアメノヒボコをめぐるシンポジウムが開かれて、これを私が取材してまた記事にした。
この記事が「日本のなかの朝鮮文化」に転載され、これを機に朝鮮文化社が年に数回行なってきた「朝鮮遺跡めぐり」や各地でのシンポジウムに私も同行し、その同行記をこの雑誌に書くことになった。ボランティアでの編集協力である。これを私は30代のほぼ10年間続けた。雑誌は50号で休刊となるまで続いた。
この雑誌を手伝ったほぼ10年間は私には忘れられない時代である。春には平野神社での花見、暮れには忘年会で京都を訪ね、上記の先生方と楽しい時を過ごすことができた。こうして岡部さんとも親しくしていただいたのである。
1984年から86年まで、大阪文化部に転勤していた私は、岡部さんと上田さん、森さんの3人の座談会を企画して、記事にしたこともあった。また私の友人の映画監督・小栗康平さんの映画「伽耶子のために」の上映に際してもひとかたならぬ協力をいただいた。岡部さんは映画を見ての感想を新聞のためにエッセーとして書いてくださった。静かな、ちょっと触れれば壊れそうなほどの繊細さを感じる作品だというような、いかにも岡部さんらしい素晴らしい文章だった。
京都に在住する在日韓国人の音楽プロモーター金聖元さんが「ハンギョレ・コンサート」を企画したときも、私は岡部さんや上田さんに協力をお願いした。「ハンギョレ」は、朝鮮語で「統一」という意味である。在日朝鮮人の若手指揮者、金洪才さんの指揮、在日韓国人のバイオリニスト丁賛宇さんをソリストに迎え、京都交響楽団とともにブルッフの「バイオリン協奏曲」などを演奏する計画であった。会場は大阪のザ・シンフォニーホール。これには大阪の詩人、金時鐘さんにも協力していただいた。この企画が決まると、私は金聖元さんに大阪で記者会見して発表することを勧めた。記者会見には、上田さん、岡部さんも出席してくださった。
ところが、コンサートの当日、たいへんな事態が起こった。丁賛宇さんはこの時、韓国KBS交響楽団のコンサートマスターをしていた。KBS響の演奏会が近づくと、彼はソウルに長期滞在する。ハンギョレ・コンサートに直前も、彼はソウルにいた。コンサートが近くなって、洪才さん、京響との音合わせなど練習をする予定の日になっても、彼は日本に戻ってこなかった。丁さんはソウルの自宅に軟禁されているのだった。丁さんに国際電話をすると、日本に戻るために金浦空港まで行ったのだが、イミグレーションで捕まり、連れ戻されたのだという。
私はこの電話での会話は盗聴されていると思い、逆にこの会話の一部始終を記事にして新聞社に配信し、丁さんが軟禁されていることを報道した。丁さんの軟禁と身の危険に対して、日本のマスコミが大きく報道することによって、逆に彼の安全が確保されると考えたのである。そして、場合によっては、コンサート当日ぎりぎりに日本に戻ってこられるかもしれないとも期待した。岡部さんや上田さんにも丁さんの解放とコンサートへの参加を韓国政府が認めるようにとの訴えを記者会見で話していただいた。これらのことは日本の各新聞やテレビが大きく報道してくれた。
だが、コンサート当日になっても丁さんは戻ってこられなかった。コンサートの開会ぎりぎりまで待ったが、これ以上待てない時間になって、丁さん抜きのコンサートは始まった。司会の藤本義一さんが「ソリストのいないコンサートは前代未聞である。だが、ソウルと大阪に別れていても、このコンサートの心はつながっていると信じる」と語り、満員の会場に大きな拍手が湧き上がった。ブルッフの協奏曲は、長いカデンツァがあり、ソリストがいなければ演奏はできない。それで、やむなく別の曲に替えて演奏した。
その後、ほとぼりが冷めて韓国政府は丁さんの軟禁を解き、彼は日本に戻ってきた。そして、彼は岡部さんや上田さんを訪ねて支援に感謝する言葉を述べた。金聖元さんと私も丁さんといっしょに訪ねた。
大阪時代のある日、ぶらっと京都に行った。河原町を歩いていると、ばったり岡部さんに会った。
「まあ、藤野さん。お昼ごはん食べやした?」
「いえ、まだ」
と答えると、
「ご一緒にいかがです?」と誘ってくださって、三条木屋町下がるの小さな寿司屋へ案内された。
カウンターだけの、5、6人もすわると満員になるような店だった。岡部さんはこの店を先代のころから贔屓にしているようであった。黒塗りの膳に載せて出された寿司は、手の込んだにぎりで、食べるのがもったいないような見事に美しいものだった。その店の寿司が忘れられず、のちに京都へ転勤したときに探してて行ったが、もう、そこにはなかった。
そんな交流が続いて、86年に東京本社に帰任するときには、岡部さんが先生方に声をかけてくださり、京都の貴船で送別会を開いていただいた。貴船から出雲路橋の近くにある岡部さん宅に移り、2階でまた飲むということもあった。その夜は近くの鄭詔文さん宅に泊めてもらった。
1988年秋に高麗美術館が開館したときは、昭和天皇の不例で、私は東京を離れることができず、お祝いに駆けつけることができなかった。その後、鄭さんは入院し、89年2月に亡くなった。このときも私は葬儀に参列することができなかった。そのことが気になっていた私は1993年に鄭さんが亡くなって5年になるのを機に「鄭詔文さん偲ぶ会」をやりませんかと岡部さんに手紙を出した。これを岡部さんはたいそう喜んでくださって、上田さんに話し、94年2月に「鄭詔文さんをしのぶ会」が京都・祇園の富乃井で開かれた。私は東京から駆けつけることができた。
上田さん、岡部さんはもちろん日本史学の泰斗林屋先生や有光先生、それに鶴見さんも顔を見せてくださった。所用のあった司馬さんからは花を届けていただいた。金達寿さんは生前、ある事件をきっかけに鄭さんと交渉を断っていたが、東京から杖を突いて来られ、いっしょに鄭さんの墓に詣でた。
1995年から98年まで、私は京都に勤務した。たまに出雲路橋近くの岡部さん宅を訪ねることもあったが、外で講演会などの会合で会うこともあった。このころになると、長年患っておられた肝炎のために、出歩くの辛そうであった。
私が京都に着任するとまもなく、小栗康平さんの第4作「眠る男」が完成し、京都での上映会を私は手伝うことになった。主演は役所広司のほかに韓国の俳優、安聖基とインドネシアの女優クリスティン・ハキム。ハキムさんと詩人の金時鐘さん、狂言師の茂山あきらさん、小栗監督らで「映画『眠る男』を語る会」という催しを東山の古刹、法然院で開いた。私は司会をしていたのだが、満員の客席を見ると岡部さんが一聴衆として来てくださっていた。これには驚きもし、感激もした。
岡部さんとは、その後、高麗美術館開館10周年記念事業を、上田さんとともに私も加わっていっしょに携わった。私はかつて鄭さん、上田さんらとともに遺跡めぐりし、朝鮮通信使で知られる牛窓と鞆之浦再訪の1泊遺跡めぐりを企画した。かつてこの地を一緒に訪れた鄭さんを偲びながら瀬戸内の風光明媚なこれらの地を歩いた。岡崎の国際会館では岡部さんといっしょ講演もさせていただいた。
先日、岡部伊都子さんから贈られた著書「朝鮮母像」を読んでいたら、その中に私の名前が出てきた。「白磁の骨壷」という随筆の中でのことである。
この随筆は、神戸在住の在日朝鮮人陶芸家、金正郁さんが岡部さんに白磁の骨壷をプレゼントした話である。正郁さんは私もよく知っていて、1985年に「伽耶子のために」の大阪上映の際に献身的に協力してくれた人である。彼女の作品も私は数点持っているし、大阪から本社に転勤した際は、記念に白磁の陶印を作っていただいた。
岡部さんは正郁さんから贈られた骨壷をたいそう気に入り、来客があると披露していた。ある日、正郁さん、金時鐘さん、上田さんが岡部さん宅に集まったことがあった。京都在勤中だった1996年1月のことで、その中に私もいたのである。そして、岡部さんはこの白磁の骨壷を披露した。上田さんが「これは骨壷にするのは惜しい。これだけの作品はあまりありませんよ」と褒めた。
岡部さんはこれがよほどうれしかったと思う。骨壷の蓋のつまみに染付けで魚の絵が描かれていた。その意味がわからず、あとで岡部さんが正郁さんに訊くと「それはあなたが魚座だからよ」と答え、岡部さんは思わず泣いてしまった。そういえば、私が作ってもらった陶印の背には、やはりさり気なく「藤」の花房が染付けで描かれていた。もちろんこの陶印は今も大切に使っている。
岡部さんはながく肝炎を患っておられ、体調が悪いにもかかわらず今も盛んな執筆活動を続けておられる。(2004/06/23・沖縄慰霊の日に)
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Last Update:2004/10/18
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