島尾敏雄さん、ミホさんのこと
島尾敏雄さん、ミホさんのこと
奄美大島名瀬市に在住の作家・島尾ミホさんから電話をいただいた。「与那国島サトウキビ刈り援農隊」の本をお送りしたお礼の電話である。
ミホさんのご主人の故島尾敏雄さんは私が最も尊敬する作家である。私が沖縄に関心を持ち始めた1969年に島尾敏雄さんの『琉球弧の視点から』(講談社)が出て、私の沖縄への関心はさらに火をつけられた。77年にはこれをさらに敷衍した「ヤポネシア序説」(創樹社)が出た。日本文化を太平洋諸島とのつながりで捉えなおす試みで、これは非常に刺激的な書だった。
島尾さんはその前の1956年から75年まで奄美大島の名瀬市に住んで、鹿児島県立図書館奄美分館長をしていた。75年春に島尾夫妻は鹿児島県指宿市に移られ、6月に指宿市二月田に私は夫妻を訪ねた。田んぼの中の一軒家で、ミホさん手作りの奄美名物鶏飯をご馳走になった。そのあと、私は船で奄美大島に渡り、加計呂間島の呑の浦にある押角まで行った。押角はミホさんの生まれ育った村である。
戦争中、島尾さんはここで特攻隊の隊長として滞在し、ミホさんと出会い、結婚するのである。ミホさんと同級生というよろず屋のご主人に村を案内してもらった。ミホさんの生家は村の山に近い上の方にあり、建物はすでに朽ちていた。目の前は奄美大島と加計呂間島の間の大島海峡で、この世のものとは思えないほどに海が澄んで美しかった。
その前年74年にミホさんは「海辺の生と死」(創樹社)という加計呂間島での少女時代を描いた短編小説集を出版していた。私はそれを読んで感銘を受け、ぜひ島尾夫妻に会いたい、加計呂間島を訪れたいと思って訪ねて行ったのである。
「海辺の生と死」は翌年、武田泰淳氏の強力な推薦で第15回田村俊子賞を受賞した。俊子の墓のある鎌倉・東慶寺での授賞式にも出かけて行った。泰淳さんが「当初は候補に入っていなかったが、この作品のすばらしさから候補に入れてもらった」と語ったのを聞いた記憶がある。私は南島をこんなに美しく描いた小説はないと思った。
1977年に夫妻は神奈川県茅ヶ崎市に転居する。私はしばしば茅ヶ崎のお宅を訪ねるようになった。島尾さんは奄美時代に自転車事故に遭い、それが原因で寒くなると頭通がするので、冬になると那覇に避寒に出かけ、毎冬数ヵ月滞在した。那覇滞在中に世話をしたのが、沖縄タイムスの新川明さんらである。
援農隊が沖縄に渡るころは島尾夫妻も那覇に滞在していたので、夫妻を大道の借家に訪ねたりしたこともあった。島尾夫妻は私がサトウキビ刈り援農隊などという運動を始めたことに驚いていた。同時に、気持ちの上での声援を送ってくれていた。
島尾さんが茅ヶ崎市に移った年の秋、私は翌年の新年の紙面に島尾さんと中上健次の対談を企画した。島尾さんは奄美・沖縄に関心が深い。中上さんは紀州・新宮の生まれである。紀州と南島は黒潮でつながっている。そういうところから「島と半島」というテーマで文化的なものを探りたいというように考えたのだった。この企画については、多くの人が成立を危惧した。この年の谷崎潤一郎賞に二人は候補になり、島尾さんの「日の移ろい」が受賞し、中上さんの「枯木灘」が受賞を逸したからである。対談成立の経緯については、このホームページの「交遊閑語」「中上健次の思い出」に書いたので省略する。
1979年、私は文芸担当記者から映画担当に変わった。そして間もなく小栗康平監督と知り合った。映画「泥の河」でのことである。これについても「交遊閑語」の「小栗幸平さんとの20年」で書いたが、小栗さんが「泥の河」のあとに島尾さんの「死の棘」を映画化したいとの希望をもっていると聞き、小栗さんを伴って茅ヶ崎市の島尾さん宅を訪ねたりした。そして1986年5月になって再び鹿児島に転居していた島尾さんを、私は小栗監督とともに訪ねて、映画化を了承してもらった。この間、6年かかっている。この年の11月10日、島尾さんは死去した。私は仕事で東京を離れられなかったので、小栗さんに鹿児島の葬儀に行ってもらった。小栗さんは自分で脚本を書き、90年4月に映画「死の棘」は完成した。
映画「死の棘」が完成し、東京での試写会を見た島尾さんの友人の作家たちが、この映画に批判的な論評を新聞などで書いた。その話がミホさんに伝わっていたのだろうか、鹿児島での試写会にはミホさんは来ないだろうといううわさが伝わってきた。ところが、その試写会にミホさんはそっとやって来て、後ろの方の席で見てくれたそうだ。そして、見終わってミホさんは小栗さんに
「この映画は日本では評価されないかもしれないが、外国では高く評価されるでしょう」
という意味の感想を洩らされたと、あとで小栗さんから聞いた。「死の棘」はその年のカンヌ映画祭に出品され、ミホさんの評価の通りグランプリを受賞した。
島尾敏雄さんが亡くなると、ミホさんは娘のマヤさんとともに奄美大島に帰った。そのマヤさんも2年前に亡くなった。1昨年、私の友人の安原顕(やはり「交遊閑語」参照)が亡くなったとき、安原氏の追悼記事を書くために、久しぶりに奄美のミホさんと電話で話した。「海辺の生と死」のあと、安原氏はそれに続く小説をミホさんに書くように勧めたことがあったからだった。今、ミホさんは独りで奄美大島に暮らしている。
一度、訪ねたいと思っている。電話口で、ミホさんは「島尾は自分が元気だったら、キビ刈りをしてみたいのだが、と言っていました」と漏らした言葉が耳に残った。 (2004/10/18)
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Last Update:2004/10/18
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