義兄・菅原洸人のこと
義兄・菅原洸人のこと
菅原洸人は義兄である。その作品を公にする画集に義弟が文章を寄せることにはいささかためらいがあるが、画家としての義兄について理解していただく一助になれば、とあえて一文を寄せさせていただいた。
菅原さんは私が高校生のときに姉と結婚した。当時、彼は神戸の山の手、山本通りのキリスト教会の中に住み、教会堂のそばの土蔵をアトリエにして制作を続けていた。菅原さんと姉とはともにクリスチャンであることが縁となっての結婚だった。教会の敷地は故小磯良平画伯の旧居跡で、若き日の小磯画伯もこの土蔵で絵の修行をしたと聞いた。
少年時代から苦労を重ねてきた菅原さんは絵を描くことが唯一の喜びだというような人で、教会堂の一室を新居として始まった姉との生活が人生の新しい拠点となって制作への意欲も増していったように見えた。兵庫県の田舎の高校から東京の大学へ進んだ私は、そういう義兄にひかれるところがあって、休暇のたびに神戸へ立ち寄ったものだった。
その後、文化・学芸関係の新聞記者になった私は、昭和四十八年の早春、菅原さんと北海道を一週間ほど旅行したことがあった。文化欄のルポ企画でオホーツク沿岸を取材することになったのである。その話を菅原さんにすると、彼は「いっしょに行きたい」と言った。昭和の初め、当時、小学校六年生だった菅原さんは、網走の近くの小清水町に住む伯父の養子となるべく北海道へ渡った。だが、数年後に伯父宅から家出をして釧路に出、港湾荷役や船員をしながら絵を独学したと聞いていた。私の取材旅行を機に三十数年ぶりに小清水を訪ねたいということだった。
釧路から小清水に入った。まだ雪の残る季節で寒く、原生花園もオホーツクから吹きつける北風に冬枯れの色が濃かった。濤沸湖には白鳥が群れていた。小清水では旧友が数十年ぶりに訪ねてきたというので、少年時代の菅原さんを知っている人々が集まり、伯父宅は夜更けまでにぎやかに旧交を温める笑い声が響いた。この時の旅行はこの後、網走、斜里町、ウトロ、羅臼と訪ね、そして根室まで足を延ばした。釧路では、少年時代の一時期を過ごした牛乳配達店を探したり、思い出深い港を散策したりした。
私が菅原さんといっしょに旅をしたのはこの時が初めてだったが、その中で印象深かったのは、汽車に乗ってもバスに乗っても、菅原さんは片時もスケッチブックを離さないで描き続けていたことであった。そして、何かの都合でスケッチできない一日があると、非常に不機嫌になるのである。最初、彼の不機嫌が何を理由としているのか、私にはわからなかったが、いっしょに旅を続けているうちに、絵が描けなかったからだとわかってきた。
この時、本当の画家とはそういうものかと私は初めて思い知ったのだった。余談になるが、ある高名な作家にインタビューした時、芸術家というのは職業ではないと教えられたことがあった。小説を発表すればだれでも小説家になれるというわけではない。その人が本当の小説家であるためには、毎日一枚でもよいから原稿を書き続けなければならない。それをするのが本当の小説家なのです、とその作家は言い、妙に感心したことがある。その伝で言えば、菅原さんもやっぱり本当の絵描きなんだなと納得したわけである。
私は文化欄の新聞記者をしてきた関係で、地方の文筆家や文化運動に携わっている人に比較的知り合いが多い。菅原さんの郷里、山形は文学が盛んな土地柄で、「野の詩人」と呼ばれた故真壁仁氏や「山形文学」の故近藤侃一氏(元山形新聞論説委員長)、故佐藤総右氏(詩人)らとも親しくしていただいた。それが機縁となって、近藤さんたちの協力を得て、郷里山形市で初めての菅原さんの個展を成功させることができたのは昭和五十八年だった。これも懐かしい思い出である。
昭和四十五年以来、菅原さんは毎年のようにヨーロッパに渡って制作を続けてきた。向こうでの拠点はやはりパリである。昭和五十五年から五十六年にかけての年末年始に、二週間ほど、私は妻とパリの菅原さんのアパルトマンで過ごしたことがある。モンパルナスに近い十三区のポール・ロワイヤル通りを少し入った辺りだった。横浜出身のYという画家夫妻のアパルトマンで、夫妻が日本に帰国中なのを菅原さんが使わせてもらっていたのである。
独身生活の長かった菅原さんは独り住まいも苦にならないらしく、学生のようなストイックな暮らしをしていた。午前中はアトリエで油彩の仕事をし、午後はスケッチに街へ出かけていく。夕方帰宅して食事を済ませると、またアトリエで夜遅くまで油彩を続ける。食事も近くの店で買ってきたフランスパンにカフェオーレ、それに近くの市場で安く売っているオレンジやリンゴ。それだけあれば彼には十分なようであった。もちろん彼はお酒はやらないから、必要なかった。
私たちはそんな菅原さんに、年越しそばでもと用意して行った。そして、大晦日の夜、彼の知人を招いてパーティーをした。日本から来ている画学生やフランス人の画家たちもやって来て、妻が作った日本式のそばをすすりながら、談論風発の楽しい一夜を過ごしたのだった。
私は美術が専門ではないので、素人の印象批評になるが、こういうふうに私が見てきた菅原さんの人柄なり人間性が彼の作品には如実に表れているように思う。彼の絵には見かけの激しさや才気といったものはない。しかし、タブローの背後から立ちのぼってくる静かな深い思いのようなものがある。それは、言ってみれば、人間への愛着、もっと言えば、根なし草のような庶民の生への共感と言えるかもしれない。
パリの町並みや古い建物を描いても、そこに表現されているのは、やはり庶民の生活の息遣いであり、それへの共感である。庶民の暮らしというのはささやかなものである。ところが、経済発展を遂げた日本人の暮らしは今では、そういう庶民のささやかさとは程遠いところにきている。多くの日本人の意識はどこか狂っているように見える。それは、経済的な面ばかりではなく、日本の現代芸術においても見られる現象であるように思う。
だが、菅原さんの作品を見ていると、人間にとってもっとも大事なものは、庶民のささやかさ、あるいはその中にひそむ人間の真実に共感する精神にこそあると言っているように、私には思われる。
菅原さんがしばしば日本を離れて、パリに出かけるのは、日本人が日々に失いつつあるものがパリにはどっしりとあり、それを独りになって噛みしめる。そして、そうすることによって自分の芸術精神を活性化し深めていくためではないかと思えてくるのである。(1991年6月、「菅原洸人画集」掲載)
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Last Update:2004/07/16
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