高井有一さんと私の文芸記者時代

高井有一さんと私の文芸記者時代 その1



高井有一
  左から古井由吉氏、高井有一氏、私、笠原淳氏、司修氏=2002/07/13 浅草で

最初の出会い

 作家の高井有一さんは、1966(昭和41)年1月に芥川賞を受賞し、その後、多くの長編小説を発表、芸術選奨文部大臣賞、谷崎潤一郎賞、読売文学賞、野間文芸賞、大佛次郎賞など多くの文学賞を受賞している。2000年6月には江藤淳氏の自殺によって空席となった日本文芸家協会理事長に就任、日本芸術院会員でもあるから、いまや文壇の重鎮といってよいだろう。
 私が高井さんに初めて会ったのは1966年6月である。共同通信社に入社して1年あまり後、本社から大阪支社社会部に転勤したときだった。その年の1月に高井さんは短編小説「北の河」で第54回芥川賞を受賞し、新進作家として注目を浴びていた。高井さんはそのとき、大阪支社社会部の特信係という変わった名前の部署の担当記者だった。

 特信というのは、社会部や外信部など一般ニュースとは違って、いわゆる学芸欄や家庭欄、芸能欄、解説欄といった分野の生ニュースではない記事のことである。共同通信社ではこれらを一般通信と区別して、特信(特別通信)と呼んでいた。一般ニュース記事は共同通信社の加盟社すべてに配信されるが、特信記事は学芸欄とか芸能欄とかを個別に特別契約した加盟社に配信される。日経や産経を除いてほとんどの加盟社が契約していた。
 特信はそのころ本社ではいわゆる文化部が中心になって担当していたが、当時の大阪支社には担当が高井さんひとりだった。そのために、部を構成することができないから、社会部に机を一つ置いて取材に走り回っていたのである。記事もいったん本社文化部に送って、本社から加盟地方紙に配信していた。
 記者がひとりだから、ルーティンワークは最低限ですみ、そのほかは好きな取材ができる。高井さんは京都支局の特信担当と二人で、林屋辰三郎さんら京都の有名な学者を起用して「新・国学談」(のちに文春文庫から刊行)などといった連載企画をやっていた。

 私は入社のときから文化関係の部署を希望していたが、すぐには実現せず、本社では入社から半年間、英語もできないのに編集局外信部で外電の翻訳をし、後の半年はラジオ・テレビ局報道部でラジオやテレビ用のニュース記事を担当した。外信部にいた時は、2月にベトナム戦争の北爆が始まった直後で、ライシャワー駐日大使が日本のマスコミを批判したりした。インドネシアではスハルトがスカルノ大統領をクーデターで倒した9・30革命が起きた。アメリカではベトナム戦争の一方で人工衛星が盛んに打ち上げられ、宇宙開発が活発になったころだった。
 報道部では、政治部や社会部の記事をラジオやテレビ用にリライトする仕事が中心だったが、私はそれに飽きたらず、日韓条約批准国会の取材に出かけ、政治部とは異なるラジオ向けのやわらかい政治話題を記事にしたりした。当時、田中角栄自民党幹事長は、日韓国会の衆参両院の日韓特別委員会、本会議すべてで強行採決を行うという挙に出て、初めて暴力的な強行採決の現場を目の当たりにして怒りで興奮したものだった。

 そういう1年が過ぎて、大阪に転勤すると尼崎の警察廻りをすることになった。いわゆる「サツ廻り」で毎日、警察に行って事件や事故を取材して記事にした。朝、西宮の社宅から直接尼崎西警察に行き、市内各署を回る。午後は市役所や地裁の支部などを回り、夕方、大阪・今橋の支社へ上がって自分の書いた記事を点検したりする。支社へ行っても、高井さんはほとんど会社にはおらず、直接話をすることもなかった。
 高井さんが芥川賞を受賞したときのことを、のちに京都大学名誉教授の上田正昭さんに聞いたことがある。高井さんは当時、担当記者として直木賞候補になっていた大阪の作家、新橋遊吉さんを取材していた。高井さんの本名は田口哲郎で、取材相手の京都の学者先生方は「共同の田口君」と呼んでいたから、その田口君が芥川賞候補の高井有一であることを知らなかった。夜になって受賞がテレビで報じられると、顔写真が出た。もちろん経歴も紹介されて、それを見た京都の先生方は「おお、あれは共同の田口君ではないか」と吃驚したという。
 そのころ大阪社会部の記者連中がよく飲みに行く飲み屋がキタの阪急東通りの路地を入ったところにあった。「味楽」という朝鮮焼肉やおでんなどを食べさせる店で、たまに社会部の先輩たちと行くと、そこに高井さんもいることがあった。そんなときに、わきで立原正秋だの藤本義一だの新橋遊吉だのの文壇の話を聞いたことがあるくらいだった。藤本義一は当時、読売テレビの「11PM」の司会をしていて受賞したばかりの高井さんも出演した。そのとき藤本義一はまだ直木賞をとっていなかった。

本社文化部へ

 高井さんはまもなく本社文化部に転勤し、私は1年後に大津支局に転勤した。大津に1年いて、また大阪社会部に移り、大阪万国博の開かれた1970年(昭和45)年6月に念願の本社文化部に移った。
 本社文化部では学芸欄に配属され、論壇を担当することになった。論壇記者は、「世界」や「中央公論」などの政治や思想や社会科学系の雑誌論文を主に論評する「論壇時評」を中心に、その時々の思想的、社会的なテーマを選んで取材して記事を書いたり、学者や評論家に原稿を頼んだりする仕事だった。
 学芸欄には、論壇、文芸、美術、教育、出版の5つの担当があり、他の分野は担当内容のイメージが比較的明確なので、論壇は他の4つの分野に当てはまらないテーマは何でも扱えるという自由な面もあった。各担当は教育と出版を除いて担当記者は2人で、論壇の相方は3年先輩で東大社会学科を出た中村輝子記者(現立正大教授・現高井夫人)だった。

 私が論壇を担当したとき、高井さんは出版を担当していた。週1回の読書欄見開き2面を埋める分量の記事をつくるのだが、話題の新刊の著者インタビュー、書評5本、短い新刊紹介、週間ベストセラーズのほかは、出版・読書関係の連載コラムなどを外注していたから、高井さんの担当する仕事はそれほど忙しくなかったようだった。
 着任してまもなく、高井さんに麻雀に誘われた。そのころは文化部でも麻雀が盛んで、毎日のように夕方から雀荘に入り浸った。私は強くはなかったが、嫌いではなかった。誘われれば断ることはなくいつも付き合った。高井さんの麻雀も、強いというのではなく、麻雀をすること自体を楽しんでいるようなところがあった。高井さんは夜遅くまで麻雀して帰宅した後、深夜に小説を書いているようだった。麻雀が終わると、深夜の新宿で寿司などをよくご馳走になった。

 新宿・番衆町の文壇酒場・英に初めて行ったのは1970年に本社に転勤してきて間もなくだった。高井さんに連れられて行ったのだが、店に入ると奥の3畳の座敷に、学生時代の友人のTY君の姉であるY子さんがいた。Y子さんは神戸大学文学部の助手をしていた。TY君は早稲田大学時代に1年下で、早稲田の穴八幡神社裏手にあるキリスト教団体、早稲田奉仕園の学生寮・友愛学舎で一緒に生活した。大学が休みなると、但馬・豊岡への帰省の途次、阪急芦屋川駅近くのY家に何度か立ち寄ったので、Y子さんを私はよく知っていた。「どうしてこんな所に」と私は思わず声を上げてしまった。
 英の女将の話では、神戸大学文学部の助教授になったNさんがY子さんを見て一目ぼれし、一緒になりたいというのだった。だが、Nさんには別居しているが、糟糠の妻がおり、離婚に同意しないのでどうするか相談をしている最中だという。その席には、もちろんNさんもおり、さらに哲学の橋本峰雄教授、近代文学の猪野健治教授もいたようだった。NさんとY子さんは結局、一緒に暮らすようになったが、籍はどうなったか、聞いたことはない。

 英には当時、中国文学の吉川幸次郎京大教授が上京したおりに立ち寄ったり、安保条約に反対して東京都立大学教授を辞任したやはり中国文学者の竹内好さんや作家の檀一雄さんらがよく顔を見せた。竹内さんや檀さんにはカウンターに隣り合わせて酒をご馳走になったこともあった。奥の3畳間の床の間にはには吉川さんの色紙がかかっていた。客は出版社が多く、河出書房、筑摩書房、新潮社、講談社の文芸編集者らがいつもいて、いつか私は一人で英に通うようになった。当時の英には編集者は多かったが、新聞社の文芸記者はほとんど出入りしていなかった。私は女将から文壇情報を教えてもらって何度か特ダネに近い記事を書くこともあった。
 あるとき、大阪支社で梅棹忠夫、山崎正和、司馬遼太郎さんらと大型企画「変革と情報の時代」を担当していた同期の石山幸基記者(のちにカンボジア内戦取材中に行方不明になった)から「高橋和巳が東京で倒れて入院したらしい」との情報を送ってきた。高井さんは「英に電話で聞いてみな」とアドバイスしてくれた。電話すると、英の女将は最初渋っていたが、やがて東京女子医大に入院していることを教えてくれた。
 私はすぐに女子医大へ出かけた。病室のドアをノックすると、高橋和巳さんの母親が出てきた。見舞いの花束を手渡すと、マスコミ取材の応対に馴れていない母親は「和子さんが今いないので」と言って、手短かに容態を説明してくれたが、病名は言わなかった。

三島由紀夫自決と高橋和巳

 1970年11月25日、共同通信労働組合は冬のボーナス闘争で、正午からの休憩時間を利用して重役室前の廊下に座り込みをする指令を出し、私たちは座り込んでいた。そこへ「三島由紀夫が市谷の自衛隊で自決した」という情報が飛び込んできた。座り込んでいた組合員は騒然となった。私は座り込みをやめて、急いで1階下の文化部に戻った。部長がうろうろしていた。高井さんはまだ出社していなかった。「署名原稿を取れ」とだれかがいうので、私は自分の好きな作家でもある高橋和巳さんの鎌倉の自宅にすぐに電話した。夫人の作家、高橋和子さんが出た。事情を話し「原稿を書いていただくか、話を聞きたい」と頼むと、「ちょっと待ってください」と言って電話口を離れ、しばらくして戻ると「高橋は病気で寝ていますが、三島さんのことなので、自宅に来てくださればお話をすると申しています」。
 私はノートを持って社を飛び出し、地下鉄虎ノ門から新橋へ出て、横須賀線で鎌倉へ向かった。駅からはタクシーで二階堂の高橋さん宅へ着くと、玄関に出てきた和服姿の和子さんの頬に真っ赤な日の丸形の頬紅が塗られていたのに一瞬ぎょっとした。和子さんは
「いまお医者さんが往診中なので15分ぐらい外で待ってくださいませんか」
 といった。となりの護良親王の首塚のそばで時間をつぶし、何を聞こうかなどと考えた。
 高橋邸は木造平屋の古く暗い感じ日本家屋だった。古びた木の門から入るとすぐに玄関で、小さな庭があった。その庭に面して縁側を挟んで暗い和室があり、その部屋に高橋さんは横たわっていた。肋膜炎だということだった。枕もとの畳の上にじかに座り込み、ノートを開くと、質問する間もなく高橋さんは布団に横になったまま、天井を見つめて話しはじめた。いくらかゆっくりした話し方だが、口述とまではいかない。私は必死でその話をノートに書き込んでいった。

「『豊饒の海』を読んでいて、これを書き終わったら三島さんはもう書くことがなくなるのではないか、と和子と話していたんです。あれが終わったら作家としての三島さんはどうなさるのか、心配だった」
 と高橋和巳さんはつぶやいた。高橋さんにそのとき聞いた三島論は、太宰治と三島由紀夫がフィルムのネガとポジの関係だというものだった。およそ40分ぐらいだっただろうか、話を聞き終わると、私は挨拶もそこそこに飛び出していって、待たしていたタクシーで鎌倉駅に戻り、駅前の喫茶店に飛び込んだ。ノートのメモを記事体の談話文に書き直し、喫茶店の電話で本社に読み込んだ。原稿は400字詰めで5枚ほどになった。本社で電話を受けたのは部長だった。これで朝刊に間に合うと思った。
 ところが、本社に戻って加盟社に送信された記事を読んで、私は唖然とした。高橋さんが私に語った話の論旨とはまったく違う文章になっていた。これでは後で高橋さんに掲載紙を渡せない。私は部長に
「これは高橋さんが言ったこととぜんぜん違う。記事を取り消して、正しいのを再配信すべきです。でないと、高橋さんが読んだら絶対文句を言ってきますよ」
 出社していた高井さんが私の後押しをしてくれて、記事を出し直すことになった。私はすぐにノートの原文を原稿用紙に書き写して再配信した。部長は私の鎌倉からの原稿をメモでとって、自分勝手に文章を組み立てていたのだ。社会部では電話で送ってきた原稿をメモでとるということは原則としてしない。地方支局のデスクには、ときどきそういう人がいたが、そのために内容が間違ってしまうこともあり、支局内でよく問題になった。かつて文芸記者として鳴らした文化部長がそんな状態だったのに私は吃驚した。
 このとき高橋さんから聞いてまとめた文章は、のちに河出書房新社から出た「高橋和巳全集」(全8巻)に、三島由紀夫の死の当日、新聞記者に話したのを記者が談話筆記のかたちでまとめたものとして収録されている。

「『豊饒の海』を書き終わったら三島さんはもう書くことがなくなるのではないか。そうしたら三島さんはどうなるのか、心配だ」
 という高橋和巳さんの言葉で、私は思い出したことがあった。三島事件の3ヵ月ほど前に、私は橋川文三さんにインタビューした。そのとき、橋川さんも同じことを言っていたのだ。橋川さんは三島由紀夫と同世代で、名著「日本浪漫派批判序説」の思想史家である。三島由紀夫は日本浪漫派の系譜を継ぐ直系の作家といってよい。橋川さんの言葉はインタビューをほぼ終えた時点での雑談といった感じだったので、そのことに私は記事では触れなかった。これは私の失敗のひとつであった。
 もうひとつ、自決の少し前に出た文芸誌で、三島由紀夫は武田泰淳と対談していた。その対談の中で三島は、作家というのは文章を書いて、それを売って生きている、しかも普通の人よりはるかに高額な収入を得ている、そういうことに疑問を持たざるを得ない、というようなことを三島は告白していた。三島ともあろう人が、そんな子どもじみたことを言うのを読んで、私は「いったい三島由紀夫はどうしたのだろう」という疑問を抱いたのだった。対談は三島があまりにナイーブな発言をし、武田泰淳が子どもをあやすような感じで進行していたのが強く印象に残っている。これらは、三島という大作家の内面に起こっていた秘密が外に表れた一端だった。そのことを敏感に察知できなかった私は、後になって悔やまれたのだった。(続きへ)

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Last Update:2003/10/06
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