高井有一さんと私の文芸記者時代
高井有一さんと私の文芸記者時代 その2
文芸記者に
私が論壇を2年間担当したあとの1972年、学芸欄のMデスクが文化部長に昇進し、高井さんが学芸欄デスクになった。そのとき、文芸を担当していたMさんが大阪支社に転勤し、高井さんから私にその後任の文芸を担当するように言われた。私は文学が学生時代から好きではあったが、大阪、大津などの地方記者時代には小説をほとんど読まなくなっていたので、自信はなかった。だが、論壇担当の2年間に、大江健三郎や高橋和巳、安部公房、小田実などは読み、インタビューもし、小説の書評など文芸関係の記事も書いていたので、高井さんは私を文学好きとみて文芸担当にしたのだった。
文芸を担当してすぐに私は高井デスクから連載企画をやるようにいわれた。当時、「内向の世代」と呼ばれる一群の作家たちが文壇の注目を浴びていた。注目とはいっても、それは称賛よりは疑問を呈されるような注目の浴び方であった。「内向の世代」とは文芸評論家の小田切秀雄さんが名づけたもので、小田切さんは第1次戦後派から大江健三郎ら社会性のある文学を擁護する立場にあった。だから「内向の世代」に対してはどちらかというと、社会性のある文学から内向きで退嬰的な文学に作品の傾向が変わってきているという否定的な意味を与えて、一群の作家をそう呼んだのであった。その「内向の世代」の作家たちには、小川国夫、後藤明生、黒井千次、高井有一、阿部昭、古井由吉、坂上弘、高橋和子、森万紀子といった人たちが入っていた。
日本の戦後文学を大きくグループで分ければ、まず「第1次戦後派」がある。大岡昇平、埴谷雄高、武田泰淳、椎名麟三、藤枝静男、野間宏、本多秋五、荒正人といった人たちである。雑誌「近代文学」が拠点だった。これらの人たちは成人して体験した戦争を出発点として、論理や観念を社会の現実に結び付けて文学を追求した。
これに続くのが「マチネー・ポエティック」。加藤周一、中村真一郎、福永武彦で、この3人による「1946・文学的考察」が出て、注目を集めた。この後に続いたのが「第3の新人」である。吉行淳之介、遠藤周作、安岡章太郎、庄野潤三、小島信夫、近藤啓太郎、島尾敏雄、阿川弘之らである。彼らは昭和20年代末に頭角をあらわした。第1次戦後派の社会性に対して、左翼思想や政治からは距離を置いた文学への姿勢が特徴だった。
「第3の新人」のあとに、大江健三郎、石原慎太郎、開高健、小田実、高橋和巳、柴田翔らが出てきた。彼らにはグループの名は付けられなかったが、「第3の新人」の小市民性よりは「第1次戦後派」の社会性を引き継いでいた。そのころこれらの作家は30代から40代初めで、新鋭といった存在だった。
そして、その後に出てきたのが「内向の世代」である。「内向の世代」の後には中上健次や津島佑子、村上龍、村上春樹、池澤夏樹など戦後生まれの作家が出てきたが、これ以後はこういうグループ分けはされなくなった。私が文芸記者になった1972年の時点では中上健次が「文芸首都」に習作を発表し、雑誌「文芸」に作品を発表し始めたころで、他の若い作家はまだ世に出てはいなかった。
また、これらのグループとは別に、戦争中の「日本浪漫派」の系譜を継ぐ檀一雄らの作家たちもいたし、谷崎潤一郎、佐藤春夫はすでに鬼籍に入っていたが、川端康成、井伏鱒二らは文学的党派とは別に活躍していた。三島由紀夫も浪漫派の系譜に入るが、独自の存在だった。ほかに井上靖、石川達三などもいた。また別に、安部公房、井上光晴、丸谷才一、有吉佐和子、曽野綾子、瀬戸内晴美、野坂昭如、五木寛之ら独自の世界を書いていた作家たちも旺盛に作品を発表していた。
私が文芸担当になったころは、川端康成など大御所といわれる作家がまだ健在で、有名作家が書き下ろし長編小説を発表すると、たちまちベストセラーになるという文壇華やかなりし時代であった。そして「内向の世代」の活躍が注目され始めた時期でもあった。そこで小川国夫、古井由吉、黒井千次、後藤明生、森万紀子の5人に焦点を合わせてインタビューし、5回連載の記事を書いた。
彼らの出現はちょうど日本の高度成長と時期を同じくしていた。図式的な言い方になるが、学生時代に「血のメーデー」や共産党の「6全協」を体験し、その後社会に出たら、高度成長のなかで自分の存在に社会や企業の一つの歯車としての役割しか感じられない現実に直面し、しだいに個人の内面に意識を向けていく内向的な志向があった。
そういう意味で「内向の世代」と小田切秀雄さんが名づけたのだが、ひと口に「内向の世代」といっても、そんな符丁でくくれない広がりもあった。
高井さんは同人誌「犀」に所属していた。「犀」は立原正秋さんをリーダーにして、加賀乙彦、後藤明生、岡松和夫、佐江衆一、白川正芳らがいた。同人が文学で世に出ることをめざした雑誌で、趣味のための同人誌ではなかった。実際、「犀」の同人はほとんど全員が作家あるいは文芸評論家として世に出ている。
私は文芸担当記者になってから、高井さんに連れられ、仲間の作家らと飲み歩いたりするようになった。芥川賞・直木賞選考会の夜、高井さんの仲間の作家が候補になったりしていると、新宿のバーなどで編集者や仲間の作家らと待機していた。私は選考会が行われている築地の料亭新喜楽で結果の発表と選考委員の選考経過の説明を聞いて速報し、社に戻って記事を書く。受賞者は新橋第一ホテルの宴会場ロビーで記者会見をするので、そちらにも出かけて会見を聞く。受賞者の記者会見場はのちに丸の内の東京會舘に変わった。この会見の内容で「時の人」を書き、すべての原稿の処理が終わると、深夜になったが、作家らが待つバーに駆けつけ、選考経過などの詳細な内容を教えたりした。
付き合う作家によっては銀座のバーやクラブ、小料理屋などにも出かけた。バーはエスポワール、葡萄屋、眉、数寄屋橋などが多かった。鉢巻おかだにも行ったことがある。いずれも高そうで、自前で行けるような店ではなかった。自分で行くのはたいてい新宿だった。いまは四谷3丁目に移ったが、番衆町時代の英、はにわ、ごろ八、風紋、アンダンテ、新宿西口の茉莉花、火の子などだった。新宿御苑前のおかだ、新宿2丁目の詩歌句などもよく行った。高井さんと行ったのは英、風紋、はにわ、ごろ八あたりだった。
私が文芸担当になったとき、共同通信の文芸時評を執筆していたのは東京都立大教授で文芸評論家の川村二郎さんと、在野の文芸評論家で作家三枝和子さんの夫君の森川達也さんだった。川村さんは評論集「限界の文学」で亀井勝一郎賞を受賞し、注目の新人評論家として脚光を浴びていた。川村さんは、小川国夫や古井由吉さんを高く評価していた。「内向の世代」の理論的擁護者ともいえる存在だった。森川さんは真言宗の僧侶でありながら中堅の批評家として、実験的な文学に関心を示していた。
毎月20日過ぎに川村さんの日吉のお宅に原稿をもらいに通った。日吉駅から坂道を降りて行き、川村さん宅に近づくと、開け放たれた2階の窓からモーツァルトが聞こえてきた。応接間で原稿をもらうと、ざっと目を通し、読めない文字などを点検する。そして、私自身が読んでいいと思った作品が取り上げられているとうれしくなった。評価が違う場合には、私はこう思ったのですが、とおずおずと意見をいい、川村さんの見解を求めたりした。そういうときの川村さんの考えや感じ方には納得することが多かった。
川村さんと森川さんには4年間も執筆してもらったので、デスクからそろそろ新しい筆者に交代してはどうかといわれた。
前任者から引き継いだ2人の時評のあとを、私は3年間ずつぐらいでドイツ文学者の高橋英夫さん、日本近代思想史的な観点から文芸評論を展開していた桶谷秀昭さん、歌人で作家、文芸評論家の上田三四二さん、作家でドイツ文学者の中野孝次さん、東大教授のフランス文学者菅野昭正さんなどを次々に時評筆者として起用した。またエンターテインメント小説の時評には、国文学者の松田修さんにお願いした。これらの人の起用は、当時としては異色で、文芸雑誌の編集者らから「なぜあの人を起用したのか」と問われることもあった。 このうち3人の筆者が同時に平林たい子文学賞を受賞したことがあった。桶谷秀昭さん、中野孝次さん、上田三四二さんである。私は3人を招いて小料理屋でお祝いの会を開いたこともあった。
共同通信の文芸時評は、加盟している全国の地方紙を2系列に分けてそれぞれに別の記事を配信していた。隣接新聞社で販売エリアが重複している場合に、同じ記事が掲載されないようにするためである。
文芸記者会設立とペンクラブ金芝河騒動
私が文芸記者になった1972年当時、文芸記者会というのは存在しなかった。芥川賞・直木賞の受賞決定時の受賞者会見は在京新聞・通信社の文芸記者が仕切って、代表質問などをしていた。また、毎月の日本文芸家協会と日本ペンクラブの理事会を傍聴取材していた。文芸家協会の理事長は丹羽文雄さん、ペンクラブの会長は芹沢光治良さんだった。
1972年11月に日本ペンクラブ主催の「日本文化研究国際会議」が東京と京都で開かれた。日本ペンクラブとしては国際ペン大会を除いて初めての大がかりな国際会議で、海外からも多くの日本研究者が参加して盛大な、またみのり多い会議となった。これに在京マスコミの文芸記者は熱心な取材を展開した。私も京都国際会議場などでの会議の取材に出かけて記事を書いた。京都の会議で偶然、ドナルド・ウィラーさんに会った。彼は私が大学時代に過ごした早稲田奉仕園の宣教師だった人で、このときは東京女子大で日本研究をしているということだった。
このころは文芸記者とペンクラブの関係は円満で、毎月の理事会を傍聴して、言論の自由のためのペンクラブの活動を報道面から支援した。
1974年、韓国は朴正煕大統領の軍事独裁政権下で、汚職などが頻発していた。反体制運動も盛んで、これを取り締まるためにKCIAが暗躍していた。そんななかで詩人の金芝河氏が「五賊」という体制批判の詩を発表して、反共法違反で逮捕され、獄中にあった。日本でも鶴見俊輔氏や小田実氏らを中心に金芝河氏救出運動が展開された。この運動には野坂昭如、三好徹、小中陽太郎氏らエンターテインメント系の広範囲な作家たちも協力をし始め、ペンクラブでもこの問題を取り上げ、作家の藤島泰輔氏と慶応大教授の仏文学者白井浩司氏が韓国に調査に行くことになった。
帰国した2人は「金芝河氏は売名的で自分を英雄視しているようだ。共産主義の北朝鮮と接している反共国家の韓国政府が逮捕するのはやむを得ない」というような報告をした。2人は韓国ペンクラブの幹部に会って話を聞いてきただけのようだった。当時の韓国は朴正煕大統領の軍事独裁政権下にあったから、韓国ペンクラブは公然と朴政権の意向に反するような発言はできない状態にあった。
この報告にペンクラブ理事会は紛糾し、石川達三会長は傍聴取材していたマスコミを理事会の傍聴席から締め出してしまった。これまでずっと傍聴取材してきたわれわれとしてはこれを認めるわけにはいかなかった。そこで、朝日、毎日、読売、東京、日経、産経、共同、時事の文芸担当記者で協議し、連名で石川達三会長あてに抗議文を出した。この抗議文を作成する際に「文芸記者会」という名称を初めて使った。
日本新聞協会は、官庁や財界、運動、それに芸能関係などの記者会を組織していた。いわゆる記者クラブである。記者クラブは大手マスコミの特権的な性格からのちに厳しい批判にさらされることになるのだが、このころすでに新聞協会は記者会の新設は自粛していた。だから、それまで文芸記者会なるものも存在しなかった。文化・学芸関係では、美術記者会、ラジオ・テレビ記者会、映画記者会、演劇記者会、音楽記者会ぐらいしかなかった。これらは新聞協会公認の記者クラブであった。
だから文芸記者会をあらたに結成しても新聞協会から公認を受けることは難しいと思われた。しかし、各社ばらばらで取材していたのでは、ペンクラブの取材はできなくなる。この際、新聞協会に認められない非公認であっても「文芸記者会」の名前で石川達三会長に抗議するのがよいと話がまとまり、急遽「文芸記者会」を結成したのである。当時の文芸記者の最年長は東京新聞の石田健夫記者で、ほかに産経の金田浩一呂記者、読売の白石省吾記者、朝日は黛敏郎さんの弟黛哲郎記者らがいた。加盟各社の中では私と毎日新聞の桐原良光記者(現日本文芸家協会事務局長)が最年少だった。
このときの抗議行動は大きな成果をもたらした。この抗議文に石川会長はうろたえたのである。ペンクラブはP.E.N.の頭文字を持つ文筆関係者を構成員とし、その関係の民間企業、出版社や新聞社、通信社も賛助会員となっている。PはPOET(詩人)、PRESS(新聞・通信)、PUBLISHER(出版)、EはESSEIST(エッセイスト)、NはNOVELIST(小説)である。そして「国際PEN憲章」は以下のようにうたっている。
P.E.N.の会員たちは、諸国間のよき理解と相互の尊敬のためにつねにその持てる限りの影響力を活用すべきである。人種間、階級間、国家間の憎しみを取り除くことに、そして一つの世界に生きる一つの人類という理想を守ることに、最善の努力を払うことを誓う。
P.E.N.は、各国内およぴすべての国の間で思想の交流を妨げてはならないという原則を支持し、会員たちはみずからの属する国や社会、ならぴに全世界を通じてそれが可能な限り、表現の自由に対するあらゆる形の抑圧に反対することを誓う。P.E.N.は言論報道の自由を宣言し、平時における専制的な検閲に反対する。P.E.N.は、より高度な政治的経済的秩序への世界が必要としている進歩をなしとげるだめには、政府、行政、諸制度に対する自由な批判が不可欠であると信ずる。また自由は自制を伴うものであるが故に、会員たちは政治的個人的な目的のための欺瞞の出版、意図的な虚構、事実の歪曲など言論報道の自由にまつわる悪弊に反対することを誓う。
石川会長の措置はあきらかにこのPEN憲章を逸脱していた。抗議文を出した後の非公開理事会でどんな議論があったのかは知らないが、文芸記者の理事会傍聴取材は再開されたのである。
この事件があって、文芸記者の結束は固くなり、その後、作家らを招いて懇談会を開いたりするようになった。年に1回開く記者会総会には結成時の会員がリタイアしてもこの総会に招かれ、懐旧談を披露したりした。
韓国政府のブラックリスト
金芝河救出運動に関係して、私個人にもある事件が起きた。
韓国の観光公社が古都の扶余や慶州を開放して海外から観光客を招こうという目的で、日本のマスコミを招待してきた。共同通信からは私が行くことになった。ところが、韓国の駐日大使館は私と毎日新聞記者の2人だけにはビザを発給しなかった。私は当時のW部長に「なぜビザを発給しないのか、理由を聞いてほしい」と頼んだ。部長は大使館に電話して聞いてくれた。大使館の返事は次のようなものだった。「藤野さんは作家でしょう。韓国政府としては藤野さんの韓国訪問に協力することはできません」というのである。
私は小説を書いたことはもちろん発表したこともない。それなのに「作家」とみなされるのはなぜだろうかと考えた。そして、思い当たったのは、私が日本アジア・アフリカ作家会議の会員であることだった。私は文芸記者としてアジア・アフリカ作家会議を取材しているうちに、当時議長を務めていた野間宏さんや美術評論家の針生一郎さんから勧められて会員になっていたのだ。
韓国大使館は、このアジア・アフリカ作家会議の会員名簿を入手しているに違いないと思い当たったのである。それ以外に私が「作家」といわれる理由はなかった。
当時、日本アジア・アフリカ作家会議は、獄中の金芝河氏救援運動を展開していた。そして、国際アジア・アフリカ作家会議は、野間宏さんの大作長編「青年の環」にロータス賞を、金芝河氏にロータス賞特別賞の授与を決めていた。獄中にあるために授賞式に出席できなかった金芝河氏の特別賞は日本アジア・アフリカ作家会議が預かり、機会を見て金芝河氏に渡すことになっていた。だから、私が韓国訪問を利用してロータス賞特別賞のメッセンジャーになると韓国大使館は判断したのではないかと思われた。私は新聞記者であるから、自分自身がメッセンジャーを務めようとは考えていなかった。むしろ、そうするべきではないと思っていた。それで、当時の原寿雄編集局長に直訴した。
「これは共同通信の記者がビザを拒否されたのであり、会社として韓国大使館に抗議してほしい。ビザ発給の権限は韓国政府にあるのだから、抗議してもビザは出ないかもしれないが、拒否されたまま黙って引き下がるのだけはやめてほしい」と訴えた。原局長は私の訴えに同感してくれた。
しかし当時、共同通信はソウル支局の記者が退去処分になり、それが復活した直後であった。ここで短期の招待取材で抗議することは、復活したばかりのソウル支局の今後の取材に影響を与えるかもしれないというのが外信担当編集局次長ら上層部の考え方で、結局、会社としては抗議しなかった。毎日の記者については毎日新聞社が抗議して出発直前にビザが出た。私は結局、韓国には行けなかった。どうしても韓国に行きたいわけではなかった。ただ、拒否されっぱなしであることに納得がいかなかった。私は少なくともジャーナリズムに携わる会社として韓国政府に対して毅然とした態度を示してほしいと願っただけだった。
韓国訪問取材団が出発した後、外信担当編集局次長が韓国大使館を訪問した。終わってしまった後で大使館を訪問しても何の意味があるのかと思ったが、帰ってきた局次長に、大使館に行ってこいと言われ、文化担当公使の李元洪氏に会った。彼は新聞記者出身であった。私は「アジア・アフリカ作家会議の会員名簿を持っているのでしょう。そうでないと私が『作家』とみなされる理由はない」と言ったら、李公使は笑って答えなかった。
初めての韓国訪問
それから数年が過ぎて、在日韓国人の演劇団体がソウルで開催される第3世界演劇祭に参加することになり、そのリーダーが友人であったことから、私に一緒に行かないかと誘いがきた。
私は「行きたいけれど、韓国のブラックリストに名前が登録されているからビザは出ないだろう」と言ったら、彼はどういうコネクションがあるのか、なんとかしてみますという。そして、出発の前日にビザが出て、1981年3月に初めて韓国を訪れることができた。私は有給休暇を取ってソウルに10日間滞在した。その間に、韓国放送公社社長主催のレセプションに出席すると、なんと私のビザを拒否した李元洪氏がその社長だった。李氏は私を見ても記憶にないようだったが、ビザ拒否問題で会ったことを告げると思い出し、笑顔で「よく来てくださいました。なんでも自由に書いてください」と言った。
私たちはロッテホテルが宿舎で、ツインルームにやはり同行していた神戸女学院大学の助教授と2人で泊まっていた。ある日、エクスカーションでその助教授が慶州へ1泊旅行に出かけていった。私はその日に友人である三星財閥広報部長の李容鎮さん宅に招待されていたので参加しなかった。ホテルの部屋へ戻ると、テーブルに注文した覚えのない果物や酒が置かれていた。そして、電話がかかってきて年配の女性の声がいきなり「藤野さん、いい子がいますので部屋へ行かせます」と言った。私には韓国の人から直接名前を呼ばれて電話のかかってくるような心当たりはなかった。「ははあ、これだな」と思った。こういう話は以前から聞いてはいた。休暇とはいえ、新聞記者でもあり警戒感が働いた。私は疲れていたので「今夜は1人で眠りたいから結構です」と答えると、今度はホテルのボーイがやって来て「今夜女性を呼ばないのはあなたぐらいですよ」としつこく誘う。だが、「ほんとに疲れているので」ととにかく断った。
当時の韓国は前年の光州事件の傷が深く、とてもその傷が癒えるような状態ではなかった。全斗煥政権は軍事独裁政権であったが、第3世界演劇祭などを開くことで、文化的、平和的なイメージを与えようとしていた。
(続きへ)
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Last Update:2003/10/15
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