高井有一さんと私の文芸記者時代

高井有一さんと私の文芸記者時代 その3




植草甚一さんの思い出

 文芸担当になって1年ぐらい経ったころ、年間企画という1年間毎週掲載の企画を始めた。「作家の群像」という企画記事である。これは文芸時評などで執筆してもらった文芸評論家4人に書いてもらった。川村二郎、秋山駿、上田三四二、高橋英夫さんである。
 この企画は、当時活躍中の作家100人を選んで、その作家のプロフィールと文学的な特徴などを読み物風に書くものであった。週1回掲載で100人だから2年にわたった。これが好評で多くの地方紙の文化欄を飾った。「作家の群像」はおもに純文学といわれる作家が中心だったが、松本清張、水上勉、野坂昭如、五木寛之なども入っていた。
 この企画はその後の数年間の学芸企画のひとつのモデルとなった。「作家の群像」が終わると、これに代わる企画を考えてほしいと、加盟紙から要望が出て、これに応えて「エンターテインメント」というタイトルで、いわゆる中間小説作家、大衆小説作家を取り上げたし、当時隆盛の傾向が出はじめた漫画家を取り上げたシリーズもその後に続いた。

 このころで思い出すのは、ジャズ評論家としても有名だった植草甚一さんである。早川書房から出た「雨降りだからミステリーでも読もう」が隠れたベストセラーになり、植草さんの読書エッセーが非常に面白く、かつまた海外の雑誌やエッセーなどを乱読している人だとわかり、私は彼に会いに行った。
 植草さんは小田急経堂駅のそばの線路ぎわの木造平屋建て都営住宅に住んでいた。ガラスの引き戸の玄関を入ると、土間にも2畳ほどの玄関にも廊下にもうず高く本が積み上げてある。人ひとりがやっと通れるくらいの空間しかない。風呂場をのぞいたら洗い場はもちろん、浴槽の中にまで本が詰まっていた。
 6畳間の書斎の隅に2段ベッドがあり、そこも本やLPレコードの山である。小柄な植草さんはその2段ベッドの1段で眠るらしい。小さなすわり机を挟んで、私は切り出した。共同通信と地方紙との関係を説明し、「海外読書散歩」という週1回連載のコラム企画を考えているのだが、執筆願えないかと申し出たところ、
「原稿料はいくらですか」
 と単刀直入に訊ねられた。
「税込み1万2000円です」。
「まあ、そんなもんでしょうね」

 植草さんはそのころ東京新聞に「中間小説時評」を書いていた。日本橋生まれの植草さんは池波正太郎さんと親しいらしく、また池波さんの作品をよく褒めていた。江戸の風俗習慣に詳しく、植草さんもジャズ評論やアメリカ映画などについて書いていたのに、実際は古い江戸文化も好きだったのだ。
 植草さんの「海外読書散歩」はこうして始まった。「ビレッジ・ボイス」などのアメリカの雑誌や小説、エッセーについて書くと、その編集長や作家が100年の知己のように読めるのである。いわゆる植草調の独特の文章であった。
 取り上げる本も最新の新刊で、日本では紹介されていないものが多かった。私はこのコラムを面白く読み、デスクの高井さんも面白いといってくれたが、地方紙の掲載はすこぶる悪かった。京都新聞が毎週載せてくれたが、あとは沖縄タイムスが時々載せるくらいだった。それで植草さんはだんだん機嫌が悪くなっていった。
「一所懸命書いても載らないんじゃ、やる気が起きないよ」
 などといわれるのだが、こちらとしてもこればかりはどうしようもない。困り果てて、会議などで知り合った加盟紙の文化欄デスクに電話して掲載してくれるよう頼んだが、掲載率は相変わらずだった。
 植草さんは愚痴をこぼしながらも、それでも書き続けてくれた。

 毎週私は経堂のお宅へ原稿を受け取りに行った。あの本が山積みになった部屋で小さな机を挟んで相対し、原稿をもらうのだが、すぐには渡してくれない。まずこの1週間、町で買ったベルトのバックルだの、ガラスの小物だの、時計だのを毎回、机に並べて見せられる。そして、それへの感想を求めるのである。これが私には難物だった。私の感想が的はずれだと、君は何にもわかっていないね、といった表情になる。そんな問答を毎週繰り返していると、こちらもだんだん答えるコツがわかってきて
「おっ、これはチェコグラスですね。こっちは古代のローマングラス、すばらしいですね」
 などと答えられるようになる。そうすると、メガネの奥の表情がうれしそうになる。そうしてご機嫌になると、おもむろに原稿をいただけることになる。原稿にひと通り目を通すと、また感想を述べなければならない。だが、植草さんの選ぶ外国の本には感心することが多かった。キングスレー・エイミスの「酒の話」などはいち早く取り上げ、だいぶ経ってから日本でも翻訳が出た。このときも「この本は面白そうですね」というと、まんざらでもない表情だった。

 そんな調子で、いつの間にか植草さんには気に入られたようだった。しかし、植草さんは個性の強い人で、好き嫌いも激しい人だった。そして、電話が嫌いだった。相手の顔が見えないからである。ときどき植草さんの方から会社に電話がかかってくることがあったが、そんなときに私がいないと、同僚が出ることになる。すると、植草さんは怒り出すのである。同僚記者からよく苦情を聞かされたものだ。
 原稿料も銀行振り込みは嫌だといって、いつもお宅へうかがうときに現金で持って行かなければならない。「海外読書散歩」が始まってしばらくして、植草甚一責任編集「ワンダーランド」という知的で、ちょっとしゃれた大判の雑誌が晶文社から出た。実際の編集は津野海太郎さんがやったのだが、編集部にはのちにテレビの台本作家になった高平哲郎さんなどもいた。青山に「ワンダーランド」の編集部があり、そこで原稿を受け取ることになった。
 ところが私は原稿料を持って行くのを忘れてしまった。すると、植草さんは津野さんや高平さんなど編集スタッフが大勢いる前で怒り出したのである。忘れたのは私の不注意であるから、ひたすら謝るしかない。そして
「こんなことがあると、原稿を書く気がしなくなるんです」
 とまで言われた。すごすごと編集部を後にした私を、後ろから追いかけてきた晶文社の中村勝哉社長が、並んで歩きながら
「ぼくらもよくやられるんですよ」
 と慰めてくれたのが忘れられない。
 そういうことがあるかと思うと、こんなこともあった。第1次オイルショックのときである。トイレットペーパーや洗剤の買い占めでパニックが起きたときである。経堂のお宅へうかがうと、
「藤野さんのところは不足していませんか」
 と言って、洗濯洗剤の箱を出し、ビニール袋に半分移して
「これを持って行きなさい」
 と渡してくれたこともあった。また、経堂の駅前の洋品店に案内され、Yシャツを買ってプレゼントしてもらったこともあった。ただ、そのYシャツは襟は白だが、そのほかは真っ赤な派手なストライプで、私には恥ずかしくて着れるものではなかった。

 新宿の紀伊国屋書店の裏に「DIG」というジャズ喫茶があり、そこに呼び出されたことがある。行ってみると、植草さんはアメリカに行くことになったという。
 アメリカには詳しい人なので、すでに何度も渡米した経験があるのかと思ったら、初めてだという。ニューヨークで本やレコードを買いたいのだが、旅費のほかには金がないので、原稿料を前借させてくれないかという相談だった。出版社なら作家が作品を書けば、それが本になり、直接売り上げに貢献するわけだから、作家が前借することはよくあるが、通信社だとそういうことはないから難しいだろうと思った。部長に相談してみます、といって戻り、M部長に告げると意外にも、30万円ぐらいならいいだろうと言った。
「海外読書散歩」は1年近く連載していたが、当時の状況ではニューヨークから毎週原稿を送ってもらうことはできそうになかったので、いちおう終わることにし、その番外編として「ニューヨーク通信」数本を滞在中のニューヨークから送ってもらうことにした。
 ところが、ニューヨークからは1本も原稿は送られてはこなかった。週刊誌では「植草甚一さんのニューヨークの休日」といった写真記事が派手に掲載されたりしていた。私は彼のホテルに電話したり手紙を書いて催促したが、結局原稿はこなかった。そして帰国後にお宅を何度か訪ねて催促し、やっと書いてもらった。30万円の原稿料に見合う本数ではなかった。

井上靖さんとノーベル賞

 文化部では毎年9月に入ると、翌年の正月用の紙面の企画準備に入る。文化部に移った最初の年に担当した新年企画は、井上靖さんと京大教授の社会人類学者梅棹忠夫さんとの対談だった。梅棹さんは新幹線の切符を送ると京都から上京してきたが、井上さんには私が車で世田谷の自宅へ迎えに行った。
 ベルを鳴らし玄関に入ると、井上さんは上がりかまちに腰を下ろして靴を履いているところだった。そして、夫人に「今日はご馳走を食べられるし、山好きの梅棹さんだから楽しい時間になるだろうね」と私に聞こえるように話した。新米学芸記者の私への心遣いであった。
 井上さんはのちにノーベル文学賞の発表時期が来るたびに新聞記者に追いかけられたが、その都度、自宅に記者を入れて飲物とおつまみの寿司などをふるまった。
 そして、井上さん自身は
「私がノーベル賞の候補になっているという根拠は実は何もないのですよ」
 と言っていた。
 事実、ストックホルム発の外電の前触れ記事や予想記事にも井上さんの名前はなかった。それなのに新聞記者が押しかけたのは理由があった。ストックホルムのノーベル文学賞の選考委員会は各国のペンクラブ会長に推薦者を委嘱していて、日本では日本ペンクラブ会長を務めたドイツ文学者の高橋健二さんが委嘱されていた。その高橋さんが井上さんを推薦したと漏らしたからであった。
 井上さんは毎日新聞の学芸記者から作家に転進した人だったから、新聞記者の気持ちや立場がよくわかり、受賞するとは思っていないのに、記者が来ると外に待たせるのではなく、家に入れてくれたのだった。そういう心遣いをする人だった
 川端康成がノーベル賞を受けてから、次に日本の作家で受賞する可能性があるのは、私は安部公房、大江健三郎ぐらいだろうとみていた。井伏鱒二、遠藤周作や詩人の大岡信の名を挙げる人もいたが、それはないだろうと思った。私が安部さんか大江さんかと思ったのは次のような理由がある。安部さんは当時、三島由紀夫に次いで海外で知られた作家だったし、「砂の女」や「第四間氷期」などが海外でも高く評価されていた。大江さんもフランスなどで高く評価されていたが、そのほかの人は海外ではそれほど知られていなかい、いわゆるドメスティックな作家であった。
 その後、中上健次が登場して、フランスの新聞が彼を大きく特集したことがあった。そこには大江健三郎よりはるかに高い評価をされていた。日本の歴史と風土を基盤にして描かれている世界はさながらギリシャ悲劇を思わせるというような評価の仕方だったと記憶している。私はこれほど中上健次が高く評価されていることに驚いたものだった。
 だが、中上健次は1992年8月12日にがんのために亡くなり、安部公房もその翌年に死去した。そしてさらに1年後の94年、大江健三郎さんがノーベル文学賞を受賞した。大江さんと中上健次には私も深い付き合いがあったが、それは後で書くことになるだろう。(続きへ)

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Last Update:2003/10/27
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