鄭詔文さんの思い出
鄭詔文さんの思い出
京都・洛北の上賀茂神社に近い閑静な住宅街に、朝鮮の文物を展示する
高麗美術館
がある。この美術館の創立者が故鄭詔文さんである。鄭さんの生涯は、私の友人でもある備仲臣道氏の著書「蘇る朝鮮文化−高麗美術館と鄭詔文の人生」(明石書店)に詳しいので、それに譲るが、ここでは私と鄭詔文さんとの交流について書いてみたい。
鄭さんは昭和の初め、5歳のときに植民地朝鮮から日本にやってきて、京都・西陣の機屋に奉公しながら苦学して成長し、戦後は京都市内などでレストランやパチンコ屋などを経営しながら財をなした。
そんな鄭さんは30代のころのある日、祇園の骨董店のウィンドウに飾られている白磁の壺に魅せられて、店に飛び込み購入したという。店の主人が李朝の白磁だと教えてくれた。鄭さんは、自分の祖国朝鮮にもこんなに素晴らしい物を作り出す歴史と美意識があったことに驚き再発見したのである。それから彼は、事業のかたわら朝鮮の工芸品や古書、絵画、陶磁器などの収集を始める。
1960年代末に、鄭さんは在日朝鮮人作家・金達寿氏と季刊誌「日本のなかの朝鮮文化」を発刊した。私は金達寿氏が雑誌に歴史紀行「日本のなかの朝鮮文化」を連載していたのを読んでいたし、それが単行本となって第一巻が講談社から刊行された1970年に金さんにインタビューして、新聞で大きく取り上げたこともあった。私は1970年に大阪支社社会部から東京本社文化部に転勤した直後で、それからしばらくして鄭さんの雑誌の存在を知ったのである。ちょうどその頃、いわゆる商業雑誌ではなく、個人やグループが編集して出しているユニークな雑誌を取り上げる企画を考えていたときで、私は京都の「日本のなかの朝鮮文化」をこの企画に取り上げることにした。
これが鄭詔文さんに会うことになる最初だった。東京から京都の、いまは高麗美術館になっている鄭詔文さん宅を訪れた。堀川通りから西に少し入ったところにある鄭さん宅の門前には、15世紀の朝鮮武官の立派な石像一対が立っていた。門をくぐって石段を上がり玄関に入ると、巨大な古い木製の仮面が壁にかけられていた。朝鮮の仮面舞踊タルチュムの仮面をかたどったものである。
玄関脇の応接間で発行人の詔文さんと、編集人で兄の作家・鄭貴文さんに話を聞いた。在日朝鮮人には、日本社会からの差別の中で、自分たちは根なし草だという意識が根強くあり、この意識をなんとか乗り越えねばならないと2人は語った。朝鮮民族としての誇りを取り戻したいというのである。そして、日本の歴史をさかのぼってみると各地に朝鮮由来の文化が根強く残っている。それを再発見することで、在日朝鮮人は民族の誇りを取り戻し、お互いの文化を知り合うことで、同時に日本人との対等で友好な関係を再構築したいというのである。私は2人の話に感動を覚えた。
雑誌には日本の知識人も支援していた。立命館大学総長の末川博、京大教授の歴史学者有光教一、林屋辰三郎、上田正昭、同志社大学の考古学者森浩一、大阪市立大教授受の直木孝次郎、作家の司馬遼太郎、随筆家の岡部伊都子、哲学者の鶴見俊輔の各氏らである。
インタビューが終わった後、京都に一泊するというと、鄭さん兄弟は私を木屋町の「れんこんや」という店に案内してくれて、さらに話が弾んで楽しい一夜を過ごした。
これが記事になり、掲載された各地の地方紙を送ると、鄭さんはたいそう喜んでくれた。この記事が出たころ、じつはこの雑誌は窮地にあったのだと後で鄭さんから聞いた。彼は当時、朝鮮総連京都府本部の幹部役員であったのだが、彼の個人的な志によるこの雑誌の発行が総連に対する分派活動とみなされて、批判、攻撃を受けていたのである。そんな中で、日本の新聞がこの雑誌のことを大きく取り上げたのは、総連にとっては雑誌をおおっぴらに攻撃すると、日本の世論を敵にまわすことになる。私の書いた記事が鄭さんの活動を背後から支援することになったのである。
その後、私は鄭さんが雑誌のためにつくった「朝鮮文化社」が主催する各地の遺跡めぐりツアーに同行するようになった。この遺跡めぐりは、新聞で参加者を募集し、バスで京都や奈良、大阪の河内、近江、若狭、播磨などの朝鮮関連遺跡をめぐるものから、遠く東は信濃、越中、甲斐、上野、西は因幡、伯耆、備前、備後などに広がった。臨地講師は金達寿さんと上田正昭さん、森浩一さんらが務めた。場所によっては、地元の郷土史家や歴史家とシンポジウムを開いたりもした。私はこの企画に休暇をとって参加し、同行記を「日本のなかの朝鮮文化」に寄稿するようになった。これは私の30代のほぼ10年間続き、楽しく、また大いに勉強になったものだった。
この遺跡めぐりの参加者は在日朝鮮人も多かったが、やはりなんといっても日本人が多かった。それもかなり年配の人たちである。彼らは戦前の教育を受けた人たちで、皇国史観の歴史教育だったから、ここで語られる歴史が新鮮に思え、新しい世界が見えてくるように思えたのだろう。そして、私の同行記にもしだいにファンといえるような人が増えてきた。年配の人たちは、遺跡めぐりに参加していても講師の話をよく聞いていない人もいる。あとで雑誌に載った私の紀行文を読んで、ああ、そうだったのか、と納得することもあったらしい。お礼のファンレターが来るようになり、なかには温泉地の旅館の宿泊招待券を送ってくれる人もいた。
遺跡めぐりに参加するために京都に行くと、鄭さん宅に泊めてもらうこともあった。会社の仕事で京都に出張したときも、京都大学のそばの百万遍交差点にある朝鮮文化社に顔を出した。すると、鄭さんは私に「今夜はうちに泊まっていきなさい」と誘うのである。
毎年12月に朝鮮文化社の忘年会が祇園古門前通りの料理旅館「富乃井」で開かれた。司馬さん夫妻や京都の先生方が勢ぞろいした。これには私も東京から駆けつけた。高名な先生方の肩の凝らない楽しい話が聞けるからである。鍋をつついた後は、韓国クラブに繰り出す。鉦や太鼓をたたいてみんなで朝鮮式に踊るのである。朝鮮式の踊りだけではない。司馬夫人から「藤野君、踊りましょう」といわれて社交ダンスの相手をしたこともある。そして、最後に祇園のお茶屋「つる居」で締める。つる居の女将は田中泰子、市子さんの姉妹で、彼女たちも遺跡めぐりに参加することがあった。これを機に私はときどき「つる居」を訪ねるようになり、座談会や原稿の打ち合わせなどの仕事にも利用させていただくことになった。
春には平野神社で花見をした。平野神社は延暦13年(794)桓武天皇によって創建された式内社で、桓武天皇の生母・高野新笠は朝鮮からの渡来人であった。高野新笠を中心とする大陸文化を導入した人々が平安京の都づくりに優れた技術を発揮したことはよく知られている。この花見の宴で鄭さんは神戸の在日女性陶芸家・金正郁さんを紹介してくれた。彼女には小栗康平監督の映画「伽耶子のために」の大阪上映では献身的に協力してもらい、以後親しくしている。
1976年秋に郷里の兵庫県豊岡市民会館で、朝鮮文化社と但馬史研究会の共催によるシンポジウム「アメノヒボコをめぐって」が開かれた。アメノヒボコは但馬の出石神社の祭神である。『古事記』『日本書紀』『播磨国風土記』などに登場し、「新羅の王子」とされている。但馬にはアメノヒボコをめぐるさまざまな伝承がある。古代、豊岡盆地は水につかっており、水稲耕作に適さなかったのを、日本海に注ぐ円山川の河口である瀬戸の岩山を切り拓いて、河口を広げ水を日本海に注ぐようにしたことから但馬盆地は稲作が盛んになったという。アメノヒボコが渡来部族の長であったのか、あるいは部族の名であったのかは議論のあるところのようだ。ヒボコ伝説は播磨、摂津、近江、若狭などにもある。このアメノヒボコをテーマにしたシンポジウムであった。金達寿、上田正昭、森浩一、直木孝次郎の各氏と、地元からは石田松蔵、櫃本誠一、瀬戸谷皓さんらが参加して熱心な討議が行われた。但馬でこのようなシンポジウムが開かれるのは初めての試みで、市民会館は2000人以上の人であふれ返った。
私もこのシンポジウムを傍聴し、記事にした。これも雑誌「日本のなかの朝鮮文化」に転載されている。
1978年だったと思うが、私にある“事件”が起きた。全斗煥政権時代のことである。韓国政府が慶州、扶余などの歴史遺跡を外国の観光客に公開することになり、日本のマスコミに先行取材してほしいと要請が来た。NHKと大手の新聞通信各社から記者が1人ずつ参加することになり、共同通信社からは私が行くことになった。それを鄭さんに伝えると、彼は今の韓国をよく見てきてほしいと言った。鄭さんは京畿道出身だが、朝鮮籍で韓国の軍事政権には反対の立場だった。彼は将来の祖国統一を信じており、統一がなるまでは韓国にも北朝鮮にも行かないと言っていた。それは彼の信念だった。その鄭さんが私に「韓国に行って、よく見てきてほしい」と言うのである。その言葉の背後には、自分は祖国に行けない、いや、行かないと決めている胸の内がうかがわれて、私は言葉に詰まってしまった。
準備が整って出発が目前に迫ってきたが、韓国大使館は私にビザを発給しない。大使館に問い合わせたら「藤野さんには韓国政府としては協力できない」という返事が返ってきた。これには私は驚いた。なぜだろうと考えたが、わからなかった。そこで当時の文化部長に大使館に当たってもらった。すると、大使館の文化担当公使が部長に対して「藤野さんは作家でしょう」と言った。部長は「作家ではない。共同通信の記者だ」と答えたが、公使は「とにかく藤野さんには査証は発行できない」と繰り返した。
私は当時の原寿雄編集局長に訴えた。「ビザを出すか出さないかは韓国政府の判断だから、出なければ仕方がないが、共同通信の記者がビザを拒否されたわけで、それに対して会社として何らかの抗議をして態度を示してほしい」と。編集局長は一度は「君の言う通りだ」と言ったが、結局抗議はしなかった。当時、ソウル支局長が国外退去処分に遭っており、抗議することはこの国外退去処分の撤回を求めるのに不都合だと判断したのだった。その進言をしたのは、私が文化部に転勤した時の文化部長で、このとき編集局次長になっていた。
私はこの編集局次長と、まだ問題が決着していないときに会社の地下食堂でたまたま顔を合わせた。それで私の抗議要請を彼に伝えた。しばらくして私がビザ問題で編集局次長を追いかけ回しているといううわさが広まった。編集局次長に私が直接、自分の考えを話したのはこのとき以外にない。私が彼の迷惑を顧みないで、そんなことをしているというふうに、いつの間にか私が悪者になっていたのである。世間とはこういうふうに人間を見るものか、と思うと、私は気持ちが萎えてしまった。
他社でもビザを拒否された記者がいた。毎日新聞大阪本社のY記者である。彼も同じ韓国取材に同社から派遣されることになっていた。彼は部落差別問題に詳しい記者であった。同社は大阪の領事館に抗議し、出発直前にビザが出たとのことだった。それを聞くと、共同通信が抗議しないのは納得がいかなかった。
ところで、なぜ韓国大使館の公使が私を「作家でしょう」と言ったのかを考えてみた。思い当たることがあった。それは私が日本アジア・アフリカ作家会議の会員だったことである。作家の野間宏氏が議長を務めるこの会議を私は取材していた。野間さんは国際アジア・アフリカ作家会議の文学賞であるロータス賞を長編小説「青年の環」で受賞し、この会議が日本アラブ連帯会議を開いた際には、東京から大阪、広島まで同行取材したことから、野間さんや事務局長の針生一郎さんに誘われて入会したのである。考えられたのは、韓国大使館が何らかの手段でこの日本アジア・アフリカ作家会議の会員名簿を入手していると思われたのである。それ以外に私が「作家」とされる理由がない。
野間さんがロータス賞を受賞した際、当時、韓国で獄中にあった詩人の金芝河氏もロータス特別賞を受賞したが、賞状や賞牌、賞金は日本アジア・アフリカ作家会議が預かっていた。日本では小田実氏や鶴見俊輔氏らによる「金芝河氏を助ける会」が結成されて、救援運動をしていた。アジア。アフリカ作家会議も救援運動に協力し、ロータス特別賞は何らかの機会に日本から金芝河氏に手渡すことになっていた。韓国大使館はそれを警戒したのではないかと思われた。もしかしたら私が今回の訪韓を機会にそのメッセンジャーとなると考えたのかもしれない。
私の周りでは「韓国のブラックリストに載ったのだから、ある意味でジャーナリストとして名誉であり、勲章ではないか」と変な慰め方をする人もいた。だが、私は内心では「これはジャーナリストして失格だ」と思った。ジャーナリストはいつ何時、どこへ取材に行くことになるかわからない。どこへでも入れるように日ごろから心がけておかなくてはならないと考えていたからである。そう考えると、私は精神的に落ち込んでしまった。
京都の鄭さんにことの経過を電話で話した。すると、彼は「藤野さん、京都に来ませんか」と言った。次の日曜日、私は新幹線で京都駅に降りた。鄭さんは駅前に車で待ってくれていた。車内には上田正昭さんがいた。3人で滋賀県草津市の琵琶湖畔で開かれる「ひぼこ祭り」に行った。上田さんが招かれて講演することになっていた。公民館で上田さんの講演を聞き、京都に戻った。北山通りのレストランで3人で会食し、その夜は鄭さん宅に泊まった。応接間で彼が収集した朝鮮の書画や工芸品、高麗青磁や李朝白磁を眺めていると、しだいに気持ちが和んできた。
いまでは明確には覚えていないが、その夜、鄭さんは自分の人生について話したのだったと思う。在日朝鮮人が事業を始めるに際して、日本の銀行は融資をしてくれない。戦後、闇屋からスタートした。菜種油を買い占めて車で運び売ったことで一儲けした。それを元手に京都で最初のパチンコ屋を始めた。それから食堂やラーメン屋などを次々に始め、広げていった。自分に教育がないからと、在日朝鮮人子弟のための学校をつくろうという動きが出てきて、それに力を注ぐようになった。そんな話が記憶に残っている。
彼の人生は私などとは比べものにならない、すさまじい苦難の連続であった。それを乗り越える彼の努力もまたすさまじいものだった。それを彼は気負いもなく、ときにユーモアを交えて語った。翌朝、奥さんの手作りの朝食を終えると、朝まだ早いのに鄭さんは車で京都駅に送ってくれた。
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Last Update:2004/08/30
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