異才・天才・安原顕

異才・天才・安原顕




 「スーパーエディター」「天才ヤスケン」と臆面もなく自称したスタイルが愛されもしたが、敵も多かった。「舌鋒鋭い評論家」との称讃の一方で「毒舌家」が敬遠されもした。
 早大時代に初期の大江健三郎を愛読していたが、「海」編集者のころ、大江氏のエッセー集を音楽誌で酷評、大江氏を激怒させたのは、毒舌家の面目躍如と言える。1月27日の上野・寛永寺で行われた告別式の弔辞で「海」の同僚だった作家の村松友視氏が、この"事件"に触れ「中央公論社と大江氏の親密な関係から暴挙に等しく、彼とも激論したが、それで私たちは親しくなった」と述懐していた。
 その毒舌も、たいていは目に優しさが宿り、憎めない人柄でもあった。
 扱うジャンルもジャズからクラシック、現代音楽にまで広がる音楽、オーディオ論、文芸から映画、哲学から社会論まで手当たり次第に対象となった。
 編集者としての出発は早大を中退して入った竹内書店の雑誌「パイデイア」。その後「海」「マリ・クレール」、書評誌「リテレール」「メタローグ」など多くの雑誌に携わり、どれも独自の成果を残した。特にファッション誌「マリ・クレール」に吉本隆明や蓮見重彦など硬派の筆者を起用して成功したのは有名だ。吉本ばななの小説「ツグミ」ではばななに「あれは私のではなく安原さんの作品」と言われるほど作家に深入りもした。
 彼が世に出した作家で忘れてならないのは島尾ミホだろう。「小説を書いたのは安原さんの勧め。枚数も締め切りも自由でした。夫の敏雄が『安原顕の寛容』という文章を書いたほど心が温かかった」。
 「ぼくにとっての音楽とは思弁の対象ではなく純粋快楽」といい、読書も編集も彼には「純粋快楽」だった。「自分の腹にしみわたる」何かが感じられれば、理屈などよりはるかに本物だとの信念で、理屈っぽい評論を「エンターテンメント」に変容させた異才だった。(2003/2/21・共同通信配信記事)

(追記)
 安原顕さんと最初に出会ったのは、早稲田大学在学中だった。新宿区戸塚2丁目(現・西早稲田)のキリスト教団体早稲田奉仕園の友愛学舎に私は住んでいたが、ここに郷里の同級生千葉裕さんもいた。千葉さんは仏文科で、安原さんの後輩だった。安原さんはこの千葉さんをよく訪ねてきた。それで知り合い、3人で文学論を交わしたりするようになった。彼は当時の大江健三郎を高く評価していたのが印象に強く残っている。

 彼が「海」編集者時代に、文芸記者をしていた私は、やはり「海」編集部にいた村松友視さんを通じて再会した。その後は、文化人類学者の山口昌男さんのグループに私たちはしばしば顔を出すようになり、いっしょに映画の試写に行ったり、コンサートやアングラ演劇を見に行ったり、新宿西口のスナック火の子を根城に飲んだりした。
 その後、私が文化部を離れ、付き合いが途切れたが、出版本部に移ると、部下の「FMfan」編集長が安原さんに連載を頼み、再び会することになった。

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Last Update:2004/04/17
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