沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊

援農隊30周年・与那国島への旅@ 2005年3月25日  藤野雅之



 3月26日に与那国島で開催される「援農隊30周年記念式典・祝賀会」に出席するために、東京を出発した。北海道からは滝本和彦さんがすでに10日から農家の田植えを手伝うために島に滞在しているほか、高田寿男さんと中原弘義さんは昨日、島へ入った。25日に島の東崎原さんの息子さんの結婚式に出席するのである。ほかに秋田の松江良逸さんも島へ入っているはずである。ソウルからは今日、黒田勝弘さんが入る。

 東京からは元援農隊の渡辺和夫さん、堀士知可子さん、稲垣一雄さん、立松和平さんのほかに友人6人が参加してくれた。友人は高橋紘さん、杉本忠明さん、巽谷一夫さん、上松寛茂さん父子、森真知美さんである。総勢11人でツアーを組んだ。

 午前8時半、早めに羽田空港に着いた。旅行社を通じて格安の団体ツアーを組んでもらったのだが、各区間のチケットは事前にもらえず、搭乗券の引換券だけで、その都度、各空港にある旅行社のカウンターで引き換えてもらわねばならない。そのために私はツアーコンダクターの役目もすることになる。9:15に全員集合。天候は曇り。朝起きてすぐに特製の花粉症の薬を飲んだのだが、これが効かずにマスクをした。9:55発のJAL1911便は定刻に離陸。春休みの観光シーズンとあって満席である。

 12:40過ぎ、那覇空港着。こちらも曇りである。乗り継ぎの石垣島行きJTA611便13:15発まで時間がないので、いったん出て出発カウンターの旅行社デスクまで行くのは不経済だ。そのため搭乗ゲートそばのJTAデスクで受け取らせてほしいと頼んだら、発券してくれた。時間が節約できたので、ゲートそばの立ち食いの店で沖縄そばで昼食。石垣島に着いたのは14:15。今夜は石垣島泊まりである。

唐人墓
  唐人墓

 八重山は初めての5人が空港でレンタカーを借りて川平湾に出かけるという。残りの6人はタクシーで市内のホテルへ。チェックインを済ませると、立松さんは原稿があるとホテルに残ったが、他の5人でやはりレンタカーを借りて川平湾に向かった。町のすぐ西の名蔵湾の近くにある唐人墓に立ち寄った。以前、石垣島の郷土史家・牧野清さんに案内されてきたときは海岸そばの原っぱに墓碑だけが立っていたが、いまは周辺を公園にして整備されている。売店もある。観光客の一団がいた。

 唐人墓には中国福建省出身の中国人128人が祀られている。琉球王朝時代の1852年2月、400人余の苦力が、厦門港から米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途上、弁髪を切られたり、病人を海中に投棄されるなどの暴行に抗議して蜂起し、船長ら7人を殺した。船は石垣島沖で座礁し、380人が島に上陸した。石垣島の人々は小屋を建てて、彼らを住まわせた。

 しかし、中国人が反乱を起こしたロバート・バウン号から逃げのびた米国人船員が近くにいた英国海軍に通報した。これを受けて米国と英国の海軍が来島し、島に砲撃を加え、上陸してきびしい捜索を行った。中国人労働者は山中に逃亡したが、100人以上が銃殺され、自殺者などが相次いだ。島民は彼らに深く同情し、ひそかに食糧を運び、中国人を助けたのだった。そして、琉球王国が事件処理に関する国際交渉に取り組んだ結果、翌1853年9月、琉球が船2隻で生存者172人を福州に送還することができた。

 16世紀以来、「苦力」と呼ばれる中国人労働者は、奴隷として世界各地に送り出されていた。19世紀半ば、ゴールドラッシュで北米大陸横断鉄道の建設工事が進められたが、米国は労働力不足からこの中国人労働者に目をつけたのである。

 この事件で、石垣島民は中国人逃亡者に食糧などを援助し、死者を丁重に葬った。島民は捜索にあたる米軍と英軍にも食糧と水を提供してなだめたとも言われる。埋葬された墓は当初、島内に点在していたが、石垣市がこれらを合祀慰霊することにし、台湾政府、在琉華僑の支援を受けて、1971年に唐人墓を建立した。建立当時、沖縄は米軍政下にあり、そのために、墓を建てた経緯をくわしく記すことはできなかったという。
 石垣島に来航した米国の軍艦サラトガ号は、この2年後に他の軍艦とともに、浦賀沖に来航している。いわゆる黒船来航である。

川平湾
  川平湾で

 唐人墓の後は川平湾に行った。私が初めてここを訪れた1973年には湾周辺の松林のなかに御願所があり、ひなびた集落があるだけの静かなところだった。湾内は青く澄み切った水が白い砂浜とあいまって、この世のものとは思えないほど美しい風景だった。黒真珠の養殖はすでに始まっていたと思うが。それがいまではお土産屋やレストラン、ホテルなどが立ち並び、車が狭い道路をふさいでいる。石垣島随一の観光名所なのである。30数年の歳月を感じさせる変容であった。
 浜で先の5人と会った。グラスボートで海底を眺めてきたという。「すごくきれいだった」と感激してくれたのが幸いだった。

 西海岸を北に走って米原のヤエヤマヤシの群落を見学し、於茂登岳トンネルを経て白保の海岸に立ち寄った。1980年代、ここに空港建設計画が持ち上がったが、住民たちの粘り強い反対運動で計画を取りやめることになったことでよく知られる。白保の海には素晴らしいテーブルサンゴなどがあり、この海を埋め立てて空港を造ることに、世界の環境運動家らも反対運動を支援し、政府も断念せざるを得なくなったのだった。この反対運動には友人の友寄英正さんが大きくかかわっていていた。彼が空港反対運動の仕掛け人だったと言ってよいのではないかと私は思っている。

 ホテルに戻り、午後7時から近くの居酒屋、八重八に集まった。着いたときに八重山毎日新聞の上地義男さんにお願いしておいたのである。上地さんの行きつけの店である。この1月末に石垣島に立ち寄ったときにも、この店で島の友人たちと旧交を温めた。私たち11人のほかに上地さん、友寄さん、仲若直子さん、東田盛正さん、八重山毎日の若い記者上地矢寸志さんが来てくれた。

 東田盛さんは30年前に与那国農協に参事として経済連から派遣されて製糖操業の指揮を取り、援農隊ともかかわりが深い人である。いまは引退して郷里の石垣島で暮らしている。遅れてNHKの内山拓さんら3人も合流した。NHKの3人と東田盛さんは、明日の記念式典に来てくれることになっている。この集まりはさながら記念式の前夜祭といった雰囲気で、八重八の女主人、中島和枝さんが与那国出身とあって、私たちの来訪を喜んでくれて、料理もおいしく、話もはずんで楽しい一夜となった。

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Last Update:2005/03/25
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