沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊
ゲルマニアからオキナワを思う(9) 「援農隊を始めたひと」 岩本順子
子供の頃、母から援農隊の世話をしている叔父の話を聞いて育った。私が沖縄に興味を持ちはじめたのは、その叔父を通じてだった。当時通信社の記者だった叔父こと藤野雅之は、復帰前の一九六九年に初めて沖縄に出かけて以来、沖縄に魅せられ、何か本土との架け橋となるようなことをできないかと考えていたそうだ。
沖縄が本土復帰してまもない一九七四年、同僚だった黒田勝弘さんらと一緒に、与那国島での「さとうきび刈り体験旅行」を企画したのだが、現地側がホームステイ型の受け入れをためらったため、これは実現しなかった。与那国では一九七二年の日中国交回復で、台湾からの季節労働者を失ったが、代わりに復帰特別措置で韓国から労働力を得ていたのだった。しかし、言語や生活習慣の相違、コストの問題からその継続は困難になっていた。叔父たちの活動は待ち望まれていたものだった。
翌一九七五年、与那国町農協からの正式な援農の依頼を受け、叔父たちは「援農舎」の名で東京に事務局を開いた。必要とあらば自腹を切ってのボランティア活動のスタートだった。
一九七六年の第一回援農隊派遣には、八〇人の枠に三〇〇〇人もの応募があったそうだ。しかし、派遣直前に与那国町農協が倒産しかかり、中止の可能性が出てきた。そこで、援農舎は沖縄の新聞社を通じて、援農隊の受け入れを求める声明文を発表することになった。
沖縄県当局は復帰による基地縮小で深刻な失業問題に直面しており、県外からの援農隊受け入れを躊躇したのである。しかし、援農舎側は離島の収穫人員不足は本島の失業問題とは別問題であり、離島では本島からの収穫人員が得にくいこと、援農により本土と沖縄の人的交流が図れることなどを訴えたという。
さまざまな難関を乗り越え、石垣島、小浜島、与那国島の三島に分散して実現した第一回援農隊の活動は「七六与那国島援農報告記・南南西に針路をとれ!」という体験者による報告書にまとめられた。また、一九七九年の第五回目からは、援農舎の願いだった、ホームステイ型の援農活動が実現するようになった。
援農隊の発足から十一年目、与那国町農協側が自力で援農隊を集めるノウハウを身につけたという判断から援農舎は一旦解散したのだが、翌一九八七年に農協側の強い要望でその活動は復活する。現在では与那国町農協が直接援農隊を募集し、札幌で鮮魚仲買業を営む高田寿男さんが事務局となり、東京の藤野と共同でボランティア活動を続けるという形に落ち着き、援農舎の名称は降ろされている。
与那国島以外でも、援農を通じて本土との人的交流はあるが、三〇年も続いている息の長い援農プロジェクトはこの与那国島援農隊だけだという。
先頃、叔父は三〇年にわたる援農の活動を一冊の本にまとめた。(「与那国島サトウキビ刈り援農隊 私的回想の三〇年」ニライ社) 叔父の視線は、これまでに読んだ、本土の作家やジャーナリストたちが書いた、いかなる「沖縄本」とも異なる誠実さにあふれていた。
コラム最終回にあたって、叔父のことを書いたのは、彼こそが私を最初に沖縄に連れて行ってくれた人物だからだ。一九九〇年の夏、彼と沖縄に行かなければ、私は生涯沖縄と出会うことなく過ごしていただろう。以来沖縄は、私にとって、世界を知るための「大学」であり続けている。(シマ-コラムマガジン「Wander」vol.37 2005/2/9、ドイツ・ハンブルグ在住)
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Last Update:2005/3/15
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