沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊

沖縄・与那国島紀行 2004年1月   その1    藤野雅之



2004年1月13日(火)

 朝自宅を出るときは雨だったが、羽田空港に9時30分に着くと、雨は上がり、晴れ間も見える。空港のロビーから与那国島の民宿さきはら荘に電話を入れた。「おばさんはいますか」と問うと「去年暮れに亡くなった」という。一瞬絶句した。去年1月、14年ぶりに与那国島サトウキビ刈り援農隊の諸君とともに与那国を訪れた際、空港で姿を見かけて声をかけたら、
「まあ、藤野さん、よく私を覚えてくれていたね」
とたいそう喜んでくれたのだった。その時は農協が用意してくれた他の民宿に泊まったので、今年はぜひさきはら荘に泊まろうと電話したのだ。

 北海道の千歳空港を9時に出発した援農隊24人も到着して那覇行きに乗ってくる。11時05分発那覇便は定刻に離陸したが、那覇着は遅れて14時10分着。乗り継ぎの石垣行きは14時20分発。隣のゲートなので近いが、食事する時間の余裕はない。那覇は曇り、17度。石垣着15時30分。
 石垣空港には事前に電話で知らせておいた仲若直子さんが八重山毎日新聞の若い記者とともに迎えに来てくれていた。タイムスや新報の記者や琉球放送の通信員をしている旧友の友寄英正さんは他の取材が入っていて来ていない。空港ロビーで援農隊全員の写真を撮り、取材を受けた。援農隊はそのまま16時30分発の飛行機で与那国島へ入った。

 私は仲若さんはじめ、八重山毎日新聞の上地義男編集局長や友寄さんなど、援農隊の活動を支援してくれている旧友たちに久しぶりに会い、お礼をいうために石垣島に一泊した。仲若さんが登野城のホテルを予約してくれて、彼女の車で送ってもらう。途中、仲若家の空き地で彼女が炭焼きをしている窯を覗く。彼女は美崎町にビルを持ってホテルと焼肉屋を経営していたが、去年暮れにビルを売却した。焼肉屋だけはそのまま続けて営業し、店で使っている竹箸の廃棄物を炭に焼いて、飲み物のマドラーとして使おうというのだ。手製の炭焼き釜は燃え続けていた。

 ホテルは石垣港の近くで、観光船などの船だまりが眺められる。近くを散歩する。1時間後に仲若さんは車で迎えに来た。石垣市内で花屋を開いている彼女の姉の店に立ち寄り、市内の市場などを歩き、彼女が開いている焼肉店「すみろまん」へ。すでに友寄英正さんが来ていた。友寄さんは1976年の第1回援農隊の時から支援してくれた人で、石垣在住のジャーナリスト。若いときは東京にいて沖縄青年同盟の活動家でもあった。沖縄国会のときに傍聴席でクラッカーを鳴らしたりした運動の仕掛け人でもあったらしい。
 その後、石垣島に帰り、八重山ナショナリズムとでもいうべき立場から地域活動を続けている。NHKや琉球放送の通信員をし、石垣ケーブルテレビの編集部長などもした。彼の薫陶を受けた記者も地元には多い。石垣新空港建設問題では候補地の白保の海を埋め立てる案に、「白保のサンゴは世界一」と反対運動を組織したオルガナイザーでもある。私は彼のことを、その昔、首里王府の圧制に抗して戦った八重山の英雄オヤケ・アカハチになぞらえて「現代のオヤケ・アカハチ」と呼んでいる。その彼も65歳。糖尿病で酒も飲めなくなったという。ウーロン茶で付き合ってくれた。

 しばらくして、八重山毎日新聞の上義男地さんが、八重山観光フェリーの池間義則社長と一緒にやってきた。池間さんは以前に私に会ったことがあるというが思い出せない。彼も友寄さんの弟子を自認する上地さんと同様、友寄さんを敬愛しているようだ。石垣の市会議員もやった人である。
 援農隊が今年で29年、来年は30年なると聞くと、みんなが来年はなにか記念のイベントをしようといってくれた。彼らは与那国町の尾辻吉兼町長を応援しており、町長にも働きかけるとも言った。

 石垣島を中心とする八重山群島は近年、全国でも珍しく人口がわずかながら増えているそうだ。八重山全体で5万人近くになるという。だが、与那国島は私が初めて訪れた1973年には2200人余だったが、今は1800人弱。じりじりと過疎化が進んでいる。竹富島や西表島は数百人程度とほんのわずかながら増えている。これらの島は中心都市の石垣市に近く、離島固有の自然がまだ残っていて、本土から数年間にしろ移り住む人もいる。与那国島にも本土から移り住んでいる人もいるが、人口が増えるところまで行かない。
 八重山群島も本土と同様、市町村合併が問題になっている。石垣市、竹富町、与那国町の1市2町合併協議会ができていて、この日は新市名を協議していた。石垣市、八重山市、新石垣市の3案に絞られたようだ。石垣市民は石垣市を望んでいるようだが、竹富町民などは八重山市を望んでいるらしい。人口的には石垣市が圧倒的なので、石垣市になりそうだ。私は個人的には八重山市の方がよいと思ったが、どうなるか。

 こちらへ来て気づいたのだが、石垣と竹富は距離的にも近いから合併が可能だろうが、与那国島となると、ちょっと事情が違ってくる。与那国島から石垣島までは127キロもあり、海を隔てて離れている。与那国島から台湾までは111キロで、こちらの方が近いのだ。与那国の東崎(あがりさき)からは西表島は見えるが、石垣島は見えない。台湾は年に数回見えるのである。まさに国境の島である。
 与那国島民の合併問題についての気持ちは複雑だ。与那国島民は石垣島へ行くのに「八重山(やいま)に行く」という。那覇に行くのも「沖縄に行く」という。ということは心の片隅に「自分たちは沖縄でもなく、八重山でもない」という思いがひそんでいると思われる。戦後、なんどか島では、日本ではなく、台湾に合併したいという声さえ上がった。

 合併してもしなくても、与那国島の過疎化は進む。合併すればそれはさらに加速するだろうとほとんどの人には分かっているのである。国境の島に人が暮らしていてくれていることが、日本という国家にとっては大事なことだろうと私は思う。尖閣列島にはかつては日本の鰹節工場があり、沖縄の人が暮らしていたが、無人島になって、台湾や中国の漁船や軍艦がやってくるようになり、大陸棚の資源問題も絡んで領土問題が起きている。隠岐ノ島の先の竹島でも同じ問題が起きている。平成の大合併は、本土の陸続きの市町村を前提にしているが、こういう国境の島の人たちへの配慮がまったくない。要するに日本政府には国境政策がないのである。これはあとで与那国島の人からも同じことを聞いた。

2004年1月14日(水)

 石垣港に近いので朝、辺りを散歩した。竹富島や西表島へ行く観光船の乗り場は団体観光客でごった返していた。船が出てしまうと、港は閑散として、先ほどの賑わいが嘘のようだ。ホテルに戻ってタクシーで空港へ行き、売店で八重山毎日新聞を2部買った。昨日の援農隊到着の記事が出ていたからである。
 10時25分発の飛行機で与那国島へ。与那国空港にはさきはら荘のアルバイトの女性が車で迎えに来てくれた。農協の製糖工場の人が個人で製糖工場に働きに来た若者を出迎えに来ていた。宿に着くと、さきはらのおばさん絹子さんの遺影に手土産を供え、線香をあげさせてもらった。
 娘さんの話では、暮れの18日、生活改善グループの忘年会に元気に出かけていった。夜11時ごろ帰ってきて、玄関の近くまで来たところでバタッと倒れた。物音に家人が出てみると、絹子さんが倒れており、すでに事切れていたというのだ。その日は与那国島にしては珍しくすごく寒い日で、脳梗塞だったらしい。頭が痛いとは最近時々訴えていたそうだ。あとでわかったことだが、亡くなる前に普段は出かけない島内のあちこちに出かけてあいさつしたり、親戚の孫に早いお年玉を与えたりしていたという。死を予感したような行動があったそうだ。
 30年近く前の初期の援農隊はさきはら荘にもお世話になった。当時は島を訪れる観光客も少なく、食事が本土に人の口に合わなかった。生活改善運動に熱心だった絹子さんは、石垣島の民宿などに行って本土の人の口に合う料理を学び、島の民宿を集めて料理の講習会を開いて教えたりした。援農隊の女性たちからも慕われ、キビ刈りが終わると、さきはら荘で民宿の手伝いをする人もいた。享年74歳だった。

 農協を訪ねた。13年前に札幌の説明会に来たことのある職員の古見さんがいた。城田英光所長が現れ、初対面の挨拶のあと、彼の車で製糖工場へ行った。城田所長は昨年8月、本島の南部営農センターから与那国に転勤してきた。単身赴任という。人柄のよさそうな感じだ。新里工場長らに挨拶。工場では援農隊の工場要員の若者たちが、明日の操業開始を前に、工場内を掃除したり、道具を洗ったりして準備に忙しかった。
 援農隊が今年は24人という少ない数になったのは、援農隊とは別に個人で来ていた畑作業の人が本土で人を集めて農家のキビ刈りを請け負うグループを組織することにしたからだ。1班4人で4班組み、1日9トンがノルマだという。宿舎は島の南部の比川集落にある離島総合センターを提供してもらって、賄いのおばさんに3食作ってもらう。食費は1日1500円で、500円を農協が補助する。寝具や食器は農協で購入した。日当は1日9トンで5000円。かつては与那国のキビは生育が悪く、1日二人で1トンだったが、その後、キビの品種も改善され、ハーベスタの導入で斧での倒しも減り、葉落としもしない。ダンプへの積み込みもユニックを使うから、かつてに比べると、畑作業もかなり楽になった。4人で1日9トンは無理なノルマではないのだろうが、目算通りに行くかどうか。

 請負方式は、農家のコストと住み込み援農隊員の世話の負担を軽減するためには有効だろうが、問題はこれを継続できるかどうかで、そこには難しい問題もありそうだ。今年の請け負いは、昨年まで島外から来て農家の畑を手伝っていた経験者が、自分で島外の友人に声をかけて組織したものだ。経験者は2人だそうだが、初めての人だけではノルマを達成できるかどうか。それにこれが1年だけで終わってしまう恐れもある。請負リーダーが毎年継続して請け負ってくれるかどうかである。その方策を考えておく必要があるだろうと城田所長に告げた。
 今年はまだ請負チームに任せてしまうには不安をもつ農家もあるようだ。そんな農家はわれわれ援農隊の住み込みを受け入れている。個人的なつながりもできており、仕事の内容も能力もわかっている人を入れた方が安心だという思いもあるようだ。
 請負方式の場合、彼らの島での生活態度もきちんとしてもらわねばならない。島のしきたりや決まりを守って、放恣に走らないようにしてもらわねばならない。そういうことを請負チームが理解するかどうかである。島の農家と良好な関係を保ち、請け負いを長続きさせるという目的意識が大事である。これが成功するかどうかはまだ確信が持てないようで、今年の結果にかかっている。

 午後、所長が貸してくれた車で比川へ行った。離島センターには人影がなかった。比川の浜も人影はなく、リーフの中の海面は雲の切れ間から太陽の光を受けて、きれいなエメラルド色に輝いていた。ハイビスカスが赤い花弁を開いている。

 南牧場から西崎の展望台へ行った。雲の切れ間からの陽光がすじになって海原に落ちていた。東京から来た旅行者の男性が一人歩いて上ってきてた。町役場のコンピュータシステムのセッティングのために出張してきて、これから帰るのだが、飛行機の出発までの時間を利用して日本最西端の西崎を見ようとバスで来たという。それではと車に乗せてあげて空港まで送った。

 その足で製糖工場に行くと、キビを積んだダンプカーが入ってきた。原料の初荷である。キビを積んだまま重量メーターに載り、重さを量り、品質測定のためのキビを数本抜き取ったあと、圧搾機に入れるヤードの前の広場に荷を下ろす。空車で再びメーターに車を載せ、風袋を図る。それで原料の搬入量がわかるのである。伝票にはどの地区のだれの畑かが書いてある。抜き取ったキビを細かく切り、圧搾して砂糖分の汁を絞り、分析器にかけて糖度を測定する。初荷のブリックス度は18.3度だった。まずまずである。大体18度以上あればまずまず。糖度で13−14度だ。

 原料のキビ搬入の責任者である農務担当の西新田さんが畑を見に行こうと誘ってくれた。彼は第3回援農隊で北海道から参加した大田幸子さんと結婚している。援農隊で来た女性は3人が島の男性と結婚したが、ずっと続いているのは彼らだけである。上の息子さんが今年成人したそうだ。
 車を運転しながら西新田さんが話してくれた。三男が石垣島の八重山農林高校に進学したが、父親に牛を送ってくれと言ってきた。子供のころから牛の世話をしてきたが、島にいるときは牛の世話を嫌がっていたのに、島を離れて一人暮らしをすると寂しくなって、牛がいればその世話をできるので気が紛れるというのだそうだ。闘牛用の仔牛を送ったら、喜んで世話をし、闘牛大会に出すと張り切っているという。

 彼の牛小屋に行ったら、おとなの黒牛と赤牛がいて、去年の9月に生まれた仔牛が一頭いた。黒牛は一昨年の島内の闘牛大会で横綱になったが、去年は敗れたのだという。近くの草むらには天然記念物の与那国馬を一頭つないでいた。「育ててくれるなら与那国馬を一頭あげてもいいよ」というが、東京のマンション住まいでは飼うことはできない。
 畑に着くと、ちょうど刈り取りが終わったところで、畑の持ち主の親父さんや手伝いの若者が小型トラックに積んだ泡盛やお茶を飲んで一休みしているところだった。親父さんがインスタントコーヒーに泡盛を入れて差し出した。ありがたくいただいたが、泡盛のコーヒー割りは初めてだ。隣りの畑に大型トラックが来て、刈り取ったキビの山をユニックですくい上げ、トラックに積み込んでいた。農道のわきでやはり闘牛用の牛が草を食んでいた。この牛は今年の1月11日の闘牛大会で優勝したばかりの新横綱だという。体重900キロはある偉丈夫だ。

 夕刻、祖納の農協に戻ると、経済課長の鳩間正八さんが残っていた。1昨日から石垣島で行われていた仔牛の初セリから帰ってきたところだという。援農隊の初期のころ、住み込みを受け入れてくれた鳩間和美さんの息子である。去年も一夜いっしょに酒を飲んだ旧知である。彼は缶ビールを買ってきて、事務所で飲もうという。8時から農協が私の歓迎会をしてくれることになっており、それまで飲もうということになった。戻ってきた城田所長が加わり、さらに町役場の崎原用能助役もやってきた。乾燥ココナツの実とコリアンダーのサラダを女子職員が出してくれて、小さな宴会になった。信連の支所長代理の中嶋さん、家畜衛生場の柿本さんも加わる。

 8時が過ぎて、焼肉コモという店に移った。崎原助役、城田所長、新里工場長、尾辻総務課長、鳩間経済課長、西新田農務担当が集まった。援農隊が来年は30年なるという話になり、崎原助役が記念事業をやろうと言い出した。過去の隊員に与那国に来てもらって、畑の一部を昔のままに残して、そこで昔風のキビ刈りをやったらどうかという。それも面白いと思った。
 焼肉は島の男性と結婚した在日韓国人女性がやっており、たれは韓国風である。なかなか美味い。途中で、工場からボイラー用の水が出ないという報告があって心配した。毎年、製糖開始時には工場にトラブルがあり、去年は水道管が破裂して水が送れず、緊急に徹夜で修理したことがあった。今回はそうでなく、田原川から取水しているが、雨が少なくて水量がもともと不足していた。その水を水田に給水しているので、工場へ回らないのだった。助役の助言で水田給水を止めて、工場へ回すことで解決した。

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Last Update:2004/02/01
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