沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊

援農舎代表の30年の回顧 三木健(琉球新報社副社長・八重山近代史研究家)



 与那国島を中心にサトウキビ刈りを支援するため、本土から「援農隊」が送り込まれたのは1976年1月のことである。その1年前の75年、援農隊を派遣するため援農舎が発足した。本書はその援農舎の代表で中心メンバーであった藤野雅之氏が、30年を回顧してまとめた活動の総括である。副題の「私的回想の30年」というのはその意味だが、「私的」とはいえ援農舎に終始一貫してかかわってきただけに、「私的」な領域を超えた社会性のある記録である。

 そもそもこのキビ刈り援農の発想は、藤野氏が1971年に参加した富山県での「人と土の大学」で、その後「草刈り十字軍」が作られ、山林の下草を刈る労働を、夏休みの大学生に呼びかけて行ったことにヒントを得ているという。職場(共同通信社)の同僚であった黒田勝弘氏とともに、二人とも訪れたことのある与那国島で実践してみようと「与那国島サトウキビ刈り体験旅行」を企画、与那国の仲本町長に持ちかけたのが発端である。企画は時の仲里与那国農協長の共鳴を得て順調に行くかにみえた。

 ところが、農協の不正融資事件がおこり、一時計画は宙に浮いた。すでに募集にかかっていた援農舎は窮地に追いやられたが、そのとき援農舎が打ち出した「アピール」にはこうある。

「私たちは今沖縄の人々が抱えているさまざまな問題を少しでも共有したいと思います。私たちは単なるサトウキビ刈り労働力としてだけ与那国島に出かけて行くのではありません。単なる観光旅行ではうかがい知ることのできない沖縄の現実を、生活と労働を共にすることで共有するということです。」

 この一文の中に援農舎の「初心」が表現されている。援農に参加する人たちは1日3500円の日当をもらう経済活動だが、送り出す側はボランティアである。宮古島に送ったこともあるが、再び与那国との話が軌道に乗り、さまざまな困難を乗り越えながら、毎年のキビ刈り時には4、50名近くの援農隊を送り続けた(30年間で述べ2000人)。

 途中、援農舎の活動に対し、職業安定報違反ではないかとか、世話人に対する批判が出たりしたが、継続していくうちに地元の理解も深まり、参加した人の中にも自ら進んで援農舎に協力する人たちも出てきた。問題を起きるとたえず「初心」に立ち返って誠実に対応してきた藤野氏らの活動が理解されてきたからである。

 本書は、こうした援農活動の記録であるが、同時に、過疎化に悩む離島農業の現実が合わせ鏡のように映し出されている。そもそも与那国農協が援農対を頼りにするようになったのも、、台湾から導入していた労働者が日中国交回復によって台湾との関係が断絶してできなくなったという背景がある。

「あとがき」で氏は「この30年間わたしは援農隊運動を通して与那国島の人びとと付き合ってきたが、政府も沖縄県もほとんどこの島に対して何もしてこなかったといってよい」と批判、「この国境の島、辺境の島にとって何が必要なのか、わたしたちの援農隊の30年の歴史は、それを考え続ける30年であった」と記している。それは同時に、私たちへの重い問いかけでもある。それにしても通信社の激務にありながら30年も支えてきた藤野氏ら関係者の労苦に敬意を表したいと思う。 (沖縄・八重山文化研究会報 第150号 2004/11/21)


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Last Update:2004/12/09
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