沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊

南南西に進路をとれ 1976与那国島サトウキビ刈り援農報告記 その10



「与那国島キビ刈り援農隊始末記」水牛のように働いた、はみ出したち                                          黒田勝弘

 想像以上につらく、きびしい労働だった。キビを斧で倒し、葉を落とし、二〇−三〇キロの束にしてかつぐ畑仕事。牛のクソと泥にまみれる雨の日は、なかなかタバコに火が付かない。メシも雨の中で立ったままだ。食い終わるころ、弁当箱の半分は雨水。雨のキビ畑ではトラクターは動かない。結局は人力であり水牛だった。二交代・二十四時間操業の製糖工場。昼夜わかたずキビを圧搾機に押し込み、かきまぜる熱い砂糖液でヤケドが絶えない。蒸気でモウレツにむし暑い工場内では、たちまち一升ビンの水がカラになり、さらにドリンク剤を何本も飲む。援農隊の注文で島のレモン入荷量がふえたほど、キビ労働はビタミンCを必要とした。
 製糖工場は食品工場である。わが援農隊は仕事始めにあたって、「小便する前には手を洗え!」と訓示された。「ン?」である。「逆じゃないですか。手を洗うのは小便のあとでしょう?」という質問に工場長は「イヤ、前にだ。手を洗わずに小便をすると、砂糖がチンポにこびりついて、夜寝てからアリにかまれるからだ!」と威厳をもって答えたものだ。
 キビ刈り労働は「南国」あるいは「援農」のロマンチックなイメージとは無縁の現実だった。そこでは「安保」も「B52」もかいま見なかったが、ぼくらは確実に沖縄を体験した。「復帰」などでは区切ることのできない「シマチャビ(離島苦)」という名の、持続的な沖縄を。
 わが「援農舎」のキビ刈り援農隊は四月十三日、日本最西南端、沖縄・与那国島での全作業を終え、五月いっぱいでほぼ全員撤収を完了した。参加者は二歳の子連れ夫婦から六十四歳のジイさんまで、延べ八十人。約四十日間の予定をはるかにオーバーしたにもかかわらず、終了時にも半数ががんばっていた。「終わりよければすべてよし」とはいうけれど、この間、受け入れ側の与那国町農協が破産に陥るなど、さまざまなことがあった。今はただ、ぼくらのささやかな援農体験から、与那国の人びとが「自立」のアイデアの一片でも見い出してくれればと思う。

    1
 与那国までは東京から約二千キロ。沖縄本島からでさえ六百キロ近くはある。東京から船で行くと、那覇、石垣でうまく乗り継いでも最低三泊四日、ヘタすると一週間以上かかる。天気がいい日は台湾が見える。与那国島はキビ作を中心に、コメ、サカナ、ウシなどで約二千二百人が生活する南海の孤島だ。
 この島から、援農を要請する農協組合長・仲里正徹さんの手紙がぼくのところに届いたのは、昨年九月のことだった。作業期間は一月中旬から約四十日間。畑五十人(八時間労働で男三千五百円、女三千円)、工場四十人(時給四百円プラス割り増し)、往復の船賃と宿舎(民宿で食費は一日千円自己負担)は提供−という条件だった。
 与那国旅行の体験を持つ仲間二人にさっそく声をかけ、デッチあげたのが「援農舎」である。ぼくを含めて世話人になった三人、与那国援農への動機をきかれても「与那国の自然と人と民俗へのなつかしさ」といった感じしか出てこない。ただ、かつて島を訪れており、「人手が足りなくて毎年外国から季節労働者を呼んでいる」という話を聞き、「それなら都会でぶらぶらしている若者を連れてきましょうか」−と茶飲み話、いや酒飲み話の合い間に"思いつき"を口にしたのが、コトの始まりではあった。そして、思い付きから引っ込みがつかなくなったということかもしれない。ともかく「好きな与那国からたのまれれば…」とイキに感じてOKしたのだった。
 与那国がぼくらに人手を求めてきたのは、ことし韓国からの季節労働者の導入をやめたためである。沖縄の離島には、ことしも韓国から約四百人の男女がやってきたが、与那国はなぜやめたのか。
 与那国では、韓国人労働者をめぐって毎年のように"事件"が起こった。製糖工場のトラックを無断で動かして死亡事故を起こしたり、酔っ払ってバイクに乗り、川に落ちて死んだり、あるいは韓国女性に対する暴行事件があったり…。要するに、どういうわけか与那国にとって韓国人労働者は縁起がよくなかったのである。
(石垣島では、韓国人労働者たちが地元の世話した旅館への宿泊を拒否した"事件"があった。原因は「朝日旅館」という名前にあった。韓国人たちは「アサヒ」ではなく「チョウニチ」−つまり北朝鮮に友好的な旅館じゃないか、と誤解して警戒したのだった。ことほどさように、韓国から招いてはみたものの、八重山の人たちにとって韓国人労働者の扱いはとかく難しかった。)
 与那国のキビ刈り季節労働者は、一九七二年の日中復交までは台湾人だった。そのあと韓国から、そしてことしは本土から。
 那覇や石垣の人びとは、よく与那国のことを「あそこは独立国だ」という。おそらく地理的、文化的距離感がそういわせるのだろう。そこには微妙な差別意識も感じられる。しかし逆に、与那国の人びとにしてみれば、台湾も韓国も本土も、そして那覇さえも等距離の"外国"であるに違いない。(気のせいか与那国の人びとは本土のことを「日本」というようでもある。)
 つらいうえに大してかせぎにもならないキビ労働の人手が、沖縄県内で得られるはずもないことを、彼らはよく知っている。台湾や韓国、さらに本土−「日本」に人手を求めても不思議ではない。援農隊世話係をつとめた与那国町経済課の若手、前楚良昌氏は、泡盛に酔っ払うと、きまって「台湾復帰論」をぶつのだ。
 与那国島のキビ収穫量は、七年前の最高二万三千トンからことしはわずか五千四百トンにまで落ち込んでいる。民間の会社が赤字で手放した製糖工場を、農協が引き取らざるを得ないまでになっていた。ぼくらへの援農の要請は、製糖工場の要員の半数と農協直営農場のキビ約二千トンの収穫協力だった。

    2
 キビ伐採期の一−三月は学生の試験期だし、四十日間というのもすこし長すぎる(実際、参加者の平均年齢は二十四歳、学生は少なかった)。かつて本土の若者をとらえた「沖縄問題」ブームは去っていた。人集めに不安はあった。ぼくらは「沖縄でキビ刈りをしませんか! 南海の楽園−、伝説と哀愁の南島・与那国島での生活体験四十日」と見出しを付けた、バラ色の呼びかけビラをつくった。
 十一月末、この呼びかけがTBSのラジオ放送で紹介されたとたん、申し込みが殺到、ぼくらの不安は一日で吹っ飛んだ。この一日だけで申し込みは二百人を超えた。彼らの動機の多くは、やはり、「沖縄問題」ではなくて「異郷体験」あるいは「人生体験」だった。革新的な集会で配ったビラの反応はゼロだったのだが、とにかく必要なのは「クチ」よりも「手」。ぼくらはその日、成功確実を祝って祝杯をあげた。
 その後、『話の特集』をはじめ、雑誌の紹介でも参加希望者が相次いだ。東北や北海道など農閑期の農協青年部はグループで申し込んできた。東北の職安から問い合わせがあったのには驚いた。というのも、あまり大きな声では言えないが、厳密にいうとぼくらは職安法違反の恐れ十分ありだったのだから。申し込み総数は千人を超した。今でも思い出したように、来シーズンの参加申し込みがある。
 バラ色のPRで募集しながら、説明会などでは「重労働」でおどかすはめになった。アンケート調査までしてやっと最終定員の八十人にまでしぼった。会社やアルバイトをやめるという"背水の陣"組を優先したわけだが、無職のヤル気組も意外に多かった。家族からの「まさかゲリラ訓練じゃないでしょうね」といった真剣な問い合わせにはこちらもびっくり。暴力団のタコ部屋労働を思い浮かべたという参加者もいた。
 あけて一月五日、ヤル気再確認の懇談会を新聞は「援農隊結団式」と報じ、与那国町農協の指示で一月十一日東京港出発を決め、全員に通知した。
 ところが一月八日、現地から突然、出発延期を求める電報が飛び込んだ。農協が民間から買い取る予定の製糖工場が、契約金未払いで予定通り入手できず、操業開始のメドが立たないというのである。ぼくらは飛び上がった。その晩、北海道から鹿児島までの全参加者に電話と電報で出発ストップを連絡した。しかし、それでも連絡のつかなかった二人は予定通り十一日の船に乗ってしまった。
 与那国町農協の組合長ら農協幹部二人が背任で告発されたことがわかった。地元記者の間では「金融ブローカーにだまされた」との同情論もあったが、預金を組合員外に不正に貸し付け、二億円以上が回収不能になっていたのである。農協は禁治産者になって、債権者が押しかけていた。
「ことしの操業はいったいどこがやるのか」−をめぐって農協関係団体の話し合いがつかず、沖縄県経済連−旧与那国製糖KK−経済連−と二転、三転したあげく、製糖工場が動き出したのは、なんとそれから一ヵ月半以上もたった三月六日のことだった。
 ぼくらの手の届かないところでのトラブルだけに、いかんともしがたい。この空白で援農隊は崩壊しかけた。
 会社をやめたり、地方から上京したりして待機中の参加者をいつまでも待たせるわけにはいかない。世話人は万一に備え、独自に他の島での受け入れ先を開拓する一方、一月三十日、第一陣四十人を見切り出発させた。第二陣二十五人も、二月十一日現地入りした。
 操業開始までの穴埋めにキビの葉落としをやったが、参加者の不安は大きかった(キビの伐採は工場搬入直前にやらないと糖度が落ちて使いモノにならない)。島に来てはみたものの、農協はシャッターを下ろしているし、工場の操業開始のメドも立っていない。第二陣のうち五人は到着の翌日「島抜け」した(四人はのちに帰島)。往復の船賃をあてにしていた者などは「無事帰れるのかしら?」と不安はつのった。「これも体験のうち。与那国に来たんだから与那国流に身をまかせようじゃないか」というぼくら世話人のなだめかたが、はたしてどれだけ効果があったか。ただ、全作業が終わってみると、援農隊の何人かは「時間にいらだたない」「約束はあまり気にしない」「最後はなんとかなる」といった"与那国流"を確実に身につけていた。
 与那国と那覇を結ぶ電話は、今なお無線で、なかなかつながらない申し込み式。NHKテレビのニュースは、やっと昨年から白黒で本土と同時放送になった(島の子どもは、日本商品のコマーシャルを台湾からのテレビでおぼえる)。風速が八メートルを超すと、定期空路の小型STOLは飛ばない。船も不定期で、これもお天気しだい。万事、あせっても仕方がないのである。

    3
 ぼくらは当初、地元の記者から「援農といいながら、どうしてカネをもらうのか?」と詰問された。
 ぼくらは無料奉仕を否定した。無料奉仕は、する側、される側に「甘え」と「遠慮」をもたらすと考えたからだ。島の人びとの、キビ労働という生活の場に、そういった無料奉仕はむしろ迷惑ではないかと思った。甘えと遠慮からは、お互いの本当の姿はわからないし、本当の付き合いも生まれない。
 わが援農隊は「こき使われた」のかもしれない。よくどなられ、棒でたたかれもした。島の人と取っ組み合いのケンカをやった者もいる。到着時には「どうせ観光半分だろう」という、ちょっぴり冷ややかな声を耳にした。たしかにキビ畑で昼寝をきめ込んだ者も、なかにはいたし、観光スタイルもいた。しかし援農隊は、キビ畑ではキビの束を担いで運び出す仕事、工場では圧搾機へのキビの投入、砂糖液の攪拌、箱詰めなど、もっぱら島びとのやりたがらない力仕事を受け持った。援農隊は島の人びとが「水牛のように」と評したほどよく働いた。島びとにとって水牛とは、黙ってモクモク働く力強さのシンボルなのだ。病人が出なかったのが不思議だった。
 与那国町当局は、操業の途中で自衛隊にも援農を要請した。「反自衛隊」で知られる沖縄の労組は驚き、さっそく石垣市などから労組員を送り込んだ。宗教団体もやって来た。いずれも無料奉仕だが、各団体内部では手当が出ていたともいう。
 しかし彼らのほとんどはたった一日(!)の援農だった。労組はキビ畑に赤旗を立てることが「労農提携」といわんばかりだったし、宗教団体は公民館でのPR映画の上映が目的のようでさえあった。
(何をどう誤解したのか『アサヒグラフ』六月十一日号は「援軍に助けられた援農隊」−なる奇妙な記事を載せている。わが援農隊以外の援農活動のことを言っているのだろうが、助けられたのは与那国であって援農隊であるはずがない。この皮肉を利かしたつもりの見当はずれの見出しに抗議しておく。もっともこれら「援軍にだけ」は茶菓の接待があったため、お流れにありつけるわが援農隊は「援軍」来島を楽しみにしてはいたが−)
 本物の労農提携は、こういう「奉仕」や茶菓、酒の接待、あるいは討論会などからは決して生まれないだろう。働いただけの労賃はもらって一向にかまわない。援農隊の多くは民宿に寝泊りし、しかも"与那国語"がきわめて難解なこともあって、島の人びととの直接的な交流は十分ではなかったかもしれない。しかし「水牛のように」働いたことこそが、おそらく言葉のやりとり以上の交流になったと確信する。
 現地の人びとは「ローム」「ローム」と言っていたが、ぼくらの援農隊をはっきり「労務者」として扱った。時には月の浜辺で四十五度(地酒の泡盛)をくみかわし、ギターをかき鳴らし、唄い、また海にもぐって魚を追いもしたが、参加者募集のPR文「南海の楽園での生活体験」といった甘さはなかった。
 援農隊の間では「カネをもらうからには労務者扱いも当然」という声も多かったし、二カ月余の経験で「もう"援"の字はいらないのでは」と言ったメンバーもいた。しかし、都市のアルバイトでは想像もつかない重労働と低賃金にもかかわらず、またどういうわけか、島の人びとから「職なしのハンパ者!」といった思いがけない言葉まで投げられながら、わが援農隊の多くが最後までガンバリ通したのは、おそらく「援」からくる一種の自己満足のせいではなかったか。ある参加者は「最後は意地だった」と述懐している。
 沖縄の離島のキビ労働のように、たいして稼ぎにもならず(といっても島を離れる時、十数万円をため込んだメンバーもいたが…)、しかもあとで失業保険も出ない短期の季節労働には人手は来ない。キビ労働は「出稼ぎ」としては割に合わないのだ。この割に合わない部分を、これまで沖縄−与那国は台湾や韓国からの外人労働力でカバーしてきた。しかしぼくらはそれを、カネ以外の「援」と「体験」ということで引き受けたのだった。「援農舎」からやはり「援」の一字をはずせない。

    4
 島を離れるころ「台湾が見えただけで満足」、あるいは、土にまみれてモノを作る生活に「人生観が変わった」など異郷体験派、生きがい模索派…それぞれに満足感を得ていた。重労働にもかかわらず、定時起床、三食付きで体重のふえた者もいたから不思議だ。
 しかしここで、援農の本質にかかわる意見も出たことを記しておかねばならない。
 島の一部の人は、援農隊が低賃金で重労働をやることに批判的だった。島の人々の賃金相場を低くするばかりか、ますます人手が来なくなるというのである。援農隊内部でも「その場しのぎの援農は、逆に与那国の"自立"を妨げ、割に合わないキビ農業とキビ労働の根本的な解決を遅らせるんじゃないか」−といった疑問だ。
 与那国はことし七百八十トンの黒砂糖を生産した。しかし、極端な補助金農業であるサトウキビは、黒砂糖の場合、生産農家に支払われるキビ代金の七五%が税金という計算だ。黒砂糖の需要減(−読者諸氏は最近、カリン糖を食ったことがあるか。黒砂糖せっけんを使ったことがあるか?)、あるいは人手の問題も含め、島の人びとの間では「このままキビをやっていいのか」という声も出始めている。
 しかし来年は、与那国はじめ八重山諸島のキビ生産は、県や農協などの植え付け奨励もあって倍増の見通しだ。しかも県、政府とも韓国人季節労働者の導入は、ことし限りで打ち切る方針という。来年の人手はどうなるのだろう。
 ぼくらの今回の援農を機に、沖縄では「全国一の高失業率(五・六%)の沖縄でなぜ本土に人手を求めるのか」「県や関係当局は県内で求人開拓に努力すべきじゃないか」−といった声がしきりと新聞に出た。ぼくらは少なくとも「自力更生」の沖縄の世論に刺激を与えることはできた、と思っている。それが最大の成果だったかもしれない。
 与那国での評価は「水牛のように働いた援農隊」−で尽きていると思う。当初、冷ややかとも思えた八重山(石垣市)の新聞記者たちが、最後は評価を一変させ、「よくやった」と評してくれたのもうれしかった。東京で交通違反の罰金を払わずに出かけた援農隊員に、警視庁から"手配"がきた。しかし八重山署は「ご苦労さまです。罰金納入は援農が終わってからで結構です」とやさしく連絡してきた。しかも信じられない話だが、滞納金をまけてくれさえしたのだった。
 破産の与那国町農協は、いま与那国ペースながら再建に取り組んでいる。  ぼくら「援農舎」としては、来年も援農隊を組織していくべきかどうか、行った方がいいのか悪いのか、迷っているところだ。それに身ゼニを切った世話人一同、ただ今のところ、カネとヒマを使い果たし、手持ちはゼロである。  四月なかば、ヤモリが「ケ・ケ・ケ」と可愛げに鳴く与那国島から帰りに立ち寄った石垣島では、デイゴが狂ったように真っ赤な花を咲かせていた。石垣労基署の平良署長によると「ことしのデイゴの花は赤すぎる。こういう年は台風の当たり年だ」と島の古老が心配していたという。しかし、わが援農隊のメンバーを"援農隊割り引き"で泊めてくれた民宿、八重山荘の主人、西表さんは「去年もそんな話を聞きましたねえ」と笑っていた。
 キビは台風に遭うと完全にアウトだ。農家は借金に泣く。デイゴの花が赤すぎるのは、ことしも古老の気のせいに違いない。
 六月はじめ、キビ作業終了後も、虚脱感と充足感の中で島を去りがたく、与那国に居残った援農隊残党から援農隊機関紙『フリープレス与那国』bRが届いた。それによると、残党はカツオ漁船に乗り込むため待機中だったり、"晴耕(畑の草とり)雨眠"組など五人ほど。『与那国』bR最終号の「後記」には、こんなことが書いてあった。
「もうあれほどの顔ぶれがそろうことはあるまい、と思われる程にそれぞれ個性豊かだった。急性にしろ慢性にしろ、いわゆる社会からのはみだし者だった大部分の連中。工場や畑でのそんな仲間たちの熱心な仕事ぶりを見ていると、定職を持たず行動に融通のきく層がある程度存在してこそ、社会そのものがスムーズに動いて行けるのだとさえ思われた。複雑な社会機構のすき間に咲いた花(?)。全国の名もないはみだし者たち、バンザイ!」

 感想などをメールでいただければうれしいです。メールはこちらまで。

Last Update:2004/01/07
©2003 Masayuki Fujino. All rights reserved.