沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊
南南西に進路をとれ 1976与那国島サトウキビ刈り援農報告記 その11
特別寄稿「ユイの再生は可能か」
国吉真栄
最近、沖縄でユイ(結い)という相互扶助組織が再評価されている。ユイは主に農村共同体の中にあって、共同作業、労働交換、助け合いの形で生産や部落の行事、祭事などに直結し集落の連帯意識を確かめ合う場でもある。農業機械がなかった頃の農作業や家屋の建築、道路工事など、多数の人間の労力を必要とする時には必要欠くべからざる"制度"でさえあった。
沖縄は明治以前からサトウキビの生産が盛んである。サトウキビは砂糖の原料になる作物であるが、実際に収穫作業に従事した人でないと理解できないほどの重労働である。なにしろ、キビの長さは二メ−トル以上もあって、竹のように太く、重さはその数倍もあり、一本でもずっしりと手ごたえがある。そのキビを十五本ほどワラ縄で束にし、運搬しやすいようにするが、トラックもなかった戦前は、畑から部落の小型製糖工場まで肩に担いで運んだものである。一農家で一度に五トン−八トンのキビを収穫するので十人から十五人の動員が必要である。家族労働ではとてもやれないわけで、五、六家族、またはそれ以上の共同作業ということになる。ユイは、こうした共同作業の場合、作業の量、質に応じて、自由かつスムーズに必要な人数を確保できる仕組みになっている。沖縄の農村社会の中で自然発生的に生まれた気がするほどだ。私は本土のことは知らないが、本土の農村にもあったといわれるユイも、農作業の内容は違ってはいても、沖縄の場合と同じ理由から組織されたものではないだろうか。
ユイは生産組織だけの機能を果たすだけではない。前にもふれたように、部落ぐるみの連帯を維持する核のような働きもした。それが顕著に現われるのが祭りなど民俗行事においてである。台風や干ばつ、病害虫など厳しい自然にさらされている沖縄では、豊作、豊漁を祈願する祭りが毎月のようにある。代表的なものをあげると、はりゅう船(旧暦五月四日)、エイサー(旧盆)、ウンジャミ(旧盆直後)、八月踊り(旧暦8月)などである。これらの行事は、文字通り部落をあげての祭りだ。しかも、エイサーや八月踊りなどは三日から一週間をかけて夜を徹して行い、戦前は各市町村ではほとんど部落が催したものである。その祭りを支えたのもユイ精神だったと古老たちは言う。踊りに出演する人たちは練習も含め半月以上も農作業の手を休めなければならなかったが、この人たちの農作業は他の仲間が手伝ってくれ、農事に支障は起こらなかったといわれる。最近は村の若者が都市地区に就職し、休みが取りにくくなって、祭りもすたれる一方であるが、この現象はユイの内部崩壊を示すものである。
沖縄のユイも崩壊の一途
ここ二十年来、沖縄のユイは各地で消滅の一途をたどっている。残っている所も内容が変わり、例えば賃金制を取り入れ、労働交換が雇用関係と同じものになってしまったところも多いという。私の出身地である本島南部の農村の場合、部落単位のユイはいつんまにか崩れ、今はごくうちわの親戚か隣り組で細々とユイを維持しているにすぎなくなった。全島的にみて、油井が崩壊した原因はいろいろあるが、農村から若者がいなくなったことが一番のきっかけになったようだ。沖縄は敗戦いらい、東洋一の米軍事基地と化しているが、農村の若い男女もクワを捨てて基地従業員になった。また、本土の経済成長にともなう労働力不足にあおられ、中・高卒が集団就職のかたちで、どんどん本土の工場に就職して行った。中・高卒だけでもなお足りず、農家の大黒柱まで年間六ヵ月の出稼ぎが流行したのである。家を守る主婦の多くが、夫のいない寂しさをまぎらわすかのように、自宅から通勤出稼ぎに走るありさまなのだ。
つまり、農村から、農業のにない手のはずの若者、中堅農家がいなくなったのだ。かろうじて農家を守っているのは、出稼ぎにも行けない老人と一部の主婦たちにすぎない。こんな状態ではユイが崩壊するのも当然のなりゆきといえよう。ユイを維持するのに最小限必要な条件は、各農家の働き手が毎日家にいるということなのだから…。
われわれ農業の外側にいる人間には、農繁期(沖縄の場合はサトウキビ、パイナップルの収穫期)の間、各農家に働き手がいれば、ユイは完全に作動するように思いがちなのだが、実際にはそんな生易しいものではないらしい。というのは、農家はそれぞれ経営規模が異なるし、農作物もみんなが同じではないので、ユイを順調に回転させるためには、一年を周期としなければならないからである。三カ月ていどの短期間ではユイの労働交換が十分消化できないのだ。もし、中途半端なユイのために、労働交換が一部未消化に終わった場合、残った労働日数を賃金(日当)で処理せざるをえない。その際、ユイでは老若男女の労働を等価値にみるのが常識なのに、日当で処理する場合は、性別、年齢、技術、健康状態などがストレートに計算され、結果的には同じユイ仲間の労働評価に大きな差がついてしまう。これが感情的なしこりのもととなり、ユイの崩壊を早めることになるようだ。この結果が行き着くところは賃金制である。ユイを営むには、メンバーが常時スキンシップを繰り返す生活環境でなくてはならない気がしてくる。出稼ぎが多い部落ほど結いの衰弱が著しいことがそれを物語っている。ユイは集団の信頼感を基礎に成り立つ生活の営みそのものなのだ。
平等評価が奥部落の秘密
戦前のユイ精神を持続しているというのが沖縄本島の最北端にある国頭村奥部落である。今年(一九七六年)五月十五日付の朝日新聞「論壇」でも紹介したけれども、そこのユイを調べてみると、農村生まれの私も納得するものがあった。奥は現在、九十六世帯、人口三百九十二人のこじんまりとした山村で、茶を中心にサトウキビ、パイナップル、ミカン、スモモ、野菜などを作っている。農業従事者は約百人であるが、その全員がユイ要員である。奥部落はいわゆる"陸の孤島"で、交通が不便なこともあって通勤出稼ぎは不可能に近い。で、毎月収穫できるような農作物を組み合わせ、出稼ぎをしないで農業だけでサラリーマン並みの生活水準を保つ努力をし、それに成功している。
奥部落のユイで感心するのは、@労働評価を平等にしていることA労働交換は賃金(日当)ではなく、必ず労働で行っていることである。労働評価を例にとると、農業に従事している者ならば、老若男女に関係なく、等価値とみなし、一対一を原則としているのである。これは商工業社会では考えられないことだが、ここでは奥部落全体の農業経営を健全に維持していく最善の方法と思われている。この方法だと、露人農家でも経営規模を縮小しないでやっていけるのだ。私は七十歳を過ぎた老人に直接きいたのであるが、「自分のような年寄りでも若者とともにユイができるので、働ける間は農業をやりますよ」とさらりと言ってのけた。若者に対する引け目のようなところはみじんもない。若い頃は年寄りを助けながらユイをしてきたという"実績"があるので、若者と同じ仕事をしても肩身の狭い思いをせずにすむのであろう。
また、青年会長をしているK君にも感想を求めた。彼は二ヘクタール余の茶園を経営する篤農家であるが、ユイは相互扶助の精神が大切で、われわれ若者はお年寄りを助ける気持ちでユイをしている。今は若くても、あと四、五十年もたてば老人になる。その頃は若者たちの力を借りて農業ができるはずなので、今の習慣(平等評価)には不満は何もない−とさばさばした表情で答えたものだ。五十年先のユイを考慮に入れて話すので、こっちの方が驚いたほどだ。
沖縄では老人家庭の農業が非常にやりにくくなっている。相場通りの賃金を支払っては農業が成立しないこともあるが、現在は"変則ユイ"が横行して、労働力に劣る老人を農作業仲間に加えたがらないからである。Aの労働交換の場合、それを賃金で処理することがいかに危険であるかは、すでに述べたとおりである。
新しいユイの模索
沖縄のユイの一般的現状と奥部落のそれを見てきたが、衰弱しきった沖縄の農村に生気を吹き込むためにも、ユイの再興を急ぐべきだと思う。本土でもそうらしいが、沖縄の農業は衰弱の一途をたどっている。本土の米作に当たるサトウキビを例にとってみても、堆きゅう肥の供給がないために土地はやせ、反収は減少するばかり。また、株出し栽培ができるのをいいことに新植(更新)を怠り、ために退化現象が進行するという二重苦にあえいでいる。さらに、重労働の収穫期は、機械の導入でなんとか切り抜けてはいるものの、例えば八重山・与那国町や大東村のように、自力ではどうしても処理することができず、台湾、朝鮮、本土から数百人の労働者を毎年呼んでいる状態である。援農舎も今年の冬、各都道府県からキビ刈り援農隊八十人を募集、与那国で約二ヵ月半のキビ収穫の重労働を体験したばかりである。
失業者が街にあふれているのに、農村の極端な人不足は深刻だ。農村から出て行った都市地区の労働者の半分でももどってきたら、衰退しきった農業も回復するのに、と自分のことは棚に上げて夢見ることがある。現在の状態では、農村にもどって果たして人並みの生活が維持できるか不安であるが、例えば国の食糧政策を根本的に改め「自給率九〇%」をめざして作物の生産奨励に打ち込むのであれば、農業は安定した職業に生まれ変わることだろう。そうなれば、若者や中堅農業者がぞくぞくと農村に定着するだろうから、各地で死にかけているユイも息をふき返すのは時間の問題である。そうした方が農作業の効率を上げ、同時に生きがいを見い出すはずだからである。現在の農村の若者たちが切実に仲間づくりを望んでいることからも、ユイを待望していることがうかがえる。
ユイ精神の再興は戦前と同じかたちとは限らない。今は、戦前と生活内容も農作業も、人間の思考法さえも変わったのだから、戦前と同じものでありえないが当然である。やはり、現代にマッチする新しいかたちのユイが誕生することだろう。それでは、現代にふさわしいユイとは、どんな組織で、いかなる思想を盛り込むべきかとなると、私には見当もつかない。援農舎のようなさめた頭脳集団に期待するものである。
新しいユイを組織をする場合、その母胎となる農村の意識転換の必要はないだろうかと思うことがある。というのは、沖縄の農村社会は想像以上に排他的で、新しい運動を持ち込むのは容易でないからだ。一つの例をあげると、沖縄の農村はどこも人不足にあえいでいるのに、外部の労働者を歓迎しない。特に本土出身者の場合、工場や農協などの団体は別として、ここの農家は敬遠するのが普通である。本土の人は沖縄の人間より根性があり、働き者との定評なのに、無料奉仕(三食付き)という好条件でも、たいていは断られているのだ。今年の冬、援農舎は与那国町農協の要請で八十人のキビ収穫援農隊を送り込んだ。ところで、隊員たちは各農家の分宿して農家とともに働きたいと願ったのだが、受け入れてくれる農家がなく、希望は実現できなかったと、あとで責任者の藤野雅之氏の手紙で知り、そのカベの厚さを思い知らされた。一方、同じ頃、本島北部の今帰仁村でオキナワ−ヤマト"ユイ"の会(キャット東京・上村肇代表)一行八人が農家に入り、農作業を無料で手伝いながらユイ体験を試みた。キャット東京の場合は、多くの農家から断られたあと、ようやく若い農業者グループに受け入れられ、目的の半分は達せられたものの、このケースは幸運といえるのである。
沖縄の農家が勤勉な本土労働者を拒否するのは@食事や生活習慣が異なるので世話をするのに気苦労を強いられるA働き者ではあっても、沖縄の農業を知らないはずだから、かえって能率が落ち、農作業のスケジュールが狂ってしまうB沖縄の土壌は粘着性が強く、踏みつけると石のように硬くなるが、本土の人はそれを知らずにムダに畑を踏みつけて畑をコチコチにしがちである−など、農家にもそれなりに言い分があるのである。また、ユイの生きている所では、本土の人のような"異分子"を仲間に入れることによって、雰囲気が壊されるのを恐れる向きもないとはいえない。なかなか微妙でやっかいな問題である。
こうした事情も理解しながら、沖縄の農家と接触し、おたがい火花を散らしながらの過程で、農家の意識転換を望むのはムシのよすぎる注文であろうか。あるいは、意識転換を迫られているのは農村でなく、援農舎の皆さんや都市地区の人間なのであろうか。
とにかく、新しいユイ精神がどこかで息づいているのは確かなはずで、今こそ、それを掘り起こす時である。(沖縄タイムス記者)
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Last Update:2004/01/07
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