沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊

南南西に進路をとれ 1976与那国島サトウキビ刈り援農報告記 その12



「一呼びかけ人としての私的な総括と提案」                                         藤野雅之

 与那国島サトウキビ刈り援農が終わって半年が過ぎた。初めての援農運動のために、私たちはいろんなことを経験した。すべて初めての体験だった。それらの体験をまともに自分で受けとめるにはあまりにも重すぎるような気もする。
 しかし、援農が四月十三日に一応終わり、本土へ帰ってきて二カ月あまりが過ぎた頃から、参加者の中の何人かが、今度のキビ刈り体験を記録に残そうという声を起こしたのである。私はそのことに感動した。私たち援農の呼びかけ人として、このことはたいへんうれしかったのである。それは、今度の援農をただのイベントとして始めたのではなく、この援農体験がたとえ一回きりの参加にしても、若い参加者たちの人生になにか深いものを残すのではないか、という密かな期待を私は抱いていたからである。そして、若い参加者が記録を残そうと言い出したことの中には、そういう私の願いを現実化してくれるような何かがあるように思われたのである。

    私の沖縄体験

 考えてみれば、与那国島サトウキビ刈り援農は私にとってもさまざまなことを明らかにしてくれた。私自身、沖縄に魅せられて八年になる。初めて沖縄を訪れたのは一九六九年だったと思うが、祖国復帰運動の高まるなかで、新聞労連の新聞研究集会沖縄分科会に参加した時だった。復帰協会長だった喜屋武真栄氏や教職員会の福地曠昭氏などの話を聞き、嘉手納基地を見たりするなかで、自分なりに沖縄について考えようとした。しかし、沖縄の戦後は、私にとってあまりに重く、ほとんど考えるなどということはできない現実として私の前に立ちふさがっていたのだ。摩文仁の丘に立って、断崖の上からはるか下に波に洗われる海岸の石畳を眺めていると、沖から三十年前の米軍が艦砲射撃してくる光景が浮かび、その想像の光景の前に私はじっとたたずむよりほかないのだった。
 そういう私の心情次元の重苦しい情念だけが、逆に沖縄へ私をつなぎとめてきたのかもしれないと思う時がある。私はそれから八年、仕事の取材を兼ねてほぼ毎年沖縄を訪れてきた。復帰が正式に決まり、いわゆる「沖縄国会」が開かれた年、私は学芸欄に「新・沖縄学」という記事を書いた。これが沖縄の文化・風土の研究に関心を持つきっかけになった。これは私の個人的な問題なのだが、復帰運動に一新聞労働者として触れた時、私は何も言えない重苦しさを感じていた。それは現実の政治、社会情況の中に私を突入させてはくれなかった。しかし、沖縄独特の文化や風土の中で生き、考える人に触れた時、私には沖縄が別のかたちでその顔を見せて始めることに気づいたのである。それにしても、私のその方面の知識はまことに乏しいものであった。依然として私には言うべき何ものもなかった。

    沖縄の風土と文化

 「新・沖縄学」は、柳田国男、折口信夫、柳宗悦などの沖縄認識、伊波普猷ら沖縄の学者の仕事を通じて、沖縄研究のアウトラインを紹介し、昭和三十年代から改めて沖縄研究が新しい世代によって進められてきていることを報告したにすぎない文章であった。その拙い記事に対して、これを掲載してくれた「沖縄タイムス」「琉球新報」から礼状を受け取った時ほどうれしいことはなかった。
 それにしても私には沖縄について言うべき何ものもあるわけではない。ただ私は一年に一回沖縄の地を踏むことを自分に課してきたようなところがあるだけだった。沖縄タイムスの新川明さんに「あなたは何のために沖縄に来るんですか」と問われた時も、私には答える何ものもないのだった。三年前、初めて宮古、八重山を旅した。その時のことは「海岸線」という記事に書いた。新城島の豊年祭と与那国島のドゥライとドゥムティの制度を文章にした。この二つは沖縄の伝統的共同体の本質を示すもののように私には思われた。新城島の豊年祭はアカマタ・クロマタの祭りであるし、与那国島のそれは原始共産制と直接民主主義の制度ともいえる。
 しかし、私は沖縄の体験のなかで、この二つのものを見ることによって、沖縄は私の中で動かない大きなものになってきたように思う。そうして、そういう沖縄から現実の沖縄もいくらか見えるようになった。現実の沖縄だけではなく、私たちの生きている日本、アジア、そしてこの世界が見えてき始めたと言ってもいいかもしれない。
 これは私にとっての沖縄なのである。

    援農隊ひとりならず

 昨年夏、友人の黒田勝弘君のところへ、与那国町農協の仲里正徹組合長から援農を依頼する手紙が来た時、私がそれに応えるこの援農運動に参加することにしたことの背景には、この八年間の沖縄体験があったからだろうといまは考えている。それまで私は一新聞記者として、すなわち取材者であり、旅行者として沖縄を見てきた。そのことの限界は自分でもあるていど認識しているつもりであった。
 しかし、今度の援農運動に携わる過程で、それまでの自分の沖縄観とでもいうべきものは根底からくつがえされたという感じがしている。一取材者、旅行者としてはうかがい知ることのできない沖縄を、そして自分でも知らなかった私自身を知らしめてくれたという意味で、いま私は与那国島の人々に、また沖縄の人々に感謝したい気持ちなのだ。今度の援農隊は援農舎同人と参加者だけでやったのではない。与那国町農協の不幸な事件があり、援農運動は困難をきわめ、参加者にも迷惑をかけた。その傷からまだ立ち直れない参加者もいることを思うと、呼びかけ人として私の心は痛む。しかし、沖縄タイムスや琉球新報の投書などで声援を送ってくれた沖縄の市民の方々をはじめ、沖縄県、県農協中央会、与那国町民、沖縄のマスコミ、琉球海運や有村産業、那覇や石垣島の民宿、石垣製糖など、私たちの援農運動にさまざまなかたちで協力してくれた無数の人たちがいるのである。その人たちが、私たちのこの小さな呼びかけの意味を私たち以上に理解してくださったからこそ、この二ヵ月半の与那国援農ができたのである。どんな事業や運動でも、このような支援がないとできるものではない。与那国援農が私たちの準備の不手際、農協の不幸な事件を乗り越えてやり遂げることができたのは、そのことに尽きると思う。このことを知っただけでも、私にとってこの援農の意味は大きいと思う。

    若い人と共同体

 二ヵ月半の援農期間中、援農隊内部でさまざまな問題が発生した。若い参加者にとっては、それらの問題が大きな傷となって精神の内部に残ってしまった人もいる。私はそのことを否定しようとは思わない。人間が集団を組んで生きる動物である以上、集団はその人間関係から生まれる問題をつねに背負わざるをえない。若者たちの間で近年、共同体とかコミューンへの志向が流行している。それは現代の管理社会化の流れの中で、もっと自然な人間の生き方を求める若者たちの精神の反映であるだろう。私はそういうものを模索する若者の精神を健康で好ましいと考えている。しかし、共同体やコミューンは現実の社会や人間を離れた理想社会として存在しうるのではないだろう。さまざまな問題をはらんだこの現実の社会とのかかわりを離れることはできない。今度の若い参加者たちが、与那国島援農にそんな現実離れした共同体を夢想していたとしたら、このことをもう一度考え直してほしいと思う。
 与那国島での生活は、東京のような都会の生活とはまったく異なるものでありながら、同時にまた与那国島にも本土と同じような人たちが生活しているのだ。「人間社会はどこへ行っても同じなんだな」という感想を漏らした参加者がいた。私もそう思う。だがそこで、そのあとどう考えるかだ。それでも与那国島はよかったと言えるか、だからもう与那国島には来てもしようがないと考えるかは、大きな違いだろう。たしかに援農隊にはさまざまな問題があった。だから援農隊には意味がないと考えるか、問題はあったけれども、それでも援農隊がめざしている目的に意味があり、またこの援農運動が与那国島にとって一定の役割りを果たしたと言えるなら、この次には、援農隊内部の問題をみんなで克服していこうではないか。よりよい援農隊をつくっていこうではないか。そして、それをできるのは参加者しかいないのである。援農隊内部におこった問題は、外部に要因をもつものもあるが、多くは参加者と呼びかけ人自身のもつ問題であったと思う。参加者も呼びかけ人も全体の目的のために、自分自身を無理なく変革していかねばならない。

    目的はただひとつ

 この援農運動は、人手不足の与那国島のサトウキビ農業を手伝おう、ということを唯一の目的にしたものだ。さまざまな考え方やさまざまな環境で生きてきた八十人の人間がこの運動に参加した。その八十人に共通した思いは、この目的だけであった。ひとつの目的に八十人もの人間が一致するというのはたいへんなことだ。そうした人たちの集団が援農隊なのである。この集団が、あのきびしいキビ刈りの重労働をどう協力し合い、励まし合ってやり遂げるか。そこに私はこの援農運動を計画したときのもうひとつの密かな期待を抱いた。そして、そこにこそ真の共同体、コミューンをつくり出すカギがあるのではないかと考えた。その結果について、私はいま、この密かな期待が裏切られたとは思っていない。ある若い参加者は「僕のような都会のモヤシッ子でも、あのきびしさに耐えられたんだからなあ。みんなが頑張っているのを見ると、いつのまにか自分もやってしまうんだ」といい、また別の女性隊員は「いろんな問題があったけれど、二ヵ月半の最後の半月は、そんな問題なんか関係なく、みんなが仕事をしていた」と述懐した時、私は言い知れぬ静かな感動を抱いたのである。こういう言葉は、援農運動の表面だけにかかわっていて語られるものではない。こういう参加者がいたことを私はこの上なくうれしく思う。

    離島の生活

 与那国島援農隊は私たち呼びかけ人にとっても初めての経験だった。八十人の定員に対して千人を超える人たちがこの呼びかけに応えてくれたことは、私たちに大きな励ましと示唆を与えてくれた。本土から遠く離れた沖縄の離島は、本土の人にとっては夢をかきたてるようなものが確かにある。しかし、島の人たちはそこで長い間苦しい生活を送ってきたという現実もまた確かにある。与那国島でいえば、クブラバリやトゥングダの伝説は、そのきびしく哀しい島の歴史を私たちに思わせる。島の人びとはそんな歴史から長い時間をかけて、島で生きていく知恵をつくり出してきた。そして、それらの知恵も本土復帰や本土の経済、資本の進出の影響を受けて大きく変わろうとしている。農協倒産の事件もそのひとつのあらわれであると言える。南の島に一種のエキゾチシズムと素朴な人情を期待して行った人には、島の人たちの人情が大きく変わりつつあるのに驚いたことだろう。また島の社会には開放的な面があるとともに、きわめて息苦しい閉鎖性もある。近代化の極ともいえる東京のような都会に生活してきた人は、島を自然の理想郷と思い込みやすいが、島の人にとっては都会はやはり憧れの対象でもある。だから、島は過疎化していくのである。  しかし同時に、島に居続け、島の生活を守ろうとする人もいる。もし私たちのような者でも、その島の人に協力できるとすれば、これほど素晴らしいことはないだろう。援農目的はここにもあるのだ。

    島の労働者と援農

 援農隊に出かけて知ったことは、目的が正しくても援農の現実はそんなに簡単にはいかないということでもあった。たとえば私たち援農隊は畑作業では一日八時間労働で男子三千五百円、女子二千五百円の日当、工場は十二時間労働で時給四百五十円だった。これは地元のキビ作業従事者とも同額のはずだったが、畑作業の中でもトラックへの積み込み作業はとくに重労働で、これを援農隊が同じ日当でこなすことは、島の人の労賃を援農隊と同じ低額に抑えてしまうことになるという問題が出てきた。島の労働者は援農隊に重労働には賃上げを要求してくれと言ってきた。しかし、援農の目的と賃上げとはなかなか簡単には結びつかないのである。援農隊が結果的に島の一部の労働者を低賃金におさえ込む役割りを果たすということも、今後乗り越えなければならない課題だ。この問題はそれほど難しいことではないように思われる。

    お金と援農

 日当をもらってどうして援農と言えるのか。本島の援農なら日当を返上すべきだという考え方が、参加者の中にも、沖縄の中にもあった。本島の今帰仁村などで援農した東京創造者集団の人たちは無料奉仕だったし、沖縄県自治労や沖教祖、宗教団体などの援農も無料奉仕だったと聞いている。しかし、私たちは日当をもらって働いた。このことは援農の主旨からいって矛盾だろうか。その結論をいまの私には出せない。
 とにかく私たちは日当と往復旅費の支給を条件に出かけて行ったのである。サトウキビ農業はなんといっても沖縄の離島の基幹産業であり、島の経済を支えているのである。そのために一定の労働力を必要としている。その労働力の不足を補うという役目が私たちの援農にはある。そこで援農は離島社会の現実とつながっているのである。私たちの援農隊の参加者は、本でもどこかの団体や会社に所属して、そこで生活費を保障されている人ではない。二ヵ月半の援農期間の生活をどこからか保障してくれるほど、いまの日本の社会は余裕のあるものでもない。援農隊には労組や宗教団体のような補償はないのである。彼らは本土でも豊かな若者ではない。そして、援農に出かける人たちは経済的には豊かではないがゆえに、遠い離島に出かけていけることができるのである。参加者の中には、大企業や官庁に勤めていて生活を保障された人がひとりもいなかったのが、そのことを示している。
 若い参加者は、自分の生活の経済的安定だとか、社会的安定だとかを求めめる気持ちを持ち合わせていない人が多かった。彼らは自分がその時に生活している場所で生活に必要な最低限のお金を必要としているだけである。そのために、自分が提供できる労働に意味があるなら、その労働を思いっきりやってみようという健全な精神と意欲を持っている。援農隊はそういう性質の労働の場でもあったのだ。
 K君は「東京の工場でアルバイトしていると、いかにサボって楽をするかを考えてしまうが、農協の製糖工場で働いていると、いかに楽をするかを考えても、それは全体の効率が上がることを前提にしている。そういう意味のある工夫を考えるようになっている自分に気づいた」と話していた。ここには、労働というものの本質的なありようが垣間見えると私は思う。ただ単に金を稼ぐための労働ではなく、労働それ自体が意味をもち、お金は結果として与えられるということだと言ってはどうだろうか。

    沖縄の人たちへ

 与那国島サトウキビ刈り援農が、若い人たちにこのような体験をさせたということは重要な意味をもつだろう。沖縄の離島では今後もサトウキビ農業は続く。根本的な農業政策の変更と離島に適した新しい農作物の発見がないかぎり、それは続くと考えられる。これに対する離島の現状はどうだろうか。たった二ヵ月半の援農体験からだけでは、離島の農業について言うことができるほどのものはない。離島の問題は離島に生きる人たちが最も深く考えているのは当然だし、私たちもそのことに敬意と同情を持っているつもりである。
 しかし、たった一度の経験にせよ、離島で二ヵ月半生活し、島の人たちと労働をともにした私たちであれば、その立場からなにほどかの意見を述べるのを許していただきたい。
 沖縄の離島、特に八重山では西表、小浜、波照間、与那国、そして南北大東の各島は、サトウキビ農業が主産業となっている。しかも過疎化の波は急激で、各島ともサトウキビ収穫時における労働力不足はこの数年極端である。一九七二年の日中国交回復前は台湾から、以後は韓国から集団季節労働者を招いて収穫に当たっていた。単純作業の外国人労働者の移入を禁じている日本政府が、沖縄の離島にこれを例外として認めているのには、日中国交回復と同年の沖縄の復帰にともなって、沖縄離島のこのような現状に対して緊急の問題であるとの認識があったからだろう。復帰後三年間に限って認められたこの復帰特別措置も一九七六年で切れている。
 そして今年の夏、沖縄県は東北、北陸、九州の各県、各職安にサトウキビ収穫要員の季節労働者募集の協力要請を行った。一九七七年の収穫時には前述の各離島で合計約七百人が不足するという。ところが現状では、そのほとんどが確保の見通しさえないというのである。
 沖縄復帰後、特別措置として外国人労働者移入を認めてきた三年間に、その見通しを立てておくべき責任が政府、沖縄県当局にはあったはずである。外国人労働者の移入の打ち切りは当初からわかっていたのに、関係当局はまったく手をこまねいていたとしか思えない。その対策にはさまざまな困難があることは私たちにもわかる。離島の農業構造の改善、基盤整備、農業後継者の育成などはその中心となる対策だが、現在の日本社会、沖縄の現状からは、それがスムーズに行くはずもないだろう。関係者の努力を推察して、同情に耐えない気持ちだ。しかし、現実には労働力不足は少しも改善されていない。そのことをどうすればいか。その一翼が与那国島で私たちに課せられた課題だった。さきほど、県当局が本土各県に申し入れたことに触れたが、季節労働者を確保するには、沖縄の離島の現状はあまりに不利である。その理由は@本土から遠いA労働がきつすぎるB賃金水準が低いC娯楽施設がないD失業保険が出ないE住居・食事など生活習慣が異なる−などが挙げられるだろう。このことを考えると、季節労働者として本土で募集しても、職安での応募者がほとんどないのは初めからわかりきっていたと言えるのである。
 一方、沖縄県は失業率が日本一高いといわれる。海洋博関連事業からの失業者、米軍基地関係からの失業者がその主要な部分を占めていると思われるが、この失業人口をどのように就業させるかについての対策は十分とはいえない。離島の季節的労働力不足と本島の失業者をどうかみ合わせるか。これにもまた困難な問題が付きまとっている。沖縄県のある労働関係者の話では、たとえば米軍基地労働者の場合、解雇されると、失業保険のほかに特別給付金ともいえる雇用促進手当がもらえ、これを合わせると退職時から計三年間は収入が保障されることになるという。解雇されたのであるから、就業までの間、収入が国によって保障されるのは当然であるが、そのために他方では就業意欲が低下するという現象も起きているというのだ。ここに戦後三十年間米軍支配に置かれた沖縄の悲劇の一面があるように思う。労働意欲の喪失という精神の荒廃に基地というものの恐ろしさを感じるのは私だけだろうか。

    ひとつの提言

 このような問題はいま沖縄に集約的に現れてきているが、同じ問題はもっと拡散したかたちで日本全体にあるように思う。それは戦後の日本がとってきた基本的な生き方にかかわっているともいえよう。そのひとつの側面に、工業優先の政策がある。要するに農業切り捨て政策である。農業の工業化といってもよい。この政策のゆがみが、農村の過疎化、大都市への人口の集中、人間性の喪失などになって現れてきている。この現状をどう変えていけばいいのか。そのことについて今は詳しくは触れない。ただ私たちには与那国島援農隊の経験に則して、離島の労働力不足という現実の問題についてひとつの提言をしたいだけである。
 昨年、私たちは全国の若者たちに援農を呼びかけたが、八十人の定員に対して千人を超える人から応募があった。このことは何を意味するのだろうか。私たちは応募者に対し、東京で二回にわたる説明会を行い、出席者からアンケートをとった。その回答には、参加したい動機として@遠い沖縄に行きたいA思い切り労働に汗を流してみたいB一度農業を体験してみたいCサトウキビ農業を経験したいD島の農家の生活を経験したいE自分の人生を見直す契機にしたいF沖縄の現実を自分の目で見たい−などというのが多かった。このような動機に加えて、三千五百円の日当と往復旅費が出ることはお金のない若い人にはいっそうの魅力でもあったと思う。
 このような動機は、今の若い人たちがきわめてまじめで、健全な精神の持ち主であることをうかがわせるに十分であろう。彼らは日ごろアルバイトで生活を支えたり、会社に勤めているサラリーマンだったり、農家の二、三男として農業を手伝ったりしている人たちである。そして、若い人たちの生活は貧しい。しかし、自分の人生に何かを求めている。それはお金であったり立身出世であったりする場合もあるだろう。それと同時に、それだけでもない。与那国島が人手不足で困っていると聞けば出かけていく行動力を持っているのである。そして、島でサトウキビ刈りをしながら、さまざまな体験をしてみたいと考えているのである。
 私たち呼びかけ人は与那国島援農隊をそのような場として提供したのである。参加者は労働力としても結果的にはかなり高い質のものを島に提供できたと考えている。この生活と過酷な労働の体験の中で、ある者は傷つき、またある者は自らに自信を得て、それを携えて本土の生活へと戻っていった。彼らの精神には、沖縄の離島での体験が何らかのかたちで残っていくだろう。沖縄と離島についての深い印象も。
 このように書いてくると、私たちの提言はもう明らかである。季節労働者を県当局が集めようと努力しても、すべてに不利なだけの離島の現状が、逆に若い人たちにとってはそのすべてがそのまま魅力になるという考え方があるということである。東京であるいは本土の各地の若い人にとっては、遠い沖縄は憧れの地である。農業は今の社会では人間的な生活の営みとして体験してみたい対象である。都市の情報過剰と人工的な娯楽の過剰な生活から離れて、離島の海と風しかない自然へ。厳しい労働は若い人の自己鍛錬の場にもなる。生活や習慣の違いは新しい世界観、人間観をつくる契機となるだろう。
 若い人たちに離島のサトウキビ農業を、そのような場として提供することによって、離島の労働力不足を当面補うことは大いに可能なことだと考えることはできないだろうか。私たちもいまのままで十分だと考えているわけではない。しかし、ここに離島の現状を打開していくひとつの考え方があると思うのだ。これはすぐにも実現できると信じている。
 もし各離島、あるいは県や農協などの団体がいっしょになって本土のみならず沖縄の若い人にも呼びかけ、受け入れることができるならば、それに答えて立ち上がる若い人は多い。そのような運動が沖縄県レベルで進められれば、県内の若い人も立ち上がるだろう。県農林部、労働部、農協中央会、労働団体、マスコミなどが協力すれば、これは大きな試みとして成果を上げるだろう。離島の労働力不足を労務者問題として考えるのではなく、一種の社会教育の場、農業に対する若い人の認識を広げる場として考えれば、この運動が多面的に大きな実を結ぶことになると信じてやまないのである。

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Last Update:2004/01/07
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