沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊

南南西に進路をとれ 1976与那国島サトウキビ刈り援農報告記 その23



「援農舎」から沖縄さとうキビ刈り参加者の皆さんへ
 十一日の出発が遅れ、参加者にはご迷惑をかけております。出発延期して以後の状況と今後の予定を皆さんにお伝えします。
 一月三十日出発の予定はすでに先日の速達でお知らせしましたが、その後、与那国農協内で経営上の問題をめぐって重大な事態が発生し、目下のところ援農舎の計画が宙に浮いた形になっていることをお知らせしなければなりません。
 というのは、私たちの受け入れ先である与那国農協で残念ながら、同封の新聞記事のような事態が起こってしまったのです。

 今期のさとうキビ六千トンの刈り取りをどうしてもしなければならないことから、沖縄県当局、県農協中央会、県経済連が対策に乗り出し、与那国農協の運営すなわち今期の製糖事業を県経済連が農協に肩代わりして行なうことになりました。私たちが交渉を続けてきた与那国農協は、このために事実上農協運営の当事者能力を失い、今後は窓口としては与那国町が当たり、経営主体は県経済連になったわけです。
 私たちとしては、与那国に援農に行けるかどうかが最も重要な関心事ですが、現在のところ、きわめて流動的になってしまいました。
 一月二十七日に経済連の肩代わりが正式決定されますが、その際。県当局、中央会、経済連など関係団体の間で、今後の経営方針、経営計画などが覚え書きとして決定され、交わされることになっています。その中で援農舎を与那国に受け入れるかどうかも決まるわけです。

 ところが、県当局は、与那国経済の中心であるさとうキビ刈りを、島外労働力すなわち私たち援農舎の手を借りずに島内だけでまかなうよう与那国町当局に指示しているようです。
 そこで援農舎としては、以上の情報が沖縄滞在中の同人黒田氏から伝えられた直後の二十一日、東京で沖縄タイムス、琉球新報の記者と会見し、同封のアピールを発表しました。二つの新聞は二十二日の紙面で、援農舎の人々を与那国援農から締め出すことは、沖縄と本土の関係にとってきわめて憂慮すべきことになるという立場からの記事を掲載してくれました。

 援農舎はもともと人手不足で困っている沖縄の離島与那国島からの要請を受けて立ち上がったものです。そして、今もキビ刈りが始まれば、島内でまかなうといっても実際には人手が足りないのです。従って経営の主体が農協から経済連に代わっても今までの交渉の経過から援農舎との約束は引き継がれるべきであると考えています。
 二十二日、黒田氏が農協中央会と経済連の幹部に会ったところ、両団体は、私たちの考え方に理解を示したということでした。

 しかし、現在までの事態から援農舎同人は、この際、当初の与那国援農計画を再検討すべきだという結論になりました。すなわち、与那国に行けない場合のことを考えて、他の離島に受け入れを依頼しようということです。
 農協中央会の与儀会長も、与那国に行けない場合は他へあっせんすると言っています。
 しかし、援農舎としては、農協中央会のあっせんとは別に独自で他の離島とも交渉を進めています。現在交渉中のところは、西表島、石垣島、宮古島、多良間島などです。
 三十日の出発までには、受け入れ先は決まっているよう援農舎は全力をあげています。

 そこで参加者の皆さんへのお願いですが、当初与那国農協との間で決定していた条件(日当、宿舎、往復旅費提供)が他の島の場合、変更になる可能性があることです。私たちは少なくとも日当で往復旅費と滞在費は十分まかなえることを最低条件に交渉しています。この点を参加者にご理解願いたいのです。
 今回このような事態を皆さんにお伝えしなければならないことを私たちは非常に残念に思います。

 今度の与那国農協の問題を、私たちは、きわめて沖縄的、特に離島に特別な事件と受け取っています。
 与那国島は人口二千人余の南海の孤島です。農民は長い間、自分たちの生活を島の中だけで、お互いに協力し合いながら営んできました。そこには島の人だけに通じる生活の独特のスタイルがあり、それが私たち近代化された本土の人間には限りない魅力でもあったのです。素朴な人間性と南島特有の土着の共同体。そこへ本土復帰があり、沖縄海洋博がやってきた。本土資本が急激に流入し、近代化の波が押し寄せてきたのです。
 離島の人々の生活も急に変わりはじめてきました。今まではのんびりと農業や漁業で暮らし、大してお金も必要としなかったのが、今ではお金がなければ生活できなくなってしまいました。

 当然、農協も今までのような経営方針では時代の流れに乗っていけないのです。そこで与那国島がうるおうために海洋博に投資しようということになったのですが、しかし、不況の日本で与那国の素朴な人々が考えたほど現実は甘くなかったのです。農協組合長にしても、私腹を肥やすためにやったのではないようです。島の利益を考えたのでしょうが、それはこんな結果になってしまった。これも沖縄の本土復帰と海洋博がもたらしたひとつの悲劇なのでしょう。
 今回の与那国援農計画がこのような形で転回しことに、今更ながら本土と沖縄の違いを知りました。

 援農舎としては、三十日の出発を予定通り決行します。他の島々はすでにキビ刈りの最盛期に入っています。私たちも二月はじめにはその仲間に入ろうではありませんか。できるならば与那国で。(1976年1月23日)

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Last Update:2004/01/31
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