沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊

南南西に進路をとれ 1976与那国島サトウキビ刈り援農報告記 その26



報告書作成に対してカンパをしてくださった方々(50音順)
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秋山駿(文芸評論家)  秋山法子(装丁家)  石川栄一(援農隊)  稲垣一雄(援農舎)  西表重八(石垣島・八重山荘経営)  内田善之(援農隊)  内山昌巳(援農隊)  恵畑幸男(援農隊)  大江健三郎(作家)  大城立裕(作家)  川井登(共同通信記者)  川戸道子(援農隊)  国吉真栄(沖縄タイムス記者)  久保英二(援農隊)  久保洋(援農隊)  黒田勝弘(援農舎)  小林章(援農隊)  小室美江(援農隊)  庄幸司郎(庄建設社長)  高橋伸太郎(援農隊)  田辺秀樹(援農隊)  田谷明(援農隊)  塚本晃生(援農隊)  那須正尚(援農隊)  錦織政紀(援農隊)  藤野雅之(援農舎)  守誠(日本海時代の祭典呼びかけ人)  山田真吾(援農隊)  渡辺一博(援農隊)
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編集後記
 今、おもい出しても、与那国キビ刈り援農隊の人たちはすばらしい連中だったと思う。畑といわず工場といわず、慣れない風土の中で長期の過酷な労働によくがんばり通した。
 今回の援農計画は本文にあるように農協破産−出発延期という異常事態に出くわした。はるか二千キロのかなた、文字通りぼくらの手の届かないところでの突然のトラブルだった。遠くから成り行きを見守る"待つつらさ"。
 しかし、そうした困難さはぼくらに"援農"の意味を考えさせるチャンスになった。わが援農隊が与那国にとって本島に"援"になったかどうか、自己評価はむつかしい。ただ、一九七六年春の与那国産の黒糖は、与那国において近年まれなほどの上質のものだった。
 参加者の一部から"体験"レポート作成の話が持ちあがったのは、七月半ばのことである。ほそぼそと編集作業がつづけられ、やっと陽の目を見た。報告書作成のウワサが沖縄の新聞で報じられ、沖縄の人たちからも激励が寄せられた。
 『南南西に針路をとれ!』という題は、ひとつの運動体としての援農の動的な感じがほしかったからだ。しかし、編集スタッフのひとりの内山昌巳君は、自分が編集メンバーに名前をつらねるのならそんな押しつけがましい署名はイヤだと主張した。
 この報告書は内山君や久保洋君、塚本晃生氏らを中心とし、その他数名の援農隊参加者の協力によって完成した。「援農舎」は例によってそのための"場"を提供し、若干の助力をしたにすぎない。
     一九七六年十一月
                     「援農舎」世話人−藤野雅之 黒田勝弘 稲垣一雄

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Last Update:2004/02/01
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