沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊

沖縄農業と援農    金城朝夫 「沖縄タイムス」1976年1月27日−29日




“不安定さ”浮き彫り 多い失業の中の珍現象
 若者が農村に入り農業で生計を立てていくことはまるで“戦場”にでもいくような悲壮なものである。この“戦場”というのは決して決して必ず勝てるというものでなく、負けても戦わないといけないというきびしいものである。
 最近、沖縄へも本土の若者がキビ刈りに来るようになった。このキビ刈りはかつてキューバにキビ刈り援農の運動が山本さんという女性の方によって展開されたのを思い出す。沖縄への援農活動は復帰後、渡嘉敷島への援農や、いく組みかの活動があったが、中でもマスコミにクローズアップされたのは与那国への援農の「援農舎」である。一般公募し八十人の人を集めての「援農舎」の活動は、沖縄の農業をとりまく情勢にひとつの問題を提起したのではないだろうか。
 しかし、この援農舎の活動がスムーズにいかず、かんじんな主体である与那国の方で資金難で製糖工場の操業が延期され、当初の計画が大幅に狂ったのもまた沖縄農業の現実をまのあたりに見せつけたのではないだろうか。もはや沖縄農業は単に援農という善意では解決できないくらいの深い問題をもっているということである。

 ここで、最も沖縄の辺境で、さらに農業を中心としている八重山の例の中から、農村の人手不足の問題点をあげてみよう。
 パイン工場への季節労務として昭和41年度から49年度までに八重山に来た外国の労働者は台湾から男女合わせて2096人となっており、韓国から49年のみで285人となっている。それにキビの季節労務をしている人数を含めるとその数はさらに上回る。日本からのしわ寄せを受けている沖縄が安い労働力のある外国にたよるのも皮肉である。この外国からの労働者の導入はいろいろと問題を残し、とりわけ人口の多いといわれる沖縄がどうして外国からまで人手を求めなければならないのか。そしてさらには沖縄の人々が主として働き口として出ていく本土からもまた援農という形で来るということはどう考えても納得のできない話である。

 しかし、この現実はそう簡単に論じられるようなものではない。パインとキビの収穫期というのは年間を通してのものではない。きわめて一時的な労働収入で人々の生活の安定にはほど遠いもので、どうしても安定した収入を得るためには遠く本土まで仕事を見つけにいかねばならない。
 そしてかんじんの農家そのものが、収穫期と植付期を除くとどうしても出かせぎをしないといけないからまた皮肉なものである。はっきりいって日本の農政そのものが、専業農業そのものでは生活できないような構造になっているところに問題の本質がある。
 農民はあくまでも日本の高度成長経済の中で工場労務や建設労務の予備軍と位置づけられ、労働者の中でも最底辺の労働者となりさがっていった。
 昨年の暮れ、サトウキビの価格交渉で農民の代表団の一人として上京した際、タクシーに乗ったら、その運転手がはからずも東北の農民であった。「なにしろ農機具代を払うのにどうしてもアルバイトをしないとネー」というこの農民であるタクシーの運転手の話は、農業を守るために他の仕事をしないといけない日本農業のひずみを感じさせた。

 しかし、この日本の農業の厳しさがいわれている中で、沖縄の農業の現実はさらにきびしい。一般的に沖縄の労働者が日本本土の賃金の90%にまで近づいたといわれる中で、沖縄の農業収入は60%にしかいたっていない。
 日本復帰が沖縄を豊かにするというこの間の下からの運動の中でさえひとり農民はとり残されますます生活は苦しくなっているのはどういうことか。
 日本の南端という位置から日本本土にはない亜熱帯の特殊な農業の可能性が説かれているが、現実はどうだろうか。今沖縄で農業をしている人でその生産物が最も安定しているのは、なんといっても日本本土で作られている農作物でしかない。
 例をあげれば、米、野菜、タバコ等で、沖縄の基幹作物であるキビ、パインは危機に立っている。沖縄の風土にあった作物を作るとたちまち苦しくなるという現実は、やはり沖縄は日本の行政の中ではあくまでも異端なものでしかない。
 とりわけ日本では沖縄でしか本格的に産業化していないパインの例をみるとより具体的である。(農業ルポライター)「沖縄タイムス」1976年1月27日


強まる一方の危機感  変わらぬ工業優先政策
 昨年7月から約7ヵ月もかかって行なわれていたパイナップルの原料の価格交渉は、ついにそのパッカーと生産農家との唯一の交渉の場であるパイナップル価格交渉委員会そのものが実質的な交渉の打ち切りになってしまった。現在、沖縄のパイナップル原料の代金未払いは、生産農家へは2億余円にものぼり、さらに農協の立て替えの払いが2億1千万余円になり、計4億1千万余円の未払い金がある。
 最もパイナップル産業への依存者の高い石垣島においては、パインの新植が極端に減り、かつてない130ヘクタールと落ち込んでしまった。ちなみに46年から49年までの新植の平均は443ヘクタールで、その四分の一になってしまった。

 この数字をベースにして石垣島のパイナップル産業をおし計ると、現在原料が3万トンあり、パイン工場が5社あるものが、53年度には原料が1万3千トンになり、工場は現在の半数しか維持できなくなり、54年度にはついに五千トンになってしまい、パイン工場は1社のみしか維持できないところまで陥ってしまう。さらにその危機を増大させているのは、農家によるパインへの肥培管理の手抜きである。経済連八重山支所の統計では、49年にパインの肥料の出荷量が七万五千袋だったものが、52年度にはなんとその約三分の一の二万七千袋である。
 キビにしても農家の予想を大幅に下回る価格になり、二本立ての価格のなれば実質的には昨年より下回るという考えられないような価格に押さえつけられようとしているのである。そしてパイナップルの原料代は昨年を大幅に下回る29円91銭しかパッカーは支払わないというし、県は財政がないことから昨年農家手取りキロ当たり34円09銭を大幅に下回りそうである。
 いまどきどんなに不況といえども労働者の賃金、そして公共料金を含めて確実に物価は上昇している中で、ひとり沖縄の農家の生産物のみ値下がりである。

 このような状況の中で農業にかかわる工業製品の値上がりはこれまた大幅に急上昇している。まずパインに使う肥料のひとつパイン2号を例にとると、49年度の経済連から農協渡しが1袋1221円だったのが、50年11月にはなんと1862円になっている。さらにトラクターのファーガソン185型を例にとると、50年度は350万円だったものが51年度には400万円になっているのである。
 農業資材代の急速な値上がりにくらべ、農家の生産物の値がいかにおさえられているかが以上の例からもわかるものだ。また農家をとりまく情勢のきびしさもわかる。
 このように農業がきびしくなっていく中で、その地域の農協の経営も苦しくなっている。いまや農協は農産物を売るより工業製品を売るほうに次第に力が入りつつある。とりわけ辺境である八重山の農協へのしわ寄せは大きい。昨年の末、農協職員の電化製品の売り上げ表彰式があり農家からひんしゅくをかった。
 さらにサトウキビ、パイナップル産業の危機は、その経営者側が手を引き、農家を殺すわけにいかない農協がその工場を運営するはめになった。ところが竹富農協の西表のパイン工場、そして石垣市の石垣農協と大浜農協のパイン工場運営、さらにいま問題となっている与那国農協の製糖工場の運営である。経済連工場が沖縄本島には5社もあるのに対し、ここ八重山は地域の農協(単協)が自ら工場運営をしなければいけないという運命は農家にそのしわ寄せを大きくしている。

 かつて農業は国の元といわれていたものが、いまでは国の棄業と化し、農村は棄民の集まるところとなってしまった。それでも高度成長経済は公害を生み、人間の生活環境そのものの破壊の中からやっと農業見直し論が出てきた。しかし、いままで述べてきたように依然として沖縄の農業をとりまく情勢はますますその危機を増しつつある。
 このような中で国の行政も、農業基盤の整備にとりかかっているものの、その思想は依然として工業優先型には変わりはない。いわゆる農業の工業化である。農業の工業化とはあくまでも機械を主として人間不在の農業で、農業の企業化以外のなにものでもない。
 だからかつて企業であった人の方が大型農業をし、農業への補助金はその大型農業の方へ集中し、貧農との格差を大きくし、小さな農村の破壊を進めている。「沖縄タイムス」1976年1月28日


主体性のない営農  共有から解決すべき問題
 筆者の営農している開南部落は、パインを中心とする9世帯の小さな部落である。この小さな部落は昭和13年にできた開拓移民地だが、島の中心地に位置しながら、いまだに行政レベルの水道はひかれていない。部落の中を水源地よりの水道パイプが通っていてもこの部落には水はひかれていない。たまりかねた部落の人は自ら水源地を探し求め、パイプも買い自力で水道をひいた。
 また県の奨励で畜産をはじめた部落の人々であったが、大きな農業へは牛の資料のタダなのに、ダニ駆除用の薬浴場も牛が少ないことが理由で補助なし。さらに優良種の種牛の補助ももちろんダメで、結局、部落が小さいことと農家の数が少ないことでほとんどの補助の対象からはずされ、その他の地域との格差はますます増大する。
 さらにいわゆる石垣市の裏地区の移民地には行政はほとんど素通りし、離島にはさらにそのしわ寄せが拡大される。

 世の中が近代化されるにしたがっていわゆる辺境の生活環境はその生活の場を失っていくのである。さらに若い農業者は都市へと流されていく。
 しかし、このような都市へ人間を流していく社会構造の中でも若者が農村へと少しずつではあるが帰りつつある。これは沖縄においてはあくまでも帰るという言葉が必要である。いわゆるこれまでの都会生活者が新たに農業に入るというのではなく、あくまでもこれまで農業をしていた家庭の子弟が帰ってきているのである。それでも女子の帰農はほとんどみられない。
 この帰農の若者にとっても現実はなおきびしい。農業は他の産業と違いすぐには金にならないということである。永年手塩にかけて苦労して育てた牛がいきなり半値になるということが珍しくない中で、まるで現代の合理主義ではとうてい農業に入ることはできない。
 都市から来る人が観光などできて農村を見て「静かでいいですね」とほめても、それはあくまで通りすがりのエゴでしかない。決して自分の生活の場の完全な切り替えにはつながらないのが現実である。

 さてここで沖縄社会の中で農業を考えてみると、軍事基地という変則的な経済構造の中で、食糧を生産していくという文化は物を消費する文化に取って代えられ、人々は第3次産業文化の中で植民地的な文化にされてしまったのではないだろうか。
 かつて生産の中で生まれた民謡もいまでは観光ショー化された中で都市の沖縄民謡と農村の生産の場からの民謡ではもはや調和を失う。八重山で行なわれた「トゥバルマー大会」に那覇のショー化された民謡歌手の出演が不協和音に終わり、島の人々から批判されたのもその文化のいびつさを物語っているようである。
 行政労働者である自治労のキビ刈り援農も昨年に引き続き行なわれる。八重山では昨年援農を受けたある農家が「恩を売りに来たのか」といって援農の労働組合の人をがっかりさせたことがあったが、現実には労働者がかちとった権利が遠く農業にまで及ばないところに、この農家と労働者のきずなになれなかった理由があるのではないだろうか。

 かといっていま、この援農は農家にとって決して否定されるべきものではない。だから遠く外国から旅費までかけて高い金をかけて労働力を求めないといけない。人間があまりに都市に片寄りすぎた結果と大量生産をしないとやっていけない農家経営のもたらした結果である。
 援農という善意のみでしか生きていけない今日の沖縄農業の構造は、その本質においてやはり「哀れむべき職業」でしかないということに変わりはない。裏を返せば今日の世の中が力関係によってその豊かさが決まるとき、農家の弱さが今日の状況を作ったといえるかもしれない。最終的な問題の解決は農家が決して他の人々からの恩恵によって支えられて生き延びるのではなく、あくまでも営農が当然の権利としての主体が確立していく中でしかありえない。
 しかし、援農という形態を通してでも、農業のもつ人間の生活環境との関係、さらにはその文化的な意義などを知らせることはできよう。そして、ただ単に外部から農業問題を見つめるのではなく、実際に農民とともに汗を流して働く中からの連帯はその理解がより高められると思う。

 たしか「援農」という言葉は中国からきたと思うが、中国では幹部(中国では教師と公務員を示す)は2ヵ年は農村に入り農民の生活を味わう。
 筆者が中国・北京の近くの五七幹部学校で、ある農村体験者のインテリに会ったとき、彼はその体験談の中で「わたしはいままで職場に勤めていたころは雨が降るとイヤだなと思ったが、いまでは雨がいかに農作物を豊かにし農民を喜ばすものかということをはじめて知った」といった。これは援農の本質を表す言葉であろう。
 農業問題の解決はやはり時間をかけて、多くの人々の共有から解決されるという意味から見れば援農もまたひとつの方法ではないか。そして終局的には農民そのものが力を持つという方向性を持たすことであらねばならない。
 そうして価値観の転換が同時に行なわれることであろう。「沖縄タイムス」1976年1月29日

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Last Update:2004/02/01
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